八月の入浴





 物思いに耽りたい。
 夏の昼間である。生々しい夏は色のすべてを濃く鮮やかに深めて褪せることを許さない。窓の外はきらきら煌めいて眩みそうなほどだ。どこの家からか昼食の匂いが漂ってくる。その家庭もわたしと同じく部屋の窓を開け放しているのだろう。匂いはさえぎられることはない。開かれた窓は騒音が這入りこむのも許してしまって、庭の豊富な緑に上ったセミたちの鳴き声が、延々とわたしの耳を侵している。身体全体に汗をかいているせいで、床に張り付く自分の脚の皮膚や、うなじにのたくる後れ毛を強く意識する。暑さを和らげるために食べていたアイスクリームは溶けてしまっていて、食べ物は温かくなると甘味が増すのだということを知った。
 五感全てが煩わしい。
 物思い、というのは秋の夜にするものだ。涼しくなっていく外気に少し身を震わせて、綺麗な月を見ながら考え事を深めるというのが美しい。または春の夜の儚さに感じ入ってみたりするのも風流だ。少し外れて、冬の朝というのも良いかもしれない。褪せて乾いた情景がふと朝の準備をする手を止めて、頭の中にふっと何かを浮かばせる。
 ただ夏の昼間だけは、どうしたってそういう素敵さの入り込む余地がない。そもそもわたしは夏が嫌いだ。体調を崩しやすくなるし、煩わしいことが多すぎる。単純に、暑くて考え事がまったくはかどらない。
 考えたいことがあるのだ。それなのに今は夏だし、昼間だし、桐ちゃんが節約なんて始めるからクーラーも入れられないし。考え事を邪魔する状況が整ってしまっている。
 言葉にならないうめき声を出して、頭を机に乗せる。桐ちゃんが帰ってきて、こんな風にだらしなくしているところを見たら怒るだろうなと思った。そもそもわたしは今、労働もしていないし勉強もしていない。傍から見れば、わたしはただだらけているだけで、考え事をしたくても出来ないと歯噛みしていることなんて分かりはしないだろう。まったく嫌になる。
 机の上で頭をずらすと、束ねていた髪の先が食べかけのアイスクリームカップに入ってしまった。慌てて跳ね起きて、髪の毛を取り上げると白くアイスクリームが付着していた。このアイスクリームはもう食べられないし、わたしは髪を洗わなければならない。気分がさらに落ち込んでいく。
 夏の日はあまり動きたくないけれど、そうも言っていられないので、よろよろと流しに向かう。アイスクリームを三角コーナーに捨ててから、蛇口を捻り、屈んで髪の先を水に濡らした。十数秒さらして、しかしなんとなくまだべとついているような気がする。
 自分の行動のすべてが馬鹿みたいだった。同時に、自分に呆れる、という感情の動きさえ面倒くさい。
 今頃せっせとアルバイト先で働いているだろう桐ちゃんを思ってため息をついた。今の自分と桐ちゃんには明らかに人間の質に差がある。
 桐ちゃん、と頭の中で桐ちゃんを呼んで、ふと緩んだ自分の体に一斉に外気の熱やセミの声がまとわりつく。さっきからずっとこれだ。桐ちゃんのことを考えようとするたびに、夏に邪魔されている。
 そもそもこの物思いのきっかけは三週間前の梓の発言だ。まだ外気の熱が今ほどひどくなかった頃、一泊二日で実家に帰った。別に母や梓から呼ばれたわけでもないし、大切な用事があったわけでもない。理由はごくごく私的なことで、わたしはホームシックを解消したかったのである。そのとき何日も続いていた欝々とした気分にはいいかげんうんざりで、わたしはそれをホームシックのせいだと判断した。実家に帰れば寂しさから解放されて、いつも通り気楽に過ごせるようになると思ったのだ。
