九月の散歩





 窓から入る陽光が照明代わりだ。節約の名のもとに、部屋の天井から下がる環状は切られてしまっている。窓の面積かける長さ一メートルくらいの体積が暗い肌色に満ちて、そこに埃が躍っていた。桐と木綿子が机を挟み向かい合って座っている。桐は氷が溶けて通常よりだいぶ薄くなった緑茶を、ぼんやり口に運んだ。太陽は移動し、光の差す向きは変わり、埃は舞って、二人もわずかに動く。しかしそれらの動きのすべてがのったりしたもので、この状況を言い表すには停滞という語がぴったりだった。どぶ川の底の泥がかすかに揺蕩っている感じ。
 アルバイトは休みである。大学はあと数日で始まる。友達との旅行や実家への顔出しといった夏の長期休暇によくある行事もとうに終わって、今日はもう何をしてもいい日だ。しかし、何をしてもいい、となると途端にやる気は萎えるもので、桐も木綿子も二人してぼうっと息をしている。節約のため、自室ではなく居間に二人で居ることがこの夏の習慣となって久しく、今も桐と木綿子の二人で居間にいるのだが、特に二人が何をするわけでもない。停滞。だってなんだか口を開くのも億劫だ、と桐は思った。
 木綿子がテレビのリモコンを手に取って電源を入れる。ぱちんと音がして、夕方のゆったりしたニュースが流れ始めた。にこにこした司会者の後ろに、丸みを帯びた月の、大きな画像が出る。
「ああ、今日十五夜ですか」
「そうみたいだね。今年はぴったり十五日なんだ」
 二人で、今日久しぶりの会話をする。テレビ画面にはピラミッド型に積まれた丸い餅とすすきのセットが登場し、今はこんな風に準備を出来る家庭は少ないだろうがたまには月を眺めるのもいいんじゃないか、というようなことをアナウンサーが言った。
 画面の端に佇むすすきに、ふと、桐は近所の空き地を思い出した。桐がここに引っ越してきた当時から、その場所には何の建築物もなく、桐は空き地としてしかそこを知らない。そしてその空き地には、すすきが大量に生えている。桐はそこを通り過ぎるうちに、知らず知らずその光景を頭に留めていたようだった。
「そういえば、肉屋行く途中の道に、すすきがいっぱい生えてる空き地がありますよね」
 思い出したから言っただけ、というような他愛もない桐の言葉に、木綿子がぱっと面をあげる。その顔には、桐のぼやけた声の調子とは違った、真剣な趣があった。
「本当? すすき生えてるの?」
「ええ。木綿子さんすすき好きなんですか」
 やけに食いつくな、と桐が訝しんでいると、木綿子が急に立ち上がる。
「見に行こう!」
 木綿子の急な言動に驚きつつも、桐は告げられた内容を理解しようと試みた。見に行く。すすきを。わざわざ。窓の外が、桐の視界の端に光った。煌めいて威圧する。
「木綿子さん、九月って言ってもまだ暑いですよ。わざわざそんなの見に行かなくても」
「いや、行こう。このまま外に出ないでじっとしてたら人間としてだめになる気がする」
 木綿子の言葉の響きは切実だった。この停滞した状況をなんとかしたい、という思いは、桐にもうっすらとある。確かにこのままぼうっとしていたらあっという間に夜になりそうだ、と考えて、桐は窓の方を見た。窓の外の屈託のない明るさはいかにも暑そうな様子で、それは少し桐の腰を重くさせる。しかし。
「そう言われると反論しにくいですね」
 向かいの木綿子の意気に溢れた様に思うところがあったのか、桐は木綿子の提案に乗った。
「じゃあせっかくだから、スーパーまで行ってなんか和菓子でも買いますか」
「うん!」
 淀みが流れ出していく。テレビを消した木綿子が、準備のためにぱたぱたと楽しそうに部屋に戻った。そういえば、お月見なんてかれこれ何年していないだろう、と桐は考えて、久しぶりの行事に、少し浮かれた気持ちになった。


