十二月の帰郷





 日の光がちらちらと車内に入り込んで、同じ車両に乗る乗客全体を白ませる。ふくらはぎは苛烈な暖風によって熱されていて、思わず春と錯覚しそうになった。セピア色の光と暖かい身体。もちろん現在は冬であり、この激しい暖房も冷えた人間を温めるために焚かれているに過ぎない。うららかな陽光も外に出ればむなしいだけだ。吹きすさぶ風は光の熱をいとも簡単に消してしまう。安穏としていられるのは今だけで、降車の瞬間から、私たちはえげつない気温にさらされて首をすくめることになる。
 いよいよ年の瀬、車内の乗客はまばらだった。こんなに寒くては外に出るのも億劫で、年末ともなれば電車に乗るような外出の必要もほとんどない。人が少ないのは道理である。そんな中で私と木綿子さんがわざわざ二人で電車に乗っているのは、ひとえに木綿子さんの実家に赴くためだ。以前私たちは「年末年始をうちで過ごしてはどうか」という申し出を梓から受けていて、今回はそれに甘えさせてもらった形になる。
木綿子さんの一家とは家族ぐるみの付き合いがあったとはいえ、それもだいぶ子供の頃の話だし、第一年末年始に泊まり込みでお邪魔するのはさすがに今回がはじめてだ。なんとなく落ち着かない心地で、本当はそれをごまかすために、今日は歩いて行きたかったのだけれど、今朝それを言ったら、木綿子さんにものすごい顔で却下されてしまった。確かに三駅分の距離を歩くのは疲れるし、なにより出発時間になっても気温が大して上がらなかったので、私が折れて、今、この電車に乗っている。しかし、やはりどうにも落ち着かない。木綿子さんと喋っていればその緊張も紛れるだろうと目論んでいたのに、木綿子さんは乗車して席に腰を落ち着けたと同時に携帯を立ち上げて、それからずっと画面を見たままだ。
 電車の戸が開いて、外気が流れ込んでくる。人が二三人出入りして、また閉まる。退屈だ。木綿子さんが携帯を見てるから木綿子さんの方は見れないし、面白い人も乗ってこないし、ただ向かいの窓の景色を見るくらいしかやることがない。私も携帯をいじればいい話だけど、そうすると、他人の目に私と木綿子さんが没交渉だと映るような気がして、気乗りしなかった。
 あくびをして目を閉じる。次の駅が降りる駅なので、本当に眠り込むわけにはいかない、と思っていると、隣で木綿子さんがため息をつく音が聞こえた。目を開ける。
「どうしたんですか」
「また付き合うんだって。杏と萩野が。わたしの悩みはなんだったんだろう」
 木綿子さんがそう言って、私に向けて携帯の画面を見せる。杏さんと萩野さんの長文のメッセージと、木綿子さんのふてくされた返信があって、思わず少し笑ってしまった。
「良かったじゃないですか」
「良かったけど! でもあんなに悩んだのが馬鹿みたい」
「喜んであげてくださいよ」
「……分かった。一応形だけ祝っておく」
 そう言って木綿子さんがメッセージを打ち込んで、ちょうど送り終えたところで、電車が駅に滑り込んだ。アナウンスが響くとともに扉が開いて、二人とも立ち上がる。何人かの降りる人に続いて私たちも降車して、ホームに立つ。
 電車が過ぎ去って振り返ると、駅前のビルや商店街の看板、交差点を含んだ落ち着きのある景色が遠くに見える。さらに目をこらすと、その奥には小さく家々が立ち並んでいた。あの中のどれかが木綿子さんの家なんだろうか、と考える。
「こんな町に住んでたんですね」
「小さい駅でしょ。そういや桐ちゃんはこっちの方来たことないもんね」
「割とうちの町はそこだけで生活できますからね」
「遊びに行くにしても反対側だしね。まあでも、悪いとこじゃないよ」
