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花びらの感触は美しく整えられた粘膜のようだと思う。滑らかで温かでどこか生々しい。アパートの庭に落ちたユリの花弁を摘み上げ、その感触にうっかり息を飲んでしまった。
職場から帰宅して、アパートの門の脇に落ちたユリの花に居心地の悪い思いをし、いったんは無視して部屋に戻ってから、地に落ちたまま住人たちの靴に蹂躙される花びらを想像してしまって、わざわざビニール袋片手に回収に赴いた。花びらに触れたその時、指の腹に伝わってきた柔らかい張りに、うわ、と口内だけでかすかに呻く。そのまま拾い上げて、その重さを手のひらに覚えて、唐突にビニール袋とユリの死体のそぐわなさが身に染みた。いささか茫然とした気持ちで部屋へと戻り、手に持っていた簡易なごみ袋用のビニール袋を所定の置き場に戻してから、もう一つの手に乗ったユリの花びらに気が重くなる。家の中に設置された二つのごみ箱の位置を頭に思い浮かべて、しかし歩みはキッチンへと向かった。シンクの中の三角コーナーにユリの花びらを捨てると、ビニール袋の中に置かれるよりは、なんだか馴染んでいるような気がして、息をつく。それでも、あのまま土に還すのがまっとうな埋葬の仕方だったかもしれない、という後悔はよぎった。
夕日が街角に沈んでいく。見晴らしの悪いアパートの窓から退社後の時間に夕日が見えるなんて変だな、と思った瞬間、風景は実家のリビングへと変わった。机の上にはめいいっぱい白いコピー用紙が広げられている。そこには明朝体で打ち出された二千首の和歌が載っていて、俺はこれらの用例を、卒論のために何とか使える材料にしていかなければならない。まずは仕分けが必要だった。コピー用紙はユリの花びらと正反対の情緒のなさで下品に光っている。尖って黒い明朝体との対比が目に刺さって痛い。
卒論では「鳴く」と「泣く」の恋歌上でのつながりについて、何か新規の推論を捻りだすつもりだった。「なく」という語が含まれる古代の和歌から、「中」とか「無き」とか「失く」とか不必要なものを排除した後に、「なく」主体ごとに歌を分けていく。機械的な作業のはずなのに、頭は歌を朗詠し始める。文言の再生は、誰ともつかない声でなされた。かわず、ちどり、しか、ほととぎす、われ。歌に目をすべらせる。鳴き声と朗詠は、頭の中で響いてやまない。
ぱた、と羽音がする。顔をあげて、リビングの壁際にある鳥かごを見ると、シュイがせわしなく動き回っている。数分もしないうちに、頭の中の朗詠も、機械的作業も邪魔するような大きさでシュイが鳴き始めた。観念して卒論の作業を放棄する。
鳥かごへ歩み寄り、鍵を開けて、飛び回るシュイを手のひらにすくう。重さがある。温かい。毛並みは美しく整って、感触は粘膜のようである。何ものにも荒らされない、未踏で未着手の場のようななりで、無造作に空気に触れている。シュイは嬉しそうに俺の手の上を跳ねて、気が済んだところで手のひらの上にすっと立ち上がり、俺の親指に頭をこすり付けた。こたえるようにシュイを軽く包み込む。どういう風にしてやればシュイの気に適うのか、何年も過ごすうちに俺の手はすっかり覚えてしまっている。俺の手がすぼんだ形になったことに満足したように、シュイは小さく身震いして、瞼を閉じた。胸の中にじわじわ愛おしさがこみ上げる。
花びらに触れただけで、粘膜を脳裏に描き、それに虚を衝かれてしまう。人の身体に触れる経験など当然なくて、さらにそれを恥じずに居直るくらいには、人との関係構築そのものに怠惰である。しかし俺は、そういう自分が愛を知らないとは思わないのだ。
シュイを撫でる。シュイは聞きなれた鳴き声を立てる。羽毛の感触と独特の匂い。温かくて、別に飛んだり跳ねたりしていなくても生きていることはありありと分かる。拍動や鼓動からなる身の震えが伝わってくる。眼はきらきらと水みたいに輝いて、しかしこぼれずに眼窩に収まったまま、シュイの意志の下動いている。この温かさと感触は一生忘れないだろうと勇壮に言い切る自分と、百年経っても触れて確かめさせてほしいと縋る情けない自分が同時に俺の中に居て、そのどちらの気持ちも本心だった。弟の誘いに乗ってシュイに触れたその瞬間から、嫌なカウントダウンが脳味噌にこびりついてしまっている。寿命は八年。あと八年、七年、六年、五年、四年、三年、あと二年。八十歳で死ぬとして、俺はあと五十八年生きるのか。俺はそんなにいらないし、シュイに二十八年分あげよう。そしたらあと三十年一緒に居れるよ。
シュイがぱっと飛び立った。そのままぐんぐん天井へ向かっていく。いつの間にか天井は大きく煌びやかになっていて、はっと周りを見回すと、俺はいつの間にか職場のレストランフロアに立っていた。慌ててシュイを呼びつけても、シュイは旋回して中々降りてこない。シュイ、シュイ、と呼ぶうちに、だんだんなりふり構っていられなくなって、ついに叫ぶように名前を呼んだ。その瞬間シュイが天井から真っ逆さまに落ちて来る。