 外気は暖かかった。暑くはなかったことにほっとして、桐は玄関の戸の鍵を閉める。階段を早足に下る木綿子を目の端に入れながら、あまり道に人がいないな、と桐は思った。アパートにも人気はないが、それはいつも通りのことである。
「このアパート、私たち以外に住人いるんですかね」
「わたしも住んで二年目になるけど、他の人一回も見たことないなあ。物音とかもないし。居ないような気がする。まあ気になるけどわざわざ見崎さんに聞くのもね」
 答えながら、木綿子は前方に何か見つけたらしく、ぱっと駆け出した。その様子を子供っぽいなあと思いながら、桐は歩いて後を追う。
 追いつくと、屈んだ木綿子がどこかの犬を撫でているのが目に入る。小さくて毛が長い犬だ。犬は威嚇する様子もなく、おとなしく木綿子に撫でられている。すぐそばに飼い主が居て、にこにこしながら犬が撫でられている様子を見つめていた。
「可愛いですね。なんていう犬種なんですか」
「シーズーです」
 木綿子がもっぱら犬に関心を向けているので、桐は飼い主の方に話しかける。穏やかで明るい調子のその人と、桐はかんたんに近所の話をした。八百屋が来夏からのリフォームでしばらく店を閉めることや、このあたりで一番大きいスーパーのレジ袋がとうとう有料になることなどを話すうちに、犬がそろそろ木綿子の方から飼い主の足元へと動く。それを契機にして木綿子は犬を撫でるのを止めて立ち上がり、犬の飼い主もリードを手繰り寄せた。桐と木綿子と飼い主とでお礼を言い合って別れる。木綿子はとことこ歩く犬の後ろ姿をしばらく見送っていた。
「知り合いなんですか、あのひと。私初めて見ました」
「四限終わりの日の帰り道で割とよく会う犬なの。ナツって名前なんだよあの子。でも飼い主さんの名前は知らない」
「独特の関係ですね」
「うん。実際、ナツを連れてなかったら、飼い主さんだって分からないかもしれない」
 でも他のシーズーとナツの区別はつくよ、と木綿子が得意そうにするのを、桐は微笑ましく思った。
「犬より人間の区別がつくようになった方がいいんじゃないですか。というか、木綿子さん犬とか苦手なんだと思ってました」
「えー、好きだよ。あ、でも曲がり角の犬は怖い。めちゃくちゃ吠えてくるから」
「私もあそこの犬はあんまり好きじゃないです」
 スーパーへ行くまでの道の、曲がり角の家の前の、やたら通行人に吠えたてる犬を、二人で思い浮かべる。番犬らしくて素敵なことだが、吠えられる側からするとあまり良い気はしない、という感想は、桐も木綿子も一致するところだった。
「この辺りは結構犬飼ってる家が多いですよね」
「ね。よく犬連れの井戸端会議を見かける」
「それに通りかかるとき、いつもどう挨拶していいか迷います。結局会釈だけしますけど」
「そうだよね。どこ住んでる人なのかも分かんないけど、よく顔を合わせることは確かだし。考えてみたら、こっち来てからいまいち実家の時みたいな近所づきあいないなあ」
 二年前までの生活を思い出して、木綿子がしみじみと言う。「普通アパート住んでたら交流はそのアパートの人としますもんね」と桐が返すと、木綿子はふっと顔色を変えて、「店子がわたしたちだけで見崎さんは大丈夫なのかな」と、したところでどうしようもない心配をし始める。
「見崎さん、何か別の仕事でめちゃくちゃ儲かってそうじゃないですか? ちょっと怪しげなんですよね。初めて見た時から思ってたけど、あれだけにこにこされるとかえって不審というか」
 なんとなく以前から思っていた見崎の印象を桐が言うと、木綿子は一瞬目を見張ってから、じわじわとうれしそうな顔をした。
「わたしもそう思う!」
「そこまで全力で同意されると思いませんでした」
 歩みもとたんに弾んだような調子で、何故だかやたらうれしそうな木綿子を、桐はまじまじ見つめる。陰口への共感で楽しげにする木綿子を初めて見た桐は、目の前の木綿子に少し違和感を覚えた。
