十月の看病
人の額の熱がまだぼんやり残った手で、家の救急箱をあらためる。丁寧に見ても冷却シートの類は入っておらず、先ほど冷凍庫や収納に氷枕がないことも確認済みだったので、頭の中で立てていたスーパーへ行く予定に、薬局も加えた。窓の外では木々がだんだんと褪せていて、その乾燥も寂しさもまさしく秋のものである。
人を看病するのは初めてのことだった。自分が風邪をひいたとき母親がしてくれたことを思い出しながら、必死に入用なものを考える。買うものを書き出していく手は何故か強張って、家の中の空気はどんより重かった。うかつにも風邪をひいて熱を出した同居人は、私の向かいのソファの隅にぐったり座りながら、アルバイト先に欠勤の連絡をしている。
「はい、申し訳ありません。……ありがとうございます。はい、本当にごめんなさい。失礼いたします」
かすれた声の過剰な謝罪を終えて、木綿子さんはアルバイト先への電話を切った。そうして一つ息を吐いてから、緊張したように私の方を見る。いつもより瞼が重くて、姿勢に力がないその様子は、誰が見たって健康な人間のものではない。
「これでいいの?」
「これでいいってなんですか。さっさとベッド行って寝てください」
「熱があるっていったって三十七度ちょっと超えたくらいだし、微熱の範疇だよ。頑張ればバイトだって行けるし、寝てる方がだるいわ」
「何言ってるんですか。毎回毎回微熱からこじらせて風邪長引かせてた人が言うことじゃないですよ。バイト先だって病人が来たら迷惑です。ほら、早く」
数日前から喉の痛みを訴えたり咳込んだりしていた木綿子さんは、今日の朝しばらく起きてこなかった。そのまま、いつもならアルバイトへ行く準備をし始める時刻になったので、心配しつつ部屋へ行くと、不快そうにうなされていて、慌てて熱を測ってみたところ体温計は三十七・二の数値を示した。どう見たって重い風邪で、安静に寝ているのが一番だ、と思うのに、木綿子さんは何故かアルバイトのことばかりを気にしている。先ほどから寝ろと言っても一向に素直に従わず、今だってソファの背もたれに寄りかからないではいられないのに、携帯電話をじっと見つめている。
「やっぱり行くべきじゃないのかな。急にシフトが一人減って、向こうも困ってるだろうし。今日、研修中の女の子が一人いるんだよね。絶対人手足りないよ」
「足りないなら足りないで向こうがなんとかするから木綿子さんは気にしなくていいんです。ちょっとは自分を客観的に見てくださいよ。どうやったっていつもみたいに動けないでしょう」
私が大げさにため息をつくと、木綿子さんはぼんやりと目をこすった。埒が明かない、と思って、救急箱の蓋を閉じ立ち上がる。
机を回って木綿子さんの傍へ行くと、木綿子さんがゆっくりと身を引く。気にせず木綿子さんの腕を私の肩に回して、そのままずるずる部屋まで運ぶ。木綿子さんの抗議の声は無視した。
「桐ちゃん、本当に大丈夫だよ、そこまでひどくないよ」
「誰が見たってひどいです。いいからおとなしくしていてください」
部屋に入って、とりあえずベッドに木綿子さんを腰掛けさせる。布団をめくって、そのまま横たえた。木綿子さんは口では反抗するものの手足を動かす様子はなく、ますます木綿子さんの「大丈夫」という言葉からは信憑性がなくなっていく。寝たくないと言うだけ言うけれど、私を振り切ることはしない。それほどに体がだるいのだろう。どう考えても木綿子さんの風邪は重いし、このまま寝ているのが一番だ。
枕に木綿子さんの頭を乗せて、身体に掛け布団をかける。木綿子さんの顔を見ると、口元を不服そうに尖らせている反面、目は若干潤んでいた。額に手を当てると、先ほどより熱くなっているような気がする。
「桐ちゃん、大丈夫だよ、ほんとに」
「何度も言わせないでくださいよ。おとなしく寝てください」