 それにしたって寒いね、と木綿子さんが続けて、私も頷く。木綿子さんに連れられて改札を出て、階段を下りていく。
「うわ、外の方がさらに寒い。駅も寒かったけど。ね、歩いていくなんて馬鹿みたいでしょ」
「分かってますよ。別に私もただ歩きたくて徒歩で行こうって言いだしたわけじゃないですし」
「じゃあなんで」
「なんか、電車でぼうっとしてると、ご実家に着いた時のこと考えちゃって緊張しそうで」
 木綿子さんが目を丸くする。
「緊張なんてすることないのに。わたしの家だよ? だって桐ちゃん梓はもちろんお母さんにもお父さんにも普通に会ったことあるでしょ。泊まったことも何度もあるし。何をいまさら」
「泊まったことはあっても年末年始にお邪魔したことはないですし、大体楓さんにお会いするのも七年ぶりですよ。それに多分お父様には会ったことないです」
「あれ、そうだっけ。あの人全然帰ってこないからな。仕事ばっかりしてて」
「そうですよ。だから緊張してるんです。一応ケーキ買ったんですけど、口に合うかも心配ですし」
 手に持っていた紙袋を持ち上げて木綿子さんに見せると、木綿子さんがきまりの悪そうな顔をする。
「それ手土産だったんだ。何持ってるのかと思ったら」
「はい。一応お邪魔するわけですし。礼儀として」
「桐ちゃんがそういうことすると、わたしが桐ちゃんと比べて出来の悪い娘ってことにならない?」
 木綿子さんが空の左手を振ってみせる。その反対側、右肩にかけられている鞄もごく小さなもので、手土産らしきものが入るスペースはない。
「なりませんよ。私にとってはあくまで知り合いの家だから気を遣うんであって、木綿子さんにとってはただの実家なんですから」
「そうはいっても、最後に帰ったの夏とかだよ。絶対言うよ、うちのお母さん。『あらーありがとね桐ちゃん! ごめんなさいね気を遣ってもらっちゃって。それに比べて木綿子はねえ。桜子さんが羨ましいわあ』って。それで梓が『母さん、姉さんがそんな気遣えるわけないじゃない』って笑う。目に浮かぶようだわ」
「……二人で買ったことにしますか」
 木綿子さんがこちらを向いて、ぽかんとした顔をする。その表情の意味が分からず、つい首を傾げると、木綿子さんがおもむろに、手を私の頬に伸ばした。頬に冷たい感覚がおこる。一瞬遅れて事態を理解して、問いただす声が思わずうわずった。
「何ですか」
「いや。申し訳なさそうな顔してるなと思って。……今わたしが言ったこと、単に冗談だからね。桐ちゃんがきちんとしてる人なのはいいことだし、わたしの親も梓もふざけるだけで本気でわたしを駄目だと思うわけじゃないし、というかわたしがきまり悪い思いするとしてもわたしの自業自得だし、なんていうか、桐ちゃんが気にすることじゃないっていうか、そんなに真剣にとられると思わなかったっていうか」
 木綿子さんの親指が私の唇の端に触れて、無理やりそこを押し上げる。
「皮肉っぽく笑って『自分の気の利かなさをこっちに押し付けないでくださいよ』とか言うかと思った。だからちょっとびっくりした」
「私としては……ちょっと喋りにくいんで手をどけてもらっていいですか。……ありがとうございます、私としては、今の木綿子さんの発言が冗談だったということにびっくりなんですけど。本気で比べられることを心配してるのかと思いましたし、だから真剣にとりましたよ」
「そう? 冗談だよ」
「木綿子さん、そういう冗談言うタイプでしたっけ」
 お互い顔を見合わせた。なんとなく言葉に困ってしまって、視線を外そうと試みた時、木綿子さんが私の背後に目をやって「あ」と声をあげる。つられて私も後ろを見た。
 私たちが歩いてきた道の対岸の歩道で、自転車に乗った男がこちらに手を振っている。それが梓だと分かって、私も思わず声が出る。