「そんなに見崎さんのこと嫌いなんですか」
「ううん。全然。うさんくさいけどいい人だと思ってるよ」
 そう言って、邪気なく笑う木綿子を、不審である、と桐は思った。しかし、その不審さを訝しむ、おさまりの悪い気持ちは、なぜか木綿子の笑顔によって、だんだんと小さくなっていく。結局、桐は追及をせずに、機嫌の良い木綿子の隣をただ歩いた。たまにちらと隣を見て、木綿子の笑顔に屈託がないことに、居たたまれない気分になったりした。


 そのまま他愛のない話をしながらゆっくり歩くこと数分、桐が右手側に目線をあげた。木綿子もその目線を追って、驚く。視線の先には、木綿子の予想よりずっと多いすすきがあった。
「ほら、これですよ、すすき」
 桐の背より五十センチほど高い、ミントグリーンのフェンスに覆われたその場所には、すすきがぎゅうぎゅう詰まっていた。細くふわふわした植物でも、これだけの背の高さと数があると、重苦しい印象がある。ぽかんと口を開けた木綿子を見て、桐はいままでの歩数分の疲れを一気に感じた。
「想像してたのと違う、って感じですね」
「なんかもっと、空き地に局所的にすすきが生えてる感じかと思ってた。これ、多分この場所に隙間なく生えてるね。こうして見ると、すすきってあんまり涼しげじゃないなあ」
 たまに吹いてくる風に、すすきはばさばさと揺れる。風流というには大げさすぎる、と改めて桐は思った。
「じゃあスーパー行こうか」
「切り替え早いですね」
「だって、すすきが見たいのもあったけど、外に出ること自体が目的だもん。外に出てあのだらだらした感じが終わるならなんでもいいの」
 そう言って、木綿子はまっすぐ歩きだす。桐は慌てて木綿子の手を引っ張った。
「木綿子さん、スーパーこっちですよ。さっきの道に戻らなきゃ」
「さすがにそんなの分かってるよ。せっかく外に出たんだから、遠回りしていこう。遊歩道の方通っていこうよ」
 そして桐に手をつかまれたまま、木綿子は歩き出す。太陽が雲から抜け出て、視界が光った。首筋に熱を感じて、その熱が全身に回って、桐は一瞬迷う。暑いから近道の方を通ってさっさと用を済ませましょう、と言おうとして、桐はなぜか一歩踏み出した。そのまま足は運ばれていく。
 木綿子に手を引かれたような形になって、今日は、思っていることがうまく行動に結びつかないな、と桐は思った。その原因であろう木綿子の、その背を見て、木綿子に気付かれないように息を吐く。このため息に木綿子が気付いたら、自分の幼い行動に対してなされたのだと勘違いするだろうと危ぶんだためだ。桐は、ただ自分自身に呆れていた。
 今の状況のように、木綿子の言葉や表情によって、桐は自分の意志が通せなくなることがある。陰口を楽しむなんて木綿子さんらしくない、と思ったり、暑いから早く家に帰りたい、と思ったりしても、木綿子の笑顔やきっぱりした言葉を見聞きしたとたんに、自分の考えに反して、そのまま状況に従順な行動をとってしまう。それがなぜなのか桐にはよく分からず、ただ、木綿子の笑顔や言葉を意識するときは、いつも決まって、鼓動がして、こめかみでどくどく音が鳴って、頭にもやがかかることだけ知っていた。どうしてそうなるのかは分からない。ただ、そういう状況に置かれて、鼓動がする一瞬前に、あきらめにも似た気持ちで、これから自分の意志が消えてなくなることを悟るのだ。