一旦口を開きかけて、しかし何も言うことはなく、木綿子さんは観念したようにゆっくり目を閉じた。電気を消して、木綿子さんの部屋を出る。ドアを後ろ手にぱたんと閉めて、思わずため息が口からもれた。まるで子供の寝かしつけのようだった。もう少し聞き分けよくなってほしい、と心中で願う。
気持ちを切り替えてコートを着る。メモを確認し、財布と鞄をもって家を出る。木綿子さんが私のいない間にバイト先へ行く可能性がちらと頭をよぎって、一瞬不安を感じたけれど、木綿子さんのぐったりした様子をすぐ思い出して、その不安を振り払った。あの様子だと、外へ行く体力は今の木綿子さんにはないだろう。
外は嫌な感じのする寒さで、つくづくこの国の外気には秋がない、と思う。暑さと寒さの交代が急なのだ。ちょうどよい涼しさ、というものを、ここ数年味わった記憶がない。さっさと帰って来たいので自転車で行くことにするけれど、今からこの空気に身を切られると思うとげんなりした。
身を刺す寒さを意識から外す。ここ数日の木綿子さんのことを考えた。
起きてきた木綿子さんの声の調子がおかしかったのが一昨昨日だ。その時は、空気が乾燥しているんだろうと無難な会話で終わらせてしまった。おとといにはもう咳をするようになっていて、昨日はいつもより少しおとなしかった。熱を出すもっと前のタイミングで、どうにかできたのではないかと考え始めると止まらない。一緒に暮らしているのに、木綿子さんに対して何もできなかったことが悔しかった。
もともと木綿子さんは風邪を長引かせやすい。小さいころから、風邪をこじらせてよく臥せっていた。見舞いにも何度か行ったことがある。
風邪で苦しむ人を見るのはあまり楽しいものではなくて、昔の私は木綿子さんのお見舞いをするのがあまり好きではなかった。しかし今は木綿子さんのそばに居られることがうれしい。辛そうな様子は見るのも忍びないけれど、木綿子さんが弱っているのを知らずにいるよりは、ずっとずっとましである。
車道から歩道へ乗り上げて、そのままスーパーの敷地内に入り、自転車から降りる。剥げかけた白い枠線の駐輪スペースを目指し、自転車の車輪が惰性で回転するのに合わせて、少し小走りで動いた。既にとめてある自転車を警備員さんが寄せて、隙間を開けてくれる。ありがとうございます、と微笑んで、ありがたくそこに自転車を滑らせた。
自転車の鍵をポケットに入れながらスーパーへ入る。ゼリーやプリンが置いてあるコーナーにたどり着いて、あまり咀嚼が必要なさそうなものを三つかごに入れた。そのまま隣の飲料コーナーへ体を向けて、スポーツドリンクを探す。二リットルペットボトル二本をかごに入れて、少しかごを持つ手に力を込めた。
後ろで、子供を叱る母親の声が聞こえる。スーパーなどの場ではよくあることで、耳をそばだてるようなものでもない。しかしふと、布団に寝そべる私の頬に心配そうに手をあてる母親の顔が、頭に浮かんだ。過去の記憶だ。小学生の頃の、インフルエンザか何かにかかったときの記憶である。
そのまま思考は、私のうんざりした気持ちをかんがみずに展開して、先ほど私自身が発した言葉へとたどりつく。とげのある、苛々した口調で発される言葉。さっさと木綿子さんに寝てほしい、という気持ちがはやって飛び出したものだ。それは一応、まっとうな気持ちから生まれた言葉である。けれど、よくよく思い返してみれば、私は風邪で寝込んだとき母親に厳しくされたことがない。どんなにぐずっても、母親はいつもの適当さと打って変わって、優しい言葉を私に投げかけていた。きっと、忍耐強く優しい人は、いくら正しい行動を強いるためであっても病人に苛々した口調で言葉を浴びせたりはしないのだろう。
