1
初回授業のために河野の部屋へ向かう足取りが重いのは、決して背負った鞄に詰められたテキストのせいではない。重く、背に心にのしかかるのは「本業」におけるトラブルのせいである。
今日は様々なことが起こりすぎていた。結び付いたトラブルをいちいち切り分けていく作業も気乗りしないが、脳みそが勝手に動いて精神に負担をかけるのは俺の身体ではありがちなことである。発端は昼頃、客から管理担当に入った一件のクレームだった。批判の矛先はレストラン街の中でも人気の店で、クレームの内容は「予約をしたのに店に入れない」というものである。店側は「予約を受けた覚えはない」との一点張りで、加えてよこしたのは、起こったトラブルの原因がまるで俺にあるとでも言うように苛立った店員の表情くらいのものだった。結局、その店と同じオーナーが経営している別の店にその客の名前で予約があったことが発覚したのは、その客がさんざん店と俺と店舗を罵り倒し、気が済んで店を退出した一時間後のことだった。
さんざん胸中で件の客を罵りながら、最悪の気分で蛍の光をたっぷり聞いて、ようやく仕事から解放された俺を待っていたのは、意識がべらぼうに高い先輩の慰めだった。
「住吉さん、今日のことだけど、あれ、あんまり気にやまないでね。舌打ちされたりするとびっくりするかもしれないけど、お客様も勘違いの上でああいう態度をとられたわけだから、あんまり真正面から受け取って傷つかなくても大丈夫だよ。元をたどればお客様の予約ミスだし。確かに予約が別店舗でされていたことに早く気付ければよかったし、うちに入ってる別のお店にさっと案内出来たらよかったとは思うけど、今日は別にやらなきゃいけない仕事が山ほどあったし、急いでると雑な対応になっちゃうことって、全然あるから。私もいまだについやっちゃうことある」
労わるような表情をした先輩の口から飛び出した言葉は、俺の心中の荒み具合とは全くそぐわないものである。
「……ああ、昼のあれ……」
「わたしも全然やっちゃうから、あんまり偉そうには言えないんだけど、ただ、これからはいらいらしたり、仕事がうまく進まなかったり、お客様がむすっとした顔してる時ほど、丁寧に対応するっていうのを心がけていけたらいいなとは思います。わたしも頑張るから、住吉さんも頑張ろう!」
「……そうですね」
優しかった先輩の顔が、徐々に徐々にと曇りはじめる。
「……住吉さん、実際はあんまり落ち込んだりしてなかった感じかな」
「えっと……ええ、はい。そうですね」
気に病む、落ち込むなんてもってのほかで、俺はこの件を単なる災難としか思っていない。今の今まで、俺に過失があるとすら気付いていなかった。
だんだんと俺の内実を察して口角が下がっていく先輩と、苛立ちの根拠を急に貧弱にされて混乱する俺、という最悪な視線の交わし合いを壊したのは、管理担当チーフの間の悪い言葉だ。
「住吉くん、本部から書類来てるよ。副業届の結果だって」
チーフの言葉を聞いて、いつもは大きく開かれている先輩の目がすっと細くなった。
「副業届?」
「……あ、はい、そうです」
「誰の?」
「……僕のです」
先輩がぱっと目を見開き、眉根を寄せて、ため息をつく。その三動作で、先輩は自分の苛立ちと失望と呆れをきっかり表すことができる。そもそもが正直な人間なのだろうが、なおかつこの人は、感情を巡らす際に、妨げや摩擦やフィルターを丁寧に取り除いて自分の心に湧き上がったものを再構成することを苦にしない。
客へのいらっしゃいませも、俺への負の感情も、この人の発現はいつも純度百パーセントでなされて、俺のようなぼんくらにもはっきりと気持ちを伝えてくれる。そして、俺はこういう人間と、全くと言っていいほど反りが合わない。
二週間。図書館の本の返却期限。副業許可願いの判定期間。十日の出勤と四日の休み。九万リットルの残飯。ユリの花が咲いて萎むサイクル。先輩が俺に愛想を尽かしきるまでの時間。
