六月の買物
ざあざあと白くけぶる窓の外をぼんやり見つめて、耳だけキッチンの方にそばだてる。冷凍庫のばたんと閉まる音がして、桐ちゃんの「買い出しに行かないともうだめですね」という声が続いた。東京は七日連続の雨である。
「億劫だ」
「そんなこと言ったって、このままじゃ食べるものないですよ」
冷蔵庫からこちらへ向き直った桐ちゃんが淡々とした顔で言ってのける。たった今この雨の中を買い物に行くことが決まったというのに、表情に変化はない。
じとじとと鬱陶しい雨には辟易で、大学からこの家までを帰ってくるので精いっぱい、スーパーに寄り道をする気さえしない、当然のごとく習慣の買い物も先送りにして、そうしてお互い現状を知らんふりした一週間の結果がこれである。買い置きの食料はもう食べつくしてしまった。
「木綿子さんも洗濯ばさみハンガー欲しいとか言ってたじゃないですか」
「うん、実家からもってきたやつ一個壊れちゃったし、梅雨時の二人分の洗濯物は二個だけじゃ厳しいし」
「じゃあもう今日は濡れる気で、肉屋行ってスーパー行ってホームセンター行きましょう」
「うん……お風呂沸かしておこうか」
依然弱まらない雨にため息をつく。雨は嫌いだ。濡れるのも寒いのもじめじめするのも暑さがまとわりつくのも嫌いだ。
「木綿子さん」
「分かってる、分かってるよ」
桐ちゃんが眉をひそめる。
「あんたそんなに雨嫌いでしたっけ」
「嫌いだよ」
「子供のころは喜んで飛び出して風邪ひいてたじゃないですか。それ見て、木綿子さんは馬鹿だと思った記憶があるんですけど」
よくよく記憶を探してみれば、梓と一緒に水たまりを踏み合って遊んだような記憶がある。雨水がばしゃんと跳ねては二人でけらけら笑ったものだ。桐ちゃんの家に「遊ぼう」と誘いに行ってすげなく断られた記憶も浮かんできた。
「それは子供の時の話でしょ。もう子供じゃないもん」
「大人ならさっさと立ち上がって行く準備してくださいよ」
そう言いおいて桐ちゃんは準備のため自室にひっこんだ。わたしもため息をついてから身を起こす。
蛇口を捻ってからのろのろ身支度をして、湯が溜まったことを確認して風呂の蓋を閉めてから、ようやく玄関を後にする。共同財布は桐ちゃんが持つことになったので、わたしが持っているものは傘だけ。足元は苦慮の末のビーチサンダル。身軽な格好でアパートを出る。通りに出ない内にもう、スカートの裾はどことなく湿り始めていた。容赦なく足を濡らす雨水がうらめしい。隣の桐ちゃんは不快な顔をするわたしに構うことなく歩を進める。
「あ、足が冷えてきた」
「なんでビーチサンダルなんか履いてきたんですか」
「わたし長靴持ってないからさ、でも普通の靴履いて濡れるの嫌だし。これなら濡れても大丈夫じゃん」
「スーパーの床で滑らないでくださいよ」
大丈夫、その時は桐ちゃんにつかまるから、と言うと、道連れにしないでくださいよと文句を言われた。そのまま軽口をたたき合って歩いていく。服の端も濡れきって、やっと肉屋を目の前にした横断歩道にまでたどり着いたところで、歩道と車道との段差にひどく深い水たまりができていることに気付いた。
「ここ飛び越えていけるかな……」
隣の桐ちゃんの足元を見るときっちりしたレインシューズだった。うらやましいなと思いつつ視線を上げると、桐ちゃんが口元だけで笑って言う。
「木綿子さん、水たまりですよ。踏まなくていいんですか」
「だからそれは子供のころの話でしょう。今するわけないじゃない」
言い終えない内に信号は青になった。桐ちゃんが何事もなかったかのように足を踏み出す。わたしも慌てて後に続いた。水たまりを飛び越えるのは忘れない。
「ほら、水たまりで跳ねたりしなかったよ」