 桐は、ときどき自分の身に起こるそれが、普段の自分のままならない態度と共通しているように感じて、自分のことをどう理解すればよいのか分からなくなる。通常、木綿子に対しての桐の朗らかな思いは、捻くれた言葉になって表れる。たとえ木綿子を可愛い、微笑ましい、素敵だ、と思ったとしても、桐から木綿子に発される言葉はとげのある皮肉気なものだ。そうなってしまう自分のことを桐は不満に思っていて、木綿子と同居を始めてからずっと、素直になりたいと願い続けている。自分の酷い言葉が木綿子を損ねることを恐れている。本心は木綿子を尊重しているのに、言葉は木綿子を損ねているなんて、狂っている、と桐は思う。そして、うってかわって、木綿子に対抗するような心情を桐が抱いたとき、桐はその心情をも行動に表すことができない。そこでもまた、素直になれない。頭と心にあるものが、外に出るときには変質してしまう。
 構造や仕組みは同じだ。けれど、桐は、自分の意思に反して木綿子の望みに沿うことを、自分の心に反して木綿子にひどい言葉を発することより、ずっといいことだと思っている。ずっとずっとましな気分。酷いことを言ってしまった後の、胃の重たくなるような気分より、頭が上手く働かなくて、ふわふわしてしまう不安定さの方が、ずっと良い。どっちにしろ、自分が馬鹿なことに変わりはないけれど、と桐は思って、木綿子の手を掴んだまま歩きながら、少し笑った。木綿子はそれに気づかない。太陽はいまだ夏を示すかのように照って、桐の体を熱くした。桐は木綿子に手をひかれるまま、よどみなく歩いた。スーパーへ行くのにはだいぶ遠回りの道である遊歩道に入る。遠回りだ、暑い、と思って、桐はそれを黙っている。
 遊歩道は人二人分ほどの細い幅で、敷かれたタイルは薄汚れて不揃いだった。両脇に等間隔で並ぶ木は高く、影が差して雰囲気は薄暗い。駅からも家からも離れているこの道を、桐も木綿子も通ることは少ない。時折「チカンに注意!」という立て看板もあったりして、通りたいような道でもなかった。例えば冬の夜なんかに、一人でここを通れと言われたってお断りだ、と思いながら、桐は少し足をはやめて木綿子の隣に位置する。でもまあ夏の夕方に、二人でここを歩くなら、別に悪くもないんじゃないか、と考えて、桐がふと木綿子の方を向くと、木綿子も桐の方を向いていた。どきりとする。
「桐ちゃんこの道よく通る?」
「いや、全然。あんまりこの道通って行くような用もないですし」
「わたしもね、あんまり来たことないんだけど、ここ、ナツはよく散歩で通るんだって。飼い主さんがね、オシロイバナが咲いてて綺麗だって言うから」
 木綿子の言葉を聞いた桐がふと脇に目をやると、確かに道の端の花壇にはオシロイバナが連なっている。つつじに似たピンクの花と、オレンジの斑入りの黄色い花があった。木綿子がそのうちの一株に手をやって、何かを摘み取る。
「小さいころ、いっぱいむしりとって、金づちで叩いて割って中身取り出したりしたよね。覚えてる?」
 木綿子の指先につままれているのは黒くごつごつした小さい種だった。オシロイバナの名前の通り、この中には白い粉が詰まっている。桐の頭の中で、鮮やかに情景がひらめいた。ティッシュにくるまれた種を金づちで叩く光景と、集めた粉を入れるための缶の蓋に描かれたうさぎの絵が、写真を見るように、ぱっと記憶に蘇る。
 黒い種と、過去の記憶と、背後の夕焼けと、木綿子のほほ笑みで、桐は眩みそうになる。「桐ちゃん?」という木綿子の声が耳に届いて、桐はなんとか言葉を絞り出す。
「なんでもないです」
「あ、もしかして、覚えてないの? 二人でせっせと集めてたのになあ。そういえば粉を集めてたあの缶、どこ行っちゃったんだろう」
 どっちが持ってたかはわたしも忘れちゃった、と木綿子が笑って、桐はただ黙々と隣を歩いた。今日はどうにも本調子でない、と考えて、遊歩道の果てまでオシロイバナがにぎやかなことに、桐は眩暈がしてしまう。
 どうにか遊歩道を終えて、住宅街を過ぎて大通りに出る。急に人気が多くなって、桐と木綿子は身体を狭めて歩いた。  スーパにたどり着いて、まず二人の目に入ったのが店外に並べられたすすきだった。空き地に生えていたものとは違って、四五本ずつ束ねられたものがそれぞれ値札をつけられて、ゆったりと立っている。
