七月の昼寝





 携帯の画面にはひっきりなしに通知が訪れている。タップするとチャット画面では萩野と杏が矢継ぎ早に言い争っている。争いのきっかけを作った張本人のわたしはその内容にすでに頭が追いつかない。きっかけといったって、「先週の近代文学史思いっきり休んじゃったから内容教えて」というごくごく普通の大学生らしいお願いで、まさかこれが「やっぱりその解釈おかしくない?」「講義はこの内容だったんだからいくら杏が気に入らなくたってこの内容で試験は出るんだよ」という言い争いに変わるとは思わなかった。やりとりから察するに、その日の授業は太宰についてで、先生はいささか太宰ファンの気に障る発言をしたらしい。むきになる杏の顔がありありと思い浮かんで、ますます意識はぼやけていく。疲れた。
 通知設定を操作して、画面に通知が表示されないようにする。ひとまず近代文学史とこの二人は放っておいて、日本語学の方に取り掛かることにする。あと十分くらい後には「そういえば木綿子はどうしたんだ」「そもそも木綿子のせいでこんな話に」と展開するのは分かっている。
 近頃、暑さのせいかやたらに疲れてしまって、いろんなことに対しての気力がない。杏も萩野も夏なんて関係なくいつも元気だから、たまに自分の気持ちが二人に追いつかないことがある。最近はそれに輪をかけて試験への不安もある。一週間後に始まる試験期間のことを考えると胃が痛くなってきてどうしようもない。結局去年もなんだかんだいい成績は取れたので、今回もそこまで怯える必要はないと分かっていても、やはり試験の前は緊張する。留年が嫌なのはもちろんだけれど、好きな先生や面白い科目に結果を残せないことの方が心苦しい。自分のどうしようもない答案を見て顔をしかめる先生や、うまくいかずに論が乱れたレポートのことを想像して胸が苦しくなった。だいたい先週の近代文学史だって休むつもりなんか微塵もなかったのに、だるくて布団から起き上がれず泣く泣く欠席したのだ。一番好きな講義なのに。
 ため息をついてから目線を上げる。カーテンを開けてある窓の外には輝く青空が広がっている。白い飛行機雲の直線が映えて綺麗で、外に駆けだしたくなる気持ちと裏腹に身体のだるさが際立って感じられる。しかしそもそも先週からアルバイト先にも休みを申し入れているので、今日も明日も明後日も、試験が終わるまで労働の予定はない。そして大学以外の場所へ行く予定もない。身体の調子が良かったとしても、行く場所がないのだから青空がもったいないことに変わりはない。嫌な気分だ。青空がかえって恨めしい。
 ぼうっとしていたら机の上からプリントやノートがばさばさ落ちた。もっと広い机が欲しいとは思うものの、部屋に置くのは小さい折り畳み机が精いっぱいだ。なんだか全部に嫌気がさしてくる。
「居間で冷房付けちゃおうかな」
 独り言の内容は声に出してみるといよいよ魅力的だ。よし、と立ち上がって勉強に使う本や資料やノートをかき集める。居間の広いダイニングテーブルの上まで運んでから、空いた手で冷房の電源を入れた。エアコンが稼働し始める。自室に戻って部屋の冷房を切る。
 七月の部屋はまだ生ぬるいが、直に冷えてくるはずだ。自分一人で十四畳の部屋に冷房を入れることに若干の罪悪感はあるが、勉強のためだ、今日くらいは良いだろう。それにもう少ししたら桐ちゃんもバイトから帰ってくる。
 椅子に座って日本語学の授業のプリントを広げていく。シネクドキーって人の名前みたいだな、という馬鹿な感想を抱きながら分かるところと分からないところを整理する。途中でやっぱり佐藤信夫くらい読まなくては、という気持ちになって、ノートの端に佐藤信夫と書き付けた。
 頬を汗が伝って気持ちが悪い。なかなか部屋は冷たくならなかった。おとなしく六畳の自室に引っ込んでいた方が良かったかなという気持ちになる。