手のひらで受けとめたシュイは、既にユリの花びらになっていて、みるみるうちに縁から黒ずんでいった。部屋にはいつの間にか人が溢れて、呆然と立つ俺を不審そうに見つめている。
住吉さん、と後ろから呼ばれた。振り向くと先輩がダストボックスを抱えて立っていた。
「それ、早く捨てて」
手のひらがずんと重くなる。手元を確かめると、腐りかけた残飯が乗っていた。もう食べられない。もう食べ物ではない。これ以上見ていられなかった。これからもっとひどく腐って、どんどん当初の美しさは失われていくのだ。さっさと燃やしてしまった方が良い。ああでもそうしたら、もう二度とこれには触れられないのだ。じわじわ涙が滲んでくる。
「住吉さん、早くして」
先輩はダストボックスをこちらに向ける。中は腐った花で埋め尽くされていた。視界がぼやける。頬に流れる自分の涙を熱く感じて、不思議だと思った。手のひらの上のシュイはぞっとするほど、固くて冷たい。
「先輩、どうしたらいいですか」
先輩はため息をついた。どうしようもないよ。もう何もできないの。静かな声でそう言ってから、先輩はゆっくりとあたりを見回した。テーブル席の客たちがこちらを凝視している。先輩と俺はぎこちなく笑った。
深い人間関係を取り結んだことはない。かといって軽薄に誰彼構わず行為するわけでもない。ただただ他者と離れた場所に居て、身体や言葉を交わすことから隔絶されている。それでも、もう二度と触れられないこと、これきり会えないこと、その瞬間からずっと喪失を味わい続けること、それらの悲痛を思って流す涙が熱いことは知っていた。
けたたましいアラーム音が鳴る。はっと目を覚ますと、おまけで隣人が壁を苛立たしげに叩く音も聞こえてきた。慌ててシーツの上のスマホを手繰り寄せる。九時十二分の時刻表示。意識が完全に覚醒する。慌てて布団から飛び起きた。洗面所に走り込み、顔を十秒で洗って、歯ブラシを咥える。鏡に映る自分のスウェット姿を泣きたくなるような気持ちで眺めながら、パジャマらしいパジャマよりはるかにましだと思い直した。うがいをし、前日の中身そのままの鞄を手に持って、靴を大急ぎでつっかける。ドアの鍵を閉めて、全速力で走った。職場通用口まで徒歩五分。通用口から最上階までエレベーターで平均七分。着替えにいつもは所要五分。九時半出社の木曜日は、アラームを四度設定している。一回目は通常起床時間の八時半。二回目はそろそろ危ない時刻の九時。三回目は警告の九時十分で最大音量。四回目は職場に遅刻連絡を入れるための九時二十五分。今までに二回目のアラームを鳴らしたことはあっても、三回目までもつれ込むのは初めてだった。
通用口に駆け込み、警備員に嫌な顔をされる。どこの部署も始業後すぐに朝礼があり、俺以外のまともな社会人はすでにこの時間には各々の職場に待機し終えていることが幸いして、エレベーターはいつもの半分も止まらなかった。エレベーターが最上階に到達し、おざなりな会釈をして飛び出す。ロッカールームへと走り、ドアの前で一息ついてから、ドアノブを捻る。
「おはようございます」
ロッカールームのいたるところから挨拶が返ってくる。慌てて自分のロッカーへ向かい、着替えを取ろうとしたところで鞄からスマホのアラーム音が聞こえた。急いでアラーム音を停止しつつ、あと五分の猶予があることにとりあえずほっとした気持ちになる。隣のロッカーを使う、いつもはあまり話さない先輩が「寝坊?」と笑顔で聞いてくるので、苦笑を返した。脱衣コーナーに入って、なんとか始業時間に間に合った今となっては恥ずかしいスウェットを脱ぐ。制服を身に着けて、脱衣コーナーを出て、ロッカーに着替えと荷物を仕舞いながら、俺はやっと異変に気付いた。育成担当の石野先輩の姿がない。
石野先輩はいつも、俺がのこのこと出勤してくる頃には美しく整えられた制服姿で雑事を片付けている。始業の十分前にはロッカールーム外の見回りも自分の準備も完全に済ませてしまっているらしく、やたらロッカールームから移動することもない。ロッカールームにあるたった一つの小さな事務机を上手く使って、俺には及びのつかない書類などを確認したりしている。その先輩が、ロッカールームのどこを見回してもいなかった。壁に取り付けられた時計は九時二十九分を示している。普通の人ならトイレや喫煙所に居るということもあるだろうが、石野先輩に限ってそれはない。今日は有給休暇を取っている、ということもないだろう。石野先輩が仕事のてんでできない状態の俺を職場に放り出すとはとても思えなかった。
