十一月の就寝





 冴えた夜である。空気は触れるものすべてを凛と硬直させるのに忙しい。三十六度の皮膚はその働きかけに抗って、次第に赤くかさついていく。はあ、と吐いた息は美しく白んですぐに消えた。
 容赦ない冷気の刺激は脳に及ぶ。活気づいた脳細胞は心内の憂いをとらえて思考をどんどん深めていき、早く帰ろうとよどみない足の動きと同じくらいの熱心さで、不安を増大させていく。暗い色を分け入って進みながら、どんどん胸のあたりが重くなるのを感じていた。どうにもならない、と頭の片隅から弱音が飛び出す。どうしようもない、何を考えたってどうにもならない。頭からどんどん下へ、暗い思考が巡っていく。
 「杏と別れた」という萩野の言葉が耳について離れない。つい先ほど、萩野と一緒に受講している講義の終わり、帰り支度をしている途中で、萩野から発されたその言葉に、わたしはひどく動揺している。動揺し過ぎて、萩野に碌に質問も出来なかった。別れた理由や時期など、肝心なことも何一つとして聞いていない。
 わたしが二人を初めて知ったとき、二人はすでに恋人どうしだった。二人は信頼し合っていたし、わたしは二人の仲がこれからも続くことを露ほども疑っていなかった。
 吹き付ける冷気と、胸にこみ上げる嫌な気持ちと、ずっとざわめいている脳みそ。すべての動きが連動して、相乗効果で高まっていくような意識に覆われる。振り払うみたいにして足をはやめた。はやくはやくはやく。少しでも気を緩めると、とてつもない不安に襲われる。なんだかやけに落ち着かない気分だった。
 ずるずる落ちてくるマフラーを巻きなおし、コートの襟をかき合わせる。ヒールを履いたことを後悔した。今日みたいな夜は、さっさと走って帰るに限るのに。
 後ろに何かどんよりした気配があって、それにつかまってしまったら最後一生幸せな気持ちになれないような、そういう憂鬱の予感がする。「杏と別れた」という言葉がもう一度頭の中で再生された。その言葉が意味するのは今までとは違う明日だ。
 固まった皮膚がぼろぼろ崩れていくような、自分の形がどんどん削られていくような、焦燥感がある。当たり前だと思っていたことが急に消えてなくなると、物事全てがねじ曲がってしまうような気がして怖いのだ。身体の中心、自分というものの奥の奥にある何かが引っ張り出されるような、逆に何かが自分の根幹に押し入ってくるような、上手く言い表せない気持ち悪さ。過去、必死になって忘れたことを、再び呼び起こしてしまうのではないかと不安になる。