 何か月ぶりだろう。三月に会ったのが最後だ。ちょっと痩せたような気がする。
「もうこんなとこまで来てたんだ。姉さん、ちゃんと道覚えてたんだね」
 横断歩道へと進みながら、梓はこちらに声を投げかけた。私たちも慌てて横断歩道に急ぐ。信号が青に変わって、横断歩道の中ほどで落ち合った。
「桐も姉さんも久しぶり」
「梓、ちょっと痩せた?」
「実家への道を忘れるわけないでしょ。わざわざ迎えにくるなんて馬鹿にしてるの」
「痩せた。やっぱり勉強ばっかりだとストレスたまる。まあ食べ過ぎて太る方向に行かなくてよかったよ。姉さんそんなに怒らないで。荷物が多いかもしれないから運ぶの手伝いに来たんだ」
 横断歩道を渡りながら、挨拶もそこそこにごちゃついた会話をする。歩道にたどり着いて、人の邪魔にならないところまで歩いてから、梓の自転車に荷物を載せてもらった。
「梓の癖に気が利くじゃん。楓さんの指示?」
「大正解。絶対来たくなかったのに、あの人炬燵の電源切るんだもん。しぶしぶ来てやったんだから感謝してね。姉さんは? そのハンドバック載せる?」
「わたしのはいいや。軽いし」
 大通りを離れて住宅街に入る。なんだかいちいち物珍しくて、きょろきょろしながら歩いた。
「何もない町でしょ」
「うん、とは言えなくない? 人の住んでるところを」
「でも商店街とかがらがらだよ。姉さんと桐のところは活気ありそうだよね」
「学生街だからね。そういや梓、第一志望受かったらどうするの? 一人暮らし?」
 自転車を押しながら、梓は少し困った顔をした。
「勉強の息抜きに物件情報見たりしてモチベーションあげてはいるんだけど、そんなに真剣に見てないからなあ。あと仕送りについて母さんの協力が得られる可能性が非常に低いの。あの人姉さんと俺で二人暮らしするものと思ってお金のやりくりしてたらしいから。第一志望のところは今の実家からも通える距離だし、もしかしたら一人暮らしはしないかもね」
「わたしたちみたいに友達と二人暮らししたら? 家賃半分で済むし。同じ大学目指してる友達いないの?」
「いることにはいるけど、俺もそいつもこの間の模試でC判定だったから、あんまりきゃっきゃとした気分になれない。自分だけでも受かりたいってあいつも内心じゃ思ってるだろうし。それにそいつ、まったく料理できないくせに、俺が作った料理に対してはめちゃくちゃ文句言うんだもん。キャンプ行った時とか酷かった。ストレスたまりそうだから一緒に暮らしたくない」
 姉弟そろって料理が不得意なのか、と内心で思う。楓さんの料理は美味しかった覚えがあるので、つくづく不思議だ。


 その後もくだらないことを喋りながら歩き続けて、ついに木綿子さんと梓の家にたどり着いた。素朴なパターン模様の一軒家を見上げて、少し感慨深くなる。梓が自転車をとめたので、礼を言って荷物を受け取った。荷物を肩にかけながら、木綿子さんがインターホンに「着いたよ、梓も一緒」と言うのを聞く。しばらくして、ドアが内側から開けられて、楓さんの顔がのぞいた。私たち三人を見とめて笑うその姿に、なつかしい、といったん気持ちが高ぶってから、遅れて細かいところに目が行く。昔より髪が短くなっている。けれど雰囲気はぜんぜん変わらない。
「久しぶり。梓と会えたのね、よかった。桐ちゃんこんにちは。来てくれてありがとうね。どうぞ入って」
 声も昔のままだった。木綿子さん、梓に続いて、ぞろぞろと玄関に入る。後ろ手にドアを閉めて、楓さんに向き直って、「お邪魔します」とかしこまる。
「久しぶりね桐ちゃん。最後に会ったのいつだっけ。大きくなったわねえ。すっかりお姉さんになっちゃって」