かち、と長針が真下を指した。始業のチャイムが鳴る。チーフが集合の合図をかけ、皆がいつものようにチーフの前に整列する。がちゃん、と後ろで戸を開閉する音がした。振り向かなかったけれど、「遅くなって申し訳ありません」という声は石野先輩のものだった。チーフが戸口の方に優し気な笑みを見せてから、ぱっと表情を変えて今日の連絡事項を共有する。
五分ほどの朝会が終わって、レストラン街管理担当の面々は各々の持ち場に散ってゆく。まだ特定の持ち場がない俺は、後ろを振り向いた。入り口のところで、石野先輩がぼうっと立っている。見慣れない表情に、なんだかざわざわした気持ちになった。思わず、駆け寄る挙動にせわしなさが滲んでしまう。
ばたばた足音を立てて近づく俺にも気付いた様子のない先輩に、間近で声を掛けた。
「……先輩」
「あ、ごめん、住吉さん。おはよう」
やっと目が合う。だんだんと胸の内の違和感が大きくなっていく。業務中、いっそ怖いくらいに目端が効いて、俯瞰的にものを見る先輩の様子だとはにわかに信じがたい。
「……おはようございます」
「えっとね、今日は基本的には座学になるかなと思います。二か月勤めて、この店舗やレストラン街の雰囲気っていうのは大体掴めてきたかなと思うので、私たちがこの場でどういう仕事をしていて、何を目的に頑張っていくのか、っていうところを話したい」
先輩は言葉を切って、数秒間視線を彷徨わせた。いつもは揺るぎなく視線を定めて、迷うことなど何一つない、という顔をしているのに。
「なんか……もしかしたら住吉さんには一番最初にこの話をした方が分かりやすかったかも。私が新人のとき、最初の二か月はずっと座りっぱなしで育成担当の先輩の説明を聞くような調子だったから、早く現場を見たくて仕方なかったんだよね。私は結構具体的なところが掴めないと物事が頭に入らない性質でさ。だから、自分が教える側になったら絶対現場から見せよう、って思ってたんだけど。住吉さんはどっちかって言ったら、私より私の先輩タイプだから」
先輩が困ったように笑うので、いよいよ俺は狐につままれたような気持ちになった。焦燥感と不安が喉元までせり上がってくる。先輩、と声を掛けて、なんとか喉元の感情を形にしようとするけれど、どのような声音にすればよいのか覚束ない。
先輩がてきぱきした身振りで、ロッカーとロッカーの隙間から折り畳み椅子を二脚取り出そうとする。俺は開きかけた口を閉じて、慌てて先輩を手伝った。
結局その日は淡々と先輩の説明を聞いた。先輩の説明は系統だっていて分かりやすく、正直俺は、今まで先輩に抱いていた一種の偏見を改めた。先輩は、接客や場の調停などに長けるとことん現場主義の人間で、こういった説明は苦手なのだと思い込んでいた。
「……つまりね、アカシヤの最近の経営方針はテナント型の採用である、ここは揺らがない。この会社に限らず、全国各地の同業界で百貨店形態からショッピングセンター形態への切り替えが進んでいる。このレストラン街に入っているお店も全部、この会社じゃなくて別の会社や事業者が経営しているもの。じゃあうちの会社はテナント料だけしっかり貰うので、あとは勝手に経営してください、って投げ出すのか、っていうと、当たり前だけどそうじゃない。お客様はうちの入り口を通って、うちの店舗内をたくさん歩いて、このレストラン街へやってくる。レストラン街のお店は、他社の経営するものだけど、確実にうちの店舗の一部。だからレストラン街のお店は、うちの企業理念にある程度従ってもらう必要があるし、うちのレストラン街にある店へのクレームは、うちへのクレームでもある。これは私たちの心構えの問題でもあるし、実際のところのお客様の所感でもある。お客様は、ビストロ・ルージュで三十分も待たされた、マーベルで買ったケーキが崩れてた、みをつくしに車いすで入れなかった、なんていう風には思わないの。アカシヤの洋食屋で待たされた、アカシヤの洋菓子店が雑だった、アカシヤのそば屋は客のことを考えていない、そういう風に思うのね。私たちも言われっぱなしってわけじゃなくて、お店と一緒に色々な改善をすることができる。店舗設備から、人材育成、メニューの考案、時には経営存続の可否についてだって踏み込む。うちの企業理念を平たく言えば、幅広い属性の方をお客様にして、その全員を笑顔にすることでしょう。本当に大雑把だなと思うけど、大雑把であるということは、選択できる方法が豊富だってことでもある。私たち管理係の仕事は、まず第一に観察、データ収集。ここを深く広くやらないと次に進まない。第二に改善点の発見。第三に改善策の提案。第四に改善策運用のフォロー。どの段階にも観察の結果が効いてくる。だからまず店舗の状況を見る目を養ってほしいの。私たちはお客様の立場だけではなく、店の立場にも立たなきゃいけない」
まあ結局飲食の常で課題って言ったら人手不足なんだけどさ、と付け加えて先輩は笑った。ようやくいつもらしい表情だ。