 杏と萩野は、大学の友人である。大学の中では最もよく話し、食事し、笑い合う相手だ。卒業してからももちろん付き合いは続くだろう。二年ほど大学に居れば、他に友人も多くできるけれど、よく行動を共にする近しい人、と問われて思い浮かぶのはまずこの二人で、多分親友と言い表すのが正解だと思う。他にも好きな友達はいくらでもいる。しかし、親友だ、と言うことに少しの躊躇もしなくていいのはこの二人くらいだ。それくらいには信頼しているし、信頼されていると実感している。わたしは二人とよい関係を築けているし、きっとお互い良い出会いをしたと思っている。とても心地よく、刺激的で、特別な友達だ。そして、わたしは二人のことが本当に好きで、だから何か辛いことが二人の身に起こったときは、親友として最大限二人の力になってあげたいと思ってやってきた。出会った当初からずっと。
 入学前ガイダンスに出席するわたしはひとりぼっちで、大きな教室には予想よりもざわめきが溢れていた。教室の後方、一番高いところに立って、既に親し気に話している人たちに脳内で斜線を付けて、その多さに打ちのめされた。学科ごとに分けられたブロックの中で、なんとか自分の座る席を見繕って、机と机の間を下った。一段の幅の広い階段は歩きにくくて、下を向いて下って行ったから、そのとき履いていた靴を今でも覚えている。結局、一人で座っている茶髪の女の子の二席隣、端っこの席に座った。何しろわたしは不安で、今日のうちに友達を見つけてしまいたいという一心だった。既に出来上がっているグループに入るのは気まずいから、一人で座っている人、それであんまり怖そうじゃない人、今後のいろいろも含めてできれば女の子、そう思って、高い場所からふと目に入った女の子は、まとめられた髪の茶色が深くきれいで、本に目を落とすその、曲げられた首の角度が格好良かった。二席隣に、何気ない風で腰掛けて初めて、本を読んでいる相手に話しかけるのは中々気が引けるものだな、と間抜けにも思い至った。
 話しかけるタイミングがつかめないまま時間は経って、席はどんどん埋まっていった。ガイダンスが始まる五分前、深い青のコートを着た人がわたしの傍で立ち止まり、わたしを越えて、二席隣の女の子を見た。「杏」と優しい声で呼びかけ、女の子が嬉しそうに、呼びかけた青いコートの人を見たので、失敗した、と強く思った。げんなりした気持ちで席を立って青いコートの人を通し、再び腰掛けてから、流石に二人連れに声をかけるのも気まずい、女の子が一人の時点でさっさと話しかけておけばよかった、と後悔した。ガイダンスが始まっても、学部長の挨拶があまり耳に入ってこなかった。
 ガイダンスが終わって、重い気持ちで荷物をまとめて立ち上がったとき、隣から「あの」と声をかけられた。青いコートの人に顔を向けると、「さっきは席通してくれてありがとうございました。あんな直前に来て、もう荷物も広げてらしたのに」とお礼を言われて、ぱっと重い気持ちは消えてしまった。その人が萩野だった。そこから三人で自己紹介し合って、連絡先を交換して、三人で学校を出て、別れるころには、友達欲しさにしていた行動についての打ち明け話を済ませていた。胸を弾ませて一人の家に帰りながら、この二人とは絶対に仲良くなれると思ったし、事実きちんと仲良くなれたのだ。
 最初から二人は恋人どうしだった。わたしは、萩野を欠いた杏と話したことがないし、杏を欠いた萩野と笑ったことがない。二人のそれぞれの魅力の、どれがお互いを欠いても成り立つものであるのかを知らない。もちろん、わたしと杏、わたしと萩野の二人きりで話すことはたくさんあった。わたしは萩野も杏も一個人として扱うし、関係もきちんと個別にある。ただ、わたしは萩野を愛している杏しか知らないし、それは萩野についても同様だ。萩野を考えるときに、彼を構成する一部分として、「杏の恋人」というパーツは当たり前にあった。
 それが崩れてしまったときに、どうなるのかが分からない。何も変わらない、という可能性はとても低い。だって二人は、お互いを欠いて何も変わらないほど浅い関係ではなかった。少なくともわたしにはそう見えた。
 建物の間からアパートがのぞいて見えて、足をはやめた。靴が悲鳴を上げている。ホラー映画を見た後みたいに、後ろに何かが居るような不安に取りつかれている。その後ろにいるものの正体を探るのも嫌だった。探ろうと振り向いた瞬間、それに取り込まれるような気がする。変に焦燥感のある動揺から抜け出せない。本当に馬鹿みたいだ。友人どうしが別れただけで、何をこんなに恐れているのか、自分でも分からない。本当に馬鹿みたい。
 だから早く自分を笑ってしまいたかった。安心できる場所で、なんであんなに不安になってたんだろう、馬鹿だな、と笑いたい。今この状況では笑えない。その理由もわからない。ただ、家に帰れば、このとりとめもない不安から抜け出せる。もっと冷静に悩むことができる。
 アパートの庭に着いて、もうほとんど駆け足になる。いつもは立てない音をカンカン立てて階段を上がって、廊下にたどり着き、鞄の中から鍵を取り出して差し込んだ。回して抜き取ってドアノブを捻る。
「ただいま」
「お帰りなさい。階段すごい音してたんで、帰ってきたの分かりやすかったんですけど、どうしたんですか。変質者にでも遭いました?」
「ううん。大丈夫。全然大丈夫なの、ほんと」
 後ろ手にドアを閉じる。敵から逃げおおせたかのような達成感があって、背中に感じるドアが頼もしかった。息をついて、どれだけ怯えてたんだ、とおかしくなる。おかしく思えたことがうれしかった。桐ちゃんが居間の戸口に来て、訝し気にわたしを見ている。たぶんわたしを心配してくれている。急いで靴を脱いで廊下を歩く。
「ただいま」
「お帰りなさい。二回目ですよ」
「うん。なんかほっとして」
 居間の空気は暖かくて、指の先からどんどん解凍されていく。ストーブの電源ボタンが赤く光っていた。台所からは良い匂いが漂ってきて、耳を澄ませるとぐつぐつと鍋が煮える音が聞こえる。窓は結露でびっしり白く、あまりに正しい形の安寧に気が緩んだ。
「ぼうっとしてますけど、本当に大丈夫ですか。早くコート脱いで手を洗ってきてください。もうご飯にしますよ」
「ああうん、ごめんね。外寒かったからさ、ちょっと暖かさを感じたくて。手洗ってくる」
 洗面所に行って手を洗う。廊下を戻りコートを脱ぎながら桐ちゃんに今日の夕飯を聞いた。「鍋ですよ」という返答にうれしくなる。
 台所との仕切り戸は開け放されていて、食卓に着くと、鍋掴みを手にはめた桐ちゃんがコンロから鍋を持ち上げるところが見えた。「木綿子さん、鍋敷き」と声が飛んできて、慌てて鍋敷きを机の中央に寄せる。どん、と置かれた鍋は桐ちゃんの細い腕に不似合いに大きく、重そうだった。よく見ても覚えのない鍋だ。
「こんな鍋うちにあったっけ」
「先週近所で焼き物市やってて、買ったんですよ。二千円」
「へー。安いんだよねたぶん」
「安いですよ。二人用にしてはちょっと大きいかなとも思ったんですけど、まあ横着できそうなので」
 「横着?」と問い返すと、「明日の朝もこのまま鍋でそのまま夜は雑炊です。明日は楽をします」と言って桐ちゃんは笑う。しかし、昼食の弁当作りのために明日も桐ちゃんは台所に立つだろうし、というか雑炊だって勝手に出来上がるものではないし、ずいぶん可愛い横着というか、横着ですらないような気もする。もっと手を抜いてくれてもいいのに、と思って、鍋一つくらい早く買えばよかったと不憫になった。
「明日のお弁当も鍋の具でいいからね」
「お弁当の蓋開けたら鍋の具が入ってるの、私が嫌です。なんか汁染みそうだし」
 そう言いながら、桐ちゃんが鍋の蓋を開ける。湧き上がる白い湯気が消えると、一面にニラのきれいな緑があらわれた。思わず感激する。
「すごい、美味しそう!」
「こっち側にタラ、隣がかき、こっちに鶏肉豚肉あります」
「豪華!」
「今日四限が休講で、三限も元々ないんで時間があったんですよ。隣町まで行ってきました。やっぱり向こうの方が質もいいし安いですね」
 はい、とお玉を渡されて、喜び勇んでタラをすくう。鍋の中にはほかにも白菜や大根や豆腐や白滝やしめじが盛りだくさんで、本当に豪華だった。ありがとう、と言ってお玉を返すと、桐ちゃんはかきをすくいはじめる。
 いただきます、とタラを口に運ぶと本当においしくて、いい気分になった。
「木綿子さんタラ好きですね」
「うん。鍋の具だったら一番好きかも。実家の鍋じゃ出ないから余計うれしいわ」
「そうなんですか」
「梓がタラ嫌いなの。それで、タラって身が緩いじゃない、煮られるうちに崩れてくるでしょ。梓がタラのかけらがちょっとでも取り皿に入ると嫌な顔して、そうするとお母さんがいらいらするから自ずと出なくなった」
 自分の取り皿から五ミリ程度のタラのかけらを探し出して取り除く梓と、それに「そんな小さいのくらい食べちゃいなさい」といらいらする母親、という一場面は幼少時の記憶である。今だったら梓もそこまで神経質にはならないと思うが、梓の成長を待つことなくタラは鍋から消えた。こんなにおいしいのに梓の好みもよくわからない、と思っていると、桐ちゃんが「そういえばあいつは意外とそういうナイーブなところがありましたね」としみじみ言ってのける。年末年始の実家で二人がどんなやりとりをするのか今から楽しみだ。昔から、桐ちゃんも梓もお互いに対して割と辛辣である。
 それは仲の良さの証のようで、そういえば桐ちゃんと二人で暮らし始めた序盤、わたしはひどくそれが羨ましかったのだ。いまでは、梓のこととわたしのことは桐ちゃんの中で別事だと分かっているので、そこまで羨むこともない。
 仲の良さ、ということを考えて、萩野と杏のことがよみがえる。二人もよく軽口をたたき合っていた。交わされるそれが冗談であることを三人ともが知っていた。胸がじくじく痛み出す。
 手が止まっていたのかもしれなかった。物思いからさめると、桐ちゃんがわたしを見ていたのが分かってどきりとする。
「ほんとにおいしいね。わたしもかき食べよう」