「七年ぶりくらいだと思います。楓さんはお変わりないですね」
「あら、そんなことまで言えちゃうの。うれしいわ。こんなにしっかりしてたら桜子さんも安心ね」
 そう言いながら楓さんがスリッパを出してくれるので、慌てて頭を下げた。
「洗面所はあそこね。リビングはこの廊下の突き当たり。梓、木綿子の部屋の隣の部屋に桐ちゃんの荷物運んであげて」
「はいはい。桐、階段上がって一番右の部屋が客間だから。そこに置いとく」
「いいよ、私自分で運ぶ」
「母さんがうるさいから俺が運ぶよ。あとで姉さんにでも部屋案内してもらって」
 ぱっと梓に荷物をとられる。ありがとうと渋々言うと「貸しにしとくよ」と返ってきた。梓らしい。
「あれ、まだみんなそんな所にいるの」
 洗面所だと教えられたところから木綿子さんが顔をのぞかせる。出されたスリッパを履いて、私も洗面所へと向かった。
 手を洗いながら、どこに何があるのかという説明を、隣にいる木綿子さんから受ける。洗い終えて手を拭いて、早速用意してもらったコップでうがいした。歯ブラシまで新しいのが用意されていて、旅館に来たみたいだなと思う。
 足元に置いていた紙袋を持ってリビングに入る。恐縮する楓さんにケーキを渡し終えてから、鎮座する炬燵に木綿子さんと一緒に入った。
「ようやくひと段落だね。みかん食べよう。桐ちゃんも嫌になるくらいいっぱい食べて。うち、お母さんの実家からはりんごが山盛り届くし、お父さんの実家からはみかんが山盛り届くの。毎年恒例。それでいっつもちょっと腐らせちゃう」
 テーブルのまんなかに置かれたみかん籠から、木綿子さんがみかんを一つとる。十月のりんご地獄が一瞬頭をよぎった。りんごをくれるという梓の申し出を喜んで受けた結果、十六個のりんごが家に届いたのだ。次第に匂いを強くするりんごとの戦いは、切ってすって煮詰めて焼いてと、割と壮絶だったと思う。木綿子さんが飽きずに食べてくれたからなんとか勝利を収めることができたけれど。
「それじゃあ、いただきます」
「多分帰る時もたくさん持たされるんだろうなあ」
 木綿子さんがぼやくのを聞きながら、私もみかんを一つ手に取って、ひっくり返して剥いていく。ふと木綿子さんの方を見ると、ヘタと反対側に指を立てていて、少し目に新鮮だった。
「みかんってそっちから剥きます?」
「え、なあに? 桐ちゃんそっちから剥くの。普通下から剥かない? うちみんな下からだよ」
「うちじゃヘタの方からですけど。白いのちゃんと取れます? それ」
 ずい、と自分のみかんを木綿子さんに渡す。
「ヘタの方から剥いてみてくださいよ」
 木綿子さんが言われるまま、ヘタの方に指を立て、皮を剥いていく。皮に付き従うように、白い筋が果肉からぶつぶつ離れて行った。ごくごくおなじみの光景だ。
「あ、たしかに。今度からこっちで剥こう」
 木綿子さんの言葉に「それがいいですよ」と頷いて、再び山からみかんをとると、キッチンの方から「呑気な会話してるのねえ」という楓さんの声が聞こえた。確かに呑気な会話だ。なんの発展性もない。
「女子大生ってもっと面白い話するものじゃないの。あんたたち家でもそんな感じ?」
「生産性のある話をすることもありますけど、くだらない話もしますよ」
「なんか所帯じみてる感じよね。シェアハウスってもっと毎日が特別な感じなんじゃないの。お母さんがもし大学生の時に友達と一緒に住んでたりなんかしたら、多分毎晩乱痴気騒ぎよ」
「バブル時代の人と一緒にしないでほしいよね」
 木綿子さんが猫背になりながら言う。炬燵には窓から入った光が網掛かっていて、やけにのどかだった。流石に楓さんの言うように毎晩乱痴気騒ぎをしているわけではないけれど、ここまでしゃんとしていない木綿子さんは二人の家ではほとんど見ない。実家だと、やっぱり気が抜けるものなんだろうな、と内心で納得する。