桐ちゃんに追いついて言うと、「本当にやられたらこっちがびっくりですよ」とため息をつかれた。何というか、桐ちゃんらしい対応だ。
ともあれ肉屋に到着したので、肉屋の軒先で傘を閉じる。傘袋に中々傘を入れられないわたしを見かねて、桐ちゃんがわたしの傘を手に取った。さっきまで傘の途中で丸まっていた傘袋は魔法みたいにすんなり伸びて傘を覆う。
「すごい。コツとかあるの」
「特にないです。木綿子さんが鈍臭いだけじゃないですか」
「そうかも。確かにわたしいっつも上手くできないもん」
桐ちゃんがかすかに面喰った顔をした。少しして、ばつの悪そうな声で、「真に受けられるとは思いませんでした」と言う。
「どういうこと?」
「なんか、『鈍臭くないもん』みたいな感じで、反論されると思ってたので」
「なんで。だって実際にできないし。多分ほんとうに鈍臭いんだと思うよ」
「……私は別に、本当は、木綿子さんのこと鈍臭いとは思ってません」
謎のような言葉を発して、桐ちゃんは店へ入ってしまった。慌てて後を追う。
「なに、何よ。どういうこと」
「再三言ってるように、私が木綿子さんに言うことの大半は本来の気持ちじゃなくて捻くれた末の言葉なので、そんなに真に受けないで、怒っていいですよ」
「そう言われてもなあ。桐ちゃんの言うことって正しいような気がしちゃうから」
そう言って笑うとため息をつかれた。そのため息が、いつもわたしに呆れるときのため息じゃなくて、桐ちゃんが何かをやり過ごそうとするとき独特のため息だったような気がしたので、なんとなく良い気分になる。
買い物かごを手に取ってよどみなく歩く桐ちゃんの後ろを、一二歩遅れてついていく。ふだん、食材の買い出しは桐ちゃんの担当だし、桐ちゃんと住む前の一人暮らしの時、肉はスーパーで買って済ませてしまっていた。なのでわたしはこの店にあまりなじみがない。色々なものが珍しく見える。
「豚足とかも売ってるんだね」という、桐ちゃんへかけたつもりの言葉に返答がなく、冷蔵ケースから顔をあげると既に桐ちゃんは視界のどこにもいなかった。慌てて陳列棚を行ったり来たりして桐ちゃんを探す。今日は桐ちゃんの背中を慌てて追ってばかりだな、と思った。
桐ちゃんはベーコンが置いてある冷蔵ケースの前にいた。後ろからのぞき込む。ブロックを買うかスライスを買うか迷っているらしい。真剣そうな横顔を見ていると、急に視線がこちらを向いた。ぱっと腕を掴まれる。
「どこ行ってたんですか」
「色々見てた。豚足とかも売ってるんだね。すごい」
「ここのあたりじゃ一番大きい肉屋なので。……珍しいのは分かりますが、あんまりうろちょろしないでくれますか。心配です」
「別に桐ちゃん置いてどこか行ったりなんかしないよ。心配しないで」
胸を張ってそういうと、桐ちゃんがため息をついた。そのため息は、いつも通りの、わたしに呆れるときのありふれたため息だったので、お説教を予感してちょっと身を固くする。
「別にあなたが私を置いていくなんてことを心配してるわけじゃなくて、あなたが迷子になったりしないか、置いてある商品を崩したりしないかを心配してるんです」
告げられた言葉の、予想以上に過保護な内容に頭がくらくらした。
「桐ちゃん、わたしもう二十歳だよ」
「道歩いててもよく自転車にひかれそうになってるじゃないですか。家でもしょっちゅうタンスに足ぶつけてるし。もう一年以上住んでる今の家の近所でも未だに迷うし。集中するとすぐ周り見えなくなるんですから」
「そう言われると詰まっちゃうけど、さすがにワンフロアの店の中じゃ迷子にならないよ」