世間の休日が稼ぎ時の仕事だから、休みは土日とは限らない。俺は新人ということもあってか、金土という割合混みやすい曜日に休日をもらっている。つまり俺にとっての木曜日は一週間で最後の出勤日で、普通ならもっと楽しい気分になるものだけれど、こうして先輩との人間関係でのミスが週末直前に起きると、どうしても気分は落ち込んでしまう。客に怒鳴られた時より、先輩の表情をうかがう時の方が、余程胃が痛くなるし、接客が上手く出来ないことより、職場の人間と上手くやれないことの方が、ずっと自分の欠落が身に染みる。
なんとなく悪い雰囲気が自分の身にまとわりついているような気がして、身体まで重たくなる。しかし、ともかく、今日は河野に向けての授業日である。なんとか気分を入れ替えなければならない。先輩のため息が充満するロッカールームを出て、通用口に向かって歩いていると、携帯電話が鳴った。ポケットから取り出した携帯電話の画面には「河野道人」と表示されている。
河野道人。俺は今日から副業として、和歌文学について家庭教師を行う。生徒はこの男だ。
「はい。住吉です」
「河野です。今お電話大丈夫でしたか」
「大丈夫ですよ。今店舗出たところです」
「副業願いは許可出ましたか」
「出ました。 なので当初の予定通り今日が初回授業です」
「分かりました。九時からということで。お待ちしております」
話を終えて電話を切った。背負った鞄の中には今日使うテキストが入っている。人間関係のミスに因る落ち込みなんかより物理的にはずっと重いはずのその本は、しかし俺の気持ちを弾ませた。
2
「では、まずはじめに目標を立てましょう」
リビングのローテーブルの上には丁寧に淹れられたお茶がある。端正に制御された河野の部屋の中にあって一番に場違いかつ威圧感のある本棚の前で、河野は俺の言った単語を繰り返した。
「目標?」
「はい。目標です。目的と言い換えてもいいんですけど、河野さんが和歌文学をなぜ学びたいのか、学ぶことで最終的にどうなりたいのか、まずはそこを決めましょう」
目の前の男は、考え込むように少し面を下に向けた。
河野の背中の本棚には、和歌文学における有名な作品や日本文学に欠かせない辞書が何点か揃えられている。無論長年の趣味人や在野の研究者、体裁を整えたい成金に及ぶほどのラインナップではないが、単に学部を卒業しただけの人間が取りそろえたにしては大仰すぎる。そしてもちろん、健康的な体格とはつらつとしたまなざし、しなびた人間には出せない気安さを兼ね備えたこの男は、この本棚の持ち主ではとうていない。文学に傾倒する人間というのは不健康なものである。
河野は三年前に恋人が行方をくらましている。その恋人の唯一の置き土産がこの蔵書だ。河野が俺に和歌文学の家庭教師を頼んだのは恋人に何かしらの気持ちがあってのことだろうし、俺は俺で喪失の経験とその回復方法に強い興味がある。この家庭教師契約は、お互いにメリットのあるものだった。
河野が顔をあげる。
「彼女が好きだった歌を思い出したいです。そして、その歌の意味が分かるようになりたいです。……わがままを言えば、彼女が何故その歌を好きだったのかも、推測することができたら嬉しいです」
河野が体を捻り、本棚を振り返る。
「とはいえ、僕は本当にこの手の知識がないもので。高校で習った古典文法からしてもう怪しいかもしれません。住吉先生にはご迷惑をおかけすることになると思いますが」
「せ、先生?」
「なにか?」
「先生って、河野さん俺よりいくつも年上でしょう。あの、かしこまってるとこあれなんですけど、俺のも所詮三流大学の学部生の三か月さび付いた知識ですよ。そんなに期待しないで、持ち上げないでください」
年上の、自分よりだいぶ作りのいい男から「先生」などと言われるのは非常に居心地の悪いものがある。嫌がらせを疑ってしまうくらいには嫌だった。
「だって、先生は先生でしょう。家庭教師契約っておっしゃってたじゃないですか」
「それはそうですけど、とにかく俺の居心地がとても悪いので、だめです。教師命令で禁止です」
「なんだ。ちょっと学生気分で懐かしかったんだけどな」
河野はへらへら笑った。真剣と不真面目の境目があいまいな男である。