わあ、という子供の泣き声と、疲れた母親の叱り声が耳から入って中で響いた。数秒だけ目を閉じる。目を閉じて、どんどん増幅する悲観的な思考をうやむやのままに終わらせようと試みる。いいかげんにしてちょうだい、ママゆうくんのこと置いてくよ、という声に滲む疲れを、分解してふるいにかけて熱してみたら、小さくなった愛情があらわれるのだろう。そんなことは、誰でも数秒間考えれば分かることだ。苛々した言葉が愛情から生まれることもある、なんていうのは、誰しもが分かるはずの事実である。
目を開けてレジへ向かおうとしたときに、泣きわめく子供についに怒鳴った母親を、冷たくねめつけて通り過ぎる女性が、目に入ってしまって、心は少しぐらついた。
重い荷物を前かごに置いた走行は、少しの油断で危険なものになる。アパートの駐輪場に自転車をとめながら、途中荷物の重さにハンドルをとられて転びそうになったことを思い出し、背筋を寒くした。性懲りもなく自分の性質についてうだうだと考え事をしているから、そういう危険に脅かされてしまう。はあ、と重くため息をついてから、音をあんまり鳴らさないように外階段を上がった。
鍵を差し込んで回し、戸を開ける。習慣で「ただいま」と言いかけて、木綿子さんが寝ていることを考え口をつぐむ。起こしてしまうのも嫌だし、もし頭痛でもしていたら、それに響くかもしれなかった。
靴を脱いで冷蔵庫に向かう。ゼリー三つとスポーツドリンク一本をしまって、冷蔵庫の扉を閉めた。薬局の方の袋から冷却シートと風邪薬を取り出して、箱の裏側に書かれた説明書きを読んでいく。風邪薬の方の説明書に、「水、又はぬるま湯」「食後」という言葉があったので、ひとまずスポーツドリンクとコップ、冷却シートを持って、木綿子さんの部屋に入った。
豆電球をつけて最低限の視界を確保する。ちょうどよく折り畳み机がすぐそばのタンスに立てかけられていて、それを物置につかうことにする。折り畳み机を立てて、その上に重いスポーツドリンクから置いた。
ベッドの上で木綿子さんは寝息をたてていた。様子をうかがおうと顔を覗き込んでみると、額に汗が浮かんでいる。急いで脱衣所からタオルをとってきて、木綿子さんの額と首元を拭った。
木綿子さんはタオルの感触に少し身じろぎしてから、眉をひそめてゆっくりまばたきする。
「木綿子さん、大丈夫ですか」
「……桐ちゃん」
「辛かったら喋らなくてもいいですよ。とりあえず、ちょっとおでこに貼るので、失礼します。ひやっとするかも」
木綿子さんの前髪をかき上げて、冷却シートを貼る。独特の、弾力ある産毛のようなシートの感触に、今自分が看病をしていることを強く意識した。
「ありがとう桐ちゃん。わたし、普通に喋れるよ、喉もそんなに、痛いわけじゃないから」
「それは何よりです。食欲はありますか。一応ゼリーとかもありますし、おかゆも作れますよ」
「うーん、あんまり、お腹は空いてないかな。大丈夫」
「じゃあ水分だけでも摂っておきましょう。体起こせますか」
「うん。ちょっと待っててね」
ずさ、と掛け布団が動き、木綿子さんが右手をついて身体を起こそうとする。その様子があんまり危なっかしいので、傍に寄ろうとすると、案の定支えとなっていた右腕から力が抜けた。慌てて木綿子さんの背に手を回して、そのまま引っ張り起こす。ヘッドボードにもたれさせて、崩れないのを確認した。机に向き直って、スポーツドリンクをコップに注ぐ。
「ごめんね桐ちゃん。ありがとう」
「気にしないでください。はい、これ。持てますか」
伸びてきた木綿子さんの手にコップを渡す。
と、その瞬間、コップが木綿子さんの手から抜け落ちた。咄嗟に、掴んで、間一髪、床に落ちるぎりぎりのところでコップは私に捕らえられる。指に陶器の感触を確かに覚えて、一気に汗が噴き出した。スポーツドリンクの飛沫が、床に点々と光っている。危なかった。これで割れでもしていたら。「ごめんなさい、別のコップにすれば良かったですね」と言おうとして顔を上げると、木綿子さんが真っ青な顔をしていて、嫌な予感が頭をよぎる。
「木綿子さん」
「ごめん、ごめんなさい、ちゃんと持てなくて」