「木綿子さん、やっぱりなんかあったんじゃないですか」
 真摯に見つめられて、一瞬息が詰まる。
「今日帰ってきたときもおかしかったです。なんか隠してるんじゃないかと思うんですけど」
 合っていた目を思わず外してしまった。
 自分でも驚くくらい不安だった。自分でも笑えるくらい動揺していた。友人どうしの別れを知っただけで、とてつもない不安に襲われて、あまつさえその不安を上回る重篤なものをおそれている。自分でもわからないのだ。今も、杏と萩野のことを考えるとぞわぞわした気持ちになる。でもその原因も、どうして自分がこんなに不安であるのかも、わからない。だから、わたし自身にだってわからないようなことを相談されたって、桐ちゃんも困るだけだろう、と思ってしまう。
「何でもないよ。大丈夫。心配してくれてありがとう」
 桐ちゃんが苦々しい顔をした。
「全然何でもないように見えないんですよ。ずっと不安そうな顔つきで居られて、理由を聞いたらなんでもないって答えられて、そっちの方がよっぽど気を遣わせてますよ。気にされたくないんだったらもうちょっと上手くやったらどうですか」
 桐ちゃんが硬い声で言う。その淡々とした言葉を受け止めて、身体が強張った。
 事故で飲み込んだ氷に食道を下られる感覚に陥る。確かにその通りだ、桐ちゃんの言うことは正論だ、と頭の中で自分が言った。耳の先が熱くなる。
 さっきから全然いつも通りにいかなくて、ずっと心配されているのに、うまく隠すことも出来ない。そんな状態で「何でもない」と言ったって、かえってあからさまだ。桐ちゃんの言う通り、気にされたくないんだったらもっとうまくやるべきだったのに。いちいち情けなくてうなだれる。耳の熱さがみっともなくて、手を髪にやった。きっと今自分は嫌な顔をしているだろうと思う。目を伏せて、前に置かれた取り皿に焦点を合わせて、泣きそうな気持ちをやり過ごす。自己嫌悪だ。心配をかけたくないのに、心配させた上苛立たせるなんて、まったく本意じゃなかった。
 ごめんなさい、と言おうと口を開いた。瞬間、がた、と椅子の引く音がして、びっくりして顔をあげる。桐ちゃんが立ちあがって、わたしに向かって手を伸ばす。その手で口を塞がれた。
「きりちゃん、なに、」
「待ってください、謝らないで」
「え」
「ごめんなさい、違うんです」
 違うんです、という桐ちゃんはひどく狼狽した表情をしていて、わたしの脳は混乱する。
「……今言ったみたいなことが言いたいんじゃないんです。何か悩みがあるなら、教えてほしくて。すごく心配だから。隠そうとしないでほしいし、ちゃんと言ってほしいんです。不安そうな様子を見てると、心配になるけど、何にもなかったようにふるまわれて私が気付けない方が怖いから、もうちょっとうまくやったらなんて、全然思ってないです。気を遣ってほしくなくて、あの、心配だし、隠してほしくないし、そういうことで気を遣われたくないです。心配させて、ほしいです。……えっと、さっき、本当はそう言いたかったので、訂正です。ごめんなさい、酷いこと、言って」
 手が口から離れて行って、桐ちゃんは力が抜けたように椅子へと座り込む。反面拳はぎゅっと握りしめられていた。
 言われたことをせわしない脳みそで考えて、理解して、ひどく丁重で深い心配をされていたのだと分かる。分かって、張りつめた気分が急速に緩まっていった。顔を上げて、桐ちゃんをきちんと見て、笑う。
「ありがとう桐ちゃん」
 桐ちゃんの手の力が緩まるのが見えた。桐ちゃんがわたしに目を合わせる。
「あの、なんか私、気を遣われたくないですとか言っておいて、逆に気を遣わせたりしてないですか。本当に言いたくないこととか、私なんかには言っちゃだめなことだったりしたら、ごめんなさい」
「ううん。全然、そんなに重要じゃないの。重要じゃなくて、あまりにとりとめもなくて、馬鹿みたいな心配だから、言うのを躊躇しただけ」
「別に、客観的に見てそれほど重要じゃないことだって、木綿子さんが心配なら、木綿子さんにとっては重いことなんだし、だったら、それは解消した方が良いことです」
 考え考え語るように淀んだ言葉をくれる桐ちゃんに、波だった気持ちが凪いでいく。深呼吸をして、背筋を伸ばした。
「ありがとう。本当に。じゃあ心置きなく話しちゃおうかな」
 そう前置いて、杏と萩野という二人の友人がいること、その二人が付き合っていたこと、わたしにとってその二人が恋人どうしであるのは当たり前であったこと、今日萩野から杏と別れたことを告げられたこと、その報告について自分がやけにショックを受けていること、それらを気持ちの赴くままに語った。決して聞きやすくはない、要領を得ない話を、桐ちゃんは時に質問を交えながらうまく整理してくれた。
「なんかね、やたら不安なんだよね」
「そうですね……。えっと、木綿子さんって萩野さんと杏さんと、一対一でいるときと、三人一緒にいるときと、どっちの方が多いですか?」
「うーん。一年生の時はよく三人でいたけど、最近はとる講義とかも分かれてきたから、杏と二人、萩野と二人、って一対一のことの方が多いかも。三人一緒は週一くらい。」
「三人で会う機会は最近少なくて、一対一で話すことが多い」
 そう言って、桐ちゃんは少し考え込むような表情をする。
「お二人とも、別れる前はすごく仲が良かったんですよね」
「うん」
「別れたって報告は萩野さんからしか聞いてないんですよね」
「うん」
 桐ちゃんが自分の首に手を回す。桐ちゃんが物思いをする時のしぐさなので、少し身構える。わたしの方は自分の抱える不安をまだ持て余しているけれど、桐ちゃんはどうも、わたしの不安を解剖したうえで重くとらえているようだった。
「別れたって、それって円満に別れたんでしょうか」
「聞き忘れちゃったんだよね。別れたとしか聞いてない」
「萩野さんと杏さんって、抱え込みやすい方ですか」
「内心のことは流石に分からないけど、わたしが見る限りでは、さっさと発散してけりつけるのが得意かな、二人とも。人に相談するのもうまいし、わたしみたいにじめじめしてないよ」
 さきほどの一連のやりとりを思い出して、苦笑しながらそう言うと、桐ちゃんがさらに難しい顔をした。
「多分、多分ですけど、木綿子さんこれから二人の間でかなり難しい状況になるんじゃないですか?」
「え?」
「木綿子さんはお二人の共通の友人で、お二人ともと一対一で話す機会が多くて、お二人のどちらもを個別の人間としてよく知っていて、お二人ととても仲がいいでしょう。もし私にそういう友人がいて、恋人と納得いかない形で別れたりしたら、その友人に洗いざらい気持ちを話すし、愚痴るし、判定を求めます。『あなたから見て、私とあの人、どっちが悪いと思う?』」
 最後の、桐ちゃんらしからぬ芝居がかった台詞に、杏の声が重なって聞こえて、思わず息を呑む。
「かなり難しい立場だと思いますよ。多分、木綿子さんは内心それに気づいてて、それでも考えないようにしてたんじゃないですか」
 一瞬胸に鈍い痛みが走って、けれどすぐに消えてしまった。昔の記憶が脳の奥に閃いて、それをはっきり認識する前にどこかに失せる。短く息を吐いた。
「うん。多分それだと思う。こう、必死で記憶の奥底に押しとどめてるんだけど、あんまり思い出したくない友人関係の失敗って今まで結構あって、そうだな、杏や萩野とも失敗しちゃうんじゃないかと思って怖かったんだ」
 嫌だなあ、と本気で落ち込んで、思わず深いため息が出る。ふつふつと小学生の時や中学生の時の記憶が沸き上がり始めて、慌ててそれに蓋をした。
「あーあ。もしほんとうに、そういう立場に立たされたら、上手くできるかな。もう目に浮かぶもん。萩野の顔も杏の顔も。気が滅入ってくる」
「でもまだ分かりませんよ。円満に別れてる可能性もあるし」
「だといいんだけどなあ。……うん。お鍋食べよう。今日のところはあんまり考え込まないようにして。下手すると寝れなくなる」
「あ、待ってください、冷めてるんで一回火にかけてきます」
 そう言う桐ちゃんによって鍋はキッチンへと運ばれる。自分の取り皿の中の、とうに冷めた具を食べた。時計を見るともういい時間で、どれだけ喋っていたんだろうと自分に呆れる。
 それでも、話を聞いてもらえて良かった、としみじみ思った。まだ気分は重たいけれど、訳もわからない不安感からは解放されている。また何かあったら桐ちゃんに相談に乗ってもらえる、という安心感も大きかった。「心配させてほしいです」という言葉が耳に再び蘇って、じわりと胸が暖かくなる。
「桐ちゃん、ほんとに相談乗ってくれてありがとう」
 コンロの前にいる桐ちゃんに向かってそう言うと、「別に気にしなくていいですよ」と素っ気ない声が返ってきた。後ろを向かれているから本当のところは分からないけれど、きっと照れているんだろうと思う。
 気を取り直して、熱い鍋が来る前に取り皿の中のものは食べきってしまおうと、せっせと箸と口を動かしていると、思い出したように桐ちゃんがこちらを向いた。
「木綿子さん、さっき友人関係で結構失敗したことがある、って言ってましたけど、それ、本当なんですか」
「ほんとだよ。あんまり思い出したくないけど。どうして?」
「いや、なんとなく、木綿子さんはあんまりそういう失敗をしなさそうだと思い込んでたので」
 意外っていうか、驚きました、と本当に驚いたように言うので、思わず笑ってしまった。
「中学の時とか大変だったよ。悩みすぎるとあんまり寝れなくなっちゃう性質だから、あの時期は割と辛かったかな」
「木綿子さんくらい人当たりが良くても、上手くいかないものですか?」
 目の前に学校の廊下の情景がひらめいて、そして写真の劣化のように崩れる。心が波立つ。
「……人当たりがいいのは優しいこととは違うから」
 自分で聞いていても変な声色だった。
 桐ちゃんが口を開きかけたところで、鍋の蓋が鳴る。桐ちゃんが慌てて火を止めて、それを笑うと、桐ちゃんににらまれる。そうしてしまうともう、今しがたの変に冷えた言葉の余韻は消えてなくなっていた。桐ちゃんが鍋を机に運んで、それを再びつつきながら、今度は二人とも明るく他愛もない話をした。