「とりあえず、目的は分かりました。ざっと古典文学の基礎知識からさらっていって、基本的な有名作品は読んでいくようにしましょう。元カノさんの好みの歌も探っていきたいってことで、そっちはそっちで調査していきます。好きな理由に関してですけど、まあ個人の感想や経験に結びついてる理由なら他人が推測するのは厄介ですけど、たとえば『竹取物語』の人間らしさ獲得のさまが好きだ、なんてのは大概の人が共有するところですから、もしかしたら探れるかもしれません。さて、ひとまず質問なんですけど、元カノさんってお名前はなんて言うんですか」
「必要ですか」
「ええ。いったん検索かけます。突飛な名前で優秀もしくは目立ちたがり屋の場合はひっかかる可能性があるので。所属ゼミとか卒論を足掛かりにまずは見当付けたいなと」
「なるほど。えっと、名前はよしいたかみです。吉井は普通に吉井で、たかみは多い佳作実る、で多佳実です」
スマホを起動し、言われたとおりに検索窓に打ち込む。何人かの一文字違いの有名人たちに混じって、吉井多佳実はいた。大学の受験生向けにゼミの魅力を伝えるための特設サイトの中、四人ほどのゼミ生たちと一緒に載っている。
サイトのページは、ゼミの教授のお話、ゼミ生一人一人へのインタビュー、ゼミ生と教授の簡単な対話、という構成だった。ゼミ教室で撮ったらしい写真付きである。教授を囲んで三人の女子学生と一人の男子大学生が写っている写真と、ゼミ生個々人の写真があった。吉井多佳実のインタビューの欄にある写真を指差し、河野に向ける。
「この方ですか」
「……ええ、さすがに会った頃より若いし髪型とかも違うけど、多佳実です」
吉井多佳実だというその女は、なかなか手強そうだった。多分俺に限らず大概の男が同じ感想を持つだろう。「知的な目をしてる」「仕事が出来そう」という誉め言葉が嫌味でなく通る雰囲気の女だった。実際見た目通りに知的なら、卒論が優秀で紀要に載せられている可能性もある。しかしひとまずはこのページを読み込むことが先だった。ローテーブルの上にスマホを置き、河野にも見えるようにする。
「ゼミの名前は単に『古代日本文学ゼミC』なので、あんまり何やってるか分からないですね」
「この教授は恋愛文学関連の研究してる人みたいです。インタビュー読むと吉井さんは在原業平と和泉式部の話してますね。やっぱ恋歌関連かなあ。ちょっと大学の雑誌名と吉井さんの名前でも検索掛けてみますね」
二秒ほど検索の間があって、出てきたのは吉井という名字の別人の論文記事だった。何度か検索ワードを変えても特に記事はヒットしない。
「ちょっと卒論は分からないですね。実際に雑誌を確かめれば多分卒業年に氏名と題目は載ってるような気もするけど、それも結構手間だなあ」
「多佳実が何を学んでたかは分からないですか」
「そうですね。まあ、実際に学んだ分野が卒業後や勉学から離れている時間でも好きとは限りませんし、どうせ基本的な文学のところは学ばなきゃいけないので、ちょっと道のりは長いですが、大まかに古代の恋愛文学は全体をさらっていきましょうか。これは多分なんとなくなんですけど、吉井さんは恋愛文学が好きだったんじゃないかなという気がしてます」
背負ってきた鞄を開き、持ってきたテキストを卓上に並べる。
「どういう風に講義しようかちょっと迷いはしたんですけど、とりあえず要るかなって資料は持ってきました。古典文法のテキストと国語便覧です。高校と中学の。なんだかんだ最初は分かりやすく書いてあるものから入った方がいいので。これ汚いですけどあげます」
「ありがとうございます。懐かしいな。全然覚えてないや」
「あとこれは僕が使うんですけど、大学の講義でとってたノートとプリントと、あと僕のゼミの教授の書いた本です。基本的にここらへんと、あとは吉井さんの蔵書を使わせていただいて、授業していきましょう」
「ここの机の上でやりますか? ホワイトボードとか買っておきます?」
「……河野さんがそっちの方が分かりやすいっていうならそれでもいいですけど」
ホワイトボードがあるとなんか塾っぽくていいですよね、と河野は言った。この男は先ほどからなんだかふざけているような気がする。
