九
 空を見上げるという行為、光る星を目に留めるという意思、肉眼では見えない星があるのだと知る刹那、星の実体が球なのだと知る瞬間、夜空の黒に色彩を感じる閃き、天球が虹色に覆われる神妙、背に降りかかる橙の事実、女神の陥没を知覚する畏怖、暗やみに紛れた器具を触る冷感、暗さの中に温かみを発見する慣例、視界に収めた天体に焦点を合わせてゆく指先、ありふれた日常の水を貴く思慕する実感、限りある暗闇を惜しむことで痛む首筋、限りない夜空の中で天体を見つけ出す快感、雨の事、雲の事、雪の事、靄の事、星の事、空の事。美しいことを見つけるたびに、それを解明したくなった。出来ることなら、すべてのことの美しさを、理解したかった。
 視界に収めることが可能であり、手軽にその表面をつぶさに観察することができる。屋外でほんの少し面を上げればすぐそこにある。たやすく把握できるようでいて、実際は我々の視界よりはるかに強大で、遠く、秘密主義であることの美しさ。その曖昧さが好きだった。どうしても微分できないあの上品な漆黒と華美な極彩色で構成された宇宙は曖昧で、挑発的だ。その空漠を暴こうと、数々の試みがなされた歴史の上に、やがて徹底的に選りすぐられた手段が表出してくる。解剖道具となる公式や数値さえ美しかった。美しい世界の真実を知るために、美しいメスで切り開くのだ。その行為すらも融合してしまうこともあるけれど。
 嫌いな人間も居ないだろうが、私は星が好きだった。その他のすべてをないがしろにしてもいいくらいに好きだった。


   五年前 四月
 あいにくの雨になってしまった。観望の予定は取りやめだ。先生の指示に従ってとりあえず理科室に向かうことになる。小学校が月に一回の頻度で催す天文の活動は、常々楽しみなものであったので、雨が降ったのは残念だった。普通は屋上に出て、肉眼・双眼鏡・望遠鏡で夜空を見る。今日は丁度新月で星が綺麗に見えたはずなのに、どうしてこう間が悪く雨が降るんだろう。無念で仕方がない。天気なんて人間がどうしようも無いことであるし、さっさと気持ちを切り替えるべきなのだが、一度期待に高揚した気持ちはどうしても引っ込みがつかなかった。屋上から理科室へ向かう足は重い。
 理科室について黒板を見る。突然の雨天で中止になった観望の代わりとして、どうやら何人かの先生が座学をすることになったらしい。変わり映えのしないつまらない内容の告知に、理科室の落胆は相当なものだった。参加者の誰だって、繰り返し行われる知識の復習を一方的に聞かされるより、外で星を見ることの方が楽しいに決まっている。座学として実のある新しく難しい話をしてくれるならまだいいが、この活動の雨天時の座学はいつもきまって初歩的な星の知識しか教えてくれないのだ。それも毎回同じものを。参加者が毎回同一であるわけではないし、この活動には小学一年生も参加しているので、仕方がないと言えば仕方がないが、この毎回の活動に皆勤の小学六年生などにとっては、この座学は辟易である。溜息を吐いた。
 仕方のないことが多く起こりすぎていて、心中の昂りは行き場がない。物憂げな気持ちで適当な席に着席すると、しばらくして友人が隣に座った。この友人も小学校六年生で、星がとても好きであり、この活動に皆勤である。隣に座る友人はつまらなそうな顔で居た。心中に見当をつけて声をかける。
「雨が降っちゃって残念だね」
「うん。本当に間が悪い。これが最後の参加のつもりだから、星が見れなくて残念」
 簡単な応答に、引っかかる部分があった。雨天が残念なのは至極同意であるが、「これが最後の参加」とはどういうことだろう。友人らしくなかった。この後も卒業までずっと、この活動に参加していくのだろうと思い込んでいたが、驚きだ。何か事情でもあるのだろうか。
「どうしてこれが最後なの。今後は参加しないの?」
「したいんだけど、受験勉強があるから、多分参加できないと思う」
 その答えに、最近よく起こる辟易がまた巻き起こってきた。この頃、同級生の中には受験勉強に勤しみ始める者が多い。その度に、なんとなくつまらない気持ちになる。特にこの、友人の辛そうな様子には、すさまじく理不尽なものを感じた。
「なんで受験なんかの為に、星見るのやめなきゃいけないの」
「それでも、受かるためには勉強しなきゃいけないし」
「受験なんて本当どうでもいいのに」
「あれ、栞も受験するんじゃなかった?」