       *

 一年生の頃、平日は毎日萩野と杏に会っていた。単純に、受講する講義のほとんどが重なっていたのである。大学によって、一年目には大量の必修科目が設定されていた。わたしたちの時間割は自然似通った。
 共に履修する科目が多ければ多いほど、昼食を共にする機会も一緒に帰途に就く機会も多くなる。一年生の頃は、三人で一緒に居る時間が長かった。
 二年生になると、履修できる科目が大幅に増えて、ゼミが忙しくなり、専攻も定まってくる。履修する科目はばらばらになり、三人が顔を合わせる講義もごくわずかになった。萩野は日本語学の方に力を入れているし、杏はきっと近代文学に進む。古代文学を専攻する予定のわたしは、二年生になってから、二人に会うのはいくつかの必修科目だけになってしまった。三人一緒に受講する講義はわたしにとって、貴重で、楽しいものである。
 火曜日の五限目、その貴重な科目の一つ、近代日本文学史が開講される教室で、三人掛けの席の真ん中に座って、時計の針に視線をやりながら、思わず手を強く握りしめていた。萩野が衝撃的な報告をしたのは先週の金曜日である。わたしの月曜日の時間割はどの授業も二人と被らない。土日を含めてこれまで、二人からは些細な連絡もなかった。二人が別れたことを知ってから初めて言葉を交わす機会が、今日この時間である。
 この教室に着くのは、いつもわたしが一番最初だ。この前の時限が空いているわたしと違って、杏はよく話を長引かせる先生の講義をとっているし、萩野は質問のしがいのある難解な講義をとっている。わたしが一番最初に教室に着いて、三人分の席を確保し、慌ててやってくる杏と質問を二三し終えてから来る萩野を待つ、というのが毎週の習慣だった。大体、杏が授業開始の五分前、萩野が講義開始の間際という順番でやってくる。
 時計の針を見つめて、じりじり二人を待ちながら、胸の中は不安でいっぱいだった。二人がやってきたら、まず詳しく話を聞く。次に二人の言い分を聞く。わたしはどちらにも寄り添う。難解なシミュレーションを繰り返して、頭は熱を出しそうになる。
 桐ちゃんに相談したことで、自分の不安の正体には気付くことができた。しかし正体が分かったからといってそれを簡単に退治できるわけもない。友人二人のかすがいという、重い役目を全うできる自信はかけらもなかった。ただあるのは、二人の力になりたいという抽象的な思いだけである。
 ただしかし、何事も、二人に会わないと始まらない。早く来ないかな、さっさと時間よ経ってくれ、と時計の針をにらむ。教室はだんだんと人が増えていく。時計の針はいつも通りの速さを保って動いた。
 時計の針が授業開始五分前の時刻を過ぎる。教室のドアが開くたび、杏だと思って期待するのに、現われるのはいつも別の人だった。とうとう先生が教室に入ってきて、マイクや配布物の準備をし始める。杏がいつもより遅い。おかしい、と不審に思っていると、静かにドアが開いた。見慣れた萩野のコートが翻って、胸のなかの不安が増大する。
 萩野は音を立てないようにドアを閉めてから、まっすぐこちらにやってきて、いつも通りわたしの隣に座る。先生がマイクの電源を入れて話し始めた。コートを脱いだ萩野が「おはよう」と小声で言う。
「おはよう。ねえ萩野、杏が来ないんだけど」
 鞄からルーズリーフと筆記具を取り出した萩野が、ゆっくりこちらを見た。そして、今まで見たことがないくらいに冷めた目をする。
「来ないんじゃない? 俺がいるから」
「なんで」
「昨日も、一緒にとってる講義来てなかったし。俺の顔見たくないんじゃないの」
「なにそれ」
 声が少し大きくなって、前にいた人ににらまれる。渋々、口から出そうになる言葉を抑えて、聞くべきことを整理した。
「萩野、大体そもそもなんで別れたの?」
「井上先生の講義は私語禁止だよ。木綿子」
 前からプリントが回ってくる。萩野に一枚渡し、自分に一枚、杏の分一枚をとった。そのまま後ろに回す。どう考えたって萩野が逃げるために使っている正論に口をふさがれて、ふてくされながら杏のプリントを二つ折りにする。
「えっと、先週島崎藤村までいったのかな。ちょっと遅れてますね。早口で喋ろうと思います。じゃあまず、先週配ったプリント、二十七から始まるやつ、出してください」
 先生の言葉に意識を向けることにしたらしい萩野が、わたしの憤慨した様子を気にかけることなく集中した面持ちでペンを握る。なんだか癪に触って、わたしも先生の方に意識を移した。杏に授業の内容を教えてあげるためにも、きちんと聞いておかなければならない。萩野はもう、今までみたいに杏の面倒を見たりはしないだろうから。

 時計は終了時刻を差していた。周りの人がどんどん立ち上がる中で、プリントとルーズリーフをファイルにしまい帰り支度をする萩野の腕を掴む。
「なんで別れたの。杏はどうするの」
「そんな怖い顔しないでよ。歩きながら話すわ。俺今日バイトなんだ」
 そう言われるとこれ以上強くは言えず、手を放して、代わりに机上の荷物をかき集めて、適当に鞄に詰め込む。杏へ渡すプリントだけはきちんとファイルにしまった。萩野がそれをなんの感慨もなく見ているのが分かって、なんだかやるせないような気分になる。
「準備できた」
「じゃあ行こう」
 五限目は、補講をのぞけばこの大学の最終時限だ。だから火曜日はいつも三人で帰る。そして誰も用事のない日は、駅まで行って、本屋に寄ったり甘いものを食べたりする。誰かの用事がある日でも、駅までの道をだらだら歩きながら、下らない話をするのが恒例だ。つい先週だってそうだった。
 外は暗くて、隣の萩野の表情がやっと分かるくらいの視界である。空気は冷たい。こういう日は、わたしと萩野の間に杏が入って、わたしとも萩野とも腕を組みながら、寒い寒いと騒ぐのが常だった。つい先週までのありふれた情景の記憶が、なんだかいちいち感傷を誘う。
「決定的な理由があったわけじゃないんだ。気持ちがなくなったとか浮気したとかそういうのじゃなくて。ただ四年間付き合ってそろそろ相性の悪いところに目を瞑ってられなくなったってだけ。水曜日に喧嘩して、そこで別れることになって、今に至る感じ。別れることに関しては二人とも合意してるけど、円満とは言い難かったから、しばらく向こうが避けるのもまあ分かるかな」
 ゆっくりと、いつもの萩野の声で語られた言葉は、とことん当事者のものだった。わたしには、抽象的な話のようにしか思えない。第三者が大っぴらに介入できるほど、劇的なものじゃない。何度か口を開いて、閉じて、結局出てきたのは何の発展性もない質問だった。
「……喧嘩したの?」
「そう。きっかけも向こうが持ち出して、そんなことは俺には少しも重要だとは思えないようなことで、正直にそう言ったら泣かれて、それから今までため込んできた恨み言の数々を吐かれたんだけど、じゃあなんでそんな男と付き合ってんだよとしか思えなかった」
「そう言ったの?」
「うん」
 非難するような目をしてしまったかもしれない。萩野がこちらを見て、口元だけで笑ってから、大きく息を吐いた。
「どういうつもりで、『結局いつでもあたしのこと馬鹿だと思ってるんでしょ』とか言うんだろう。自分より馬鹿な女としか付き合えない人間だと思われてるなら心外だし、そんなのただの侮辱だろ。どういう時にそう思うのか聞いてみても、返ってくる答えが俺にはぜんぜんぴんとこなくて、そんなこと思ったことないって言っても、じゃあなんでいつもそんな態度なのって、分かんないよそんなの。出会った時からまったく同じように接してるのに、急に泣かれたって困る。そんなに気に入らないなら最初から俺と付き合わなきゃよかっただろと思うんだけど」
 萩野が放り出すように言う。萩野の前で泣く杏を想像できなかった。今までのいろんなことがぼろぼろ崩れていくような気がして、思わずすがるような言葉を言ってしまう。
「萩野、もうどうにもならないの?」
 言葉はやけに寂しく響いた。なんで木綿子が泣きそうなの、と萩野がおどけたように言ってから、笑んだその口のまま、悲しい言葉を続けていく。
「杏が前みたいになってくれたらいいとは思うけど、俺が望むその状況でいることが杏にとってつらいなら、どうにかする意味がないでしょ。それは俺も同じで、自分の根本を曲げてまで杏の望み通りになってやりたいとは思えない。なんかよく分かんないや。全部薄皮一枚被ってる感じで、今自分が感情的になれてるのかどうかも分かんない」
 そう言って、萩野は今日初めて瞳を揺らした。
「もう嫌になっちゃった」
 空気が揺らぐ。男の人が泣きそうな声を出すのを、ほとんど初めて聞いたような気がした。
 揺れる視界の中に、突然ぱっと赤い提灯が入る。大通りと街路の交差点、神社のところまで差し掛かっていた。ここでわたしは住宅街の方へ帰っていかねばならない。
「じゃあ、また。次会うのは木曜か」
 そのまま駅の方向に向かって進む萩野に、うまく声がかけられず、「またね」と返すのが精いっぱいだった。しばらくその背を見送ってから、街道を外れて家へと向かう。
 とぼとぼ歩いて、やっとのことでアパートまで着く。窓に光が灯っていないのを見て、今日は桐ちゃんのアルバイトの日だと思い出した。気分が落ち込んでいく。
 階段を上がって、家に入って、荷物を下ろして、コートを脱いで、手を洗って、廊下や居間に電気をつけていく。水曜日が全休の桐ちゃんは、その前日にめいいっぱいバイトを入れるので、火曜日の桐ちゃんの帰りはいつも遅い。つまらないから、火曜日のわたしはいつもさっさと寝てしまう。別に差し迫った課題もないので、今日もご飯を食べてお風呂に入って家事を済ませたらさっさと寝てしまおうと考える。
 今日のご飯は何かな、と気分を明るい方へ持っていき、気を取り直して台所に入った。冷蔵庫に入れられた麻婆茄子と春雨サラダを取り出して食卓に置き、コンロのわかめスープを火にかける。麻婆茄子を電子レンジに入れて温め、その間に炊飯器からご飯をよそった。中華風だなと考えて、餃子が頭にぱっと浮かぶ。一緒に作ったら楽しそうだなと思った。温め終わった麻婆茄子を布巾で掴んで運びながら、今度桐ちゃんに餃子づくりを提案しようと決意する。
 温めが終わって、食事の準備が整った。いただきます、と手を合わせてから、夕食を口に運んでいく。しばらくそうして食べていて、けれどやけに窓の外の暗さや不在の椅子が目について、なんだか胸がいっぱいになる。思わず息を吐いて、どうしようもない気分になった。美味しいのに、せっかく作ってくれたものなのに、いつもみたいにはしゃげなかった。頭に萩野の顔が浮かぶ。
 冷たい表情、そっけない表情、そしてあの揺れた目を思い出して、自分の発した言葉が間違っていたような気がしてくる。萩野の、調子よく笑った顔や皮肉気な表情、たまにする真剣なまなざしを知っている身としては、今しがたの見慣れない表情を、重くとらえないわけにはいかない。
 わたしはどうにも肝心なことを忘れていたようだった。友人どうしの破局を案じるわたしより、当事者の二人の方が、はるかに胸を痛めているのだ。忘れてはならないことを忘れて自分の心の安寧ばかり追い求めていた自分が嫌になる。