「そうすると、本来なら私たちは、営業時間中なら待機列整理とか店内のガイドとかクレーム対応とかの目の前の事象の解決に明け暮れるというよりは、もっと広く細かい視座で観察をしないといけないし、終業後は……私は今まで店舗が閉まったらすぐ帰ってたんですけど、本来なら営業時間後に店の方と話し合いとかをしなきゃいけなかったし……って感じなんですかね」
「本来はね。実際制服着てうろうろしてたらお客様は声かけて来るしさ。よっぽど混んでるようだったら会計くらいやっちゃうしね。まあもっと年数経てば、お店を一つ担当して売上伸ばす改善プラン立てたり、レストラン街自体のデザイン考案する企画を主導したりもできるから、そうなってくると仕事も明確になるしやりがいも出来てくるけど、最初の店舗配属で年次五年未満の新人がやることっていうのは、まず現場の体感と全体の観察ってことになってくるし。そうすると私は何の仕事をしてるんだろう、ってやっぱり思っちゃうよね」
「先輩は……ここでやってきて、何か見つけた改善点みたいなの、あるんですか」
「一年目の頃から実は盲導犬・聴導犬・介助犬の受入拡大をやりたいと思ってたんだよね。ていうか本当はもう法律で断っちゃだめってことになってるのよ。でもまあ、ほとんど見かけないでしょ。見かけないってことは何か理由があるってことだから。でもなんとかしたいな、と思ってもう四年目だからね」
住吉さんは頑張ってよ、と先輩は真面目な顔で言ってから、朝見せた、何かを言い淀むような表情を再び顔に出した。
何があったのだろう、と思う。聞こうとして、喉元まで出かかった言葉は、またもや上手く音にならなかった。言いよどむ。聞いてどうするんだ。詮索したらきっと先輩は気分を害する。そういう不安が言葉の輪郭をぼやけさせて、俺はただ口を小さく開閉するだけだ。引導みたいに終業の音楽が小さく聞こえはじめて、俺はますますなす術が無くなっていく。
「よし、じゃあ今日はお疲れさまでした。座りっぱなしもそれはそれで疲れるよね。今日はゆっくり休んでください。最後に、何か聞きたいこととかあった?」
先輩は育成担当らしく、俺の挙動から何かを察したらしい。渡りに船だ、と思うのに、口から飛び出したのは本当に聞きたかったこととは別のことだった。
「先輩は……障害者支援とかに興味があるんですか」
「うん。祖父が結構重くてさ、母は介護にかかりきりだったから、ちょっと思うところがあって」
「なるほど」
「まあ嘘だけど」
「え」
「ははは。嘘って言っても全部が全部嘘ではないけど、ちょっといい子ぶった回答ではあるよ。本当はね、単に犬が好きで、そっちから興味持ったの。祖父からじゃなくて」
先輩は楽しそうに笑った。初めて見る種類の笑顔だった。客に対して振りまくものとも、職場の人間関係を円滑にするものとも違う。何か幸福なことを頭の中に浮かべているかのようなほほ笑みだった。
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「506」というドアの金色の印字を見つめる時間は数秒だった。エントランスでの呼び出しで俺の来訪は予期されていたのだろう。ドアの前でインターホンを押してすぐ、足音と共にドアは開いた。
「こんばんは」
「こんばんは。どうぞ上がってください」
綺麗に掃除された広い玄関で靴を脱ぎながら前方を見る。リビングへと向かう河野の後ろ姿の奥に、あの本棚が鎮座しているのが見えた。少し迷ってからドアの鍵を閉め、スリッパに足を入れる。長めの廊下を歩いて、リビングへと入った。ここへ来るのは三回目だが、見るたび壮観さに驚く。明るめのトーンの壁紙や床、ローテーブルなどの家具の中で、重く光る黒い本棚と、威圧感のある背表紙の群れは異様な雰囲気を放っていた。本棚を視界に入れたまま、ローテーブルの前に座る。前回の授業で、河野には上座がどうとか資料の取りやすさがどうとか余計な気を回されたが、俺はこうして本棚が目に入る方が安心できるので、今座る位置に腰を落ち着けた。授業は本棚、河野、ローテーブル、俺、リビングの戸口が一直線に並ぶ配置で行う予定だ。
この部屋においてこの本棚は異様だが、俺にとってはこの本棚だけが親しみの持てる存在である。つまるところ、この部屋や、この部屋にぴったりと合った家具類、さらにいえば河野のようなタイプの人間と、俺の相性はそもそも悪い。
石野先輩は明るく、存在感の確かな人間だ。先輩は明確に動く。手はてきぱきと物事を処理して、フットワークも軽い。眉の角度から口元のかたさまで自由自在で、その顔はいつも完璧に好意や謝意を浮かべる。思考も感情も一切のよどみなく表面化させることができるから、素直な人のように思うのに、その表情に仕事や客への悪感情は微塵も見受けられないから、いっそ不気味ですらある。しかし、これは俺のようなひねくれた人間の感想であって、まともな人間が見れば、石野先輩は優れて好感の持てる人物だろう。心底仕事を愛し、なおかつ仕事に没入する自分を前向きに肯定していている。俺と全く相いれない。それなのに、今日の石野先輩はどこか違った。あの逡巡や、惑う目の動きは、俺のような人間がやりがちな挙動だ。明るい部屋に急に黒い本棚が置かれたようなものである。何かがあったに決まっていた。