 慣れた道を帰って実家に着いて、特に感慨もなく玄関を入って廊下を進むとリビングには梓が居た。受験生らしくない涼やかな顔で教科書をめくる梓はわたしに気付き、軽く笑んだ。「ただいま」と言葉を発すると、きちんと「おかえりなさい」と返ってくるのは実家にいたころと変わらない。うさんくさいのはそのほほ笑みだった。
「なんでにこにこしてるの?」
「姉さんがホームシックで帰ってくるって母さんから聞いたから。これは面白いことになったと思って」
「姉のホームシックがそんなに面白いの? 意地悪」
「ううん。ホームシックじゃないことをホームシックだと思い込んでるのが面白い」
 不気味なことを言って、弟はそのまま笑みを崩さない。
「どういうこと? わたしの気持ちがなんで梓に分かるのよ」
「よく考えてみてよ姉さん。姉さん去年はホームシックになんて少しもならなかっただろ。そもそも姉さんは実家を恋しがるタイプじゃない。それに加えて今年は世話焼きの同居人がいる。姉さん、基本的に世話を焼いてくれる人ならその人が親でも他人でも関係ないんだから、実家を懐かしがるわけがない。そんな姉さんが、気分のすぐれない状態がずっと続いているなんて、単純に考えたらそれは今年に入って姉さんの身に起きたことが原因に違いない。そうなるともう答えはひとつじゃないか」
「その焦らすみたいな喋り方、やめてって前もわたし言ったよね」
「だからさ、ホームシックだなんて言ってるけど、普通に桐となんかあったんじゃないの?」
 ぽかんとするわたしに梓は追い打ちをかけた。
「あの桐と姉さんで一つ屋根の下暮らしてるんだから、関係がだんだんこじれてくるのは避けられないことだと思うよ。姉さんも桐も都合よく忘れてるけど、砂町に住んでた時、二人ともにこにこ微笑み合ってたわけじゃないからね。しょっちゅういざこざ起こしてそのたび俺がとばっちりくらってたんだから。桐がきついこと言って、姉さんが言い返せず泣いて、俺がおろおろして桐に蹴られる、みたいなことの繰り返しだったよ」
「そうだっけ」
「やっぱり忘れてるんだ。あのね、姉さん、俺がにこにこしてるのは、二人が今も、昔とまったく変わらない人間性で、昔と同じようにいざこざしてるんだなと思ったから」
 梓が目を閉じた。
「三月に、あの公園で、姉さんが走り出した後、桐が狼狽えもせずにすぐ後を追おうとするから、『何なの』って俺は聞いたんだ。そしたら『私、木綿子さんに優しくすることに決めてるの』だって。馬鹿みたい」
 梓は吐き捨てるようにそう言ってから、弾みをつけてソファーから立ち上がり、教科書を持ったまま二階の自室に引っ込んでしまった。後にはわたし一人が残されて、帰宅してからものの五分ほどの間に起こった出来事にただただ困惑するしかない。もちろんその夜も次の日も、微妙な雰囲気のままの実家で過ごし、母には別れ際「そういえば木綿子はなんで帰ってきたの?」と聞かれ、質問の内容には答えられず、笑って濁して家を後にした。
 結局ホームシックは解消されず、そもそも梓によればわたしの気分のすぐれなさはホームシックの所為ではないらしい。よく考えてみれば何も解決していないし、むしろ梓の発言で懸案が増えている。わたしと桐ちゃんの間に何かがあったという推察も謎だし、梓のあの態度も心配だ。あの弟は根本のところに情があるので、あまり他人に言葉を吐き捨てるなんてことはしないはずなのである。もしかしたら受験のストレスか、と考えて気分はさらに重くなる。自分にも経験があるだけに、わたしまでつられて嫌な気分になってしまった。
 首筋を汗が伝った。嫌な気分はさらに深まる。もう何もかも洗い流したい、と思って、ひらめいた。