       *

 遠くでがちゃんとドアの開く音がして、慌てて携帯の時刻表示を確かめる。画面に現れるくっきりした白の算用数字を見て、思わず深いため息が出た。四時七分。まだ一睡もできていない。一向に訪れない眠気に、だんだんいら立ちが募っていく。このまま徹夜ということになれば、授業に響くのは目に見えていた。けれど、眠らねばと焦るほどにどんどん目は冴えてしまって、どうしようもない。起きている間に萩野と杏についての考えが深まったわけでもなく、ただもやもやと眠れずに、浪費した時間はもう五時間ほどになる。もうとうに慣れてしまった暗闇に、いっそう心が重くなった。
 壁を一枚隔てた先ではバイトから帰ってきた桐ちゃんが、早く布団に入るために忙しくしているのだろう、水の流れる音や、足音がこちらにもかすかに聞こえてきた。それを聞きながら遠のく意識と、その遠のく意識を見送る意識の二つが、交互にわたしの中にたち現れる。煩わしくなって目を閉じて、瞑目の甲斐のなさを思い知った五時間であったことに気付いて、また嫌々目を開けた。
 ベッドの上で身を起こして、暗闇をじっと見る。埃ほどの細かさの色の粒があたり一面を浮遊していた。暗闇に目をこらすなんて久しぶりだ、と考えて、眠れなかった日々のことを思い出す。
 それを発端として、嫌な記憶が頭の中を淡々と流れて、どんどん心が冷えていくのに、疲れているからか上手く止めることができない。どうしようもなかった。結局わたしは何もできない。
 どうしたらいいんだろう、と思わず声が出て、暗い部屋に自分の言葉が響いた。あんまり間抜けでおかしくなる。
 何かで突破しなきゃいけない。淡々と流れる嫌な記憶を踏みつぶして壊すものが欲しい。思い切って立ち上がり、部屋の電気をつけた。煌々とした明るさに目を細めて、少し前のやりとりを思い出すことに成功する。嫌な記憶よりもずっと最近。あの、胸を暖かくさせる、桐ちゃんの言葉。

 お望み通り心配させてあげようと、思い切ってドアを開けた。ほんの少しだけ会話ができればいい。ちょっとだけ構ってもらえれば。一秒目を合わせるだけでも、多分嫌な記憶をやっつけて意識の底に沈めるくらいの力は湧くはずだ。
「おかえり桐ちゃん」
 ドアの開く音とわたしの声にびくりと肩を震わせて、食卓についていた桐ちゃんがこちらを振り向いた。椅子に座る桐ちゃんの体の奥の方に、さっきわたしも食べた夕食が並んでいるのが見える。
「……ただいま。びっくりした。起こしちゃいましたか」
「ううん。起きてた。ずっと」
「どうして」
「なんかあんまり寝付けなくて」
 瞠られていた桐ちゃんの目がだんだん細くなっていく。桐ちゃんは少し口を開いて、何かを言いかけてから、また口を閉じた。そうして椅子から立ち上がる。
「ホットミルク作りますけど、飲みますか」
「うん。飲む。ありがとう」
 お礼を言ってから、小さく駆けて桐ちゃんの向かいの椅子に腰かける。ぼうっと机の上を見て、お皿の上の料理が食べかけであることに気付き、急に申し訳なくなった。
「食べてる途中にごめんね、桐ちゃん。これじゃホットミルク作ってもらうために『おかえり』って言ったみたいだね」
「大丈夫ですよ。今日休みだし、食べるのが遅くなったところでさして問題じゃないです」
 ミルクパンを置いたコンロを弱火に設定しながら桐ちゃんは言った。ほっとする。
 そうしてしばらくお互い何も喋らずにいた。じっと火の音に耳をすませて、わたしは、桐ちゃんと一緒にいるとどうしてこんなに落ち着くんだろうととりとめもないことを考えていた。
 窓の外を見ると真っ暗で、その当たり前になんだか胸が塞ぐ。電気がついているこの場所を良い場所だと思った。
「……あんまり考え込み過ぎても良くないですよ。結局はお二人のことですし」
 ぽつんと耳に聞こえた桐ちゃんの声に、一瞬驚いて、遅れて、その言葉の優しさに、少し泣きたくなる。それでも、考えないわけにはいかないのだ。二人との友情を保っていたい。今度は失敗できない。
 かち、とコンロのスイッチの音がして、桐ちゃんが鍋を持ち上げる。ホットミルクが注がれたわたしのマグカップは白く細い湯気を立てた。
「はい、どうぞ」
「いろいろありがとう」
 渡されたマグカップを、こぼさないよう慎重に受け取る。渡し終えた桐ちゃんはざっと鍋を洗ってから、わたしによって中断されていた食事を再開するために、わたしの向かいの椅子に腰を下ろした。桐ちゃんのきれいな所作をぼんやり見ながら、ホットミルクを冷まして飲む。
「温かくておいしい」
「良かったです」
「バイト大変だった? 水曜日っていつもこんなに遅いの?」
「いつもはせいぜい三時までなんですけど、次のシフトの人が寝坊して遅刻したので今日はこんな時間になりました。忙しかったわけではないですよ」
 そう言って、おもむろに桐ちゃんはあくびを一つつく。
「眠そう」
「木綿子さんに分けてあげたいです」
「ほんとにね」
「……木綿子さん、話したいことがあるなら聞きますけど、どうですか。それともそういう気分じゃないですか」
 桐ちゃんがゆっくりと話を切り出した。マグカップを持っていたから、指の先が暖かい。桐ちゃんの視線を受けとめて、言葉を探す。
「なんかね、今はこうやって関係ない話してる方が気がまぎれるかも。嫌な感じだけど、なんか杏と萩野のこと以外も、もっとぐちゃぐちゃいろんなことがあって、ひっきりなしにどれかのことを考えてるから落ち着かない感じなの。だから誰かと喋ったり授業聞いてたり、考えないでいられる方が楽かな」
「今は楽なんですか?」
「うん。今のでだいぶ持ち直した。ありがとう」
 桐ちゃんがわたしを見つめて、考え込むような表情をする。
「桐ちゃんこそ考えすぎないでね。そもそもわたしの問題なんだから。ご飯食べていいよ。冷めちゃうよ」
 わたしの言葉に、お留守になっていた桐ちゃんの手が動き出して、茄子をつまむ。箸につままれた茄子は重力によってわずかにたるんだ。
「四六時中顔合わせてる人が調子悪そうにしてると、こっちもなんか調子が狂ってくるんですよ」
「ごめんね」
「いいえ。心配するのも調子が狂うのもしんどいけど、自分がそういう状態にあること自体には全然不満ないので。気にしないでください」
 桐ちゃんがつまんでいた茄子を口に運ぶ。わたしはミルクを口に含んで、桐ちゃんの今しがたの言葉の意味を考える。「しんどいけど不満じゃない」?
「桐ちゃん変わってるね」
「木綿子さんに似たんですよ」
 それだけ言うと、桐ちゃんは先ほどよりスピードを増して料理を片付け始める。なんとなくつられて、わたしも急いでホットミルクを飲んだ。
「ごちそうさまでした」
「体温まりました?」
「うん。とても」
 使ったお皿を重ねながら、桐ちゃんは台所と居間の境にある壁に掛けられた時計を見る。わたしもまたつられて後ろを向く。時刻は四時半だった。
「木綿子さん、このまま寝ます?」
「うん。お皿洗ったら寝るよ。桐ちゃん今からお風呂入るでしょ」
「私洗いますよ」
「いいからいいから。やっておくよ」
 抗弁する桐ちゃんをよそにシンクの前を陣取ると、桐ちゃんはため息をついてから自室に引っ込んだ。マグカップと桐ちゃんのお皿をシンクに運び、洗ってゆく。途中背中に、脱衣所へ向かう桐ちゃんの、「ありがとうございます」という声がかかった。
 いつもより熱心に食器を洗う。寝るなんて嘘だった。ベッドに入ったところでどうせ寝られないだろう。桐ちゃんと話して、元気を取り戻したけれど、だからって物思いが全部解決するわけじゃない。萩野と杏の問題は未だ目の前にある。
 桐ちゃんまで調子が狂うなんて思わなかった。あくまで心配してくれるだけで、まさか、わたしと同じように考え込んだりしんどくなったりしているのだとは知らなかった。全然知らなかった。そんなことをさせたかったわけじゃない。心配してくれるだけでとても嬉しかったのに。
 (自分がそういう状態にあること自体には全然不満ないので)
 どういう言葉なんだろう。どこまで本当で、どこまで甘えていいんだろう。桐ちゃんは優しいから、無理して言ってるんじゃないだろうか。わたしは、「心配してほしい」とは言えるけど、「一緒にしんどくなって」とはとても言えないし、言いたくない。
 食器を洗い終えて、水一滴残さず拭き上げて、渋々部屋のベッドに戻った。結局夜が明けるまで、少しの眠気も、わたしにはやってこなかった。