 するけれど、それは渋々のことである。母親に言われたからするだけで、受験は自身の本意ではまったくない。
「受けるけど、別に私はどうでもいいし。受からなくても構わない」
「うちもそれくらい気楽だといいんだけどな」
 友人から諦念をまとった言葉が吐きだされたところで、黒板前に先生が立った。理科室の中を見回してみると、参加者は皆なんとなく席に着き、一応私語を止めているようだった。
 この座学はまず、太陽系の惑星についてが話される。特に難しいことが話されるわけではない。水金地火木土天海冥、内惑星と外惑星、それぞれの大きさ、それぞれの衛星、そんなところだ。次に日食と月食の仕組みが話されて、次に月の満ち欠けの話が終わったら、今度は星座の話になる。春夏秋冬のそれぞれに見える有名な星座、天球の話と黄道の話。それが終わるといよいよ話すことはなくなってきて、結局神話についてのお話になる。宮となる十二の星座については特に念入りだ。それすらも終わったら、最後は星占いになる。全く聞き飽きてしまう。
 誕生時に太陽があった宮によってその人間の運命が決まるという話。先生が占い師のような講釈を垂れている中で、友人が小さく呟いた。
「全部上手く行くような運命だったらいいのになあ」
 随分弱気な発言だった。受験勉強にだいぶまいっているらしい。
「やる事為すこと全部上手く行くような人なんて居ないでしょ」
「それでもさあ、星を見る余裕があって、なおかつ受験も上手く行くような、そういう星に導かれたような人生だったら凄く良いじゃん」
「……あんまり根を詰め過ぎないでね。それこそ息抜きにさ、月一回星みるくらいなら良いんじゃないかな。見たくなったら、また参加したらいいと思うよ」
 友人はその言葉を聞いて、笑って「ありがとう」と礼を言った。しかしその後卒業まで一度も、友人は活動に参加することは無かった。


    五年前 一月
 試験帰りの電車内だというのに、母親が緊張しているのが面白い。普通緊張というものは試験の前に、本人がするものだと思うのに。張りつめたような母親の顔がゆるむのは溜息をつく時くらいである。
「それで、上手く出来たの?」
「だから、さっきから何度も答えてるけど良く分からないって。解けた問題もあるけど解けなかった問題もあるし。満点が当たり前みたいな人が受験者の中にいっぱいいるなら絶対落ちてるよ」
 参考にならない、とばかりに母は溜息をつく。ついでに眉間にしわが出来て、これは愚痴の始まる兆候である。
「第一、あなた勉強しないんだもの。ほら、学校のお友達。六年生になって観望会を止めた子がいたでしょう。あの子くらい勉強するものなのよ普通は。なのにあなたは星を見てばかりで肝心の塾だってこっそり休むし」
「星の勉強はしてたよ」
「あなたが将来何になりたいのか知らないけど、どれにしたってそれに関する勉強だけじゃ上手く行かないものなのよ。あなたのためを思って最善の道を選んであげてるのに……」
 まだまだ続きそうな愚痴だったけれど、電車はもうすぐ小学校の最寄駅だ。試験が終わってから学校に出向く受験生徒も何人かいる。手ごたえや所感を先生に報告するためだ。
「お母さん、私もう降りるよ」
 そう言ってすぐ、電車が目的の駅に停まる。母は最後に溜息をついてから手を振ってくれた。電車を降りて改札を抜ける。小学校に向かう道中で、友人の後ろ姿を見つける。駆け寄った。後ろから肩に手を掛けると、友人が少し跳ねて振り返る。
「ああ、栞か。どうだった?」
「良く分かんない」
「そうか。私は、失敗しちゃった」
 産み落とされた一言に、少し硬直した。友人は平静を保っているように見えるが、声の調子がどことなくおかしい。
「あんなに頑張ったのに、全然だめだ」
「まだ分からないじゃん。合格発表見たわけじゃないでしょ。多分受かってるよ」
 友人は俯いてしまって、面をあげない。かける言葉に困って、配慮に欠ける発言をしてしまった。
「大丈夫だよ。それにもし落ちても、たかが中学受験だよ。そんなに気にやむことじゃないよ」
 空白があって、友人は面をあげた。しかしそれは目的とは違う結果だ。友人の顔は色を失っていた。その唇が震えていて、一瞬で現状を悟る。
「そんな風に簡単なことみたいに言うけどさ、栞と違って、私は勉強してたもん。星に関してだって、見たくて仕方なかったけど、今頑張れば将来いくらでも見られるんだって、そのために勉強してるんだって思い込んで我慢したの。簡単に慰めようとしないでよ。栞は、一生星のことについてやっていきたいなんて言うけど、そんなに簡単なことじゃないよ。全然真剣じゃない」