 お風呂に入ろう。水風呂を作るのだ。最近はなんだか煩わしくてシャワーで済ませてしまっていたけれど、今日はちゃんと湯船に浸かろう。水に浸かっていればクーラーを付けなくても涼しいはずだ。
 何より、風呂場というのは考え事が尋常でなくはかどる場所である。ゆったり涼しくぬるい水に浸かれば物思いもきちんとできるに違いない。
 それはとても良いアイデアに思われて、わたしはさっそく実行に移すことにした。


 水に入ったところから、冷やかさが始まっていく。少しためらいながら、平生よりだいぶ冷たい湯に体を沈めた。息を吐く。
 窓を閉めてしまえば外のにぎやかさはこちらと何の関係もなくなった。かすかにセミの声と光が差し込むだけで、それは考え事を邪魔できるほどの力を持っていない。
 最近ずっと体にまとわりついていた、外のことも内のことも捨て去ってしまいたいという気持ちが、だんだんほどけて水中に溶けていくのを感じる。やはりこれは良いアイデアだ。来年もつらいときにはこうして水風呂に浸かろうと思う。
 何もかもが夏のせい、というわけではないことに、薄々は気付いている。去年までの自分の実感と比べてみると、例年よりも今夏の疲れはひどい。
 その理由の一つに、おそらく桐ちゃんのことがある。でも決して梓が言うように、わたしと桐ちゃんの間になにかがあったわけではないのだ。わたしと桐ちゃんの間には五か月の期間特別なことは何も起こっていない。普通の、久しぶりに会った幼馴染が同居する、という性質の日常を淡々と送ってきただけで、それは楽しくて居心地の良いものだけれど、劇的なところは少しもない。何かが起こったわけではない。ただ一方的に、わたしが桐ちゃんに対して言いようもない感傷をしているだけだ。そしてその感傷は日を追うごとに暑さのようにひどくなる。
 桐ちゃんと一緒にいるとき、わたしは普通にできている。桐ちゃんと一緒にいるとほっとするし、楽しいし、思わず笑んでしまいそうになることがいっぱいで、幸せな気持ちで一日を過ごせる。問題が生じるのは決まって桐ちゃんがいないときで、だから梓が言うように、桐ちゃんとの間に何かがおこった、ということはありえない。これはわたし一人の問題だ。
 わたしは桐ちゃんをどう思っているのだろう。
 第一印象なんて覚えていない。物心ついたときには傍にいる人だった。痩せていて、乱れがなくて、尖った性格で、目立つ存在で、錐みたいだった。わたしよりはるかに達者で、わたしはそれが羨ましかった。桐ちゃんはいつも落ち着いているところが魅力的な人間だった。熱狂に水を差せる人。正論に説得力を持たせられる人。
 わたしなんか桐ちゃんに比べれば取るに足りない存在だ。優しいんじゃなくて臆病で八方美人なだけ、そしてひたすら子供っぽい。わたしが桐ちゃんだったら、そんな年上の幼馴染には苛々してしまう。わたしでさえわたしに苛々するのに、他人が、桐ちゃんがそう思わないわけがない。最終的にわたしが打ち捨てられることがないのは、桐ちゃんや、わたしの家族や友達が、いつも特別優しい人間だというだけだ。
 「優しくしたい」と桐ちゃんは言うけれど、そもそもわたしは優しくされるような人間なんだろうか。わたしには欠点がたくさんある。桐ちゃんが厳しいことを言いたくなっても、それは桐ちゃんが優しくないということには結びつかない。桐ちゃんの厳しい言葉は、いつだって正しい響きを持っているから、後になってそれは本意ではないのだ、と言われても、困ってしまう。桐ちゃんの言葉は真実で、それは桐ちゃんの気持ちとは離れたところにある。桐ちゃんの言葉が桐ちゃんの本心であろうとなかろうと、桐ちゃんの言葉で表出したわたしの欠点が真実であることは変わらないように思うのだ。