また、胸が詰まるような感覚がよみがえる。結局吐き出せなかったものが、喉の奥に引っかかっている。
「住吉先生」
コーヒーの匂い。かちゃ、と食器の擦れる音と共に、男の深い声が耳に入る。はっと物思いから覚めると、向かいに河野が座り込むところだった。目の前に湯気の立つコーヒーが置かれる。河野は居住まいを正し、まじまじと俺の顔を見つめた後、「具合でも悪いですか」と平坦な声で言った。
「……すみません。体調は大丈夫です。少し考え事を」
「来た時からずっとぼうっとしてます」
平坦な声で河野は続けた。金を貰って行う授業で、教師役である俺が物思いを引きずって呆けるなんていうのは、あまりにも責任感に欠ける。申し訳なさを感じて、少し頭を下げた。
「本当に申し訳ありません。授業だっていうのに」
「そうですね。もっと謝ってください」
謝意はある程度真剣なものだった。だがそれと同時に、河野は当たり前に許してくれるだろうという腹積もりもあったので、あてが外れてびっくりする。
慌てて顔を上げると、目の前の河野は目を伏せてコーヒーをすすっていた。部屋の静かさが急激に身に染みわたる。
「あ……いや、本当にごめんなさい」
声が露骨に小さくなってしまった。真顔で俺を見つめていた河野が、カップに口をつけながら、急に相好を崩した。
「あはは。そうですよ。ひどいじゃないですか。せっかくホワイトボードも買ったのに。住吉先生気付いてないでしょう」
河野が笑いながら左手の壁を指さした。指の示す方向に首をやると、今まで目に入らなかったのが信じられないくらい大仰なホワイトボードが、壁の前に佇んでいる。キャスター付きで、本当に教室やオフィスにあるような大きさだ。
「本当に買ったんですか」
「買いましたよ。住吉先生が欲しいって言ったんじゃないですか。奥のこの部屋まで運び込むの、結構大変だったんですよ。値段もまあまあしたし。それなのに住吉先生、一回も脇目を振らずに、ずっと本棚の方しか見てないのでびっくりしました。気付いてくれるかなと思ったのに」
言われてみれば、今日河野の部屋に訪れてから、俺は本棚の方向ばかりを見つめている。一度目に入ってみると、ホワイトボードは河野の部屋において本棚と同じくらい異質な存在感を放っていた。先週のことを思い出す。一人きりでの物思いから発生した単なる照れ隠しのメッセージが、こうして大きな物体として目の前に現れてしまうのを見ると、少し胃が痛くなった。
「……すみません、本当に」
河野がゆっくりと笑みを消す。そうして少し眉根を寄せた。
「何かありましたか?」
ひそやかで労わるような声だった。気遣われていると素直に思える。全く不快には感じない。
こういう温度だったのか、と思った。こういう温度で、こういう大きさで、こういう深さで、こういう速度で、こういう声音で、「先輩、何かあったんですか」と聞けばよかった。
「そういう風にしたかったんですけど……上手く出来なくて」
「何が?」
「いや、すいません。本当にどうでもいいことです。授業しましょう。ホワイトボードもせっかく買ってくださったんだし」
促されるまま話しそうになってしまったが、すんでのところで思いとどまる。俺は今日ここへ授業をしに来たのだ。
ホワイトボードの前に立つ。「歌垣と挽歌」と書きつけた。
「うたがき……と、ばんか、で合ってますか」
「合ってます。先週、日本土着の『うた』や『かたり』に中国の文化が入ってきて、ドッキングして、万葉集とか古今和歌集につながっていくって話をしましたよね。今日はまさにそのドッキングのさなかの話を、恋愛文学に寄せて話そうと思います。まず、歌垣って何のことだか分かりますか?」
「ごめんなさい、さっぱりです。挽歌は聞いたことあるような気もするんですけど、こっちも全然覚えてないです」
「歌垣というのは、毎年春や秋に男女が山に登って、歌ったり踊ったり飲み食いをする行事のようなものです。ここでも歌が詠まれます。主に掛け合いのような、即興的なものがメイン。挽歌というのは死者を悼む歌のことです。この挽という字は晩年の晩ではないのでご注意を。「挽く」という字です。元は死者の棺を挽くときに死者を悼む歌を歌ったことからこういう字になってます。河野さんが聞き覚えがあったように思ったのは、これが万葉集にある三つの部立————分類、という意味です————のうちの一つだからでしょう。他に、万葉集には相聞という恋愛歌の部立、雑歌という相聞でも挽歌でもない歌の部立があります。挽歌、相聞歌、雑歌で三部立。さて、今から少し時系列の関わる話になります」