 ふと、とてつもなく寂しくなった。熱くて思考がおかしくなっている。普段なら、勉強はそこまで嫌なものではない。昨日だって、図書館での四時間はあっという間だった。どうにも気温が高いのがいけない。日差しが強いのがいけない。こんなに暑いのに、人に近くに居てほしい。
 最近、頭も精神もどうにも言うことを聞いてくれなくて、突然機械の故障みたいに寂しくなることが多い。夏のせいというわけじゃない。さすがにそこまでありきたりじゃない。だって去年の夏は寂しくなかった。
 多分、きっと、認めてしまいたくないけど、こんな風に寂しがりになったのは、桐ちゃんと同居を始めてからだ。
 去年の方がよほど寂しいことに怯えていた。十八年間一緒だった家族と離れて一人で暮らすなんてできるのだろうかと思っていた。しかし意外にも、新生活のめまぐるしさと友達付き合いとアルバイトとで、かえって一人の時間がうれしいくらいだった。今は違う。怯える間もなく急に寂しさはやってきて、それはきまって、この家に一人でいるときだ。
 この家に二人でいる時間をもう十分身に染みて知っているから、一人の状態を欠けているように思ってしまうのかもしれない。暑さでくらくらしてその思い込みが加速するのだ。
「桐ちゃん早く帰ってこないかな」
 思わず口から出た言葉に自分でびっくりする。そういえば独り言も去年よりずっと多くなっている。
 桐ちゃんはどうなんだろう。わたしのいないこの家を寂しく思ったりするんだろうか。
 少し考えて、そんなことはなさそうだなと思う。例えば、わたしがこの部屋からずっといなくなる、ということなら多少は寂しいと思ってくれるかもしれないけれど、たかだか数時間の不在でわたしみたいに感情が不安定になる桐ちゃんはとても想像できない。そもそも桐ちゃんはわたしよりずっと一人が好きだろう。
 そこまで考えて、桐ちゃんがわたしとかれこれ四か月を暮らしてきたことが、すごく重大なことのように感じられた。もっと早くに愛想を尽かされると思っていた。
 手元のノートがぼやける。桐ちゃんがわたしのことをそれなりに気に入ってくれているといい、と思った。わたしのことを、それなりに良い同居人であると思っていてほしい。そして、出来たらもっと一緒にいてほしい。
 いつの間にか空気は涼しくなっていた。汗も引いてきている。もっと一緒に、もっと長く、そう思うのはわがままだろうか。でも結局のところ、桐ちゃんは優しいから、わたしのわがままも許してくれるんじゃないだろうか。思考がどんどん入り乱れていく。離れたくない。もっと一緒の時間が欲しい。とてつもなく寂しい。寂しくて仕方がない。たった四か月で、こんなに堪え性がなくなってしまった。
 去年は、昔はもっと、今よりずっと一人を楽しめていた。不味い料理でも頑張って作って食べたし、どんな夜でも平気でやりすごせた。どんなに暑くても、体調以外は狂わなかった。今のように、突然切なくなったりわけのわからないことを考えたりはしなかった。暑いのか涼しいのかも分からない。寂しくて仕方がない。胸の奥が重くて苦しい。前はこんな風じゃなかったのに。
 こんなにして、どうしてくれるの。そう思って、あまりに見当違いの八つ当たりに泣き出したくなる。

        ○

 挨拶をしてから店舗を出ると、外の世界には爛々とした陽光が充満していた。光に一歩遅れて熱気が肌にまとわりつく。日焼け止めを塗りなおすべきだった、と後悔しながら、明るい道に足を踏み出した。
 七月最後のアルバイトを終えて、あとはもう勉強するだけだ。大学の試験は初めてで勝手がよく分からないけれど、頑張れるところは頑張るつもりでいる。まあおそらくそうそう留年なんてことにはならないだろうが、あれだけの学費を払っているのだから、出来ればよい成績がとりたい。面倒ではあるけれど。
 すれ違う人々の軽装や、茹る地面に夏を感じる。みんな暑さに辟易している。休みが待ち遠しくなる。