 (『私、木綿子さんに優しくすることに決めてるの』)
 梓の声で語られる、桐ちゃんの言葉。どうして、と思ってしまう。桐ちゃんに優しくされるのは嬉しいけれど、極論を言ってしまえば、別にわたしは桐ちゃんにされるなら大抵のことがうれしいのだ。桐ちゃんが素直だとうれしい。桐ちゃんがわたしを見捨てないでくれることがうれしい。わたしが泣くのはいつだって自分が情けないからで、桐ちゃんに傷ついているわけではないのだ、ということを、どうやって桐ちゃんに伝えたらいいだろう。
 涙を拭ってもらえるのが好きだ。傍にいてくれるだけでいい。
 傍にいてくれるだけでいい、というのがどれだけのわがままなのか考えて、心が引き攣れる。一体いつまでの話なんだろう。馬鹿みたいだ。
 今思えば、わたしは桐ちゃんと離れていた七年間を、どうやって過ごしていたんだろう。自分でもおかしくなるくらいに、桐ちゃんと離れる寂しさを思うと、胸の中にどんどん粘着質の透き通ったものがこみ上げて、体中に繁殖しようとする。桐ちゃんの顔を見た瞬間に名残なく消えていく感傷に、一人の時はこれほどまでに煩わされている。
 もっとしっかりした人間になりたいと思う。落ち着いた情緒を持っている、一人でも大丈夫な人間。感傷に引きずられない、冷静で、大人らしい人間。桐ちゃんみたいな。
 苛々するような子供っぽさを、自らのうちから排除したい。そうして、桐ちゃんのような人、桐ちゃんが認めてくれるような人間になりたい。そしたら桐ちゃんは簡単にわたしに優しくできるし、わたしも桐ちゃんに優しくされることを不条理だとは思わない。わたしは一人でも大丈夫になって、桐ちゃんにもたれなくて済むようになる。それですべてがうまくいくんじゃないだろうか。
 ゆっくり立ち上がると、水が体を落ちていく。汗が落ちるのと違って気持ちがいい。やはり徹頭徹尾これはわたしの問題だ。桐ちゃんのための、桐ちゃんにまつわる、わたしだけの問題だ。
 とりあえず年齢にふさわしい落ち着きを身に着けて、子供っぽく寂しがったりばたばたするのを止められるよう努力しよう。
 物思いが結実して、一応の形を持った目標になってみると、途端ここしばらくの不調が軽くなったような気がするから不思議だ。家で一人きりの時、ここまで気分が良いのは久しぶりである。
 物思いも存分にできたことだし、身体を洗ってシャワーを浴びなおしてしまおう。もうそろそろ桐ちゃんも帰ってくる頃合いだ。


 特に毛先の方を念入りに、髪を洗っていく。二階へと上がっていく弟の襟足を思い出した。そうだ、まだ物思いは終わっていない。あの子は何をあんなに怒っていたのだろう。
 受験の時の、何もかもが不安で落ち着かないのに、上限の分からない努力を強いられる状況にはほとんどの人間が疲弊させられる。それは梓もたぶん同じだろう。飄々として見えるけど、まだ十七歳だ。受験のストレスであんなにとげとげしていた、というのは十分に頷ける。
 それでも、少し反省するところはあった。幼いころからわたしは、自分と梓、自分と桐ちゃん、という関係二つを持っているつもりでいたけれど、梓にとっては、きっと三人で一つの関係だったのだ。わたしと桐ちゃんの関係に何か思うところがあってもおかしくない。それなのにわたしは、弟と自分にそれぞれ向けられる、桐ちゃんの対応の差を気にしてばかりだった。梓の気持ちなんて全く考慮せず、桐ちゃんに遠慮なく接してもらえる立場をうらやましく思っていた。