ホワイトボードの上側に、長く横線を引く。真新しいホワイトボードを汚すのはなんだか楽しかった。
「そもそも、大昔の歌ってそんなに資料として残ってないので、歌垣の歌を扱うとなると常に資料の問題がつきまといます。ちなみに、万葉集に載る歌で一番新しいのは七五九年のもの。万葉集は大体八世紀後半くらいの成立と見られます。歌垣は大体七世紀くらいの文化なので、万葉集以外の資料も必要です。河野さん、『常陸国風土記』って聞き覚えありますか」
「日本史でやった気がします」
「そうですね。風土記というのは地誌です。その地方の名前の由来とか、産物とか、伝説とかをまとめて本にして献上しなさい、ってお触れを七一三年に元明天皇という人が出しました。今現在でも内容が残ってるのは出雲・常陸・播磨・豊後・肥前の五国のものだけ。出雲はほとんど残ってるけど、常陸と播磨は一部が欠けていて、豊後や肥前はかなり欠けています。そのうち、『常陸国風土記』には歌垣がどういう文化なのかという記述があるし、なんとそこで詠まれた歌も載っています。書きますね」
手元の資料を確認しながら、「筑波嶺にいほりて妻なしにわが寝む夜ろははやも明けぬかも」と書きつけた。
「大体、どんな歌だか分かりますか」
「筑波嶺、は地名ですよね。いほりて、がちょっと分からない……」
河野の視線が歌をなぞっていく。
「妻がいないから、自分だけで寝る夜が早く明けてほしい……みたいな感じ?」
「惜しいです。「明けぬかも」なので、独り寝すればさっさと夜も明けてしまうことよ、という感じ。でも「かも」は願望の意もあるのでいい線行ってますよ。ちなみに、河野さん。男女の出会いの場で、自分は今恋人居ないんですよ、って言う時、それってただ単純に独身の身の上を嘆いてるだけだと思います?」
河野が少し微笑んだ。
「大概、恋人がほしいです、って意味に取られると思います」
「その通りです。いや、実際にはもっとちゃんとした方法で裏を取るんですが、この歌は研究者の間でも、独身を嘆く孤独な感情吐露の歌というよりは、女を誘う歌だろうという見方をされてます。さっき言った、即興的な掛け合いですね。咄嗟にこういう歌を詠んで、女の人を誘ってるわけです。深い孤独感をどうにか歌にしないとやっていけない、みたいな詠みぶりではない。そうして、万葉集の初期の相聞歌を見てみると、ほとんどが男女間の言葉の応酬をメインにしたものなんですね。感情を吐露する独詠ではない。なので「恋愛歌」というものを考えてみた時、少なくともウィットに富んだ男女間の即興のやり取りである相聞歌については、歌垣の流れを汲んでいる、と言えそうです。じゃあ、感情をひたすら吐き出すような、詩的な恋愛歌はどのように生まれたんでしょう。河野さん、何か思いつくことがありますか?」
「今日の授業は歌垣と挽歌、とのことなので、挽歌が関係してきますかね」
「その通りです。さて、人の死を悼むことは古くから行われてきました。問題は、それがどう表現されてきたかです。古事記の景行記には、皇子の葬歌として「なづき田の稲幹に稲幹に這いもとほろふところ鬘」という歌が載せられています。水田の稲に蔓が這いまわって絡みついている、というような歌で、これ、一見すると稲を死んだ人、蔓を自分に喩えたちょっと重たい感情の歌らしく感じられるんですが、そういうわけではないんですよね。この歌の前の文章のところで、皇子が亡くなった際に妻子が水田を悲しみながら這いまわりました、ということが書いてあります。そうすると、感情の比喩じゃなく、単に行動の比喩である可能性が高い。葬式の際の行動を喩えを使いながら表現するというのは、心情を言葉にするのとは全然違います。こういう葬式の際の歌は、実際の行動を記述している、となると、悲しみを言葉にする挽歌とは距離があります。そうなると、人が亡くなってしまった悲しみを言葉にしたのはいったいいつなんだ、ということになります。葬式歌の流れを汲んだわけではどうもなさそう」
なづき田の歌を板書し、ご丁寧に準備されていた赤いインクで、その歌の脇に「行動を記述」と書く。
「このなづき田の歌は、景行天皇のときの歌です。景行天皇のときに、行動記述の歌。さて、この景行天皇の二十四代後の孝徳天皇の時代になると、ちょっと歌の感じが変わってきます。『日本書紀』孝徳紀より、中大兄皇子が妃の造媛を亡くしたとき、葬式のような儀礼的な場ではなく、私的な場で、渡来系の野中川原史満が詠んで献じた歌」
「山川に鴛鴦ふたつ居てたぐひよくたぐへる妹を誰にか率にけむ」と書きつける。