「とりあえず今日はこの机の上でやりますよ。まずは本当に基本的なところですね。日本文学のはじめのところ」
3
「そもそも、さっきから言ってる「古代」というのがいつなのかという話ですが、これは大体七世紀くらいから鎌倉幕府が始まる前までです。七世紀というのは、資料として分かるのが七世紀からということで、それ以前にも勿論「うた」や「かたり」はあったでしょうね。先にちょっと背景の話もしておきますけど、きっかけはまあ五八九年です。何が起こったかというと、隋が中国を統一しました。ばらばらに戦い合っていた国々がぎゅっとまとまって、東アジアに強大な統一国家ができてしまった。これは周辺国家にとってものすごい脅威です。ものすごい外圧に抵抗するためには、身内で争っていても仕方がないので、こちらもぎゅっとまとまって一丸でいなければなりません。日本は天皇を中心とした中央集権国家にどんどんなっていきます。「倭」になると中国とも交流が発生して、最初は土着の文化だったうたやかたりが先進的な中国の文化とドッキングしていく。そうしてできるのが万葉集や古今和歌集。一元化、融合が起きたわけです。分かりやすいのがひらがな。九世紀にドッキングした文化がいよいよ確立して、出来上がったのが古今和歌集。後の歴史は古今和歌集の権威化とそれへの反発です。古代日本文学における和歌の盛り上がりは二つあって、それは古今和歌集と新古今和歌集。散文の頂点は源氏物語たったひとつだけ。先ほども言ったように、そもそも昔の日本にもうたはある。ただそこにはどんどん中国的なものが取り入れられていく。その過程に万葉集があり、その到達点が古今和歌集です。そのあと後撰、拾遺と続くうちはまだ古今らしさの継続がある。拾遺と同じくらいのときに源氏物語も出てきました。そうして、この後は脱古今の機運が高まり、だんだん革新的な和歌が出てくる。後拾遺、金葉、詞花、千載ときて、新古今和歌集で脱古今は一応の到達を見せるわけです。ちなみに万葉集・古今集・新古今和歌集で三大集といいます。ここまで大丈夫ですか」
「な、なんとか」
困ったように笑っている、となんとなく直感で思った。河野も先輩と同じように自分の感情を表すのが上手いのかもしれない。不思議とそれに反発は感じなかった。
「大丈夫じゃないですよね。どうしようかな。授業とかやったことなくて、多分こうやって歴史をばっと喋るもんじゃないんですよね……」
「いやいや、僕の理解力が足りないのがほとんどすべての原因ですよ」
「そんなことないですよ。俺、全然こういうの得意じゃないんですよよく考えたら」
客の望むことも分からない。先輩がどうしたら俺に苛立ちを覚えずに済むのかも分からない。河野の目的を問いただしたばかりなのに、それにたどり着くための正解もさっぱりわかっていない。
露骨に落ち込んだ顔をしていたのかもしれない。河野が気遣うような表情で、違う話を始めた。
「そういえば、聞きたいと思っていたことがあるんです。僕が多佳実の打ち明け話をして、住吉さんが家庭教師の話を持ちかけてくださったとき、俺にとっても良い提案だって言ってたじゃないですか。あれってどういう意味なんですか」
河野の後ろには悠然と本棚が佇んでいる。持ち主が居なくなって、自分の扱いをまったく知らない男の家にあって、ずいぶんと優雅だった。俺の住むアパートの庭にあるユリの植木鉢も、植木鉢のくせにそこに根でもはやしているかのように、びくともせずに佇んでいる。誰の気持ちも思いやらずに。
「俺もちょっと、自分が大切にしてるものの中に、吉井さんみたいに消えてしまうだろうものがあるんです。そして、その消えてしまうものを想起しやがるものは反対に全然消えてくれなさそうで、なんか状況が似てると思って。あと、俺仕事も全然上手く行ってなくて、そこは河野さんと全然正反対で、なんだろう、参考にできそうと思ったので」
「大切にしてるものって?」
「……実家で文鳥飼ってるんです。めちゃくちゃ可愛くて、本当に大事で、寿命分けてやりたいくらいなんですけど、多分あと数年で死にます。でもそれに耐えられそうな気が全然しないです」