わたしの言葉を聞いているのかいないのか、腕を掴む手は離れない。結局それ以後わたしは桐ちゃんに手を引かれてぐるぐる店の中を回ることになった。お会計の時にやっと手は離れて、なんだか言いようのない気持ちになる。
ベーコンスライスと胸肉と豚バラと豚コマと鶏ももが入って重い袋は、じゃんけんで負けた桐ちゃんが持つことになった。傘を差して、次に向かうのはスーパーである。
外に出ると、来たときよりも風が強くなっていた。二人ともおのずと速足になる。
桐ちゃんが冷蔵庫の中身を思い出すために黙ってしまったので、隣を歩きながらわたしも考え事をする。桐ちゃんはわたしのことをどれだけ子供だと思っているのだろうか、と考えることにして、だんだん苦い気持ちになった。桐ちゃんに三食を毎日作ってもらっていることを友人に告げたときの、友人の言葉を思い出す。『小学生じゃないんだから』。
さっきは「もう二十歳だ」なんて言ったけれど、行動や精神がそれに伴っているかと問われれば、自信を持っては返せない。鈍くて落ち着きがないのは昔から、それこそ桐ちゃんと遊んでいたような頃から変わらない。桐ちゃんから見れば、まるでわたしは成長していないのかもしれなかった。
反対に、桐ちゃんは昔からすごく大人だ。勉強も運動も家事も一通りできて、昔から一人で生きていけそうで、庇護なんか全然必要なさそうだった。色んなことを把握していて、それをうまく使うことも出来る。桐ちゃんはわたしよりずっとちゃんとした人だ。桐ちゃん自身は素直になれないことを苦々しく思っているみたいだけど、わたしは結構、あの口の悪さを気に入っているし、桐ちゃんの周りには、わたし以外にもそういう人がいっぱいいるのだと思う。
考えてみると、桐ちゃんがわたしなんかと遊んだり、一緒に住んだりする理由が分からなくなった。どう考えたって不釣り合いだし、相手にしてあげられることに差がありすぎる。わたしは桐ちゃんに今も昔も面倒を見てもらっているのに、わたしが桐ちゃんにしてあげられることなんて、ほとんどない。桐ちゃんはわたしの性格を褒めたりするけど、それだって、こんなの、ただ鈍くて八方美人なだけだ。
今まで積み重ねてきた迷惑を思って眩暈がするような心地になる。その心持のまま不注意で、足元を見忘れて、思い切り水たまりを踏んだことに音で気付いた。ばしゃ、という音の後にばらばら水滴が足に飛んでくるのを感じる。隣で桐ちゃんが立ち止まった。
桐ちゃんの足元が、水の飛沫に濡れているのを見て背筋が凍る。
「あ、ごめん、ごめんなさい。かかっちゃったよね、ごめんほんとに、足元見てなくて」
視線が足元に固まって動かせない。桐ちゃんの顔を見れる気がしなかった。視界はぐんぐん霞むのに、雨音は鼓膜のすぐ近くで鳴っているかのように大きく聞こえる。
「木綿子さん」
「ごめん」
謝って、次に来る言葉を待ち構えていたら、急に腕をつかまれた。肉屋の時と同じように引っ張られて、わたしの足もつられて動く。ようやく顔をあげて、前を向くと桐ちゃんの青い傘が一面に見えた。
「桐ちゃん、ごめん」
「ちょっと今考え事してるので、黙っててください」
「あ、ごめんなさい」
「いや、違うんです。……ああもう、だめだ、別に違うわけじゃない、私の言葉の選び方が変なんだ」
苛々した口調で、桐ちゃんが独り言みたいに呟いて、そうして大きいため息を一つした。腕をつかんでいた桐ちゃんの手が、少し移動してわたしの手のひらに触れる。そのまま手は繋がれて、でも桐ちゃんはしばらく黙ったままだった。
夜の雨はどんどん体にまとわりついて、次第に気分を滅入らせるのに、桐ちゃんに手を引かれることで、そこから脱せるような心持になっている。桐ちゃんが怒っているのに謝ることも出来ないでいて、それなのにわたしは安心していた。