「山の川にオシドリのように仲良く連れ合った私の妻を、誰が連れて行ってしまったのか……というような意味です。ここで大事なのは、野中川原史満が渡来人であること。渡来人は中国や朝鮮から日本に文化を持ってきてくれた人たちのことです。そして、中国の昔の詩、『毛詩』には、君子とその連れ合いの女性を水鳥に喩えた「関雎」という詩が載ってるんですね。どうも、ここで詠まれた和歌は漢詩文の影響を受けているようです。他にもこの場では、木ごとに花は咲いているのにどうしてもう妻は咲いてこないのか、という歌も詠まれてるんですが、これも「薤露」という中国挽歌が元ネタです。この詩は、ニラの葉の上の露は乾きやすいがまた濡れることもあるというのに、人は一度死去したら一体いつ戻ってくるの、というような意味のものです。中国文化の影響を受けて、儀礼の場で詠まれる行動記述的な葬歌から、私的な場での感情表出の挽歌へと、大転換が起こっている。そして、よく思い出してみてください。これは配偶者を亡くしたときの歌なんです」
鴛鴦の歌の脇に「悲しみの表出」と赤字で書く。先ほどのなづき田の歌の隣に「儀礼」、鴛鴦の歌の隣に「私的な場」と書き加えた。
「挽歌の結実は、万葉集の天智天皇挽歌群。六七一年に天智天皇が亡くなったとき、倭大后は歌を詠みました。この時にはもう葬式のような儀礼的な場でも、行動記述的な葬式歌ではなく、悲しみを表出した挽歌が詠まれています」
「人はよし思ひ止むとも玉鬘影に見えつつ忘らえぬかも」と板書する。個人的にもとても好きな歌だ。
「他人は思うのを止めてしまうだろうが、私には夫の姿が見えていて、忘れることなんてできない。これが挽歌です。人の死を悼む歌」
「恋の歌みたいですね」
「そうなんです! ちなみに豆知識ですが、「こひ」という語は「孤悲」と字を当てたりします。独りが悲しい。万葉の「恋」は、あくまで恋人と共にいない状態のことを言うんですね。なので「恋が止む」と言うとき、それは今でいう失恋ではなく思いの成就です。この天智天皇の后の歌は、本当に恋の歌だという気がします。あなたが居なくて寂しい」
ホワイトボードから河野の方へ向き直る。
「感情を吐露するような、抒情的な恋歌・相聞歌は、出会いの場であった歌垣の即興的なやりとりではなく、漢詩文の影響を受けた挽歌の流れを汲んでいるのだということが今日のメインテーマです。相手を誘うわけではなく、ただ「一人」を内省的に詠む歌が、今後だんだんと増えていきます。相手がいないからあなたと寝たい、じゃなくて、配偶者の死を悼む気持ち、あなたが居なくて悲しいという気持ちを詠むこと、それが抒情的な恋歌の始まりです」
3
冷めたコーヒーに口をつけながら、河野がせっせと板書を書き写すのを見守る。
大学時代、恋愛文学史を学んで、抒情的な恋歌の流れが歌垣ではなく挽歌にあると知ったとき、碌に恋愛もしたことがない身で、何故だか胸のすくような思いがした。誰かに本気で胸を焦がしたこともない。反対に、歌垣のように軽く奔放な付き合いの経験があるわけでもなかったのに、恋歌の流れが挽歌からなるものだったという事実は、不思議に俺をときめかせた。とても素晴らしいことのように思えた。まったく自分に縁がないように思えた感情に、喪失感という自分でも身に覚えのある感情で迫れると分かったのが嬉しかったのかもしれない。あくまで個人的な感傷にとどまるが、今日の単元は古代恋愛文学史の中で、俺にとってはかなりの勘所のつもりである。俺の抱いた衝撃やときめきの半分でも、河野に伝わっていれば嬉しい。
抒情的な恋歌は歌垣ではなく挽歌の流れを汲む、と河野がノートに書き終えたのを見届けて、鞄に持ってきたテキストをしまっていく。コーヒーの礼を言い、板書を消そうと立ち上がったところで、河野の声がかかった。
「あの、住吉先生」
「なんですか」
「話したくないというなら無理強いはしませんが、もし何か気にかかることがあるなら、僕でよければ話を聞きますよ。先週仰ってたでしょう、家庭教師を持ち掛けた理由。文鳥と多佳実の共通性が目的の第一でしょうが、仕事の面でも参考にしたいことがあると言っていただいていた気がします」
河野が立ち上がり、俺の脇を通ってキッチンの方へと歩いていく。
「コーヒー、冷めていたと思います。淹れ直しますよ」
室温のコーヒーの味と、先輩と相対したときの居心地の悪さが脳内によみがえる。数秒考えて、河野の言葉に甘えることにした。一人で抱え込んでいても、何も好転しないだろう。「ありがとうございます」と返答して、クリーナーを手に取った。板書を消していく。
「……そもそも、向いてないんです人付き合いとか。なのにおざなりに就活したせいで接客業に就いちゃうし、客どころか職場でも上手く行かないし。育成担当の先輩にもまったく良く思われて無いのが分かるので、ずっと停滞した感じなんですけど、今更距離の詰め方も分からないし。今日、ちょっと先輩の様子がおかしかったんですけど、何て声をかけていいのか、ぜんぜん分からないんですよ。普段の定型の会話も噛み合わないのに、どうしていいのか、ぜんぜん……」