「そうか。そういうことなら、なんか責任重大だな。でも、そういう理由で良かったような気もするよ。和歌文学を教えることが生きがいなんです、とか言われたら、ちょっと僕も困っちゃうから。大事なものがあるんだね。僕の境遇に興味を抱いてくれたのも嬉しいよ」
河野が笑う。
「もし住吉先生が嫌じゃなかったらだけど、もう少し気楽に進めない? 僕が馬鹿なのが悪いんだけど、長い道のりになりそうだし、どうせなら楽しくやりたいな。僕は多佳実が好きだった和歌が知りたいし、住吉先生にとっても和歌は手段でしょう」
「……確かにそうなんですけど、楽しくやるのは俺の技量的に難しいです」
「どうして」
「人を楽しませるのは苦手です」
「じゃあ僕が勝手に楽しくやるので、住吉先生は協力して」
「……協力って、先生呼びを許すことも含まれるんですか」
「うん。もう一個質問してもいい? 多佳実にしてもだけど、どうして和歌文学に興味持ったの? 僕はあんまり文学にも興味がなかったし、読書が好きな子も周りにはいたけどそういう子もたいがい近現代文学をやってたから、僕はまず最初の興味のところからもうわからないんだよね。どういうところをどういうふうに楽しむのかもわからない」
確かに当然の疑問かもしれない。河野に限らず、大概の人間は和歌なんかに興味を持たないし、しばしば和歌と俳句の区別がつかない人間もいるくらいだ。
「あくまで俺の場合であって、吉井さんとは違うかもしれませんけど、俺は、普通に生きてくうちに興味が出てきたんですよ。なじみがないと言っても百人一首や学校の授業で触れはするじゃないですか。そういうとこで取り上げられるものを読んで、千年前だろうと変わらず詩だし物語だなって思ったんです。千年も前から同じようなこと考えてるのも凄いな、とも思いました。幸いそこまで古文とかも苦手じゃなかったので、日本文学科進んで、教授もいい人だったし古代和歌のゼミに入って、という感じです」
「住吉先生も好きな歌とかあるんですか」
「ありますよいっぱい」
「あるんだ。じゃあそれについてまずは授業してくださいよ」
河野は平然とした調子で言った。
「なんでですか。時代も作者もばらばらだし、俺の好きな歌教材にしたって系統立てて学べませんよ」
「僕はそっちの方が楽しいです」
なんだそれは、と思って河野の言葉を否定しかけたところで、「楽しくやる」というたった数十秒前に設定された新たな目標を思い出した。
「……じゃあ、俺の好きな歌の話もします。後半では普通に時代に沿っての恋愛文学の授業もします。どっちが河野さんの目的に近づくきっかけになるかといったら後者だと思いますけど」
自分の好きな歌。そんなものを聞かれたのは大学以来だ。いや大学でも、直截にそんな聞かれ方はしなかった。家族や会社の人たちがそんなものを聞くはずもない。初めてのことかもしれなかった。
「本当にたくさんあるから迷いますけど、さっき吉井さんがインタビューで言っていた二人の歌人の歌は俺も好きですね」
記憶の中の歌を探る。どうせだから、ちょっとは河野のためになる文学の勉強を付随させられるような歌を出そう。
「在原業平という歌人がいます。多分有名だから、聞いたことはあるんじゃないかと思うんですけど」
「はい、名前くらいは知っています。教科書にも出てきた記憶があるな」
「さっき俺が話した古今和歌集の、その序文にも、この人の名前があがります。ちなみに古今和歌集の序文は、漢文の真名序と仮名文の仮名序があって、仮名序の作者は紀貫之とされています。仮名序において、在原業平は「心あまりて、ことばたらず」と評されます」
「心が余ってて、言葉が足りない?」
「はい。俺は基本的に在原業平の歌が好きだけど、大学入る前は「心あまりてことばたらず」があんまり腑に落ちてなかったんです。でも大学入ってゼミをやって、ある歌を知って納得がいきました」
喉が渇いているのを感じ、淹れられたお茶を飲んだ。河野は神妙に俺の言葉の続きを待っている。
