植木鉢に突き刺さるように植えられていた植物の正体がユリだと気づいたのは五月三日になってからだった。住んで一か月と少し、職場に居るときのちょうど半分くらいの居心地の悪さを漂わせているアパートには、一応庭とも呼べないくらいの敷地があって、そこには薄汚れた植木鉢が置かれている。大家の持ち物らしいその植木鉢は、俺がこの部屋の内見に来た三月にも、この部屋に慣れようと努力した四月にも、ただ細長い葉茎を抱えてぼうっと佇んでいただけだった。古くて薄汚れたアパートのうだつのあがらない雰囲気に、その植木鉢と素性の知れない葉茎はよくなじんでいて、つぼみが現われたその瞬間まで、その植物はただの彩度の低い景色の一部でしかなかった。あの植物は何だろうと考えることは、祭りのお遊びによくあるあの型抜きを成功させるくらいには難しく、花が咲くまで、当然俺はその植物に意識を向けることはなかった。
五月三日、職場に出かけようとドアを開けた俺の目の前に入ってきたのは、酷く目立つ白色だった。やわらかく、幾分か薄い赤を含んだそれは、風に乗って思わせぶりに揺れている。数秒それを見つめて、頭の中で少し計算をして、最悪だと思った。
俺の職場は、デパートにしては下品だが、ショッピングセンターにしては気取っている、といういささかあやふやな商業施設である。ちょうど一年前の今頃は、そのあやふやさを柔軟さと言い換えて面接官に媚びを売っていた。就職活動時に蓄えた会社への愛や知識や熱意は今や塵ほども残っていない。
アパートから五分も歩かないうちに店舗にたどり着く。職場に近いところに部屋を借りたのだから当然だ。だけどその当然が、たびたび胸につまって苦しくなる。
「おはようございます」
ロッカールームにたどり着くまでに様々な人とすれ違い、挨拶を交わす。ほとんどの人の名前を知らない。いったいここで何人が働いているんだろうと思う。せわしなく動く何人ものスタッフを想像するとき、俺は人の力に感動せずに、アリやらハチやらを思い浮かべる。
「おはようございます」
「住吉さん、おはよう!」
ロッカールームに入って、今日三十一回目の挨拶に振り返って笑ったのは、俺の育成担当の先輩社員だ。俺は施設最上階のレストラン街の管理担当に配属されている。
「どうしたの。元気ないじゃん。あんまり休めなかった?」
「いや、そういうわけでは」
どういう返答だよ、と自分で思うが、ここでの自分の返答に意味があろうとなかろうと変わらないこともよく知っている。
「そうなの? まあでも、お客様の前に出るときは笑顔で、元気よくね! わたしたちは裏方だけど、お客様には気持ちよくお食事してほしいでしょう。連休中でお客様いっぱい来るけど、頑張ろうね」
「頑張ります」
元気がないのも、声が小さいのも、笑うのが下手なのも、休日に体を休められないのも、先輩が俺に掛ける言葉も、四月一日にここへ来た時から、何一つ変わっていない。
大学三年生の時に考えたのは、今後の人生のことでも、四十年続けなければならない仕事のことでもなく、いかに早く就職活動を終わらせ、卒論に注力する時間を作るかということだった。俺は他の学生に比べれば割と真面目に勉学に励んでいた人間だと思う。日本文学科に入って古代和歌文学を専攻し、その魅力にきちんと向き合って堪能した。調べたいことも考えたいこともたくさんあった。しかし一度も日本文学を仕事にしようとは思わなかった。どうやって食べていけばいいのか分からなかったのである。院に進学する金もなかった。ある種の現実逃避だったのかもしれないが、俺はまるで人生が大学卒業とともに終わるかのように、おざなりな就職活動をした。
就職活動を終えてから大学卒業までの時間はとても楽しいものだったけれど、俺の人生は三月三十一日を終えてもなお続き、当然のように四十年以上にわたる労働生活が幕を開けた。全部知っていたことだった。しかし知っているからといってその知識をもとに最善の選択ができるわけではない。