 そのままでは、今頑張らねば夢は叶えられないと、友人は強い口調で言い切った。反論はたくさんあった。決して遊んでいるわけでも無ければ、星の勉強をしていないわけでもないと。努力のやり方が違うだけだと、そう言いたかったが言えなかった。友人は早足で歩いて行ってしまって、なんとなく、取り残された形になった。その後に学校へ戻っても、どうしてか目を合わせにくかった。
 合格発表日、予期せぬことが起こってしまった。合格してしまったのである。母親はかなり喜んでいたが、反対に自分自身は気持ちを持て余していた。数か月前のように、どうでもいいというわけでもない。気を重くしているのは友人の存在だった。昨日合格発表があった友人の弁によると、友人は合格できなかったらしい。試験日のすれ違いから日が過ぎて、友人との関係はもとに戻ったように思われるし、不合格を告白する友人も落ち着いた話しぶりだったが、どうしても試験日の友人の姿が記憶に焼き付いてしまっている。あの様子を思い出すと、切なくて仕方がなくなる。
 小学校に戻って、先生に報告を済ませてから教室に行った。友人はそこに居て、私が来たのに気付いてこちらに近づいた。
「発表はどうだった?」
 かなり言い淀んで、やっと友人に自身の合格を伝えた。おそるおそる友人の顔を伺うと、友人はすぐに笑った。その笑みに全身の緊張が緩まる。試験日のようなことにならなくてほっとした。
「合格したんだね。おめでとう」
「ありがとう。まさか上手く行くとは思わなかったけど」
「いやそれでも、やっぱり栞は頭良いしね。考えてみればずっとそうだった。試験日の時は八つ当たりしちゃってごめんね」
「私も、変な事言っちゃったから悪いと思ってる。ごめん」
 謝り合って、すべての行き詰まりが解消したかに思われた。持て余した気持ちもしっかりと消化できている。友人を観望会に誘おうと口を開きかけたその時だった。
「きっと栞は何でも上手く行っちゃうんだ。努力した人を軽々超えて、馬鹿げた夢でも実現できちゃうの。そういう運命なんだよ。そういう星の下に生まれて、運命に手を引かれて、これからずっと容易く生きていけるの。そういう人生。良いね。羨ましいわ」
 笑ったまま、まるで本気でそう思っているように語りだす。攻撃のつもりなんてまるでなく、ただ本心を思うままに述べているだけ。そんな調子だった。分かりたくなんてないのに、脳はその言葉を容易く理解する。友人の言葉が真実であるはずがない。運命なんて、そんなものが本当であるはずがない。しかし、真実でないのなら、この言葉は攻撃だ。
「本当におめでとう。もう会いたくない」
 決定打の発言を浴びせて、友人は離れて行ってしまった。口の中には、もう二度と出せない誘い文句が転がっている。運命で片付けられたすべてを思う。運命、星占い、観望会、あの辟易するような座学も心躍る観望も、いつも一緒だったのだ。友人は星が好きだった。同じ年であったし、共通項はいくつもあった。でも絶対にそれだけでは無かった。星が好きな人間なら、誰でも良かったわけではない。


    二年前 六月
 中学に入って二年を終えてしまうと、段々と大人の言う言葉の意味が分かって来るようになる。母の言葉の意味も分かった。星に関しての職業をしたいという夢を持つ私にとっては、最低限必要な環境というものがある。この中学は、私の進路に確実に続いてくれる道である。あの浅慮な態度で臨んだ中学受験がもし失敗していたらと考えると寒気がする。単なる公立中学では、きっとその瞬間に私の夢への道は断ち切られていただろう。
 中学には容易いことも難解なことも、どちらもあった。いかにその難解を征服するかにかかっていた。進学を志望する高校もとうに決まっていた。通称海理高校という、理系難関校である。海理大学の附属校であるそこを経て目指すのは海理大学だ。そこでなら適切な勉強が可能で、天文学にさらに耽溺することが出来る。夢を叶えるためにはこの進路が最も適切だ。そしてそれは裏を返せば、この進路を上手く進めなければ夢を叶えられないことを意味している。
絶対に失敗するわけにはいかなかった。