 そういえば家のきゅうりとそうめんが無くなりかけだったような気がして、このままスーパーに寄ることを決めた。最近そうめんと野菜の減りが速い。木綿子さんがどうにも夏に弱いらしく、あまりごてごてしたものが喉を通らないらしいので、食卓はさっぱりしたメニューに偏りがちになっている。私は煮込んだり煮詰めたりじっくり焼いたり色々混ぜたり詰め込んだりする料理が好きなので、あまりさっぱりしたもののレシピがない。おのずと形式だけ変えたそうめんとサラダが頻繁に食卓に上ることになり、私は少し物足りない気持ちだけれど、木綿子さんは嫌がらずおいしそうに食べているので、あまり気にしないことにした。食べる人が美味しいと思ってくれるなら料理担当としては満足だ。
 サラダはわかめときゅうりにして、そうめんは豚バラを茹でたのとネギもつけることにする。大雑把に献立が決まったので、今日はもう買い物をしてその献立を実行するだけだ。
 そうなると気にかかるのは今まさにはるか頭上から発される熱気だけになる。首筋に汗が伝うのが不快だし、単純に日差しが痛い。日傘でも持ってくればよかった、と二つ目の後悔をしながら、出来るだけ早足になる。はやく、とりあえずスーパーに着きたかった。
 暑い路地を歩いて歩いてなんとかスーパーまでたどり着いて、目に留まったのは店頭に並べられたスイカだった。丸ごと、半分のもの、四分の一にカットされたものなど色々ある。テレビでスイカが特集されていて、それを見ていた木綿子さんが食べたがっていた、という以前の記憶の光景が頭の中にふと浮かんで、四分の一のものを手に取った。食費としては予定外だけど、それなりに安いし、これなら今の木綿子さんでも食べやすいだろうと思った。
 喜んでくれるかな、と考えて、木綿子さんの笑った顔が目に浮かぶ。笑ってくれるといいなと心底思った。いつもいつも何か一言二言余計なことを言ってしまうから、スイカは何も言わずに出そう。自分の常日頃の態度を思うとどんどん気分が落ち込んでいくが、なんとか思い直す。自己嫌悪も過ぎると害悪だ。悪口ばかり言ってしまうなら口を閉じて行動で示せばいい。
 店内に入って涼しさに一息つく。長時間いると寒くなってくるが、それまではつくづく極楽だ。
 きゅうりを三本とそうめん二袋を手にしてからレジに並ぶ。ちらほらスイカを持っている客が居て、夏だなと再び思った。私の前に並ぶ若い女の人も、四分の一のスイカを持っている。なんとなく雰囲気から、友達仲間や家族と食べるのではなくて、家に帰って恋人と食べるんだろうなという気がした。全くの憶測だ。小さめのスイカの四分の一って、一人で食べるには多いし、三人以上なら少ないし。
 その憶測がそのままそっくり自分にも当てはまることに気付いて、少し気まずくなった。それこそこの女の人だって、同居中の人と食べるためにスイカを買ったのかもしれない。
 列が進む。実際、単なる同居と同棲だったらどっちが多いんだろうと考える。自分の周りでも、同棲している人は多いけれど、血のつながらない他人と同居しているという人は二人くらいしかいない。そう考えると、私と木綿子さんは割合特殊なのかもしれなかった。
 会計が終わってレジを離れる。サッカー台で荷物を詰めた。ここからまたあの日差しの中へ戻るのかと思うと気分が落ち込むが、ずっとここにいるわけにもいかないのでスーパーを後にする。名残惜しい冷やかさを太陽が一瞬にして奪った。
 家までの道を歩いていく。途中でやたら吠える犬に出会ったり、珍しい表札を見たりする度に、少し歩調は緩んだ。ああ木綿子さんが怖がってた近所の犬っていうのはこの犬か、と納得したり、木綿子さんの言っていた珍しい苗字はここのことかな、と推測したりした。普段、居間で木綿子さんはとにかくいろんなことを話す。どこそこの犬にほえられてびっくりしたとか、朝顔が大量に咲いている家の人の苗字がすごく面白かったとか、話題自体は他愛もない。しかしそういうくだらない話であっても、こうして自分一人の時に答え合わせができるぐらいには、私は木綿子さんの話をちゃんと聞いている。
 先ほどから、やたら木綿子さんのことばかり考えている自分に呆れつつも、そのおかげで退屈でなくなるのだから、別に良いのではないかと言う自分もいる。木綿子さんのことを考えていれば暑さに意識を向けずに済む。