自分の根城すら職場のおまけのようだった。職場は家から近い方が良い。通勤が楽だから。当たり前の話だ。何時間もかけて満員電車に揺られることの方がずっとつらい。それでも、なんだか自分の軸が職場の店舗のある方角に傾いているような気がするし、配属初日に職場施設を案内されて、自分の働く場所である最上階の窓から自分のアパートが見えることに気付いた時の、ぞっとする気持ちを、いまだに体から落としきることができないでいる。
俺は幽霊のように新生活を送っているのだ。
仕事を終えてアパートに戻る。先輩は今日も最後まで笑顔を絶やさなかったし、俺はいつも通りに覇気なく過ごした。あまり思い出したくないミスもあって、気分が悪い。とはいえ仕事終わりに気分が良かったことなんてこれまで一度もないけれど。
アパートの敷地に入ると、嫌でもユリの鉢植えが目に入る。出勤前に見るのも、帰宅の際に見るのも、どちらもいたたまれない。もの悲しい気持ちになる。
俺の実家では文鳥を飼っている。全身真っ白な羽の文鳥だ。名前をシュイという。弟が付けた名前だ。俺の「白いからシロで良いんじゃないの」という意見はセンスがないと却下されて、くちばしが朱色だからという理由でシュイになった。
そもそも弟は生き物好きで、金魚やエビやザリガニ、カエル、カブトムシにクワガタと、様々なものをよく飼育した。それらはすべて二三年のうちに死んだけれど、俺にとってはすべてガラスケースの中での出来事だった。
とうとう家にペットが何もいなくなったとき、弟は鳥を飼いたいと言った。俺は反対したが、その一週間後には家に文鳥が居た。鳥かごの中に入れておいてくれという俺の願いは当然のごとく聞き入れられず、弟はしょっちゅう放鳥をした。
「兄さんもおいで。触ってごらん。かわいいよ」
今思えば無視しておくべきだった。うっかり俺は触ってしまって、その時からシュイは家族の一員になった。鳥かごの中におさまりきらない存在感を放つようになった。シュイがリビングで楽しそうに飛び回る姿も、鳥かごの中でブランコに揺れている姿も、実家では見慣れた光景だ。
シュイが実家に来てから六年になる。文鳥の寿命は八年だ。次の部署異動は五年後で、つまり俺は今の店舗にあと五年勤める。アパートは引っ越さないだろう。
ユリの花はシュイによく似ていた。ユリの花が視界に入ると一瞬身構える。そうしてシュイの表情やしぐさを一気に思い出す。忙しい時や気の向かないとき、シュイが鳴きたてるのを放っておいたことも思い出す。白色の思考が頭を占拠して、そのまま心をかき乱すだけ乱して、焦燥感を生んでいく。
単純で簡単な計算だ。きっと三年分の夏の間、俺は毎日死んだペットのことを考えなければならない。
ユリの芳香はむせ返るようだった。土や血や肉の匂いだ。暑い夜、窓を開けるとユリの匂いがする。シュイと対面しているときのことを考えられるのは数秒で、すぐに卒論中のパソコンの画面とシュイの鳴き声の記憶に頭が持っていかれる。鳴きたてても無視をした。シュイがうるさく鳴くのはよくあることだ。シュイを構うことより、卒論執筆の方がよほど重要な作業だった。そうして今度は職場のキッチンを思い出す。まだ食べられる食べ物をごみ箱に捨てるときの罪悪感。皿の上に載っている食べ物を残飯にするとき、いつも、もし将来俺が飢えることがあったらこの光景を思い出すだろう、と確信に近い強さで考える。ふんだんにあると思っていたものを無駄にしている。
思考はどんどん流れて、口ごもる自分や、客の不機嫌な顔、先輩の笑顔を順々に頭に浮かべていく。胸が詰まって、朦朧として、意識が途絶えて、一瞬後に目覚ましが鳴る。朝が来る。支度をして、なんとか気持ちを奮ってドアを開ける。ユリの花が揺れている。幽霊のように過ごすうちに、残りの命はどんどん減っていく。