 考え込んで、なんだかとてもまずいような気がしてくる。そもそも梓にとっても桐ちゃんは幼馴染だし、せっかく桐ちゃんが近くに来たんだから、もっと三人で遊んだりしたほうが良かったんじゃないだろうか。わたしばっかり桐ちゃんを独り占めしている。
 思い至って、手早く頭を流す。風呂場を出てまとわりついた水滴を拭ってバスタオルを体に巻いて、急いで部屋に戻って携帯を掴む。わたしの携帯の連絡先の一番最初は梓だ。
 コール音が三つと少しして、梓の声が聞こえる。
「どうしたの姉さん」
「あ、梓さ、桐ちゃんと遊びたいよね、暇な日ある?」
「急に何? 受験生に暇な日なんてないよ。それに桐と遊びたいなら姉さんに助けてもらうまでもなく勝手に遊ぶから、心配しないでいいよ」
「そうなの?」
 向こう側で大きなため息が聞こえる。桐ちゃんのため息と負けず劣らずの冷たさだ。
「何考えたんだか知らないけど、本当に突拍子もないな。大丈夫だよ」
「ほんとに?」
 携帯の通話口の奥はしばらく無音だった。しばらくして、いつもはっきり喋る梓には珍しく、小さな声が聞こえてくる。
「突拍子もない思い付きの原因は俺か。ごめんね。あの日のあれは桐にも姉さんにも関係ないただの八つ当たり」
「……受験大変?」
「うん。自分ではもう少し上手くやれると思ってたんだけど、結構きついね。でもあと半年の辛抱だから」
「そっか。頑張ってね」
 絶対受かるよ、と付け加える。梓が軽く笑った。雰囲気がぱっと明るくなる。
「というか、桐ちゃんと会ったりしてるの?」
「いや。春にあの公園で会って以来全然。会ったらうれしいけどさ、俺もともと姉さんみたいに桐にべったりしてたわけじゃないし」
「そうだっけ。仲良さそうだったと思うけど」
「まあ会えばね。幼馴染だから。……ねえ、今なんとなく思ったんだけど、正月こっち泊りに来たら? 桐もつれて」
 梓の提案を頭の中に浮かべる。母がすごく喜びそうだ。
「いいかもしれない。桐ちゃんの方も都合あるだろうけど、聞いてみるね」
「うん。たぶんそのころには、俺も覚悟決めてるだろうから。ちゃんとおもてなし出来るよ。今はだめだ。全然だめ」
「そんなこと言わないで。……勉強邪魔しちゃってごめんね。じゃあまた」
「電話ありがとう。じゃあね」
 電話が切れる。息を大きく吐いた。「全然だめ」の声に、いつも通りの茶目っ気があったことにほっとする。良かった。最初の案とは違った結果だけれど、二つ目の物思いは解決だ。
 三週間前とは大違いの柔らかい声が耳に残っている。やっぱり、なんだかんだ優しい子なのだ。弟の性質がまっとうなことに安心して、ベッドに携帯を置く。
 服を身に着けて、バスタオルを脱衣所の洗濯機に入れに行こうとしたとき、玄関のドアががちゃりと鳴る。ドアの隙間から 外界の光と桐ちゃんの頭がのぞく。
「桐ちゃんおかえり」
「ただいま」
 疲れた顔で疲れた声を出した桐ちゃんは、そのまますたすたと歩いてクーラーのリモコンを手に取った。涼やかな音が鳴る。
「なんで! クーラー禁止じゃないの?」
「死ぬくらいなら金を出しましょう。本当に今日の暑さはやばいですよ。何人か死んでるんじゃないかな」
「えー。わたしちゃんと我慢してたのに」
「それは申し訳ないです」
 よく我慢できましたね、と言いながら、桐ちゃんの目はわたしの濡れた髪に留まった。
「水風呂入ってたの。涼しかったよ。桐ちゃんもやるといいよ」
 そう言いながらふやけた手のひらを桐ちゃんの頬にくっつけると、桐ちゃんが驚いたような顔をする。
「桐ちゃんびっくりしてる」