木綿子さんの顔が青ざめた理由を理解して、嫌な予感に胸が騒いで、脳の奥が熱くなった。
「いや、今のは私が悪いです。考えなしにコップ選んじゃったから。プラスチックのやつを持ってくるのでちょっと待っててくれますか」
「違うの、桐ちゃんはぜんぜん、ぜんぜん悪くない。ごめんなさい。迷惑ばっかり、」
木綿子さんが、言葉の途中で咳込んで、なおも言葉を続けようとする。木綿子さんの青い顔と、かすれた声と、その言葉の内容が、脳みその中をぐるぐる渦巻いて、私を混乱させていた。脳の奥の、一部分だけが正しくそれらの意味を受けとって、「何をさせているんだ」と私を怒鳴る。
「かえってうざったいですよ、そういうの」
自分以外の誰かが言った言葉ならどんなに良いかと思った。言ってから、たった今まで開いていた口が、急に他人のものになったような感覚を覚える。耳は正しく私の声を受け取って、そのまま胸に澱を流し込む。
「……そうだよね。分かった。ごめんなさい」
そう言って、重力に逆らわずに木綿子さんは項垂れた。頭ががんがん鳴っていて、胸に訪れたのはいつもと同じ後悔だ。
立ち上がって木綿子さんの部屋を出る。そのまま台所に行って、戸棚からプラスチックのコップを取り出す。陶器のコップはシンクに置かれて、ごとんと音を立てた。その音で初めて自分が粗雑な置き方をしたことを知った。
胸の中にじわじわ淀みがこみ上げて、それがこれ以上上の方まで来ないように、ぎゅっと目をつむる。
木綿子さんを無理な体勢で待たせたままだと思い至って自己嫌悪はさらに深まった。シンクの縁に手をついて、澱を吐き出すみたいに息をついてから、足取りは重く、しかし急いで部屋に戻った。木綿子さんに声をかけることはできないまま、新しいコップを静かに机に置くことに集中する。スポーツドリンクを注いで、伸びてきた木綿子さんの手にコップを渡して、すぐにコップの底に手をあてがう。そのまま、木綿子さんの手からコップがいつ落ちても良いように、木綿子さんの口元までコップを手で追いかけた。木綿子さんがきちんと嚥下したのを確認してから、コップを受け取る。
「ありがとう桐ちゃん」
喉がひりついて、ごめんなさいという言葉が出てこない。
「ねえ、もしよかったら、桐ちゃんここに居てくれる? なんかあったとき、不安だから」
「……ええ、もちろん。何かあったらすぐ言ってください。それで、少しでも食欲が出てきたら、とりあえず何かお腹に入れて、薬を飲んで、ちょっと良くなったら病院に行きましょう」
「分かった。ありがとう。じゃあ少し横になるね」
ずるずる落ちる木綿子さんを手伝って、元のように横たえる。「桐ちゃんありがとう」とお礼を言う木綿子さんが、微笑んで目を閉じたことに、罪悪感を覚えて死にたくなった。
木綿子さんが眠りに落ちていくのをぼうっと見守ってから、ベッドのそばに座り込む。ポケットから携帯電話を取り出して、「風邪 看病の仕方」で検索する。ヒットした記事を読みながら、病院に行くタイミング以外は合っていることにほっとした。
中途半端に暗い部屋の中で、液晶画面が光っている。その光を見ながら、今までの様々な後悔が、どんどん胸の深い方へと押し寄せてくるのを感じていた。光が消える。まだ目には白がぼんやり残っている。
木綿子さんに優しくされるとうれしくて、自分が特別な人間になったような気がした。周りの人へ素直になれずに孤立しかけていた私にとって、何も変わらず、いつでも、私が何をしても同じ優しさを向けてくれた木綿子さんは、大きな支えだった。何をしても受け止めてくれて、決して私を傷つけない。そんな優しさの塊みたいな人がそうそう居るわけもなく、木綿子さんと梓が離れてしまってからは、私は人間関係にとても苦労して、独りぼっちで悩むしかなかった。