       *

 ぎ、と椅子を引く音が周囲から一斉に聞こえて、目が覚めた。慌てて時計を見ると針は終了時刻を示していて、一気に体から熱が引いていく。帰り支度をし始める周りの学生の中で、しばし呆然と立ち上がれなかった。講義の記憶がほとんどない。序盤からもう意識がなかった。そして何より最悪なのが、今日ほとんどの時間をわたしがそうして過ごしていることである。
 睡眠がとれたことに少しほっとしつつも、授業をみすみす寝過ごしてしまったことが悔しかった。これではなんのために大学に来たのか分からない。自分にうんざりしながら、使わなかったルーズリーフと筆記用具を鞄にしまう。あきらめ悪く時計を眺めてみても、とうに授業が終わってしまっている事実は変わらない。先生が帰り支度を終えて教室から出ていくのを見送って、思わずため息をついた。
 今日は杏にも萩野にも会えない日だ。昼休み、何度か呼び出そうと携帯を取り出したりもしたけれど、呼び出してからその先、自分が何を言うべきなのか結局分からなくて、連絡はしないままだった。碌に行動も出来ず、考えを深めるわけでもなく、授業中眠っているんじゃ話にならない。つくづく自分がどうしようもない。
 足取り重く館の外に出ると、ぞっとするほど寒かった。この間の雪といい、とても十一月の気温とは思えない。マフラーに顔の下半分を埋めて、コートのポケットに手を突っ込む。どうせ何もしないで寝ているんだったら、いっそ家にそのまま居ればよかったと後悔はさらに深まった。
 日はとうに落ちて、あたりは暗い。もぞもぞ歩く学生の波に紛れて家を目指す。ろくでもない一日だ。寝る以外何もしていない。やってられなくて、途中通りがかったコンビニでお酒でも買おうかと思ったけれど、大して酒好きでもない人間がそういうやさぐれ方をしたってださいだけなのでやめた。
 大通りを外れて住宅街に入る。とぼとぼ歩いていると、ポケットの中で携帯が震えた。桐ちゃんかな、と思って取り出した携帯の画面に、「杏」の一文字があって、一瞬心臓が大きく鳴る。展開が急だ、と頭の中で声がした。
「もしもし」
「あ、木綿子、今大丈夫?」
 久しぶりに聞く杏の声だった。
「大丈夫だよ。全然。杏は? 大丈夫?」
「……もしかして萩野からもう聞いた?」
 杏の声が少し冷たいように感じて、一瞬言葉に詰まる。しかし嘘をつくようなことでもないので、「うん」と返すと、杏は「そっか」とかすかに言った。
「もしよかったら昨日の、文学史の講義の内容、明日教えてくれないかなと思って」
「もちろん。プリントも貰ってきたから。お昼にでも説明するね」
「ありがとう。昨日ちょっと行きにくくて。家のドア開けるまでは大丈夫だったんだけど」
「うん。……当然だと思うよ。仕方ないよ」
 返した言葉にしばらくこたえは無かった。決して無ではない沈黙の大きさにめまいがしそうになる。
「萩野、なんか言ってた?」
 ようやく聞こえてきた言葉に、なんと返せばよいか分からなかった。結局更なる沈黙の訪れに耐えられず、曖昧な応答をする。
「うん。わたしが聞いちゃったから。ちょっとね」
「笑ってた?」
「え?」
「笑ってた? 萩野」
 質問の意図がつかめず、ぱっと脳裏に、萩野のあのやるせないような笑みが浮かんで、わたしの口はおずおず「うん」と言った。
「いやでも、なんか、すごい気丈に振る舞ってたというか、別に、すっきりしたとか楽しそうとかいう感じでは全然ないよ」
「分かってる。純は上手だもんそういうの」
 純、という耳慣れない響きを脳で探して、そういえば萩野の下の名前がそうだったと気づく。杏が萩野をそう呼ぶのを初めて聞いた。そして、杏の声に割れる前のガラスのような不穏さが漂っていることにも気がついた。
「いつもそうなの、何言ったって真剣に取り合ってくれなくて、誤魔化して、それならこうしたら、って気持ちの少しも入ってない解決法を示して終わり。純のことを話してるのに、すぐ自分を外側において、一歩距離をとって考えるの。そんなこと少しもしてほしくないのに。それで、そういうふうに客観的になれない私のことをおかしいって思ってる」
 杏の声がひび割れて、水気が滲んでいく。電話の向こうでどんな顔をしているのかを考えて、胸が締め付けられるような気持ちになった。
「杏、泣かないで」
「分かんない。付き合ってた人と別れた程度のことでこんなふうになってる私がおかしいの? 純みたいに普通に過ごして友達に別れたんだって報告できるのが普通なの? 純が思ってるみたいに、私の方がおかしいのかもしれない」
「杏、杏はおかしくないよ。全然おかしくないよ。泣きたくなっちゃうのが普通だよ」
 思わず小さく叫んだ。暗い方向に自らを追い込んでいく人の言葉はこわい。なりふり構わず手を差し伸べなきゃという気になってしまう。
「……萩野はひどい。結局別れて終わりにしちゃうんだ。全部そうなの。逃げてばっかり。ひどい」
 ぽつんと聞こえる掠れた言葉に、赤い光に照らされた別れ際の萩野の瞳を思い出して、胃が気持ち悪くなってくる。こめかみがどくどく鳴っていた。
 選択を迷い、言葉を探すわたしの耳に、杏のしゃくりあげる声が入ってくる。
 最後通牒のようだと思った。
「……うん。ひどいね」
 言葉を発し終わった瞬間から、心が引き攣れるように痛み出す。