スーパーの明かりが見えてきて、桐ちゃんが歩調を緩める。位置は、わたしの前からわたしの隣になった。何か言おうと口を開きかけ、しばらくためらうそぶりを見せてから、桐ちゃんはぼそぼそとした声を出す。
「私は別に、あなたが私に水たまりの水をかけたことなんかには一つも怒ってなくて、ただ、あなたが些細なことでもすぐに私に必死で謝ってくる、そうさせてる自分に対して怒っています。あと、黙っててください、というのも、謝らないでという意味だったんですけど、これは私の語の選び方が悪いので、木綿子さんは悪くないです。そして私はそういう言葉の選び方が悪い自分にもうんざりしてます」
スーパーの入り口にたどり着く。傘をたたむために、繋がれていた桐ちゃんの手はわたしから離れてしまった。
傘袋を装着する装置に傘を突っ込みながら、桐ちゃんは言葉を続ける。
「木綿子さんがそうやって自罰的である理由は多分私の態度にあって、それで、あの、こういうこと言うのはただ責任を放棄してるだけなんですけど、私の言うことは気にしなくていいですよ。無視しておいてください。どうせ本心じゃないので無問題です」
「でも、でもね、わたし今だけじゃなくて、今までずっと桐ちゃんに迷惑かけてきてて、それはほんとうに申し訳ないし、桐ちゃんは別にそれに怒っても全然いいんだよ」
「迷惑ってなんですか」
「わたしが子供なせいで、桐ちゃんはわたしの面倒を見てばっかりでしょう」
桐ちゃんが呆気にとられた顔をする。それはすぐに苦虫を噛み潰したような表情に変わった。
「桐ちゃん?」
「とりあえず中入りましょう。ずっとここいると邪魔になるので。歩きながら話します」
入り口のかごを取って、野菜コーナーに沿って歩く。先ほどの肉屋で買った荷物と、トマトともやし、小松菜と玉ねぎをかごに入れた桐ちゃんは魚のコーナーに向かって歩く。隣を歩くわたしの方は見ず、あくまで前を向きながら、桐ちゃんはおずおず話し始める。
「木綿子さんはちゃんと大人ですよ。何回も言いますけど、別に料理は好きでやってるし、何作っても木綿子さん文句言わないし、褒めてくれるし、食器も洗ってくれるし。料理以外の家事を主体的にやってくれてるのは木綿子さんだし、別に家事分担では平等です。逆に私が少ないくらいかもしれない」
「でも」
「でも? というか家事分担についてはもう散々議論してきてるんですからもう良いでしょう。木綿子さんの負担を軽くしてくれって言うなら聞きますけど、そうじゃないならもう聞きません」
「……家事については、じゃあ、それで良いとしても、でもわたしが落ち着きがなくて子供っぽいことは、桐ちゃんを苛々させてる」
魚売り場にたどり着いて、桐ちゃんがアジの干物を手に取る。返答がなくて、桐ちゃんの顔を下から窺うと、今にもため息をつきそうな表情だった。
「……すごく言うのが嫌なんですけど、私、木綿子さんの行動に、別に苛々してないです。まったく」
渋々といった調子で語られる言葉にびっくりする。
「え、じゃあなんで」
「別に苛々してないし、迷惑だとも思ってないです。からかったり心配したりしてるのは、楽しんでやってることなので」
「楽しむ? なんで」
わたしの質問に答えずに、桐ちゃんはアジの干物をかごに入れて乳製品コーナーに歩き始める。隣まで追いついて桐ちゃんを見ると、何かを呪うような顔をしている。その表情にわたしがまた驚いていると、桐ちゃんは「ちょっと顔見ないでください」と言って速足になった。
「なんで、なんでさっきからそんな顔」
「誰が好き好んで自分のおかしなところを他人に告白したいと思いますか。……私は、あなたが私の言葉で困ったりふくれたりするのを見るのが、割と、好きなんですよ。残念なことに」