 アパートの庭まで着いて、いよいよ涼しい部屋を求めて気が急いてしまう。しかし急ぐ気持ちと裏腹に階段を上がる足取りが重い。この暑さで、バイトで疲れていて、さらにスイカの重さが手のひらに食い込んでいるのだから当たり前かもしれない。
 最後の一段を上り終えて年甲斐もなく息をついてしまった。最近運動不足だ。早急に改善しなければ。
 手間取りながら、鍵を開ける。玄関の戸を開けると、冷気が額に涼しかった。ほっとする。靴を脱いで鞄とスイカを置いて、後ろ手に鍵を閉める。さっさとスイカときゅうりを冷蔵庫にしまうことにする。
 部屋を進むうちに冷房が効きすぎているような気がして、リモコンを探す。探す目に犯人が映って、ため息をついた。
 野菜室にスイカときゅうりをしまってから、犯人のもとに行く。
 ダイニングテーブルで寝入っている木綿子さんの周りにはノートやプリントや本が折り重なっている。試験勉強の最中に寝入ったということだろう。テーブルの上にリモコンも見つかって、二度ほど設定を上げる。
 それでもまだ冷えるので、少し考えてから自分の部屋に向かった。ベッドからタオルケットを持ってきて、木綿子さんにかける。これでそれほど寒くないだろう。
 机の上の紙の山に頭をのせた木綿子さんの横顔は、少し寝苦しそうで、早く寒いのが和らげばいいなと思う。試験勉強の最中に冷房を付けっ放しで寝るなんて、と一瞬は呆れたが、よくよく考えてみれば木綿子さんは最近遅くまで勉強に励んでいたし、だいぶ疲れがたまっている。昼寝でもなんでも睡眠がとれるならいいことだろう。
 冷房の効いた空間に身を置いたことで、先ほどまでの茹るような身体の熱さは和らいで、だいぶ楽になる。窓の外の光る青空にもう今日は二度と外に出ないことを決めた。
 目線を下げてふと、木綿子さんの肌がやけに白く感じて、身体が一瞬固まった。
 恐る恐る指先で頬に触れてみる。きちんとした温かさでほっとする。光に当たっていつも以上に白く見えたのだと気付く。空気が揺らめいている。
 そのまま頬に指を滑らせる。親指に呼気を感じて、くすぐったいような気持ちになった。
 急に木綿子さんが身をよじって、一気に我に返る。慌てて手を放して、たった今まで木綿子さんの頬に触れていた右手を左手で強く抑え込む。私は今何をしていたんだろう。心臓がどくどく鳴っていた。こめかみのところで音が聞こえる。
 だめだ、どうしよう。触ってしまった。違う。触ったことが問題じゃない。単に触るだけなら今までだってしたことがある。それは昔も今も普通のことだった。当たり前の話だ。気付かせるために肩を叩いたり、引き留めるために手を掴んだりは親しくない人とだってする。幼いころは手を繋いだり一緒に寝るのも不思議なことじゃなかった。ついこの間にも手を繋いだ。それらすべてが、素朴なコミュニケーションや幼稚さの範囲内で、やましいものでは全くない。
 じゃあ今のはやましいものだったのか、と思考は及んで、自分にぞっとする。やましいって、そもそもなんでそんな言葉を自分の頭は浮かべたんだろう。どういうつもりで、自分の無意識はいったい何をしようとしてるんだろう。こんなに後ろめたいのは何でだろう。
 今の行動が悪いものであるということだけはよく分かって、もうそれでたくさんだった。なぜそれが悪いのか、どういう風に悪いのか、その悪さの分析をする気には到底なれそうもなかった。ただ心臓が鳴っている。
 木綿子さんを見ないようにして、台所に立つ。もうスイカを切ってしまうことにした。切ったものを冷やせばいい。何かいつも通りのことをしていないと落ち着けない。
 冷蔵庫からまだ温いスイカを取り出して包丁を入れる。包丁の柄の感触で必死に日常を取り戻そうとする。

        ○

「木綿子さんってああいう時すぐへらへら笑うよね。馬鹿みたいだからやめた方がいいよ」