荒んだ状況の中で、木綿子さんを思い出して、会いたくて仕方なくなった。あの優しさが欲しい、と渇望した。自分の身の内にあの性質を持ちたいと願って、そうして木綿子さんのまねごとを始めた。びっくりするくらいに、棘はあっという間に消えて無くなって、私に笑顔を向けてくれる人が増えるようになった。
七年間、なぞってなぞって、完璧に取り込んだと思ったのだ。完全にあの性質を自らのうちに取り込んだ、そう思ったのに、木綿子さんに会ったとたんに上手くいかなくなってしまう。
木綿子さんの前では、心と口をつなぐ道がどんどん捻じれてしまって、結局心にあった思いとは似ても似つかないものが飛び出ていく。そのたび自分が嫌になって、こんなはずじゃなかったと思うことの繰り返し。
もう何回やっただろう、あと何回これをやるんだろう、と考えて、絶望的な気分になったその時、ぱっと携帯電話が光って、着信音が鳴り響いた。
画面の真ん中には「梓」の文字が浮かんでいて、頭にはてなが浮かぶ。一瞬気をそがれたものの、着信音を止めるためにはとりあえず電話に出なければならない。画面をスライドして、電話を耳までもっていく。予想もつかない用件は率直に梓から聞くことにした。膝立ちになり木綿子さんが眠りについていることを確認してから、ようやく電話の向こうに意識が向く。
「桐、聞いてる? 今大丈夫?」
「うん。ごめん大丈夫。急にどうしたの」
「桐ってりんご好き?」
急な電話の急な質問にびっくりする。最後に梓と話したのは半年ほど前のこと、公園での短すぎる会話だった。その時も碌な話をしていないので、実質私たちには七年半の空白がある。それを一気に飛び越えてりんごの話とは、流石木綿子さんの弟だな、と七年半の空白分、他人行儀なことを思った。
「なんで?」
「ばあちゃん家からりんごが大量に届いて、とてもうちだけじゃ消費しきれなくて、姉さんのところに送ることになったんだけど、どのくらい送ろうか迷ってるの。姉さんはりんご好きなんだけど、そうは言ったって限度あるでしょ。桐がりんご好きならいっぱい送るんだけど、さすがに桐の好き嫌いとか覚えてなくてさ。で、どう?」
ことの次第を理解する。ありがたい申し出に、「普通に好きだよ」と適当に返そうとして、少し、自分の現状に対する興味が首をもたげた。
「ありがとう。すごくうれしい。ぜひ送って。ほんとに好きなんだ」
声は柔らかく送話部に吸い込まれて行った。アルバイト先で、大学で、近所で、七年間のうちで、試みてきたことと同じことが、梓相手にならできる。木綿子さん相手にできないことが、梓相手になら。
「なに、何その喋り方。気持ち悪いんだけど」
「梓相手になら、やろうと思えばすぐにできるんだけどな」
「何が」
「素直なふるまい」
受話口からは息を飲む音が露骨に聞こえてくる。そうだった、梓は割とざっかけない対応をする人間だったな、と思い出して、懐かしい気持ちになった。
「……なに、なんか辛気臭いな。風邪でもひいてるの?」
「風邪ひいてるのは木綿子さん。私はひいてない」
「そうなの? 姉さんにお大事にって言っておいて。かわいそうに」
「そうでしょ。かわいそうなんだ、ほんとに。……私はそういう病人相手に、さっきも嫌味を言っちゃった。別にそれは本心じゃないのに」
ふっと心の内をさらわれたように、言葉が飛び出て、言うつもりもなかったことを言った自分自身に驚いた。
「なんだ、姉さんに対して素直になれないの。ならなくてよくない? 別に」
帰ってきた梓の言葉にはもっとびっくりする。
「どうして」
「バイト先の上司とか大学の先輩に猫かぶりできないのは実害があるけどさ、姉さん相手にツンデレかますくらい別に良くない? それに、どうせそれ、桐が勝手に悩んでるだけで姉さんはさして気にしてないんでしょ」
「いや、確かに気にしてはないかもしれないけど、私に言われたことで落ち込んだりはしてる」