そう言い切って、一息ついた桐ちゃんは自嘲気味に笑った。桐ちゃんがこんな笑い方をするところを初めて見た。いつも人を食ったような態度の桐ちゃんが。びっくりだ。でも、びっくりする頭の中で、一つ気になることがある。
無心で安い牛乳を探している桐ちゃんに、気になっていることを問いかけた。
「でもさ、桐ちゃん、わたしのことを子供だと思ってるんじゃなくて、からかって楽しんでるだけだっていうけど、じゃあなんで肉屋でわたしの腕をつかんだまま買い物したの? 子供だと思ってないならそこまでする必要ないじゃん」
桐ちゃんが固まった。「桐ちゃん」と声を掛けると、一番安いらしい牛乳をつかんでかごに入れ、再び返答せずに歩き出す。
「桐ちゃん、さっきから言いにくいことがあると歩き始めるよね。次何買うの?」
「卵です」
「ねえ、なんで肉屋さんで腕つかんだの? 肉屋さんだけじゃなくて、わたしが桐ちゃんに雨水かけちゃった後も手をつないだじゃん。あれも何?」
「水たまりの雨水が跳ねた後に手をつないだのは、特に意味はないです。なんとなく。木綿子さんが萎縮して固まっちゃってたから、とりあえず歩かせて、あと怒ってないことを示そうと思って」
意外にもすらすらと答えた桐ちゃんは、十個入りのLの卵を一つ手に取ってかごに入れる。今度はパンの方に向かって歩き始めた。
「じゃあ肉屋さんで腕をつかんだのは?」
返答はない。パンコーナーへは直ぐにたどり着いて、桐ちゃんは八枚切りの食パンを二つかごに入れ、いよいよレジへ向かう。
「桐ちゃん」
レジに並ぶ人はいつもより少なかったけれど、一人ごとの商品の数はいつもよりずっと多かった。この雨だし、買いだめを考えるのは皆同じなのだろう。
ショッピングカートの二段にわたって商品を詰め込んでいる前のご婦人の会計作業が遅々として進まないのにあくびをしていると、桐ちゃんがぼそっと何かを呟いた。
「何? もう一回言って」
「もう言いたくないです」
「なんだ、さっきの返答か。気になるじゃん、言ってよ」
「……手を繋ぎたかったから」
ぽつりと呟かれた言葉に、一瞬思考が追いつかない。え、と間抜けに口を開くわたしから顔を背けて、桐ちゃんは蚊の鳴くような声で言う。
「家で、木綿子さんが雨が嫌いだって言うから、昔はそうじゃなかったのにと思って、いろいろ思い出して、そういえば昔は遊びに行くのにいちいち手を繋いでたなと思って、手を繋ぎたくなったんですけど、木綿子さんは雨が嫌いになってたから、もしかしたら手を繋ぐのも嫌いになったかもしれないと思って、色々ごちゃごちゃ理由をつけて腕をつかみました」
だから子供なのは木綿子さんじゃなくてわたしの方です、と言葉は続いて、桐ちゃんの顔は見えなくて、でも耳の縁が赤いのは分かって、思わず口が開いたところでカートの走り去る音が耳に届いた。「お次の方どうぞ」とレジ打ちの店員さんがわたし達に微笑んで、桐ちゃんが肉屋の荷物を取り除いたかごを店員さんの方へ押しやる。言えなかった言葉は空中に浮いて、もはやわたし自身も何を言おうとしたのか分からなかった。何を言おうとしたんだろう。わたしは何を口走りかけたんだっけ。
頭の中がぐらぐらしてて、会計が終わったのにも気づかなかった。「私肉屋の荷物持ってるんで、木綿子さんそれ運んでください」と桐ちゃんに言われて、慌ててかごを掴んでサッカー台へ運ぶ。レジ袋に詰めながら、桐ちゃんの言葉のことを考えてざわざわした気持ちになる。
「上の空でなにやってるんですか」
桐ちゃんの声で手元を見ると、卵の上に牛乳を入れようとしていて、自分で自分にびっくりする。桐ちゃんの方を見ても、桐ちゃんの耳はもう赤くなくて、ついさっきのことが夢だったような気さえしてきた。