ある日の仕事終わり、俺は忘れ物をしたことに気付いて帰路の途中で踵を返した。明日は休日だというのに、イヤホンを忘れてしまっては音楽が聴けない。職場に舞い戻って、無事にロッカールームでイヤホンを見つけ、再び帰途につこうとしたとき、職員通用口わきの喫煙スペースに、先輩の姿を見つけた。
挨拶をしたほうがいいかな、と考えて、向こうが気付いていないならそのまま帰ろうと、先輩の様子をうかがった時だった。
「住吉さんはどうなんだろう」
自分の名前が聞こえてきて、少し身が縮こまった。先輩の声はいつもより低かった。先輩の対面に居るらしき人が笑う。
「普通にやる気ないんじゃないの」
「やる気ないってどういうこと」
「そもそも接客が苦手なんじゃない」
「本社の総務希望だったってこと? でもインターンでも説明会でも入社から五年は店舗配属だって説明しない? そもそもうちの業態志望して入ってきて接客苦手なんてことある?」
「あるよ。あんまり考えて入ってきてないんでしょ。そういう子多いよ最近。人事はそこ見極めろよって感じだけど」
「……そもそも接客が苦手っていうのがなんか、納得いかない」
「接客苦手な子はそりゃいるよ。うちに居るのは変だけど」
「おしゃべりなお客さんの話を切り上げられないとか、売り込みが上手く出来ないとか、そういうのならわかるよ。敬語とか的を射た商品説明とかシステムの使い方とかも、まあやっていくうちに覚えるでいいよ。でも挨拶とか笑顔とかそもそも丁寧に接客しようっていう気持ちはさ、持ってて当たり前じゃないかな」
「まあね」
「そこができないっていうのはさあ、根本的におかしくない? 人間関係の基本のところじゃん。なんか、わたし、お客さん以外の人に住吉さんが友好的に接してるところも上手く想像できないわ」
「めちゃくちゃ言うね」
「いやまあ面接とかだったら上手く出来るんだろうけど。入社してきてるもんね。なんかな。一日八時間くらい、出来るんだったらやればいいのに」
先輩は煙草を灰皿に押し付けた。先輩の対面に居た人が、大きく伸びをする。話が終わったんだ、急いでこの場を立ち去らなきゃ、と思って体を動かす前に、先輩がこちらに目を向けた。
「あ」
「……お疲れ様です」
「住吉さん、話聞いてた?」
先輩は俺をまっすぐに見た。先輩の隣で、先輩の話し相手は気まずそうな顔をしている。
「あの」
「うん」
「先輩の言うこと、正しいと思います」
先輩は、ぱっと目を見開いて、数秒静止した後に、目を伏せて、ぎゅっと眉根を寄せた。「どういう答えなの、それは」と、先輩は小さくつぶやいた。どう返せば良いのか分からなかった。
気詰まりな沈黙があり、しばらくしてから、先輩の隣に居る人がふと慌てたように場をとりなした。もう今就業時間外だしさ、難しい話はまた後日にしよう。先輩は俯いていた。俺は二人に会釈をして、店舗を出て、まっすぐ道を歩いてから、曲がり角を曲がった瞬間に、思いっきり走った。何人かの通行人が通りすがりに俺を見たけれど、先輩の視線に比べれば少しも怖くなかった。
アパートに着いて、地面に白く滑らかな何かが横たわっているのを見つけ、心臓が止まるような思いをした数秒後、それが落ちたユリの花だと気づいた。植木鉢を蹴ってやりたいような気持ちになった。今更脇腹が痛くなる。
昔から他人の感情をくみ取るのが苦手だった。現代文のテストを難しいという同級生が、なんなく他人とのコミュニケーションをこなしているのを不思議に思っていた。文章に込められた感情を読み取ることより、人の声や表情、しぐさ、文字の癖、そういった細かなものごとから感情を読み取ることの方がよほど高等技術だと思う。文章がたとえ千年前のものだったとしても同じだ。俺にとっては、目の前に生きている人間の表情よりも、古文で書かれた文章の方がずっと分かりやすい。自分の部屋の布団に寝転びながら本を読んで、その文章から立ち上る渦巻くような感情に巻き込まれて心を揺らした数時間後に、余計な発言で母親の機嫌を損ねた結果、ぎすぎすした雰囲気に覆われた食卓で朝食をとる、なんてことはよくあった。先輩の言うように、人間関係の基本のところが俺には上手くこなせない。じゃあどうしたらいいんだろう、と考えて、おそらく世の人間は就職するまでにそのあたりの努力を終えているのだろうと気づいて愕然とした。