「和歌と言うのは結構決まり事というか、パターンが多いんです。こういうものを詠むときはこういう風に詠む、というパターンがどうしてもある。そこで周りの歌人や今までの歌と違う視点を提供できればいい歌になるけど、あんまり突飛にやりすぎても上手くない。例えばホトトギスを詠むとき、たいていの歌人はまず鳴き声を詠みます。ホトトギスの鳴き声、中でもとりわけその年初めて耳にする声というのが大事で、まずその初声を自分に聞かせてくれ、というような歌や、都の貴族たちは初声を聞いたなんて嬉しがっているが本当の初声を聴いたのは山に住んでいる私だよ、というような歌があります。あとは初夏、あるいは懐旧、たまに赤い口から喀血、死のイメージもあったりする。だけど大概はパターンに則って歌というのは詠まれます。歌の素材になるものは、鳥や花や月や季節はもちろん、シチュエーションもあります。河野さん、『垣間見』と聞いてどんなシチュエーションをイメージしますか」
俺は手元にある紙に「垣間見」と書きつけて、河野の方へ向けた。河野は数秒考える顔をしてから、おずおずといった様子で口を開く。
「垣間見る、ですよね。なんだろう……覗き?」
河野が冗談めかして笑うが、実際そこまで遠くない。
「昔、女は男の前にそうそう姿を見せませんでした。女は部屋の奥に居て、簾と壁に隔てられて、男の目にはなかなか触れない。そもそも当時、顔を見てから恋愛するなんてことはなく、男が女の姿を見るとき、それはもう関係を結ぶ時です。「見る」は古語だと結婚することを表していることもあるので要注意です。で、普通そうそう男の目に女の姿は入らない。しかし風で簾が捲れたり、垣に穴があったりして、男の目にも女の姿がちらっと見えてしまうこともある。それが垣間見です。あるとき、男が垣間見をしてしまったとします。当然女のところに、あなたのことを垣間見してしまった、という内容の歌を送ります。ではどんな歌を作るか」
手元の紙に、歌を四首書いていく。河野はペンの先を目で追っていた。全部書き終えて、くるりと河野の方に紙を向ける。一首目の歌をペンで指す。
「壬生忠岑の歌です。「春日野の雪間をわけて生ひいでくる草のはつかに見えしきみはも」。野の一面にある雪を、かき分けて生えてくる草のように、わずかに見えた君だ……というような調子。二首目、凡河内躬恒。「初雁のはつかに声をききしより中空にのみ物を思うかな」。初雁の声をちらっと聞くように、あなたの声を聞いたときから、うわの空で物思いばかりしている、というような意味です。三首目、紀貫之。言っておきますが、紀貫之はすごい人です。さっき言った古今和歌集の編集者の一人。「山ざくら霞の間よりほのかにも見てし人こそ恋しかりけれ」。山桜が霞のあいだからわずかに見えるように、ちらっと見たその人が恋しいです。……河野さん、ここまでで、なんとなく共通点、垣間見を詠む際のパターンがあるってわかります?」
「ちらっとのぞく自然のものに女性を喩える?」
「大正解です。雪の中の芽、初雁の声、霞から覗く山桜に女性を喩えている。こうして歌を見ていくと、垣間見を詠むときのパターンは、ちらっと見えた女性を何かに喩える、というもので、何に喩えるのかが歌人の腕の見せ所だという気がします。ここの喩えの美しさ、意外さが大事で、ここで上手く美しいものに女を例えれば、この歌を送られた女もなびいてくれるかもしれない。ここの喩えこそが技巧です」
言葉を切って、俺は四首目の歌を指した。俺が在原業平で一番に好きな歌だ。
「四首目、在原業平の歌です。「見ずもあらず見もせぬ人の恋しくはあやなく今日やながめ暮さむ」。全く見ていないわけではない、でもきちんと見てもいない、そんな人が恋しくて、理由も分からず今日はぼんやり物思いに耽っています、という歌です」
「……パターンと全然違う」
「そうなんです。異質です。喩えの技巧なんてどこにもない。ただ、見たか見てないかもあやふやなあなたのせいで思い乱れています、と自分の内面をそのまま書いて送っている。まさしく心あまりてことばたらず、です。何にも取り繕っていない。技巧を凝らすわけでもない。ただ途方に暮れたみたいに、思い悩んでいる。……俺が女だったら、壬生忠岑や凡河内躬恒や紀貫之の歌よりも、こっちの方になびくと思う。あまりにストレートで、面食らう。でも、自分のせいで惑乱している送り手をきっちり想像させてくる。俺はこの歌がすごく好きです。ついでにいえば、紀貫之よりも在原業平の方がずっと好きです。優等生の秀才より、放縦な男の方が良い」
