八
 今日もまた成果はない。気落ちしながら俯くと、夕日によって自分の影が色濃く道路に映っていた。溜息をつく。
 あの日の翌日、図書室に栞さんはいなかった。休み時間に栞さんのクラスに行ってみても、席を外していたり授業を欠席していたりで、見つけることも出来なかった。図書室とクラスにいないとなると、探せる場所はあとわずかしかない。そのどこにも栞さんはいなかった。偶然に廊下で会うようなこともなかった。
 考えていたことは何一つ上手く行っていない。小説もなかなか進まなかった。ノートに何か書こうとすると、急に筆が止まってしまう。今まではたくさん湧いてきていた言葉も、今や少しも降ってこない。停滞してしまっている。何とかしようとは思っているけれど、今の所成果はなく、八方ふさがりの状況だ。
 どうしたらいいんだろう。ふたたびため息が漏れる。
「星さん!」
呼ばれた声に振り向く。栞さんでないことはすぐに分かった。男の人の声だった。丁度その人は逆光で陰になっている。彼はわたしの隣まで駆けてきて、たどり着いて息を整えた。
「月井くんか。久しぶり」
「お久しぶりです。あの日以来ですね」
「……そうだね」
「一応連絡しますが、週明けから部誌が発行されます。それだけ伝えたかったので」
 わざわざ丁寧にありがとう。とお礼を言って、心中で栞さんのことを思った。栞さんは、部誌を手に取ってくれるだろうか。あの日から会えていない。最悪な別れ方をしてしまった。栞さんはわたしのことを今、どんな風に思っているのだろう。
「星さん、小説書いていらっしゃいますか」
「え、うん。書こうとはしてます。中々進まないけど」
「良かったです。気落ちしていらっしゃらなくて」
「……うん。まあ頑張ります。月井くんも今回書いたの?」
 ええ、書きましたよ。と、月井は珍しく晴れやかな顔で言った。
「そうなんだ。楽しみにしてるね。月井くん上手だから。羨ましい」
「……吹っ切れたとは言っても、そういうの聞くとやっぱり腹が立つな」
「え、何」
「何でもないですのでお気になさらず」
 先ほどのような、やけに丁寧な態度を快く思うとすぐこれだ。やはりこの男は不遜で嫌味である。今もわたしには身に覚えのない悪口を悪気なく言った。まったく碌でもない。敬語だけはちゃんとしているのがいつも気に食わないところである。
「あの日の後、栞先輩に会ったりしましたか」
「してません。どこを探しても居ないんです。正直、図書室とクラスに居なかったら、わたし栞さんがどこに行きそうなのか、そういうことまったく分からない。普通の友達なら、分かって当然だろうけど」
 そう言ってわたしは自嘲気味に笑った。良く考えてみれば、わたしは栞さんのことをほとんど知らない。栞さんが見せてくれる数少ない部分しか分からない。そして今まで、知ろうともしていなかった。その付けが回ってきている。
「そういえば、月井くんって栞さんのこと知ってるの? 前に、栞先輩って呼んでたでしょう」
 月井は目を見開いた。驚いたような風情である。今日は月井の珍しい顔をよく見るな、と思った。
「普通に知ってます。同じ中学でもありますし」
「成程、だから名前も知ってた」
「いや、多分同じ中学じゃなくても、名前くらいは知ってたと思います」
 訝しげな月井の言葉の真意が良く分からない。訝しげにしたいのはこっちだ。
「何で」
「栞先輩って有名人じゃないですか」
 言葉ひとつでなかった。ひどく間抜けな顔をさらしていたと思う。何だそれは。予想外の返答過ぎて反応できない。
「有名人ってどういうこと」
「栞先輩はこの学校では才媛で有名ですよ。出身の有名中学ではトップの成績で、今でも全国模試ではかなり良い成績をとっている。正直うちみたいに微妙な私立高校では神様扱いです。特に教師はどうしてうちみたいな高校に入ってくれたんだって首を傾げてるって話ですし」
「そうなの……全然知らなかった」
「栞先輩は自分ではそういうこと言わないでしょうから、そこの部分については納得しますが、この高校に一年と半分通っていて本当に栞先輩の噂ひとつ聞かなかったんですか」
「聞いてません。教えてくれるような知り合いがいなかったから」
 若干の微妙な空気に申し訳なくなる。いやでも仕方ないだろう。事実一度もそんな噂聞いたことがない。びっくりだ。