「こうして見ると風流ですね」
「ね。というか、売ってたりするんだね。買う人いるのかなあ」
「いざ買って、十五夜過ぎたらどうするんでしょう」
「どうしてもそこ考えちゃうよね」
 店内に入ると、冷気が二人の肌に沁みた。外と比べると寒いくらいである。パンコーナーや菓子コーナーを回った後に、和菓子がレジの前に特設されているのを発見して、二人はその棚に並べられた商品を見ていった。
「いっぱいありますね」
「シンプルにおもちだけのもあるし。あ、これはあんこ入り。こっちはおはぎとかだね。これおいしそうだな。桐ちゃんきなこ好き?」
「好きですよ。これにしますか」
「うん。わらびもちも」
 かごにいくつか商品を入れて、そのままレジに並ぶ。自分たちの番が来るのを待ちながら、桐は入り口のガラス戸から外を見る。夕焼けはとうに色を分けて、こみ上げた青黒い闇に覆われていた。いつの間にか日が短くなっていることに、少し感慨深くなる。木綿子さんと一緒に住み始めて六か月近く経っているのだ、と考えて、桐はなんだかむず痒いような気持ちになった。
「桐ちゃん」
 木綿子に呼びかけられてはっとして、桐はレジ台にかごを置く。
「今日の桐ちゃんはなんかぼんやりしてるね。眠いの?」
「そういうわけじゃないです」
「早くおうち帰ろうね」
「眠くないです。子供に言うみたいに言わないでください」
 桐は木綿子の優し気な声にとりあえず言葉を返して、ため息をついた。レジの店員が桐の置いたかごを自らの前に滑らせる。木綿子が財布を開いてポイントカードを店員に渡す。『十月からレジ袋が有料になります! マイバッグをお持ちください』という張り紙を見て、桐は今日会ったシーズーとその飼い主を思い出した。
 六百五十九円になります、千円お預かりいたします、三百四十一円のお返しです、という店員の声を、桐はきちんと意識していた。かごをもってサッカー台へと行く。眠くありませんからね、と再度木綿子に繰り返すと、木綿子が分かったよ、と言って笑った。それに桐は顔をしかめる。
「うわあ、もう真っ暗だ」
「日が短くなりましたね」
「月、見えるかな。どこに出るんだろう」
 袋を片手にスーパーを出た桐は、ふらふら先を行こうとする木綿子の手を掴んで軽く引っ張る。
「よそ見しないでくださいよ。自転車ぶつかりそうでしたよ」
「うーん。桐ちゃんこのまま手つないでて。わたし月探すから」
「え」
 上を向いた木綿子の顔が子供のように真剣であったことに、桐はまた、鼓動がして、どうしようもなくなる。
「仕方がないですね」
 それだけ言って、桐はそのままどんどん歩く。半歩遅れて木綿子が上を向きながら後をついていく。
「見つからない」
「今歩いてるところは家がいっぱいありますから。方向が変わって、路地に入れば見えるんじゃないですか」
「そっか。じゃあいいや。ありがとう桐ちゃん」
 木綿子が素直に面を下げて前を向く。桐は依然手が繋がれたままであることに戸惑った。
「木綿子さん、手は」
「別にこのままで良くない? 何があるってわけでもないし」
 何ともないような調子でそう言ってから、木綿子は急に笑顔になる。そういえばさ、と桐に顔を寄せて話しかける。
「今日さ、すすき見に行く途中で、桐ちゃん見崎さんのこと話したじゃない。実は初めて見た時からあやしい人だなと思ってたって。あれね、ちょっと性格悪いかもしれないけど、わたしすごくうれしかったの。桐ちゃん、一緒に住み始めて一日目は、ちょっと猫かぶってたでしょう。桐ちゃんがそんな風になってるって知らないからさ、わたし、あの日桐ちゃんを迎えに行く途中で、桐ちゃんは見崎さんみたいな人、あんまり好きじゃないだろうなって思ったの。わたしの知ってる桐ちゃんはそうだったから。それで、いざ会ってみたら桐ちゃんあんな感じだから、結構ショックだったんだ。結局ああいうふうにみっともなく泣いちゃって、でも泣くくらいショックだったの。今日は、あの日もちゃんといつもの桐ちゃんだったんだってことが知れたから、うれしかったよ」