「別に平気だよ。なんかさ、ひねくれてるのだって桐の素と言えば素だろ。『本音をうまく言えない』っていう素。姉さんの前でそれをできるってことは、姉さんと気心知れてるってことなんじゃないの」
淡々とした梓の言葉が頭に入って、携帯をぎゅっと握りしめた。項垂れる木綿子さんの姿がぱっと脳裏によみがえる。
「私はそれじゃ嫌なんだ。猫かぶりとか、そういう問題じゃなくて、本心では優しくしたいのに、その気持ちに素直になれずにひどいことばっかり言っちゃうのを直したい。木綿子さん以外の人相手なら、優しい気持ちに素直になって、優しい言葉で話せるのに、木綿子さんの前でだけ、うまくいかないの。木綿子さんみたいに、木綿子さんに優しくしたい。勝手な話だけど、あこがれてるの、ああいう風になりたい」
「あこがれてる? 桐が姉さんに? 初めて知った。面白いね」
「面白がらないでよ。真剣なんだから。……ああいう風になりたいよ」
「ならなくてもいいでしょ。姉さんがいるんだから」
「は?」という言葉に、できるだけの困惑を詰め込んだ。りんごの話と同じくらい突拍子もない理路だと思った。
「姉さんみたいに素直で優しい人はもう姉さんで足りてるんだよ。だからもう、わざわざ桐が素直で優しくなる必要なんてないの。桐は今までの状況を不満に思ってるけど、桐も姉さんもその家を飛び出したりしなかった。もうその家には飽和状態なんだ。素直で優しい人は姉さんだけで充分。それでちゃんとうまく回るから、桐はひねくれたままでもいいんだよ」
「梓、ちょっと面倒くさくて適当になってきてるでしょ」
「ばれた? まあでもさ、相手がいる問題で、その相手が何も思ってないなら、そう簡単に解決するものでもないよ。あんまり気に病まないでおいたら」
「……うん。ありがとう」
それじゃありんごは三日以内に送るね、と言う梓にまた礼を言うと、じゃあねと聞こえて電話は切れた。久しぶりの幼馴染との会話は、主題のりんご以外はとりとめもないものだった。意図しなかった相談の結論は与えられず、私に渡されたのはなだめの言葉とよく分からない理屈だ。
「姉さんみたいに素直で優しい人はもう姉さんで足りてるんだよ」という言葉の意味を考える。「飽和状態」という単語にしても、どうにも抽象的で納得しにくい。頭の中には、木綿子さんからもわもわ白い綿毛みたいなものが溢れて部屋を占領して、私がそれに押しつぶされる想像上の情景が浮かんでいる。あまりにくだらないのでさっさとかき消して、ため息をつく。
ベッドのヘッドボードの方まで身をずらし、膝立ちになって木綿子さんの顔を覗き込む。木綿子さんは、枕に顔を埋める途中のような形で横向きになって、落ち着いた寝息を立てている。部屋が暗くて、その顔の色が分からなかった。静かに、起こさないように、その頬に触れる。
所詮優しい人の真似事だ。伝わる熱に辛くなる。
「あなたに優しくしたいんです」
あなたにしてもらったみたいに。自分の心の通りに。
○
意識を掴んで手繰り寄せて、最初に感じたのは倦怠感だった。まばたきをするうちに、頭痛や喉の熱さ、身体のどうしようもなさが次々意識の範疇に入ってくる。
喉の渇きに気が付いて、コップを探して視線を動かすと、すぐ下に桐ちゃんの頭が見えた。ベッドにもたれかかっているんだ、と分かって、そちらにゆっくり呼びかける。
「桐ちゃん」
「木綿子さん。大丈夫ですか。どうしました」
すぐに返ってきた声には心配と慈しみが完璧な配分で表れていて、思わずうれしくなる。
「喉渇いた」
「分かりました」
桐ちゃんが立ちあがって、わたしの方に身を傾けて、わたしの背中に手を回す。それに甘えて、手を伸ばし桐ちゃんの肩を掴む。引き上げられて、ヘッドボードに寄りかかる。ベッドから退いた桐ちゃんが、ペットボトルからコップにぽこぽこ音を立てて飲み物を注ぐ。すぐにわたしの口元まで運ばれて、ありがたくコップを受け取った。今度はちゃんと持つことができた。先ほどよりは身体に力を入れやすい。