暑い夜だったけれど窓を開けずに寝た。シュイにまつわる後悔も就職の失敗も、すべて自分の生き方に問題があるのだと気づいてしまうような気がした。ユリの匂いが怖かった。
翌朝、起きてすぐに、今日は図書館へ行こうと思い立った。何か仕事とはまったく別のことを考えよう。久しぶりに和歌でも読んだら楽しいかもしれない。シーツを洗ってシャワーを浴びて、軽く身支度してから近所の図書館へと向かう。図書館へ行くためには徒歩十分ほどを要する。通勤時間よりも長く歩いたからか、思ったよりも汗をかいた。嫌な気分だった。ここ最近、気温はずっと高いままだ。もう夏のようである。
図書館の自動扉が開いて、冷気が溢れる。汗が引いて気持ちが良かった。この図書館に来るのはまだ二度目だ。一度目に来た時も、せいぜい利用者カードを作るくらいだったから、じっくり中を見たわけではない。
ゆっくり全体を見て回る。実家の近所にあった図書館よりも学術書の蔵書が多い。そういえばこの近くには大学もあるのだった。児童書コーナーはうちの近所の方が充実していたな、と考えながら、日本文学のコーナーへと足を進めた。
和歌の書棚にたどり着いて、端から端までタイトルを眺める。何を読もう。そういえば大学に居るときは、結局定家も新古今和歌集にもいまいちきちんと触れられなかったな、と思い至って、本棚をぐるりと回りこんだ。藤原定家。は行の本棚を探す。「ふ」のプレートはどこだろう。
あかさたな、と来て、は行の棚のところへ行くと、丁度目当てのところに、男が一人立っていた。何やらスマホをちらちらと見ながら、じっと本の並びに目を走らせている。体格のいい男で、正直言って少し邪魔だった。男はえらく真剣に本を探している。数秒待ってみても、男は目的の本を見つける様子もなく、「どいてほしい」という俺の視線に気づく様子もなかったので、あきらめて先に勅撰集のコーナーに行くことにした。
八代集の区分で無事に新古今和歌集研究の本を見つけ、再びは行の本棚に戻ると、男はまだそこに居た。今度は屈んで本棚の下の方を見ている。探し物が見つからないなら司書に聞いてみればいいのに、こんなに立派ななりをして人にものを訪ねるのが苦手なんだろうか、と考えて、また数秒待ってみても、男はこちらに気付く様子はない。いい加減に待っていられないと咳払いの準備をした時、ふと、男の持つスマホの画面が見えてしまった。
画面に映っていたのは、書影でも、ウェブ記事やメモアプリの活字でもなく、本の背表紙だった。本棚に並んでいるところをとったのだろうか。左右に別の本が見切れている。そして画面の中心、本の背表紙にははっきりと「凡河内躬恒全集」と書かれている。
凡河内躬恒。
「あの」
つい声をかけてしまった。男は俺の存在に今初めて気づいたのだろう。びくりと体を動かして、思い切り驚いた表情をした。
「あ、えっと、すいません! 邪魔ですよね」
「あ……いや邪魔なのもあるんですけど、あの、ごめんなさい、ちょっと今スマホの画面見えちゃって」
「あ、はい」
男ははっとした顔で、スマホの画面を床に向けた。そりゃそうだ。他人にスマホの画面を見られていて、あまつさえその内容について話しかけられたら気持ち悪いに決まっている。男の反応で、話しかけたことを一気に後悔した。しかしここで慌てて立ち去っては本物の不審者になってしまう。
「それ、おおしこうちのみつねと読みます。最初の字、ハンでもボンでもないんです」
男はぽかんとした顔をする。途端に、今自分のやっていることがひどく不自然で奇怪な行動であるという意識が全身に広がった。思わず顔が赤くなる。