 ある日、学校から帰宅すると、台所で母が座り込んでいた。最初の心配は時間のことだった。この後すぐ塾に行かねばならない。余計なことに時間を割きたくは無かったが、若干不審な様子ではある。台所の母に声をかけるが答えない。不安になって肩をゆするとそのまま倒れた。一瞬血の気が引いたが、すぐに救急車が頭に浮かんだ。119番に電話して、対応し、救急車が来るまでの間に仕事先の父に電話した。あわただしい時間であり、いつの間にか塾のことは忘れていた。
 とりあえず緊急のことが済んで、父も仕事先から病院へと駆けつけ、病室で医者から説明を受けた。若い頃の母の持病など、知らない話がいくつも出て来た。気が塞ぐ時間であり、無性に気晴らしがしたくなった。しかしその状況で気の晴れることなどあるはずもない。必死で気を逸らすために、簡単な物理公式を頭の中で唱えていた。そのうちに医者の言葉は聞こえなくなった。
 考えたくないことが起こってしまった。母はしばらく入院するのだという。これからの生活を思うと憂鬱だった。考え通りに上手くはいかない。
 医者が病室から出て行った。父は考え事でもするようにぼうっとしている。今後のことを話さなくてはならない。
「これからお母さんどうなるの」
「そんなに深刻なわけじゃない。なんどか入院すればそれで、もう一生大丈夫のはずだ。ただ今、物凄く頑張らなければならないだけだよ」
「じゃあ私はどうするの」
 予想以上に尖った声が出た。父が咎めるような顔をする。
「絶対に受からなきゃいけないし、勉強しなくちゃならないの。他の事している暇なんてない。私は好きにさせてもらうから」
「お前、母親が倒れたっていうのに」
「なんでこんなに間が悪いのよ」
「そういう言い方はないだろう」
 父は声を荒げたが、それきりだった。父も私も気力がない。疲れ切っている。何一つ上手く行きそうにないが、たった一つ上手くやらないといけないことがあるのだ。こんなことで往生していられない。
 結局母が退院するまで、私は一度も見舞いには行かなかった。


    二年前 二月
 すべて準備は万端だった。これ以上ないほどに完璧な状態であるはずだ。特に地学と物理学は血のにじむような思いで勉強してきた。自分に馴染のある分野は上手く勉強をこなすことが出来た。しかし勉強の過程で、初めて学ぶことにはいちいち戸惑ってしまっていた。しかしそれもすべて克服している。完璧なはずだ。すべてこの日の為に、熱心に、努力してきた。他のことをないがしろにしても。この試験会場にいる他の誰よりも、苦労をしたと確信している。夢を叶えたいからこそだ。絶対に合格しなければならない。
 試験官が入ってきて、注意を述べる。耐えがたい待ち時間を経て、腕時計の針が開始時刻を指した。最初は国語、次に数学で、その後に英語と社会が続く。そして最も重要視される理科四科目は昼休みの後に行われる。国語の問題用紙を開く。読みにくい文章では無かった。行けそうだ。

 国数英社はまずまずの出来だった。手ごたえも感じる。問題は理科の四科目である。地学は私の得意科目であるし、海理高校の入試の生物と化学は他二つに比べては素直だ。一番に危険なのは物理だが、出来る限りの対策はしてきている。問題は時間だった。試験時間に比べて問題が多すぎる。逡巡は絶対に許されないし、潔く問題を諦めるのも重要な技術になってくる。無駄な手間さえ取らなければ、高得点を獲得できるだろうが、こういう場で無駄を出さないというのは困難なことだ。しかし、やらねばならない。息をととのえる。気を緩めるために周りをなんとなく見回してみる。参考書を熱心に見ている人間が大半で、何人かは鉛筆を動かしたりもしている。私も主だった公式を諳んじた。一人、目を引く受験者が居た。私の座る机の斜め前の机で、一番端に座る受験者は、あまりにも屈んで参考書を見つめている。臥せっているようにも見えるその姿に胸騒ぎが起こった。目を離そうとするのに、なぜだか離すことができない。私と同じような不審を感じたのか、その受験者の隣に座っていた人が、その受験者の肩に手を掛けた。その瞬間に、屈んでいた受験者の体勢が崩れて、椅子から横に倒れ込んだ。一緒に落ちた鉛筆がけたたましい音を立て、会場の全員がその受験者を注視した。目が離せない。瞬きも出来ない。声をあげようとしてもだめだった。逆に周りの音すら聞こえなくなってしまった。何人かの試験官が倒れ込んだ体に駆け寄る。すべて無音で、やけにゆっくりとその情景が眼前に繰り広げられた。点滅するように、家の台所の情景が脳に浮かんだ。