 そのまま炬燵で、おせち作りにとりかかっているらしい楓さんの質問に答えたり、みかんを消費したり、木綿子さんと呑気な会話をしたりしてしばらく過ごしていると、足音とともに梓が居間に現れた。梓はそのまま冷蔵庫まで進んでいって、野菜室からコーラのペットボトルを取り出す。
「梓炭酸飲めたっけ?」
「いくつの時の話してるの。飲めるよ普通に」
 「炭酸を嫌がる梓」という十年ほど前のあやふやな記憶をもとに質問を投げかけると、梓からは気のない返事が返ってくる。私の方へ顔を向けながら、梓が足で野菜室を閉めた。それを楓さんが見とがめる。
「こら、何回言ったら分かるの。ちゃんと手で閉めなさい。桐ちゃんもいるのにみっともない」
「はいはい。桐と姉さんは? コーラ飲む?」
「飲みたい。コップも持ってきて」
「自分で取りに来て」
 えー、と声をあげながら、木綿子さんがゆっくりと炬燵を出る。一連の流れがあんまり団欒らしいので、なんだかおかしかった。私の気分まで緩んでくる。
 足元も暖かいし、日の当たる背中も暖かい。木綿子さんはコップに氷を入れている。梓は傍でその様子をぼんやり見ていた。いよいよ西日が差し込んで、キッチンのあたりまで照らし出す。うとうとまどろみそうだった。
 いけないと思いながら目を閉じる。瞬間、楓さんの「あ!」という声が耳に飛び込んできた。思わず目を開く。キッチンの方を伺うと、木綿子さんと梓が全く同じ表情で、楓さんの方を向いていた。
「何、母さん」
「びっくりした。どうしたの」
「かずのこ買ってないわ」
 楓さんが頬に手を当てる。「どうしよう。お父さん絶対食べたがるのに」と、楓さんは困ったような声を出す。
「昨日で完璧に買い物は終えたつもりだったのよ。失敗した」
「買いに行けば?」
「おせち作りがあるもの。明日にはお父さん帰ってくるし、今日のうちに作っちゃわないと。あんたたちがまったく助けにならないから、一人で作らなきゃいけないのよ私」
「それなら俺行ってくるよ。気分転換に」
 梓が何気ない調子で言う。一瞬まどろみの中、そのまま見送りそうになって、慌てて口をはさんだ。
「梓は勉強があるでしょ。私行きますよ」
 立ち上がってそう言うと、木綿子さんが楓さんの方を向く。
「そんな。桐ちゃんお客さんなのに。私行ってくるよ」
「じゃあ俺と桐で行こうか」
 いつも通りの梓の声で響いた言葉に、梓以外の三人ともが面食らった。
「梓、今の話聞いてた?」
「聞いてたよ。客っていうなら姉さんだって三四か月ぶりのお客さんだし、二人の言うように俺が部屋に引っ込んで姉さんが買い物に行ったら、ここに母さんと桐二人になって、話すことなくて気まずいでしょ。それに、俺と桐の間にだって積もる話があるんだから。おまけに貸しもあるし」
 ね、と梓が微笑む。それでなんとなく気が抜けてしまって、私の口からは「じゃあ二人で行ってきます」という言葉が出た。「じゃあそれなら」と楓さんが傍の引き出しを開けて、梓にお金を渡す。木綿子さんだけが狐につままれたような表情をしていた。


「積もる話って何?」
 先ほど来た道をぐんぐんと戻っていく。梓曰くまともな店はすべて駅の近くにあるらしい。マフラーに顔を埋めて苛烈な風をやりすごしながら、私の半歩先を行く梓に一番聞きたいことを問いかける。
 梓と腰を落ち着けて話す機会は七年ぶりで、確かに積もる話はある。ただ、七年間の話や近況は、別に夕食時に四人でしたっていい。私と木綿子さんの思いやりをむげにしてまで、寒空の中私だけにする積もる話なんて、見当もつかなかった。