初めは上手く開かなかった口は、十数分もすればよく動くようになった。河野は人の話を聞くのが上手かった。上手いということすら悟らせないような自然さで、相手が話しやすい雰囲気を作る。
「新任なんだよね、今年。社会人一年目」
「そうです」
「じゃあ、人間関係になじむのにそんなに苦労はいらないよ。黙ってたって構われる立場だ。少し頑なさを消すだけで、上手く行くんじゃないかと思うよ。僕も割と人見知りの方なんだけど……」
まさか、と顔にも出したし口でも言った。河野は俺の反応を受けて笑う。
「まさかじゃないよ。僕も人付き合いは苦手だ」
「嘘」
「嘘ついてるように見えるの?」
「人付き合いなんて、なんなくこなしてるように見える。俺への対応にしたって、そもそもの佇まいにしたって。人慣れしてるし、人好きするタイプでしょう」
「それを言うなら、住吉先生だってそうだ。人付き合いがてんで苦手な人は、図書館で困ってる良い年した男に声なんてかけないでしょう」
脳裏にぱっとちらつくのは最初の出会いの風景だ。今思えばこの黒い本棚を撮影したのだろう写真の一画、「凡河内躬恒全集」という表題をスマホの画面に表示させながら、近所の図書館の文学コーナーの「は」行の棚の前に河野は居た。あれは夏の暑さが引き起こした自分にとっても例外的なお節介で、俺の本質では全くない。
「あれは、気まぐれというか暴走というか……。普段はあんなこと絶対しません」
「そうなんですか? 住吉先生が気まぐれを起こしてくれてよかったな。すごく助かりましたから」
「とにかく、普段はあんなこと絶対にできないんです。あまりああいう風に、自分から積極的に行くことは難しくて」
「持つべき積極性はたった一つで良いんですよ。これは人見知りの僕が三十年近く生きてきた中で、これだけは間違いないだろうという、初対面の人と仲良くなるための方法ですが、簡単です。質問をすればいいんですよ」
「質問? 業務のこととかですか?」
「仕事もそうだし、それ以外のことも、どんなにくだらないことでもいいです。新人なんて分からないことばっかりでしょう。質問することが大っぴらに許された人間なんですから、とにかく聞くんです。聞いて、教えてもらったら嬉しそうに『助かりました』「ありがとうございます』って言うんです。嫌な気持ちになる人いませんし、そうして質問していくうちに、段々相手の性格や間合いなんかも読めてきて、質問以外の会話もしやすくなりますよ」
「質問……」
「くだらないことでもいいんです。僕は、高校とか、大学とか、入学して初日はまず隣の人に質問するんです。本当に些細なことですよ。今ガイダンス資料の八ページ目で良いんだよね? とか。生徒手帳のカバーの付け方ってこれで良いの? とか。自分が分かり切っているようなことを、あえて質問するくらいで良い」
「それ、不快に思われたりしないですか。そんな簡単なこと聞くなよ、自分で考えろよ、なんで嘘つくの、みたいに言われたら……」
「ごめんなさい、あなたと仲良くなりたい一心で、きっかけが欲しくてつい知らないふりしちゃった、って言えばいいじゃないですか。それこそ相手も悪い気しないでしょう」
河野は平然と言ってのけた。顔立ちにしろ、体つきにしろ、その表情や声の感触にしろ、それらに免じて大概のことを大概の人間に許してもらえるだろう男がそんなことを言う。腹立たしさが思わず顔に出てしまった。
「それは河野さんだからじゃないですか。河野さんに言われたらそりゃみんな悪い気しないですよ」
「そうなんですか」
河野がぱっと表情を変える。
「そうです。俺には使えない手です」
「いや、そうじゃなくて……僕に言われたら、みんな悪い気しないんですか」
「だと思いますよ」
「住吉先生も?」
「……まあ」
俺の返答を聞いて、河野が表情を明るくした。なぜか自分の身体が強張る。目の前の男の視線に射すくめられる。
初めて体験する感覚だった。あらかじめ決まった道筋を歩かされるような感覚。自分の及びのつかないシステムに、自分の未来を決められているような、何か機械的な応酬のただなかに押し込められたような、そんな感覚だった。
双方が、頭の中でこれからの流れを十分に共有した上で、お互い一緒のレールに沿って、表面上のやりとりを積み上げていく。機知的に、即興的に振る舞えるのは、行き着く先をお互い承知しているからだ。そんなことすら初めて知った。
「僕、あまり学は無いですが、さすがに「和泉」の読み方くらいは知ってます」
あの夏の日、ためらうような、恐縮した素振りで、善良で無知な人間のふりをして、おずおずとこの男は聞いたのだ。
河野がにこりと笑った。その言葉の意味を理解し終えて、顔が熱くなる。いいように搦め捕られた、と舌打ちをしたくなる一方で、悪い気はしなかったのが、自分でも不思議で仕方がない。
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