袋詰めを終えてスーパーを出る。片手に傘、片手に袋とこれでようやく二人とも同じ格好になって、今からホームセンターに向かう。ホームセンターへは、晴天時でここから徒歩五分くらいである。
「あと一つですから。さっさと終わらせましょう」
「そうだね」
歩き出すと、家を出たときと変わらずに弱まらない雨が足元を濡らしていく。もうここまでくると自棄になって、服が濡れたり足が汚れるのもあまり気にならない。それでも浴槽にお湯を溜めた過去の自分には感謝した。
隣を歩く桐ちゃんは、何事もなかったかのように涼しげだった。心の内がごちゃごちゃしているわたしとは大違いである。
「手を繋ぎたかった」という桐ちゃんの言葉を考える。会計の順番が来ていなかったら、あの時自分が発したであろう言葉について考える。
雨は嫌いだけど、手を繋ぐことは全然嫌じゃなくて、さっき桐ちゃんと手を繋いで本当に安心して、桐ちゃん、実は昔のことよく覚えてるよね、赤くなっててびっくりした、可愛かった、子供っぽいことをちゃんと認識して恥ずかしがるなんてやっぱりちゃんと大人じゃないか、もしかして桐ちゃんがわたしをからかって楽しい時って今のわたしみたいな気持ちなのかな、ねえそれって、本当にただの、子供っぽいだけの気持ちなのかな、この気持ちはもっと、もっと別のものなんじゃないのかな。
ひっきりなしに頭の中はわたしの声で様々なことを呟いて、この気持ちを全部ひっくるめた行動は、たぶんこのまま何も言わず桐ちゃんと手を繋ぐことなんだけれど、不幸なことにわたし達は両手ともふさがっているのだ。
傘と荷物を両手に一つずつ。傘と荷物を一つの手に持つことも、頑張れば出来そうだけど、少し不安定になる。そこまで考えて、さっきスーパーまでの道で、肉屋の荷物を持っているのにわたしと手を繋いだ桐ちゃんは、その不安定だったんだ、と言うことに気づいて、ますますたまらない気持ちになる。
ホームセンターに着いても心内のざわめきは治まらなくて、足の歩みは遅くなった。桐ちゃんがいぶかしげに振り向くたびに、はっとして急ぐ。
「木綿子さん、大丈夫ですか」
「大丈夫だよ」
「荷物重いなら交代しますよ。たぶんそっちの方が重いです」
「平気平気。全然疲れたとかじゃなくて」
不思議そうな顔をする桐ちゃんが恨めしくなる。桐ちゃんのあの発言のせいでわたしは心も頭もぐちゃぐちゃなのに、発言をした当の本人はいたって静かな様子でこちらを気遣う余裕すらある。
さっき耳を赤くしていたのはほんとうに可愛かったのに、つくづく桐ちゃんは切り替えが早いなと舌を巻く。
ビニール袋の取っ手がかすかに食い込んだ手のひらを思う。肉付きの少ない薄い手は暖かかった。「手を繋ぎたかったから」という桐ちゃんの声がもう何度目かも分からないけど頭に響く。
「木綿子さん、これなんか安いですよ」
現実に桐ちゃんの声がして、慌ててそちらの方を向く。何種類かある洗濯ばさみハンガーのうち、なるべく洗濯ばさみの数が多いのを一つ選んでレジに並んだ。桐ちゃんが無言でスーパーの袋と傘を持ってくれる。財布を渡されて受け取った。桐ちゃんがレジの向こうに歩いていく。
会計を終えると、荷物を下に置いて、まっすぐ立っている桐ちゃんがいた。駆け寄ると、洗濯ばさみハンガーの入ったレジ袋を奪われる。
「いいよ、わたしが持つよ」
「重さでいったら、肉とハンガーでちょうどそっちのスーパーの袋でしょう」
「そう? じゃあありがとう。持つの大変だったらすぐ言ってね。代わるから」
分かりました、と素っ気なく返される。出口を抜けて、いったん荷物を置いて傘を開く。風が強い。傘と荷物を持って、屋根の下から踏み出した瞬間に煽られる。嫌な音がして頭上を見ると傘の骨は正常とは逆の向きに曲がっていた。