「桐ってさ、冷蔵庫の野菜室、ちゃんと手で閉める?」
「は?」
 予想だにしない返答への驚きを隠さず声に出すと、梓は歩みの速度を緩めて、私のちょうど隣へやってくる。
「俺はもう癖になっちゃってて、何回母さんに注意されてもついつい足でやっちゃうの。で、姉さんもそうだったんだ。うちにいるときはずっと」
 梓が私と目を合わせる。
「二人の家ではどう?」
「……私はちゃんと手で閉めるし、木綿子さんもそうだよ。足で閉めてるとこなんて、想像つかない」
「分かった。それが積もる話一個目。積もる話二個目はこの間の電話のこと。姉さんに優しくしたがってたけど、結局出来るようになった?」
「なった、と思う。頑張ってる」
 勢い込んでそう言うと、梓がやけに慈愛に満ちた笑みを浮かべるので、急に恥ずかしくなる。
「一応だけどね」
「それはよかった。じゃあ三つ目。俺の話なんだけど。いい?」
 梓がまた足を速めた。「いいよ」と聞こえるように言うだけにして、無理に隣に行くことはしない。半歩ずれた状態で、梓はぽつぽつ話し始めた。
「高校に、テニス部の先輩で、すごく格好いい人がいたんだ。多分みんなに好かれてた。どうしてもね、その人に目が行くの。すごく目立つ人なんだ。一目見た瞬間から、もうずっとあこがれてる。一個上の先輩だから、もう卒業しちゃってるんだけど、今俺が目指してる第一志望も、その先輩が行ったところなの。だから俺は絶対に第一志望に受かりたい。先輩が目標なんだ」
 梓が言葉を切る。梓がまた言葉を繰り出すまでに、強い風が一度吹いた。枯葉がからからと道を滑っていく。
「よく、お金持ちの人と結婚したいとか、料理の得意な恋人がほしいとか言ったりするじゃん。俺は常々そう言うやつらの意味が分からなくて、だってそいつらが欲しがってるのは、多分人間じゃなくて、単にお金や、手のかかった食卓だろ。そしてそういうものは、自分が努力すれば手に入れられるものなんだ。有り余るほど金を持ってたら、金持ちと結婚したいなんて思わないし、自分一人で美味しい食事を作れるなら、料理の得意な恋人を望もうなんて思わない」
 息を吐くと白かった。だんだんと駅の賑わいが聞こえてくる。
「俺があこがれてるめちゃくちゃかっこいい先輩には中学から付き合ってる恋人が居て、だから俺はもう一切合切を諦めるしかなくて、でも好きだからどうしようもない。でもどうにかしなくちゃいけない。脳みそ振り絞って考えて、先輩の真似をすることにした。レギュラーになって、人付き合い良くして、成績良くして、難関に合格する。それが出来たら、全部自分が持てたら、何もあの人にあこがれる必要なんかない。全部できたら、あこがれの気持ちなんて無くなるだろうと思って頑張った。でも急に怖くなった」
 スーパーらしき建物が見えてくる。うちの近くのスーパーよりもずっと狭くて、古い建物だった。
「先輩に一目ぼれしてから、先輩に彼氏がいることを知るまで三か月。その三か月の、先輩が好きで好きで仕方なかった自分は、ただ単にテニスが好きだった自分は、好き嫌いが激しい自分は、どこに消えるんだろうと思ったら怖くなった。先輩を真似して出来上がった、先輩を好きじゃない自分を考えたら、そんなの自分じゃないように思えて怖かった。でも同時に、レギュラーになるまで死に物狂いでした努力も、頑張って作った友達も、褒められた成績も、全部自分のものだとも思った。今更元には戻れなくて、第一志望に受かるために頑張りながら、このまま合格する自分を考えて、すごく不安だった」
 自動ドアが開く。スーパーのポップは赤と白に華やいで、通常ではありえないような値段を示していた。ずっと前を歩いていた梓が振り返る。