「あの……だから、今、あなたのスマホに映ってた字は、おおしこうちのみつねと読むので、いまここの本棚、は行なので、多分ここ探してても見つからないと思います」
卒論発表のときよりも、最終面接のときよりも、初めて一人で接客したときよりも、ずっと内臓が痛かった。教授や面接官や客の顔なんかより、今目の前の男の表情の変化のほうが重大事だ。初めて会った通りすがりの人間に対して行った親切が、気持ち悪いと思われてしまったら、いよいよ自分はおかしな人間の烙印を押されてしまう、というわけの分からない絶望感が存在していて、その絶望感を、やってることは単純に不審者の行動だろう、という冷静な思考がどんどん頭の片隅へと追い込んでいく。
固唾を飲んで見守っていると、男はおもむろにスマホの画面を見た。目が上から下に、スマホの画面をなぞるように動いた。あ、と男の口が開く。
「なるほど」
「あ、わかっていただけましたか」
安心した声を露骨に出してしまった。
「ええ、分かりました。なるほど、そう読むんですね。よく考えたら「おおよそ」とも読みますもんね、この字」
男がこちらを向いて笑った。全身の力が抜ける。
「わざわざご親切に教えてくださってありがとうございます」
「いえ……スマホ見ちゃってすみません」
「ああ、全然。僕も全く周りに気をつけてなかったし。というか邪魔でしたよね多分。ごめんなさい」
「いえいえ、ほんと、大丈夫です」
息をつく。しなくてもいい気苦労をしてしまった。自分が馬鹿みたいだった。
「多分これ常識的なやつですよね。いま名前の読みを伺ったら、なんとなく古文でやったような気がしてきました。お恥ずかしい限りです」
「いや、そんなことないですよ。ほんと、全然。古文好きな人じゃなかったら、忘れてても仕方ないです」
「そうなんですかね。だったら少し安心します」
男が立ち上がる。目の前に立たれると、初めの印象よりも背が高く感じた。
「えっと、ということは、おおしこうちだから、あ行のところへ行けばいいんですよね」
「そうです。「お」の区分のところにあると思います」
「いや、なかなか、こういうところにもあまり来ないもので。不慣れですみません」
「ああ、そうなんですか。あのカウンターのところにいる司書さんに聞くと、いろいろ教えてもらえますよ」
「貸出業務だけじゃないんですね。今度分からないことがあったら聞いてみます。……いや、でもこれはさすがに、自分で調べればよかったな。読みを間違うなんて」
そう言ってから男は、少しスマホを見て、若干のためらいを見せてから、思い切ったように画面に触った。不思議と、男の指の行き先には目が引き寄せられる。男は数秒スマホを操作した後、ゆっくり俺の方に画面を向けた。画面には、どこかの家の本棚の一部が映っている。その一角を指さして、男は俺に目を向けた。
「一応確認なんですけど、これの読みは「いずみ」で合ってますか?」
指の先には『和泉式部日記』があった。俺は慌ててうなずいた。
その後、なぜかずるずると男の探し物に付き合ってしまい、男が貸し出し手続きを終えて一緒に図書館を出るところで、やっと定家の本を探し忘れていたことを思い出した。しかし、図書館の冷気から陽気の中に踏み込んでもなお、俺は男の隣を歩いている。定家の本を探しに戻るとも言えない。なぜなら男がいまだに俺に質問を投げかけてくるからだ。
「さっき、古文好きな人じゃなかったら忘れてるって仰ってましたけど、ということは、住吉さんは古文お好きなんですよね」
先ほどうっかり名前も教えてしまっている。
「ええ、大学の時、一応日本文学科で」
「どこの大学なんですか?」
「千葉の方です」
「へえ。出身こちらじゃないんですか」
「東京へは就職を期に越してきました」