 桐ちゃんの家に行って、いつも通り遊ぶつもりでいたところに、何の感情も含めない声でそう言われたから、身体が固まってしまった。頭の中に、今日の昼休みのことが浮かぶ。たまたま友達とはぐれて一人で校庭に居たら、くせ毛を男子にからかわれて、その時自分は泣くでも怒って言い返すでもなく、咄嗟に笑ってしまったのだ。男子はまるで通り魔みたいにからかうだけからかって走り去って、自分はその間何も言えなかった。
 あれを見られてたんだ、と恥ずかしさで顔が一気に赤くなった。昼休みの校庭だったから、五年生以外でも、一つ下の桐ちゃんでもあれを見ることはできたんだ、と気づいて、恥ずかしさと情けなさで消えてしまいたくなる。
「私みたいな気が強い人だったら言い返すし、それ以外の人でも泣いたり嫌な顔したり無表情になったりするものでしょ、普通は。笑うって、最悪だよ。弱弱しくて見てられない」
 桐ちゃんが淡々と言うことは全部正論で、わたしだって自分が笑ってしまったことを、ものすごく恥ずかしいことだと分かっていた。ちゃんと分かっていたのだ。
 目が急に熱くなって、まばたきしたら涙がぼろぼろ落ちた。視界が潤んでいって、俯いた顔から履いていたスカートにどんどん涙が落ちてしみを作っていく。だめだと思って目を拭おうとしたら、勝手に口が開いて引きつるような声が漏れた。最悪だ。
 涙が一つ落ちて鮮明になった視界に驚いた顔をした桐ちゃんが居てますます自分が嫌になる。早く泣くのを止めようと思うのに涙は拭っても拭っても止まらない。
「木綿子さん、ごめんなさい」
 そういう声が聞こえて、涙を拭われる。焦った顔の桐ちゃんが、ごめんなさい、とばつの悪そうな声で繰り返す。
「桐ちゃんだけには見られたくなかった」
 泣きじゃくってそう言うと、桐ちゃんがおずおずと手をわたしの首に回して抱きしめる。桐ちゃんの頭が肩に触れていて、その温かさにほっとする。
 意識は揺れて、桐ちゃんの部屋もひびが入って乱れる。代わりに駅の形がくっきりとして、改札を抜けた桐ちゃんが「おひさしぶりです」とにこやかに微笑む。そしてそのままどんどん薄くなっていく。あわてて桐ちゃんの腕をつかむと、また情景は揺れて、不服そうな顔で「ただいま」という桐ちゃんの顔がくっきりさかさまに映った。安心して桐ちゃんに身を預けると、途端に世界が真っ暗になる。
 真っ暗になった世界の前方に、小さく人の姿が見えて、小さくてもそれが桐ちゃんだということがすぐに分かった。しばらく暗闇を歩いて、ふと足元を見ると居間の床だった。目線を上げると椅子に座った桐ちゃんが笑っていて嬉しくなる。
 桐ちゃん、と声をかけると、桐ちゃんの姿が揺れて乱れる。
「ごめんなさい木綿子さん」
 腕を掴もうとした手は空振りする。桐ちゃんは笑ったままだ。いつもの笑い方じゃない。
「お別れしましょう」
 それだけ言って桐ちゃんはかき消えて、椅子は空っぽになる。不安になって、桐ちゃんの姿を見つけようと台所や桐ちゃんの部屋を探してもどこにもない。家のどこを探してもいない。「お別れしましょう」という言葉が頭の中に響く。ぞっとした。走って外に出ようとしても、足がもつれて、身体が固まって身動きがとれない。部屋がどんどん熱くなる。なんとか足を動かすと、膝の裏に痛みが走って視界が開ける。
 目に映ったのはレトリックの教科書とプリントの山だった。

        ○

 スイカは大きめの一口大に切られて、とうに種まで除いてある。まな板の上の赤いだけのスイカを前にして、やっと心臓は落ち着きを取り戻していた。
 台所の小窓からオレンジ色の光が差し込んでスイカの上を覆っている。早く皿に盛って冷蔵庫に避難させないといけない。
 シンク下の収納にしまわれたガラスの器を取ろうと屈んだところで、背後から音が聞こえた。振り向くと食卓の椅子から今にもずり落ちそうに木綿子さんが佇んでいる。
「起きたんですか。おはようございます」
 私の声に呼ばれて木綿子さんがこちらへ首を向ける。私をとらえた目が、ぱっと見開かれて、口元は何かを呟いた。小さすぎて私には聞こえない。