「桐は桐のままだね。でも七年前とは違う。三月に会った時とも違う。この間の電話の時とも違う。桐はちゃんと桐のままで、でも、ちゃんと変わってる」
 足を止める。かずのこの置いてあるコーナーはまだ先だ。年の瀬のスーパーはにぎわっていて、急に止まった私たちを、そばをすり抜ける人たちがいぶかしそうに一瞥する。
「自分が変わっちゃうのが怖くて、変わろうとしてる人が怖くて、思えば今年の俺は姉さんにも桐にも変なことばかり言ってた。ごめんね。でも今日、対岸の歩道の向こうから、歩いてくる二人を見て、そういう八つ当たりしたくなるような恐怖は一気になくなっちゃったんだよ。姉さんは姉さん、桐は桐のまま、昔と何も変わらずに、でも、昔より全然仲がよさそうだった。なんでこんなことで悩んでたんだろうって自分が馬鹿らしくなっちゃうくらい、一気に、不安じゃなくなった。自分は自分のままで、誰かとの関係は変えることができるんだと思ったら、一気に」
 再び梓と目をあわせて、いつの間にか身長を越されていたことに、今やっと気が付いた。びっくりするくらい大人びた表情をするようになったことにも、同時に気付く。
 梓が微笑んだ。
「優しい人にあこがれて、その人に優しくしたいと願って、その人と同じように優しくなって、そうして暮らしていくうちに、自分でも気付かないようなところで、あこがれたその人が自分に似ていってるなんて、どういう気持ち?」
 ぱたんと冷蔵庫を閉める木綿子さんを思い出して、その当たり前の光景に、途方もない気持ちになる。自分自身を肯定する木綿子さんを、軽口をたたく木綿子さんを、みかんを剝いている木綿子さんを、思い出して、優しさを追い求めた自分の努力を思い出して、胸がつまった。
「似てるよ、二人は。でも桐は桐のままだ。姉さんが優しい人であったって、別に桐も優しくなれるんだ。飽和しないんだね。いいなあ。うらやましい。俺も、先輩の真似して大学合格しても、まだ先輩のこと好きなのかも。それって多分絶対、いいことでしょ。誰にとってなのかはわからないけど」
 すごく幸せなことだよね、と梓は続けた。

       ○

 乾かし終えた髪をばさりと枕の上にのせて、しばし天井を見上げる。暗闇の中、常夜灯に照らされてぼんやり天井の木目が見える。引っ越してきたばかりの頃は、天井の木目が狐の顔に見えて怖かった。もう中学生になる年だったから、そんなことが怖いなんて誰にも言えなかったけれど。
 何かのようで何でもない木目の群を見ていると、どうしても頭は勝手に動き出す。洗面所で会った桐ちゃん、一緒の食卓についた桐ちゃん、どう見たって何かがあったような雰囲気で帰ってきた桐ちゃんと梓、不可解な行動をする梓。心の中の、どうにも不思議な気持ちが頭へ巡って、唸りたいような気持になる。
 どう考えたって、梓の様子は変だ。ついでにそれにかかわって、桐ちゃんの様子も変になっている。勉強をないがしろにしてまで桐ちゃんと一緒に二人きりで買い物に行って、梓はきっと何かを話した。それから桐ちゃんの様子もおかしくて、なんだかずっと考え事をしているようなそぶりでいる。わたしやお母さんと話していても、会話が少しずれる。そこまで尾を引くような何かを、梓が話したということだ。
 もやもやする。目を閉じても眠れそうにない。瞼の裏が赤く見えて、視機能が休んでいないことが嫌でも分かる。
 諦めて本でも読もう、と思って身を起こし、電気を付けようと立ち上がった瞬間、ドアが叩かれる音がした。「はい」と素っ頓狂な声が口から出る。わたしの声にこたえてドアを開け、顔をのぞかせたのは梓だった。
「姉さんごめん。もしかしてもう寝てた?」