 いつも陰では八方美人と言われていた。誰にでもいい顔をする、好かれたくて必死、すぐ媚びる。言われてみればその言葉のどれもが至極納得できるものだった。わたしは誰にでも好かれたかったし、そのためには媚びた態度もなんなく出来た。上手くやろうなんて一度も思ったことがない。みんなの言う通り、ただ好かれたくて、それに必死だっただけ。そしてその態度がどうにも人の癇に障るのだと気づいてからも、自分を変えることはできなかった。もうほとんど性分だったから。
 木綿子って八方美人だよね、と言う同級生の人たちの美点を、わたしは数限りなく知っていた。とてもいい人たちだった。わたしはその人たちのことも、わたしの悪口を言わない人たちのことも、同じくらい好きだった。いい人ばかりの学校の、いい人ばかりのクラスで、わたしは恵まれた生活を送っていた。ところがどうも、そんなお気楽な気持ちで生きていたのはわたしばかりであったらしい。
 いい人どうしが反目しあう、いい人がいい人を嫌う、そういう状況に際すると、どうしていいかわからなくなる。どちらか悪い人を決めねばならない状況が苦手で、それでも誰かを嫌いだと言う目の前の人の顔はいつでも本当に真剣だったから、ついそれに同意してあげたくなって、そうだよね、わかるよ、と言ってしまう。出来上がるのは単なる嘘つきだ。忘れ物を取りに戻った教室の扉の前で、積り積もった自分への鬱憤を立ち聞きして、わたしの目からは鱗がぼろぼろ落ちた。
 忘れ物は忘れたままで、夢心地で家に帰って、そうして夜、布団の中に入ってから、あの教室の中にいた人たちに自分は嫌われているんだとやっと気づいて、酷く悲しくなった。おそらくその人たちが一度はわたしに好意を持ってくれていただろうことに気付いて、もっともっと悲しくなった。
 それから、夜はどうしたらまたあの人たちに好かれるんだろうと考える時間に変わってしまって、あんまり眠れなくなった。結局また好いてもらえる方法は見つけられずに中学校は卒業になって、高校に入ってまた同じようなことを繰り返した。高校生になってからは勉強をして悩みを紛らわすということを覚えたので、中学生の時よりは健全な生活を送ることができた。結局その方法は見つけられないまま大学に入って、けれどその人間関係の楽しさに、そんなあてどもない悩みは心の奥底に押しやられてしまった。大学はとても楽しかった。人が何より多くて、多数対多数の関係が密でない。本当に楽だった。だから今まで忘れていた。

 萩野が好きだ。頭が良くて話が面白くて人の扱いが丁寧で、いつも面白そうな本を読んでいてレポートや発表もぞくぞくするような切り込み方で、わたしを尊重してくれて、自分というものをちゃんと持っていて、でも意外と抜けていて、そういうところが好きだ。杏のいないところで杏の話をする時のあの柔らかい表情が好きだった。親友だ。一生ものの友達だと思っていて、萩野もわたしをそう思っていてくれたらいいと願っている。萩野の身に辛いことがあるなら、なんとしてもわたしの力の限りで、助けになってあげたかった。
 あの日瞳を揺らした萩野を、どうして追いかけなかったんだろう。そう思う気持ちとまったく同じ重さで、わたしは杏を愛している。あの子の指先が冷えるのを、表情が暗くなるのを、どうにかして防ぎたい。いつでも、好きなものに一生懸命になって、笑っていてほしい。甘えるのが得意で、感情を動かすのが得意で、色んな立場のものに親身になって、大きい瞳を揺らして、誰からも好かれるような魅力をいつも発している。どんなに嫌なことがあっても、杏に「どうしたの」と眉を下げて言われるだけで、どうしようもない気持ちの半分くらいは吹っ飛んでいる。杏には何度も助けてもらった。わたしだって杏に返したい。
 わたしは、泣いた杏を慰めないわけにはいかない。どうしても放っておけない。どんな言葉を使ったって、わたしは、杏に寄り添わねばならない。どんな言葉を言うことになったって。わたしは、でも、萩野がひどい人間なんかじゃないことを知っている。あの揺れた瞳を知っている。本当はあんなこと言いたくなかった。萩野はひどくないよと言うべきだった。でも、わたしがそう言ったら杏は泣くだろう。第一杏から見た萩野はひどい人間なのかもしれない。そしたらその思いを肯定するのが親友の役目なんじゃないか。でも、わたしの発言をもし萩野が知ったら、萩野はわたしを見損なうだろう。わたしにとって萩野がひどい人間なんかじゃないことは、わたし自身がよく知ってる。
 わたしは嘘を吐いたんだ。

「嘘ついてばっかりで、あんなに人に好かれたがってるけど、別にあいつ自身は誰のことも好きじゃないんでしょ」

 電話を終えて、帰ってきて、桐ちゃんにただいまも言わずに、夕食も食べずに、着替えさえしないで、自分の部屋に引っ込んで、どうしていいかわからずに座り込んだまま、もうどのくらい時間が経っただろう。萩野にも杏にも合わせる顔がなかった。二十歳も過ぎてこんなことで悩んでいる自分が馬鹿みたいで、誰に見られるのも嫌だった。
 着替えて、化粧を落として、桐ちゃんに謝って、お風呂に入って、眠らなければならない。そうしないとまた明日に響く。明日は木曜だ。二人に会える貴重な曜日だ。萩野と杏に会う日だ。そのことを考えるだけで、不思議と体が一気に重くなる。
 このままここに座り込んでいれば、ずっと明日が来ないような気がして、ますます体は重くなった。少しも動きたくない。目が上手く閉じられなくて、涙が出てくる。