 ああそういうことだったのか、と桐は先ほど小さく押し込めた疑問を解消し、数秒遅れて、言われた内容に驚いた。木綿子がうれしいと語ったその内容が、すべて自分に関わることだと知って、桐は木綿子の方が見れなくなる。
「あ、家が見えたよ、桐ちゃん行こう」
「そんなに急がなくてもいいじゃないですか」
 そういう桐に、木綿子が振り向いて笑う。早く帰って和菓子食べて月を見て、寝るんでしょ、と冗談めかしたように、言う、その笑顔を見て、ああ自分はこの光景を一生忘れられないだろう、と桐は唐突に思った。この時何を話したか、何を買いに行ったのか、ここがどこなのか、この日がいつなのか、そういったことを忘れても、このまるで一枚の写真のような情景だけは、一生頭の中にあって、未来の自分はその記憶を引っ張り出したりするのだろう、と、直感した。写真のように切り取られたそういう過去の光景が、いつか未来の自分をふと襲って、心を苛んでいくことを、桐はもう知っていた。十八年も生きているなら分かることだった。
 手が引かれて、そのままアパートにたどり着く。階段を上がって、ドアを開けるために桐は鍵を取り出した。
「桐ちゃん本当に眠そう。こんなにぼうっとしてるのなかなか見ないよ」
「そうですね。もう眠いってことにした方がいいかもしれません」
 玄関で靴を脱いで、桐は木綿子を先に洗面所に行かせる。持っていたスーパーの荷物を机に置いて、ふと窓の外を見た桐は「あ」と呟いた。
「木綿子さん、ここからちょうどよく月が見えますよ」
 隣家の屋根の上に、綺麗に金色の月がぽっかり浮かんでいる。流石に、こうして腰を据えて見ると綺麗なものだな、と桐は思った。
「うそ、ほんとに見えるの、待って、すぐ行く」
「別に急がなくたって消えませんよ」
 今のところ雲がかかりそうな様子もなく、急ぐ必要はないのだが、木綿子は廊下を小走りでやってきた。窓の外に月を見上げて、顔が輝く。
「すごくきれい。金色だ。大きいし」
「あんまり普段月なんてじっくり見ないので、こうして見ると新鮮です。なかなかいいものですね」
「どうしよう。ちゃんと見ながら食べたいなあ。窓開けてベランダでおもち食べる?」
「蚊が入ってきそうじゃないですか。ベランダ出るなら出るで窓は閉めたほうがいいと思いますけど」
 そう言いながら桐は廊下を歩いて洗面所にたどり着く。手を洗う水音に紛れて、がらがらと網戸が開けられる音が聞こえてくる。手を拭いて居間へ戻ると、木綿子がベランダに立っていた。机の上の和菓子を持ってから、桐もベランダへと出る。
 周りのぼやけた黒とは対照的に、月は鮮烈に光っていた。海もはっきり見えて、桐はなんとなく兎の形を探す。隣では木綿子が感慨にふけるように月を見つめている。その顔を崩したいような気持になって、桐はおはぎのパックを開けた。ピリ、という音に、木綿子が相好を崩して桐の方に寄る。
「日本文学やってると、やっぱり月を見ていろいろ考えたりするんですか」
 きなこに手間取っている木綿子に桐が問いかけると、木綿子はきょとんとした顔をする。
「えー、何、急に。別にそんな難しいこと考えてるわけじゃないよ。歌人じゃないし。私だってそんなに和歌知らないし」
「そういうものなんですか。私は月を見ても兎ぐらいしか思い浮かばないんですけど、いまいち風情に欠けるかなと思って」
「風情ねえ。確かに、『今日の月は何々って歌の月みたいだ』とか言えたら格好いいのかもしれないけど」