この状況は何だろう。不気味なのが、俺の情報がどんどん男に握られていくことに対し、俺はこの男の情報を少しも知らないということだ。俺もこの男のように質問をすればいいのだろうか。別に知りたいわけでもないのに? じゃあ、どうしてそもそも俺はこうやって男の隣を歩いているんだろう。俺を知られたいわけじゃない。男のことを知りたいわけでもない。なら話を切って別れればいいじゃないか。
ここまで考えて、ようやく俺は足を止めた。昨日の出来事のショックと、試みたお節介と、その緊張、そしてそれからの解放、また初夏の暑さで、なんだか冷静じゃなくなっている。いつもの俺なら、他人に話しかけたりせずに、無事に目当ての本を手に入れて、今頃自宅で本を読みふけっているはずだ。こんなふうに、他人にお節介をしたり、あげくその他人に名前まで教えるようなことは絶対にしていない。
二三歩先を行っていた男が、俺が足を止めたのに気づいて振り返る。俺の方を見るその顔に向かって声を投げた。
「あの」
「はい」
「あなた誰なんですか。あといま、この状況って何なんですか」
男は笑った。
「そういえば言ってませんでしたね。僕は河野道人といいます。そして今の状況は、本探しのお礼に、住吉さんにお茶でも出そうと僕が思ったので、二人で僕の家に向かっているところです」
男はそのまま前に向き直って歩き出した。変な男だと思った。数秒後に、男に追いつこうと足を踏み出した俺も大概だろうけど。夏の暑さのせいということにしてほしい。
たどり着いたのは俺の住むアパート部屋なんかより数段上等そうなマンションだった。エントランスは清潔で、あしらわれた植物や土がどうやら偽物だったのも良かった。エレベーターに乗って河野の部屋に向かう。冷静に考えるとひどく不思議なことをしている。不安な気持ちの中、よすがになりそうなのは自分の抱えた新古今和歌集研究の本一冊と、男の持つかばんに入った数冊の本だけというのも落ち着かない。河野にしろ、このマンションにしろ、知らないことばかりで、唯一和歌文学だけが今までの俺と今の俺をつなぐ接点だ。
エレベーターが止まって、河野が目線をこちらにやった。先に降りて、廊下の真ん中で立ち往生していると、後ろから「左です。506号室」と声がかかる。ますます落ち着かない気分だ。
部屋の前に着いた。河野が鍵を開けて、ドアを開いた。
玄関がある。そこから廊下が伸びている。廊下の左右には一つずつ扉があった。廊下の果ての扉は開け放たれていて、リビングだろう部屋の中が丸見えだ。
本棚はその部屋にあった。玄関のドアを開けて、視線を先にやれば、その真正面に本棚が見えるのだ。
「どうぞ。あがってください」
男は几帳面にスリッパを寄こした。突っかけて、そのまま廊下を歩いていく。目線の先に、ずっと本棚がある。リビングに入って、よそ見せずに歩き、本棚の前に立った。中古の私家集が十何冊かある。八代集もある。日記文学についても、平安時代のものはしっかりある。源氏物語は新大系で揃えられていた。日本国語大辞典が全巻あるのには驚いた。角川古語大辞典は流石に無いようで安心する。というか、この本棚は一体誰のものなんだろう。凡河内躬恒が読めない男のものではないことは確かだ。これだけ買うのには結構な金がかかる。
振り向いて河野を見る。河野は俺越しにぼんやり本棚を眺めてから、ゆっくりと話し始めた。
「恋人の本棚です。僕にはさっぱり分からなかったけれど、恋人にとってはずいぶん大事な趣味だったようで、よくここにある本を読んでいました。付き合いはじめはよく好きな歌を聞かせてくれたりしたんですが、なにぶん僕は知識がないもので、あまり良い反応が返せなかったんでしょう。しばらくしたら僕にそういった話はしなくなりました。僕も僕で趣味はあったし、お互い干渉はしないということで、上手く行っていたと思います。変化があったのは三年前で、ある日、彼女はうちに帰ってこなくなりました。そこで初めて、僕は彼女について何も知らなかったことに気付いたんです。働いている場所も知らなかったし、友人の名前も知らなかった。実家の住所や電話番号さえ。