思わず熱を入れて喋ってしまっていた。ふと我に返って恥ずかしくなる。河野の方を伺うと、楽しそうな様子で俺の顔を見ていた。恥ずかしさが募る。耳の先が熱くなった。
「先生の好きな歌が知れてよかったです」
「その顔で見ないでくださいよ。面白がって」
「面白がってないですよ。僕、なんだか嬉しくて。多分、というか絶対、先生の好きな歌がぽんと一首だけ置かれていたら、良いなんてこれっぽっちも思わなかったし、そもそも良さも分からなかった。でもこうやって先生に丁寧に説明を受けると、歌の良さがすごくよく分かる。正直、若干不安だったんです。和歌の授業なんて頼んじゃったけど、本当に興味を持って、多佳美に迫れるくらいのところまで行けるのかなあって。ものすごく絶望的な溝があるんじゃないかって思ってた。でも、全然興味を持てないわけじゃなくって、ちゃんと説明されれば、よく分かった。住吉先生の好きな歌、僕も好きです。」
河野が頭を下げる。予期していなかった行動で、少し慌てた。
「頭なんて下げないでくださいよ」
「住吉先生、本当にありがとうございます。なかなか絶望的な試みでしたが、住吉さんのおかげで希望が見えてきました」
河野がゆっくり頭を上げて、俺を見つめる。
「これからもどうぞよろしくお願いします」
河野は真剣な目をしていた。なんだか気圧されてしまって、俺はしどろもどろの返答をした気がする。
4
初回授業を終えて、河野の部屋から自宅へと戻る。足取りは軽かった。背負った鞄に詰めてきたテキストのいくつかを河野の部屋で減らしてきたから、ではない。悔しくて、なんだかむずがゆいことだが、俺は多分、今夜のことを嬉しく思っていた。
今までに、好きな歌の話を誰かとしたことなんてなかった。教授相手の論考はいつもきっちりした証拠と推論が必要だったし、何かしらの新奇性が求められた。仲良く和歌の感想が言いあえる友人なんていなかったし、家族や会社の人たちはそもそも和歌に興味がない。そんな中で、初めてあんな話をした。さえぎらずに聞いてもらえたことが嬉しかったし、河野の言った、「僕も好きです」という一言が、とにかく嬉しかった。共感してもらえた。俺の、あの歌に抱いていた感嘆が、誰かに伝わった。足取りが弾む。馬鹿みたいだ。古今和歌集にも載っている名歌の素晴らしさなんて、きっと多くの人が知っているのに。たった一人と通じただけで、俺はこんなにも浮かれている。
自宅について、部屋に入りコートを脱いだところで、そういえばユリの植木鉢に目をやらなかったことに気が付いた。俺にしては珍しい。スマホを確かめるとメッセージアプリに一件の着信があり、開くと軽薄なメッセージアプリには不似合いな、河野の礼儀正しい長文があった。お礼とざっとした質問と給料の話、最後に付け加えられた「何か住吉さんの要望はありますか」という一文。
今日の授業を思い返す。特に不便はないように思ったが、一点気にかかることがあった。今、俺と河野はリビングのローテーブルを挟んで授業を行っており、テキストや書きつけた板書は、いちいちくるくると回してその都度互いの向きになるよう動かしている。些細なひと手間とは言え、不便は不便だった。
どうしようか。なんとなく教師というと対面のイメージだけど、もしかしたら机の一辺に隣り合って座る形でもいいかもしれない。そう思ってその旨をアプリに入力していく。ああでも、あんまり近いと変な感じかな。河野の笑った顔が頭に浮かぶ。「先生」という河野の声が耳元に再び思い返されて、なぜか、急に恥ずかしくなった。急いで今までの入力分を消し、「ホワイトボード買ってください」と書いて、送信する。
なんだか妙な気分だった。昨日と変わらず熱い夜の中、俺だけがなぜか落ち着かない心地でいる。
次
五月待つ
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