「木綿子さん?」
 木綿子さんが立ち上がって、かけていたタオルケットが床にずり落ちる。あ、と声をあげようとして、ふらふらこっちにやってくる木綿子さんに何も言えなくなる。木綿子さんが私にゆっくり手を伸ばして、私の腕をつかむ。そして顔を俯かせて、私のすぐそばにぺたりと座り込んだ。
「どうしたんですか。寝ぼけてます?」
 質問には答えずに、木綿子さんは私の腕を掴む力をますます強くした。掴まれているところが熱い。
 桐ちゃん、とか細い声で言って、木綿子さんは面を上げた。泣きそうな顔に、驚いて思わずつかまれていない方の手を伸ばしかける。頬に触れる直前で、先ほどの悪事を思い出して指先が固まった。このまま触れたら先ほどの二の舞になってしまう。おもむろに手を引いた。
「なんですか」
 聞く声が震えて、引っ込めた手は何をしていいか分からない。木綿子さんの口が開くのを待った。
「桐ちゃんがどこか行っちゃう夢だった」
 言い渡された言葉に、まるで頭の中を覗き見られているような気分になる。引いた手はいまだ落ち着かない。
「桐ちゃんどこにも行かないよね」
 切羽詰まった声と、私の腕を強くつかむ手。木綿子さんはまだ寝ぼけているんだ、だから適当にいなせばいい、そう思うのに、口は違う言葉を吐いていた。
「あなたに害を成しそうになったら、どこかに行きますよ」
 私はまだ自分でも、あの時どういうつもりで木綿子さんに触れたのか分からない。自分でコントロールできない行動が良いものであるわけがない。触れたかったから触った、そんな単純な言い訳じゃ、私自身が納得できない。慎重になった方がいい。この行動は取り返しのつかないものかもしれない。
 あのまま触れていたら、これから木綿子さんにもう優しく出来ないような気がしたのだ。理由なんて分からないけど、頭が確かにそう思った。そしてそれは私にとっては一番に避けるべきことだ。
「あなたに優しく出来ないなら、私はどこかに消えた方がいい。いつもそう思ってる」
 暴言を吐いて、意地悪して、そのたびにいちいち途方もなく落ち込んで、欲しくて仕方がない性質がいつまでたっても完全に手に入らないことに絶望する。
 木綿子さんと一緒に暮らすのはとても楽しくて、うれしくて、なのに感情は口にたどり着くころには正反対にねじれている。木綿子さんはそのねじれた感情をいつもきちんと受け止めて、それなのに傷つくそぶりも見せない。
 列の前に並んでいた女の人の後ろ姿が目に浮かぶ。あの人は、恋人や同居人に優しく出来る人なんだろうか。どうやったらいいんだろう。スーパーでたまたま見かけたスイカで思い出してしまう人、わざわざスイカを買って帰る相手に、どうやって優しくするんだろう。
 分からない。優しくしたい相手にどうしたら優しく出来るのか。自分の何を変えたらいいんだろう。優しくなりたいのだ。木綿子さんのあの性質が欲しい。木綿子さんに優しくしたい。
 胸でくすぶる感情は喉の奥に詰まって口から吐き出されることはない。いつもこうして口に出すべきことが出せない。
「桐ちゃん、嫌だよ」
 木綿子さんの声が小さくなる。
「やだ。どこにも行かないで。何したっていいから。何されたって桐ちゃんがどこかに行っちゃうよりはましだから」
 そのまま首に手を回されて、木綿子さんの頭が肩に埋まる。体温の熱さにこっちまで熱くなる。
 渡された言葉のめまいがしそうな内容と、木綿子さんに抱き着かれている事実が、あまりに現実味がなくて、私まで夢を見ているような気分になる。
 夢だとしたらなんて都合のいい夢なんだろう。それでも、たしかに身体に触れる熱は真実で、台所に差し込む黄色い日差しも真実だ。
 木綿子さんの背が規則正しく上下して、耳のすぐ近くから寝息が聞こえてくる。まな板の上で茹っていくスイカのことを思い出して、どうしていいか分からない。




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