僕が彼女について知っていることは、僕と対面したときの彼女の全てと、彼女が僕の知らない趣味を持っているということだけでした。しかしそれも今になっては全く意味のない情報です。僕の前に彼女はいないし、彼女が愛して形に残した趣味も、しょせん去る住処に捨てていけるものでしかない。そうなると、どうしていいか分からない。ちょうど入社三年目くらいで、やっと仕事が面白くなってきた頃でした。幸い忙しい部署だったので、仕事のことを考えれば、彼女のことは忘れていられました。ところが今年の四月に辞令が出まして、まあ今までの部署よりはだいぶ楽なところに配属になりました。なんと定時に帰れます。そうなると、もう、いよいよ本当に、どうしていいか分からなくて。とりあえず、彼女の残していったものを、見ていこうかなと思ったんです。ただ僕がこの分野にまったく詳しくなくて、どうやら取り組みが難航しそうなことは、今日の僕を見ていた住吉さんにはお分かりかと思いますが」
河野は言い終えて、少し長く話し過ぎました、と言って笑った。よく笑う男だ。
毎日毎日、帰宅のたび、玄関のドアを開けるたび、リビングのドアを開けるたび、もう帰ってこないだろう女の残した本棚が目に入るのは、そうしてそれを、三年も続けて居られたのは、いったいどういう心境だろう。
「本棚、蹴っ飛ばしたくなったりしませんか」
河野がきょとんとした顔をする。
「住吉さんは結構突拍子もないですね。蹴っ飛ばしたくなったことはないなあ」
「前の部署の仕事、面白かったですか」
「ええ、とても。といっても、最初のうちは嫌なことも多かったけどね」
「あの」
言葉を発して呼びかけた。河野が反応して、次に続く俺の言葉を待つ。何だ。俺は何を言おうと思ったんだろう。脳みそが動く。シュイ、ユリ、植木鉢、鳴き声、パソコン、先輩、窓から見えるアパート、残飯、笑顔、笑顔。突然、一年前に参加した、会社の説明会に意識が飛んだ。人事部係長の胡散臭い笑み。
『弊社は社員の成長にも力を入れています。そしてそれは社内にとどまりません。制度を利用することで、それほどお金をかけずに資格を取ることができます。また残業が少ないこともあって、ボランティアや副業に精を出す社員も多いです。社員が社外で活動し、総合的な成長をしていくよう取り計らうのも弊社の取り組みの一つです』
「あの、俺、雇いませんか。家庭教師として」
河野が面食らった顔をする。胃が緊張した。ただ今度は、さっきみたいに顔が熱くはならない。良い提案だという気がしていた。全身何処を探っても、提案の良し悪しに頓着する思考は存在しなかった。良い提案だ。俺にとっても河野にとっても。
「古文のこととか、和歌のこととか、俺のわかる範囲なら全部教えます。雇うとか言っても、あの、方便なんで、金が欲しいわけじゃなくて、ただなんか最近、副業とかはやりみたいで、なんだろう、今、俺自分でも何言ってるか分からないんですけど、とにかく、あの、河野さんのその作業、俺手伝います」
シュイが俺の手のひらの中で丸くなって目を細める光景が、頭の中にぱっとよみがえった。そこからまたすぐに、記憶はパソコンの画面を呼び起こす。シュイの鳴き声。先輩の笑顔。食べ物が残飯に紛れる瞬間。
彼女がいなくなって、ひとりぼっちの部屋の中で、彼女が自分に語り掛ける声を思い出したとき、そうして、その声が教えてくれた歌を一文字も思い出せなかったとき、河野はどうしたんだろう。これからどうするんだろう。教えてほしい。知りたい。
「良い提案だと思うんだ。あなたにとっても、俺にとっても」
河野が、また俺越しに本棚を見た。そうして、俺の持つ本と、自分の足元にあるかばんを、ゆっくりと視界にいれた。
「いいですね」
河野が笑う。
「しかし本当に、住吉さんは突拍子もないですね」
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