 倒れた受験者が試験官によって会場の外へ運び出されると、ざわついていた会場もだんだんと静かになった。皆平静を保っている。わけが分からなくなった。必死で自分に言い聞かせる。あの受験者は大して深刻な事態ではない。むしろ受験者が一人減ったことを喜ぶべきだ。しかし中々落ち着くことは出来なかった。昼休みが終わってもその受験者は戻ってこなかった。
 いつの間にか、公式が頭から飛んでいた。急いで確かめようと参考書を開こうとしたが、丁度その時試験官が入場した。最終確認は出来なかった。心臓が物凄い勢いで打っている。忘れた公式が出ないことを祈るしかない。手元に配られた問題用紙がぼやけてみえる。やけに白く思える。試験官の合図で試験が開始した。はっとして問題用紙を開いた。五六行ほどの問題文と、数値が並んだ表があった。文を追うが上手く頭に入らない。泣きそうになる。5.515という数値を見ても、すぐにあの青を想起できない。鉛筆が上手く動かなかった。

 入試が終わってしまって、すべてが失われたような気分だった。満足に解答欄を埋めてすらいない。進路を踏み外したのだ、ということだけは、もやがかかったような頭でも理解していた。あることのために他すべてをないがしろにしてしまえば、そのことを失敗した瞬間に、自分には何もかもがなくなってしまうのだ。その危険性を、どうして分からなかったのか。
 ふらふらと歩いて、ふと上を見ると金星があった。圧倒的に光るその内惑星が、本当に手の届かないところに行ってしまった。いや最初から手に届くところなどには無かったのだ。しかし現状はなお悪い。もうそれに向かって必死で手を伸ばす気力すら失われてしまった。それでも星は美しい。それだけは変わらない。変わってはくれない。どんなに私が落ちぶれようが、結局遥か遠くの物体は私を許容してはくれないのだ。
 初めて空を見上げたのは何時だろう。初めて星の存在を意識したのは何時だったろう。今夜空に見えるものが宇宙のすべてではないと知ったのは、星が丸いことを知ったのは、それらの不可思議な条理を始めに美しいと感じたのは何時だろう。幼いころから、美しいことは知っていた。初めから刻み込まれていた。絶対の真理や美が確かにこの世に存在しているということを支えにして生きてきた。生まれた時から、きっと愛していた。そうなるように生まれついた。そして今まで愛し続けてきた。脇目も振らず、他の一切を捨て、ひたすらに美しいと賛美してきたのに、その美は私を愛しはしない。その強大さも冷淡さも、色も真空も条理も不条理も、すべてを愛していた。愛しているからこそ分かりたかったのだ。理解したかった。愛するものを検分したくない人間がどこにいるだろう。愛するものを欲しない人間がどこにいるだろう。私だって欲しかったのだ。そのすべてを知りたかった。理解したかった。それを解剖して検分するのは私が良かった。私にさせて欲しかった。
 私が理解したかったのに。それなのに、触れさせてくれないのだ。私が手を伸ばすことさえ拒むのだ。理解したい。分かりたい。それなのに、理解させてくれない。
 叶わない想いは込み上げて眼球を覆い、溢れた。金星がぼやけて増光する。金色の光は、いつかの友人と、母の声で私に囁いた。 「例えあなたに真実をもたらしたところで、あなたはそれを理解できない」
 真っ白の解答用紙と、母の病室、友人の色を失った顔、黒板に書かれた白い文字、試験会場、使い古された望遠鏡、それらすべての情景が結合し、一塊となって眼前を覆った。我に返ると、金星は見えなくなっていた。あたりはもう真暗だった。家に帰らなくてはいけない。そして学校にも連絡をしなければならない。すべてを捨てて臨んだ愛の告白が、あっさりと退けられたことを皆に報告しなければならないのだ。まったく愚かだった。すべてが上手く行っていなかった。俯いて溜息をつく。
疲弊しきった頭の中に、過去の真実が忍び込んできた。
(そういう運命なんだよ。そういう星の下に生まれて、運命に手を引かれて、これからずっと容易く生きていけるの。)
 容易く。容易に。分かり易く。簡単に。苦労なく。努力することも無く。
 この真実によれば、愛を拒絶され夢を捨てるこの散々な結果は、きっと何かのためになるのだ。
厳正なる星の手引きによって、この結果は、きっと、運命である。




星の手引き

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