「木綿子さん、大丈夫ですか」
「わたしは大丈夫だけど傘はもうだめだ。やっぱりビニール傘はもろいなあ」
横の桐ちゃんの傘は風に煽られても平然としている。手元のビニール傘は無残な姿だ。処分しなくてはいけない。
「じゃあわたし、ちょっとまた傘買ってくるね」
そう言って踵を返し、ホームセンターへ傘を買いに行こうとすると、「え?」という桐ちゃんの声が背中へかけられる。
振り向くと桐ちゃんが驚いた顔をしていた。青い傘がこちらへ傾けられる。
「一緒に使えば良くないですか。これ割と大きい傘だし。家に帰ればもう一つ別の傘もあるでしょう。なんでもう一つ買うんですか。無駄な出費じゃないですか」
「でも」
「入ってください。そうしてると風邪ひきますよ」
桐ちゃんが一歩進んで、わたしは青い傘の中に入ってしまう。
「ありがとう。……あ、じゃあわたし、このビニール傘のごみとハンガーの袋一緒に持つよ。そんなに重くないから」
「じゃあお願いします」
ハンガーの袋が渡されて、桐ちゃんが傘と肉屋の袋を持ち直す。再び屋根から出て、今度は二人で歩き始める。雨の道はさっきと少しも違わないのに、桐ちゃんがすぐ隣にいることが、やけに気恥ずかしかった。
「もしかして、また子ども扱いだと思ってますか」
しばらく歩いたところで、桐ちゃんが突然そんなことを言った。
「どういうこと」
「いや、なんか、小さい頃って親子で一緒の傘使ったり、傘が足りないときは子供二人で一つの傘を使ったりしたじゃないですか。まだ子供扱いしたこと気にしてるのかなと思って。だから一緒の傘を使うの嫌がったのかなと」
語られる桐ちゃんの言葉の内容と、自分の気持ちの落差に一気に顔が熱くなる。
「木綿子さん?」
「別に子ども扱いをまだ怒ってるとかじゃなくて。ほんと、下らない理由だから。気にしないで」
「理由を教えてくれない方がかえって気になります」
「いや、なんというか、買い物帰りに二人で一緒の傘使うの、恋人みたいだなと思って気恥ずかしかったの。下らないでしょ、忘れて」
返答がなくて、桐ちゃんの方を窺うと、呆気にとられた顔をしていて、余計に恥ずかしくなってくる。
「だいたい、桐ちゃんも桐ちゃんだよ、何、手を繋ぎたいって。びっくりするじゃん。いろいろ考えちゃうじゃん」
呆気にとられた顔は、わたしのように赤くなることなく、何故か考え込むような表情に変わる。
「手を繋ぎたいっていうのは、私は自分の幼稚さを感じてすごく恥ずかしかったんですけど、一般的にはそれ以上に恥ずかしがるべきところがあったんですね」
今日は踏んだり蹴ったりだな、と呟いてから、桐ちゃんはこっちを見て、まったくいつも通りに笑う。
「しかしそれにしても、意外と木綿子さんそういうの気にして生活してるんですね。鈍いと思ってたけど。少女漫画好きの夢見がちな女子みたいで可愛らしいじゃないですか」
「桐ちゃん面白がってるでしょ」
「なるほどね。確かによく考えてみれば相合傘ですもんね。懐かしいな。私、最後に相合傘でどきどきできたの中学生の時とかですよ」
「うるさい」
桐ちゃんが明るく笑って、わたしは今までのことを思ってひどく疲れた気持ちになる。道の先に見えてきたわたし達のアパートの緑に、「ようやく着きますね」と朗らかに言う桐ちゃんを横目で見ながら、今度買い物に一緒に行くことがあったら、絶対に桐ちゃんと手をつないでやろうと決心する。どんなに人目があってもどんなに桐ちゃんが赤くなっても、アパートから出て帰るまで、ずっと手を繋いであげるのだ。
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