「私汗かいてるんで、あんまり触らない方がいいですよ」
「そう? 別に気になんないけどな」
 桐ちゃんが何かを言いたそうな顔をして、少しの時間そのままだった。口から出る言葉を待っていると、手を洗ってきますね、とだけ言って洗面所へ向かってしまう。なんかちょっと変だ。「手を洗ってきます」というのにあんな顔をする必要はない。
 桐ちゃんを追って洗面所に入る。鏡には桐ちゃんと、濡れた髪のわたしがうつった。
「何しに来たんですか」
 鏡の中の桐ちゃんを見ながら話す。
「何を言いたかったんだろうと気になって」
 桐ちゃんは少し戸惑った顔をした。促すように鏡の中の桐ちゃんを見つめると、ぽつんと小さな声が落ちる。
「たいしたことじゃないです。最近よくくっついてくるな、と思って」
「そういうふうに見える?」
「ええ、このあいだも……」
 言葉は不自然に切り上げられる。そうされると余計気になる。
「前も? 何々?」
 そう言って桐ちゃんに抱き着くと、桐ちゃんがうんざりした顔をした。
「よくよく考えたら木綿子さん寝ぼけてたし。何でもないです。というかそれより、髪さっさと乾かしてくださいよ。今も水滴が飛びました」
「ごめん」
 先ほどの「年齢に見合った行動をする」という目標が早くも崩れている。神妙に謝ると、桐ちゃんがため息をついた。梓のため息と若干似ている。
「あと、そうやって抱き着いたりするのも、ちょっと今は、止めてください」
「ごめん。暑苦しいよね。反省する。……部屋で髪乾かしてくるね」
 冷気の中を歩いてたどり着いた自室は温室のようだった。ついつい桐ちゃんのようにため息をついてしまう。ドライヤーのスイッチを入れて、冷風で髪を乾かす。
 さっき大人っぽくなると決意したばかりなのに、今した行動と言えば、桐ちゃんにくっついたり、落ち着きのない振る舞いをしたり、まさしく子供のものだった。自分で自分にうんざりする。
 思考が風車みたいにぱたぱた動いてどうしようもない。急激だった物思いの結実は、まだ頭に染みわたっていないのだ。寂しさと、大人っぽくなりたいという目標とが、がちゃがちゃぶつかりあっている。子供じみた感傷と、高すぎる目標は、桐ちゃんに関わるということで共通する。つくづくどうかしている。
 温室の空気と同じくらいこもった気分になりながら、ドライヤーのコンセントを抜いた。まだ若干生乾きだけど、これ以上この暑さの中に居たくない。
 ドアを開けると、テーブルに肘をついてぼんやりしている桐ちゃんが見えた。桐ちゃん、と声をかけると、ゆっくりこちらを向く。
「木綿子さん、今ぱっと思いついた質問なんですけど、木綿子さんってどういう気持ちで人にくっつきますか?」
「何、どうしたの急に」
「あんまり考えこまずに、気楽に答えてください」
 桐ちゃんがそう言って、わたしを見つめた。
 その瞬間に、何故か、目標も、物思いも、暑さも、全部ばらばら崩れて、水の中に潜ったときみたいに、やけに苦しくなった。白く光る窓と、桐ちゃんの黒い目の、正反対の様に目が眩む。
 言うつもりのなかったはずの言葉が、酸素を求めた口から飛び出た。
「寂しい」
 え、と驚く桐ちゃんの顔が、水を隔てたみたいに揺れて見える。ぐんぐん景色が遠くなる。自分の声が他人のものみたいに聞こえる。
「なんか、自分でも馬鹿みたいなんだけど、すごく寂しいの。この家に桐ちゃんがいないと、寂しくてどうしようもなくなって、いつもはしない馬鹿なことしちゃったり、やる気もなくなるし、最初は夏バテとかホームシックとかいろいろ理由考えてみたんだけどたぶん違って、自分がどうしてこんな風になってるのか分からない。こういう子供っぽい、意味が分からないことをもうしたくないのに、どうしても抑えられなくて、最近ずっとおかしいままで、でもうまく考えられないの。無性に寂しくて仕方ない」