 うーん、と木綿子は唸って考え込む。少ししてから、「思いつかない」とさじを投げた。
「好きな月の歌はあるけど、今見てる月の状況と合ってるわけじゃないし」
「どんなのですか。教えてください」
 そういえば、いままでほとんど、お互いの学業に関しての話はしていなかった、と思った桐は木綿子にせがむ。
「えっとね、『すみなれし人かげもせぬ我が宿に有明の月の幾夜ともなく』って歌があって、これは結構好きなんだ。よく通ってきてくれた人が全然来てくれないって歌だから、今の状況とは全然違うんだけど」
「すみなれし、ひとかげもせぬ、わがやどに、ありあけのつきの、いくよともなく」
 覚えておきたいな、とぼんやり桐は思った。なんだか自分まで感慨深くなってしまっている。隣で、いい歌でしょう、と喜んでいる木綿子を横目に、今日の自分はとことん調子が悪い、と桐は考えた。自分の思うようにいかず、感情に振り回されてしまっている。オシロイバナの粉を集めた感の図柄や、木綿子の笑顔が、再び桐の頭を支配して、ふと、桐の口を言葉が衝いた。
「マレーバクだったんですよ、小さいころ、ベランダの柵を乗り越えようとして、母親に今までないくらいに怒られて、わんわん泣いたんですけど、その時ちょうどそばにあった動物図鑑の、開いてたページが、マレーバクだったんです。その時の部屋の間取りも母親の服も髪型も他のことは何も覚えてないのに、その時そばにあった動物図鑑のことはいまだにはっきり、写真みたいに記憶に残ってるんですけど、なんか、あの、木綿子さんもそういうことないですか……」
 言いながら、何をわけのわからないことを口走っているんだろう、と桐は自分で自分におどろいた。なんでもないような些細な記憶が写真のごとくくっきり残ることがある、という話を、なんとなく木綿子にもしたい、と思って、どうしてマレーバクの話をしてしまったのか分からなかった。唐突にもほどがある。今日はもういよいよ駄目だ、と桐は言葉を言い終わらない内に赤くなる。
 木綿子はそんな桐の言葉を聞いて、平然と「分かるよ」と言った。桐は一瞬耳を疑う。
「どうでもいいようなことだけはっきり覚えてるやつでしょう。わたしもいまだに小学校一年生の時の水曜日の時間割覚えてるもん。教室の壁に大きく時間割表が貼ってあって、国語は赤、算数は黄色ってそれぞれ枠の中の色が分かれてるんだけど、水曜日は青青緑緑なの。一二時間目が社会で三四時間目が図工。小学校の時の友達なんて一人も覚えてないのにさ。そういうことってあるよね、なんか」
 しみじみそう言ってから、木綿子は急にからかうような声を出す。
「それにしても、桐ちゃんもずいぶん突拍子がなくなってきたね。結構前にさ、いつだったかな、朝ごはん食べてるときに、桐ちゃんに『桐ちゃんの目の色は夜みたい』って言って怒られたことあるんだよ、わたし。突拍子もないこと言うなって。覚えてる?」
 桐がうつむいたのを見て、木綿子は桐の肩を叩いた。そして、「マレーバク」と口の中でつぶやき、至極楽しそうに笑う。
「似てきたね、突拍子もないところ」
「最悪ですよ本当に」
「なんでそういうこと言うの! いいじゃん別に。六か月もいっしょなんだから。うつってくるの当たり前だよ」
 にこにこしながら、「このまま行くとどんどん桐ちゃんだめになるんだなあ」と嬉しそうに呟く木綿子を、桐は睨む。じっとねめつけた視線は何事もなく微笑みで返されて、桐は見事な月へと目をそらした。木綿子の笑い声に桐がため息をつく。突拍子もない言動をからかうのは私の役目だったはずなのに、と桐は思って、隣の木綿子の変質にくすぐったいような気持ちになった。




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