「木綿子さん」
 急にガン、と音がして、ドアが思いっきり開けられた。「入ってもいいですか?」と言いながら、わたしの答えも待たずに、桐ちゃんがずかずかとわたしの部屋に足を踏み入れる。何、と驚きのあまり口だけを動かすわたしに、一切配慮することなく、桐ちゃんはわたしの前に立った。
「木綿子さん、お風呂が沸いたので、入ってください」
「桐ちゃん、わたし……」
「行かないならここで服剝ぎますよ」
「何で」
 叫んだわたしに桐ちゃんは顔をしかめる。わなわな口を震わせるわたしをどう思ったのか、桐ちゃんはおもむろに屈みこみ、わたしと目線を合わせた。綺麗な黒い瞳がわたしを見据える。
「私は風呂を済ませていない人間と一緒の布団に入ろうとは思わないので、入ってください」
「何言ってるの」
「これから一緒に寝るんですよ。私の布団で。だから綺麗にしてきてくださいということです。はい、十秒数える間に行って。十、九、八」
 わけのわからない御託とともに、やけに破廉恥なカウントダウンが始まって、わたしの脳は混乱を極める。とりあえず慌てて寝巻と下着だけ掴んで、カウント一のところでからがら部屋を抜け出した。流れで走って脱衣所に入り、よくわからないまま急いで服を脱いで、風呂場でシャワーのコックをひねる。冷水を浴びて、やっとせわしない気持ちは治まったけれど、桐ちゃんに言われたことはよくよく考えてみても分からなかった。どうして急に一緒の布団で寝ることになったのだろう。突飛にもほどがある。
 なんとなくいつもより丁寧に体を洗って、髪にもきちんと時間をかけて、お風呂にもゆったり浸かり、桐ちゃんの真意を探りながら長い時間を風呂場で過ごしたけれど、一向に桐ちゃんが何をしたいのかは分からなかった。風呂から上がって体を拭いて、やっとのことで部屋から持ち出したものを身に着けて、洗面所の鏡の前で一息つく。久しぶりに真正面から見る自分の顔が思ったよりやつれていて驚いた。
 髪を乾かし終えて歯を磨き、いざ、妙に緊張して桐ちゃんの部屋のドアをノックする。わたしは桐ちゃんと違っていきなりドアを開けたりはしない。さっきは本当にびっくりした。
 どうぞ、と声が返ってきて、ドアを開く。そういえば、わたしは桐ちゃんの部屋に入ったことがあまりない。機会が少なかったのだ。反対に桐ちゃんは、わたしの寝坊や風邪の所為で幾度となくわたしの部屋に入っている。
 部屋に入って、後ろ手にドアを閉める。つくづく簡素な部屋だった。背の高いタンスと背の低いタンスが一つずつと、背の低い本棚、敷かれた布団、その程度のものしかない。煩雑なわたしの部屋とは大違いである。
 桐ちゃんは敷かれた布団の上に座って、映画雑誌を読んでいた。わたしがその様子を見ているのに気づいて、ぱたんと雑誌を閉じる。
「じゃあ寝ましょうか。木綿子さん、常夜灯つけて寝る人ですか?」
「わたし? つけない」
「私はつけて寝る派なのでつけますね。そしたら、どうぞ。布団入っててください」
 それならなんで聞くんだろう、と思いつつ、勧められるまま布団に入る。仰向けに身を横たえて、背中に知らない布団の感触を感じていると、なんとなく居心地が悪い。桐ちゃんと一緒に寝るなんて何年ぶりだろう。
「消しますよ」
 桐ちゃんが手を伸ばして、引き紐を引っ張る。かちんと音がして、一気に部屋が暗くなるけれど、常夜灯がついていることもあって、すぐに目は慣れた。桐ちゃんが布団に入ってくるのもよく見える。というか、そもそもどういう体勢でいたらいいんだろう。
 背中を向けたほうがいいかな、と思って桐ちゃんの方をうかがうと、思いっきりこちらに体を向けているのでびっくりする。照れたりしないのだろうか。
「木綿子さん」
「な、何?」
「ただいまは?」
 そう言って、桐ちゃんは照れるわたしをまっすぐ見た。桐ちゃんの目が光る。わたしより背の高い桐ちゃんに、上目で見られるなんてことはそうそうない。申し訳ないと思う気持ちが蘇って、わたしも桐ちゃんの方に体をむけた。桐ちゃんの目を見る。
「ただいま。ごめんね今日は。ご飯もごめん。明日食べる」
「せっかく肉を焼いたのに。木綿子さんの好きなカシラですよ」
「うん。ごめん。明日の朝を楽しみにするよ」
 そう言ってから、あまりにも自然に、自分の口から「明日の朝を楽しみにする」という言葉が出てきたことに驚いた。さっきまであんなに嫌だったのに。
「木綿子さん、木綿子さんがこのまま寝れないなら、私も寝ません。でも私も眠いので、もしかしたら寝ちゃうかもしれません。そうしたら、木綿子さんも私につられて寝てください。今夜はどっちかにしましょう」
 すでに桐ちゃんの声はいつもよりだいぶ眠たげだ。それでも目はきちんと開いて、わたしの目をきちんと見ている。
「心配です。眠れてないのも、泣きそうなのも、悩んでるのも。私まで気が滅入ってきます。でも、わたし自身はそっちの方が全然ましなんです。木綿子さんの不調に気付けなかったり、共感できなかったりすることより、たとえしんどくても、心配できることの方が、わたしは嬉しいです。でもしんどくない方が良いのは当然なので、木綿子さんがはやく元気になってください。そしたら私も同じように元気になります。そして私は、自分を元気にするためならなんでもやります。だから、話して下さい。誤魔化してないで解決しましょう。何がそんなに辛いのか」
 桐ちゃんの手がおずおずと伸びてきて、わたしの頬に触れる。そのまま、髪を梳くように頭を撫でられた。
 そうして桐ちゃんに触られていると、どんどん眠くなる。何か魔法でも使っているみたいだった。張りつめていた意識がほぐれて、今まで人に言わなかったようなことまで、どんどんあふれ出てしまう。
「わたし、全然人に優しく出来ないの」
 たまにこめかみに触れる熱が、すべてを溶かしていくかのような錯覚に陥る。
「みんなに好かれたいの。好かれるために、どんな人にも、調子よく、温和に接して、自分の意志なんて何もなくて、ただ人に媚びるだけ。好きな友達が別の好きな友達の悪口言ってても、「そうだよね」って言っちゃうの。諌めたり反論したり、悪口言われた方の子を嫌いになったり、できたことない。いっつも中途半端で、結局誰からも嫌われて終わりで、でも、みんなちゃんと上手く出来るんだよ。わたしばっかりやり方がわからなくて、だから多分、わたし本当は誰のことも好きじゃないんだと思う。ただ好かれたいだけ。杏がね、今日電話で「萩野はひどい」って言ったの。わたしはそれに同調したの。そんなこと少しも思ってないのに、でも、どう言っていいかわからない。どうしたら二人ともと上手くやれるのか、全然わかんない。杏を慰めるためだけに、思ってもないことで萩野を傷つけたってこと、萩野に知られたら嫌われる。わたしはそれが、泣きたくなるほど怖い。だからって、踏ん切り付けて杏とだけ仲良くすることも出来ない。どっちの味方もできないで、中途半端。いつもそうなの。いっつも」
 目の奥がぐらぐらした。眠い時の兆候だ。
「意志がないわけじゃないでしょう。あなたはその人のことが好きだから、好かれたくて頑張ったんですよ。萩野さんのことも杏さんのことも、木綿子さんはちゃんと好きです。誰がどう見たって好きですよ。好きじゃない相手に普通の人はここまで悩みません。それに、別に中途半端でもいいじゃないですか。木綿子さんは裁判官でも国と国の調停役でもなくて、単なる友達なんだから」
「でも、だめなんだよ。このままじゃ傷つけて、嫌われて終わりだもん」
「じゃあ正直に言えばいいんですよ。『わたしはあなたのこともあの子のことも好きだから困る』って。嘘を吐かずに、最初からどっちも突っぱねて、我関せずの態度で居ればいいんです。それだって中途半端でしょ。でもそっちの方が、今より上手く行くかもしれません」
「萩野と杏にも言うの? 正直に?」
 そうですよ、と言って桐ちゃんが笑った。
「きっとわかってくれますよ、二人とも。大丈夫ですよ、そんなに心配することはないです。だって親友なんでしょう。お二人とも、親友が困ってたら、なんとかしようと思うはずです」
 だんだん桐ちゃんの手の動きが遅くなっていく。今にも意識が落ちそうで、なんとか頑張って目を開ける。
「木綿子さんは優しいですよ。ずっと優しいです。そうやって、皆を好きでいてくれることが、友達が悪口を言った相手とも平気で仲良くするところが、どんなに支えだったか分かりません」
 瞼を閉じても、オレンジの光が目に残っている。意識が断続的になる。桐ちゃんの声だけよく聞こえた。
「優しい? ほんとに?」
「優しいです。私が言うんだから信用して下さい。いつもみたいに、簡単に、鵜呑みにして。照れ隠しのひどいことばっかり真に受けないで、今こそ、信じて」
 お願い、と桐ちゃんが言ったような気がした。

       *

「あ、おはよう。木綿子」
「木綿子一限切ったんだって? 珍しいね」
 寝ぼけ眼をこすって時計を見たらとうに十時、という肝の冷える体験を桐ちゃんとして、二人で慌てて家を出て、おざなりな化粧と服装で息せき切ってやってきた二限目の授業の教室で、並んで座っている杏と萩野から矢継ぎ早の挨拶を受けたわたしは、念のためもう一度目をこすった。これでまだ夢の中だとすると非常にまずい。
「なに目こすってるの。ガム噛む? 辛すぎてもはや痛いやつ」
「なんで二人が一緒にいるのよ」
 杏と萩野が目くばせし合う。そしてお互い示し合わせたように顔を背けてから、杏が笑顔で話し始めた。
「昨日木綿子に電話した後、別の友達と萩野の悪口でさんざん盛り上がってさ、元気になってから『そういえば木綿子ノリ悪かったなあ』って考えて、でもよく考えたら木綿子は萩野とも仲良しじゃん。私たち二人があんまりぎすぎすしてると木綿子が悲しむかなと思ったのよ。木綿子考え込みすぎるところがあるでしょ。だから悪口はお互い個別の友人に言うことにして、でも木綿子のことは好きだから授業には一緒に出たいし、でも今度はそうすると萩野と被るのよね。しかしそれでまた私たちがばらばらに座ったりすると木綿子が『どっちの隣に座ればいいんだろう……?』って女子中学生みたいな悩みに耽っちゃうでしょ。だからまとめて座ったの。分かった?」
「よりは戻したの?」
「戻してない」
 あっけらかんと言ってのける杏に、思わず、ため息と一緒に涙まで出た。自分でもぎょっとして、慌てて目を拭う。
 ハンカチで目を抑えながら二人の隣に腰掛けて、二人が「杏が泣かせたんだよ」「萩野も同罪でしょ」と馬鹿みたいなやり取りをするのを聞いている。二人が見慣れた軽口をたたき合うのを間近に見て、今日はよく眠れそうだと思った。昨夜のように安心して、自分を少しも損なわずに、何にも侵されることなく、眠れるだろうと確信できた。




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