 口からざあざあ言葉が流れて、目からぼろっと水が落ちて、いつの間にか自分が泣いていたことを知る。無茶苦茶だ。言ってしまった。部屋がゆらゆら揺れている。結局全然解決なんかしていない。なんて子供っぽいんだろう。何もかもうまくいかない。梓とのやりとりさえ、わたしの都合のいい妄想だったような気がしてくるくらいには、今の自分に自信がない。
 粘着質のものが胸から溢れてわたしの表面に垂れて流れる。窒息しそうになって、もういよいよ自分が嫌だ、と思ったとき、桐ちゃんが立ち上がってわたしの前に来た。そのまま軽く手を引っ張られて桐ちゃんに抱きしめられる。
 一瞬びっくりして、これじゃ本当に子供みたいだ、と思ったけれど、うれしくてそのまま抱きしめられていた。
「寂しいからくっついてきてたんですか」
「たぶん」
「寂しいとくっつきたくなるものですか」
「たぶんそうだと思う」
 わたしの肩で、桐ちゃんが深い深いため息をついた。
「悩んで損した。ほんと損した」
「何?」
「この間、木綿子さんが寝てるときになんとなく木綿子さんの頬に触っちゃって、自分の行動の意味がわからなくて自分で自分に怯えてたんですけど、そんな可愛い気持ちでくっつきたくなるものなんですね。安心しました。たぶんじゃあ私もその時寂しかっただけだと思います」
 一人で勝手にすっきりした様子の桐ちゃんは、何でもないような調子でそんなことを言った。
「え、寂しいって可愛い? 子供っぽくて重くない?」
 わたしの問いに、桐ちゃんは顔をあげてわたしと目を合わせた。
「いや、私もっとやましい動機かもしれないと思って悩んでたので。寂しいは全然可愛い部類です。良かった」
「じゃあわたしのこれも可愛いの?」
「可愛いんじゃないですか。少なくとも私は、寂しいって言われてあんまり悪い気しませんけど。まあ十中八九あなたのそれはただ夏バテのだるさに気分が落ちてるだけだと思いますが」
 ぱちんと弾けて、部屋から水が一気に引いていく。苦しさや寂しさが一緒になって身体から抜けていく。
 桐ちゃんが体を離す。ちゃんと泣き止みましたね、と言われて目じりを拭われた。
「なんか今日桐ちゃん、いつにもまして優しいね」
「私も夏だから、ちょっとおかしくなってるんじゃないですか。優しく出来てるなら嬉しいですけど」
 寂しい、と喚く心も、受け止める先があることを知ると途端に落ち着いたものとなる。心の中は洗浄されたようにすっきりとしていて、なんだか呆気ないような気持ちだ。言うだけでこれほどまでに楽になる。
 梓の言葉も実は正しかったのかもしれない。わたしだけの問題が、桐ちゃんの存在で軽くなる。桐ちゃんに触れられていたところが熱かった。
「木綿子さん、今日の夕飯何食べたいですか」
「そうめんがいいな。あときゅうり食べたい」
 ぱっとシーンが切り替わるように、桐ちゃんの雰囲気がいつものものになる。日常はすぐに戻ってくる。特別だった夏もじきに終わる。
 桐ちゃんが「早く秋になるといいですね。夏バテにならなくなるし。美味しいものが増えるし」と言う。秋を一緒に過ごすことがもう二人にとっては当たり前なのだと実感する。日常が続く。桐ちゃんが傍にいる。
 寂しさから逃れた心が、ひさびさに混じりけのない幸福を感じた。




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