喉を潤して、コップを桐ちゃんに渡す。一つのことが満たされて、少し余裕ができる。息をついて、額のシートがまだ冷たいことに気が付いた。時間の経過はよく分からないけれど、さっき貼られたシートが温くなる程度の時間は眠っていたはずだった。寝てる間に取り替えてくれたんだ、と思って、感謝の念を深くする。
「木綿子さん、お腹は空いてますか。薬が飲めるとだいぶ楽になると思うんですけど」
「うん、ちょっとお腹空いた。ゼリー食べたい」
「持ってきますね。すぐ戻ってきます」
「ありがとう」
ぱたぱたと部屋を去る桐ちゃんを見送ってから、首をひねって枕元の時計を確認する。欠勤の連絡をしたのが十時ごろで、今の時刻が四時半くらい、窓の外がかすかに明るいから、計六時間半ほど眠っていたのだろう。熱が上がっているのか下がっているのかは判然としなくて、あとで桐ちゃんが暇そうだったら体温計を持ってきてもらおうと思った。
音を立ててドアが開いて、光の長方形の中にお盆を持った桐ちゃんが現れる。
「木綿子さん、電気付けてもいいですか」
「うん。付けて。ありがとう」
桐ちゃんはお盆片手に器用に照明を付ける。ぱちぱちっと音がして部屋が明るくなる。お盆が机の上に下されて、りんごのゼリーとスプーン、風邪薬、水の入ったコップが乗せられているのが分かった。
「りんごだ。好き」
「あ、そういえば、本物のりんごがあなたのご実家から近いうちに届きますよ。梓から電話が来ました」
「そうなの。りんご。すりおろしたの食べたい」
ゼリーの蓋を開けた桐ちゃんがこちらを向く。
「今食べたいですか? それなら買ってきますよ。送られてくるのは明後日か明々後日かもしれないので」
「いやいや、いいよ。たぶんね、後悔するよ。うなされるくらいいっぱい来るから。あーあのとき買った一個さえ恨めしい、ってなるよ」
ほんとうにいいんですか、と言いながら、桐ちゃんがベッドの縁に腰掛ける。美しい手がスプーンで金色がかった透明をすくう。
「はい。口開けてください」
「え、あ、うん」
慌てて開けた口に、冷たいゼリーが入ってくる。口を閉じるとスプーンを抜かれる。
「ずいぶん甘やかしてくれるのね」
「好きでやってるので。気にしないでください」
スプーンは容赦なくゼリーに割り込む。気にしないでくれ、と言う桐ちゃんの顔が、どことなくじれったそうで、寂しそうで、わたしは間抜けに口を開けながら、その表情の意味を考えた。
口に運ばれてきたゼリーをさっさと飲み込んで、今度は言葉を発するために口を開く。
「桐ちゃんは優しいね」
虚を突かれたような表情をした桐ちゃんは、数秒して、信じられないものを見るようにわたしを見て、「どこがですか」と小さく尋ねた。子供みたいな声だった。
「わたしに優しくしたがってるところ」
桐ちゃんの手元が狂って、ゼリーはいよいよ蹂躙される。桐ちゃんの耳元が赤くなったのを見て、先ほどの表情の意味を、それほど間違っていない形で掴んだのだと分かった。
「甘やかさないでくださいよ……」
「好きでやってることなので」
そう言ってしたり顔をしたわたしを見て、桐ちゃんはゼリーを大きくすくい、先ほどよりやや雑な素振りでそれをわたしの口まで運ぶ。熱にふわふわ浮かれる頭で、このまま眠りに落ちたとしてもこの桐ちゃんの顔はずっと記憶に残っているだろうな、と思った。
ゼリーは冷たくて気持ちがいい。優しくされている、きちんと考えられている、という実感は、心のうちに穏やかに広がっていく。ゼリーを飲み込んで、「ありがとう」と何度目かのお礼を言った。このゼリーを食べ終えたら薬を飲んで、また眠る。それらの行動のそれぞれすべてに、きっと桐ちゃんの手伝いが入るだろう。彼女のそのやさしさを、この熱が引くまでは、存分に受け取ってしまおうと考えた。
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