「そういうわけで、栞先輩はこの学校じゃ有名です。成績が良いから少しの校則違反は大目に見てもらえていて、だから髪を染めているのや白衣を着ているのも目立ちますしね。同じ中学ではなくても知っていた、というのはそういう意味です」
 展開が急で頭がついていかない。栞さんが有名人。しっくりこない。栞さんがかなりの才媛なんて、知らなかった。優しくて声が綺麗で少し変な所のある可愛い人だと、わたしの認識は一貫してそういう風だったのだ。ギャップがありすぎる。
「中学の頃も有名だったの?」
 彼女は生まれながらに勉強一筋の女の子だったのだろうか。上手く嵌らない。そういった根を詰める作業とは無縁のイメージだ。勉強などに囚われずに飄々としている性格であるような気がする。たとえば中学校の時から天才肌だったというのなら、彼女のつかみどころのない性格にまだ合致しなくもない。そう思っての質問に、月井は顔を暗くした。
「……彼女が卒業する前は、今と同じような騒がれ具合でした。成績トップであることを、持て囃されていましたね。でも卒業後、というか受験後は少し違った感じで」
 月井のひそめるような声に、胸騒ぎがする。悪い予想が当たりそうな雰囲気だ。
「栞先輩は海理附属高校を志望していました」
「海理附属高校って、あの理科系分野では最難関の?」
「ええ。そこを志望なさっていました。でも彼女なら受かる力量はあったんですよ」
 そう言って月井は苦々しいような、切ないような顔をした。そうだ、受かる力量が例えあっても、今彼女が通っているのは、月井曰く「微妙な私立高校」なのである。
「失敗されたという話です。その当時、先輩のご家族の誰かが病気だったという噂もありますし、そうでなかったという噂もあります。噂の真偽は分かりませんが、失敗したことは確かです。先輩も周囲も、確実に受かると思っていたそうですから、滑り止めの高校も適当に決めていたんじゃないでしょうか。先輩は、自分は間違いなく受かる、とずっとそういう態度だったと同学年の方は仰います。先輩は反感を買っていたかもしれません。そして、受験に失敗して先輩が入学したここは、僕らの出身中学では相当にレベルの低い所です。卒業後の先輩の有名具合というのは、あまりいいものではありません。笑い話のような、反面教師のような、そういう事例で扱われました」
「詳しいね」
「僕らの中学校では、みんな知ってる話なんですよ」
 嫌な話だ。笑い話にしては一つも笑えない。
「まあ僕はまったく笑えませんが」
「確かにそうだね」
「今の高校では、誰も笑える人なんていませんよ。でも、栞先輩はつらいのではないかと思います」
 想像以上の話だ。そして、本当にわたしはこんな話を、栞さんに黙って、聞いて良かったんだろうか。
「栞さんは、わたしがこの話を聞いたことを知ったら良く思わないだろうな」
「いいえでも、星さんは知っておくべきだと思います。僕の独断ですが、あなたが書いた小説の主人公と友人のような関係を、あなた方がしているのなら、知っておくべきです。あの小説の二人なら、打ち明け合っていると思います」
「栞さんのあの極端な態度が、その過去が原因になっている可能性はあるかな」
「充分考えられると思います」
 それなら、この裏切りめいた行動は進展だ。
「月井くん、ありがとうございました。その話が聞けて良かった」
「いいえ。差し出がましい真似だったかもしれません」
「もう一つ聞いてもいいかな」
「何でしょう」
 気になっていることが一つある。月井は知らないかもしれないけれど。
「どうして栞さんは海理高校に入りたかったんだろう」
「さあ……残念ながらそこまでは」
「そうだよね、ありがとう」
「普通に、理系の科目が好きだったのでは。化学か生物か物理か地学か分かりませんが」
 考え事をしながら歩いていく。そろそろ駅だ。
「じゃあ今日は本当にありがとう」
「気にしないでください。さようなら」
 駅前で月井と別れる。考え事に気を取られたまま電車へ乗りこむ。窓の外はそろそろ暗い。星が見え始める頃だろう。
 突然、頭に栞さんと初めて出会った時の事が浮かんだ。図書館で、「星の王子様」を手渡して、それが始まりだった。頭の奥が熱くなる。

 栞さんは、何が好きで、何に負けてしまって、今、何を思っているのだろう。




星の手引き

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