「いや、大丈夫だけど。何の用?」
「姉さんさ、古文の単語帳で軽いの持ってなかったっけ。ピンクの表紙の、赤シート付のやつ。まだ捨ててなかったら貸して」
「ああ、多分古文なら捨ててないよ。ちょっと待っててね」
 何かと思えば、ごくごく普通のお願いで、少し驚きが落ち着く。電気をつけて、本棚を探した。参考書が集められた一角に目当てのものを見つける。
「あったよ。これでしょ」
「ああそれ! ありがとう。センター終わるまで借りてていい?」
「いいよいいよ。あげる。わたしもう使わないし」
「ありがとう。じゃあ貰うよ」
 古文単語帳を梓に渡す。単語帳を受け取った梓は、なぜかそのまま立ち尽くして、自室に去る様子がない。
「どうしたの。まだなんかある?」
「あのさ、センター終わったら、姉さんの家に遊びに行ってもいい?」
 真剣な調子で聞かれて、虚を衝かれる。「遊びに行ってもいい?」という言葉と、しっかりつかまれた単語帳と、真剣な表情のすべてが矛盾しているように感じた。
「センター終わったらって、二次があるでしょ。勉強は?」
「二次試験に臨むにあたって、物思いを全部晴らしておきたいんだ。今日、桐に話しそびれたことがあって。それを桐に言わないことには、気にかかっちゃって勉強にも専念できないし。今日言えたらよかったんだけど、想像してたより桐が鈍かったから、今日話しても混乱させるだけだと思って。だから日を置いて、でも俺の気持ちもあるから二次試験の前に。つまりは、センター試験が終わった後に、桐と二人きりで話したい。そのために家に行きたいんだけど、いいかな? 姉さんは外しててほしいんだけど」
「ちょっと待って、今日のこともそうだけど、二人っきりで何を話すの。あとなんでわざわざうちまでくるの。なんかよく分かんないけど、桐ちゃんに告白でもするわけ?」
 梓の発する言葉の全部が、いちいち胸中のもやもやを増やしていくから、思わず言うはずのなかった言葉までが口から飛び出す。多分わたしは今、ものすごく変な表情をしているだろう。胸の中のもやもやが、ぐるぐる喉に渦巻いている。引っかかった小骨みたいだ。
 単純に、今日の梓と桐ちゃんの間の出来事が、ものすごく気に食わない。言ってしまえばそれだけだ。でもそれが何故だか分からないから、言葉にせずにもやもやのまま、身体に置いておくしかない。
 苛々した気持ちで梓の顔を見つめると、梓は面食らったような顔をしていた。それが数秒後に、思いっきり破顔する。
「違うよ。告白って。面白いなあ姉さんは」
「じゃあなんで」
「姉さんの話をするからだよ。姉さんの話をするから、姉さんを外して話さなきゃいけないんだ。家に行きたいっていうのは、単に俺が住むはずだった場所に興味があるのと、姉さんが知らないようなところで、桐と俺が会うと、姉さんが気を悪くするかなと思ったから。告白なんてしないよ。桐のことは好きだけど、そういう好きじゃないし」
 本当に姉さんは鈍いね、と続けて、梓は心底おかしいという風に笑う。馬鹿にされていることに対しての憤りと、もやもやが急に取り去られたことへの覚束なさがせめぎあって、うまく表情が作れない。
「じゃあいいかな? 家に行っても。詳しい日取りは桐にでも連絡するから。その時は姉さんの好きなエクレア買っていくよ。俺がいなくなったら食べて」
 そう言って梓は、仕切り直しのように微笑んだ。なんだか自分の知らないところで、重大なことが起こっているような気がする。目の前の弟の笑みに、もやもやが晴れた空っぽの胸をかかえて、どうしたらいいかわからない。




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