七
図書室は学校の最上階にあるにも関わらず、陽当たりが悪いらしかった。窓が小さいのだろう。電灯も切れかけた暗い部屋の中で、先程の穏やかに騒然とした出来事に思いを馳せる。重苦しい雰囲気の中で栞先輩と僕は対面していた。
「……大丈夫ですか、栞先輩」
「大丈夫じゃないわよ。失敗したわ。こんな風になると思わなかった」
泣きそうな声でそう言ってから、栞先輩は出し抜けに僕を睨む。
「君も、あんなに褒めなくても良かったじゃない。確かにそこらの高校生よりは上手いと思うけど、絶賛するほどじゃないでしょ。気をもたせないでよ」
絞り出すような声だった。「気をもたせないでよ」という言葉に若干絆されそうになったが、栞先輩の過去と僕の現在の心情と、星さんの小説の出来はまったくの別事である。絆されそうになったということが分からないように、平然とした態度をとることにする。
「いえ、彼女は褒めるくらいに上手いですよ。僕が言うんだから信用してほしいです」
「ああ、君の小説、星さんがえらく感激してたわね。この人が一番に上手い、凄く上手な小説を書く人だって。ずっとああいう風に、ただ読んで感激してくれてるだけなら可愛かったのに」
「そんなに褒めてもらっていたとは光栄ですね。でも、もう僕より彼女の方が上手いですよ。才能があります」
「文芸部で彼女が一番に上手いってこと?」
「そうですね」
僕の答えを栞先輩は鼻で笑った。
「悪いけど、それって凄い内輪での話じゃない」
「内輪でも、一番というのは嬉しいものですよ」
内輪のこと。この高校の文芸部であるとか、僕が今まで在籍してきた部活のような場所をいう。取るに足りない、埒が明かない、才能も無い人間の集まった場所のことだ。そしてほとんどの内輪に、天才は存在しない。しかしどこの団体にも一番は存在する。取るに足らない人々の中では、小手先の技術しかもたないような、少し要領の良い人間が簡単に一番をとることが出来る。栞先輩は、星さんも所詮そういった人間だと思い込んでいるのだろう。取るに足りない人々の中で、ほんの少しだけ上手くやれる凡人に過ぎないのだと。
部活動に代表される、ある芸事を行う団体において、天才の出現率は低い。低いからこそ天才であるのだから当たり前の話だが、その芸事一本で時代の寵児となれるような人間はごくごくわずかであるし、そもそもその芸事を職業に出来る人間自体が少ない。才能のある人間は限られている。決して、天才などというものは各団体に一人ずつ誂えられてなんかいやしない。
それなのに何故、学生時代の部活動において軽薄な「天才」が存在するのだろう。団体の中で一番の人間は、その団体に在籍する二番以下の人員による賞賛を受ける。極めて根拠の少ない賞賛だ。内輪で一番であるというだけでの賞賛である。賞賛を受けた一番の人間は、この世に無数に存在している。ほとんどがただの凡人だ。本当の賞賛を受けるには値しない凡人である。そう言った凡人たちを、何故凡人以下が賞賛するのだろう。彼らは無意識のうちに基準の引き上げを必死に求めているのだ。彼らが賞賛する人間が天才であれば、自分たちは天才に負けただけの普通の人間であると思い込むことが出来る。自分たちが凡人以下であるという事実から目を逸らすことが出来る。だからこそ一番を祭り上げるのだ。内輪を世界と思い込むために。まったく愚か極まりない。それでも、一番というのは楽しいものだ。天才にはとてもなれない凡人であるが、そのかわり、下もたくさんいるのである。凡人以下が沢山いる内輪の世界の中で、ふんぞり返っていたことの、愚かさは承知している。しかしそれは愚かだからこそ悦楽だ。
「僕は嬉しかったです。ずっと今まで一番で。部内に、いくら小説家を夢見る人がいたって、どれだけ小説が好きな人がいたって、その人たちより僕は良い小説を書けました。僕が一番上手かったから。そういうのって楽しいでしょう」
「性格が悪い。君は、小説を書くより一番になる事の方が好きそうね」
「きっとそうですね」
栞先輩の言葉を受け止めて笑う。自分が愚かなのは真実だ。そして小説を書くことよりも、一番になる悦楽の方を、僕が求めているのも事実だ。僕の笑みに栞先輩の表情が歪む。僕の行状を告白する。
「小学校の頃は勉強が得意だったけれど、中学校に入ったら周りに頭のいい子がたくさんいたので、勉強は止めました。中学生の時は一度も本気で勉強しませんでした。中学校の美術部は本格的でないところだったのでそこに入りました。向上心のない人たちばかりがいる所だったので、そこでも一番になれました。高校に入ったら絵を本気で書いている人が何人か居るようだったので美術部は止めて、文芸部に入りました。入学前に部誌を読んだら、あまりいい出来の物が無かったので、ここでなら一番になれると思って。結局目論見外れでしたけど」
「じゃあ今すぐにでも、一番になれるところを探したら? もう君は小説は書かないんでしょう」
「そうですね。今までは、一番になれなかったらすぐ諦めてきたから。今回も、もう小説を書くのは止めて、退部しようと思いました。だってもう一番ではないですから」
そうだ。僕は小説を書くという行為より、一番が欲しかった。そのはずだ。
だって馬鹿だろう。叶わないことに躍起になるのは。本気で小説家なんてものを目指すのは。自分には才能がないのに、自分は下らない人間にしか賞賛されていないのに、夢みたいなものを叶えようと奮起するのはおかしいだろう。初めて小説を書いたという人間にあっという間に抜かされる感覚を味わって、どうして夢を見ようとするのだろう。
手元に目を落とした。この素晴らしい作品の著者は、しかし僕の小説を気に入ったと言う。下らない、単なる世辞かもしれない。それなのに、僕はどうしてこの小説を読んで、打ちのめされながら、書きたくて堪らなくなったのだろう。
「……書きたいなあ。どうしてだろう。おかしいな」
一番だけで、満足だったはずなのに。
栞先輩が溜息をつく。
「すごく惨めで悔しそうね。そんな風になるんだったら、あんな風に褒めないで、もっと苛めてやればよかったじゃない。そうすればあの子、意気消沈してもう二度と小説書かないし、あなたはずっと一番のままだわ」
「でもそれは勿体ないじゃないですか。凄いものをきちんと評価できないのも愚かです。逆にどうして栞先輩は、あんなに星さんに厳しいんですか。凄い小説だと思います。初めてでこのくらいかけるなら、きっと才能があります。あんなに冷たくしなくても。どうして」
問いかけの返答は鋭利なものだった。
「どうして? それはね、君みたいに星さんを惨めにさせたくないからよ」
吐き捨てるようにそう言って、栞先輩は鞄を肩にかけ、白衣を翻して図書室を後にした。
惨めだと形容されたのは、叶わない夢にしがみつく愚かさだろうか。栞先輩は、星さんを惨めにしたくないと言う。星さんは、その歪んだ厚意を受けてもなお、夢にしがみつこうとするだろうか。
彼女の筆致が頭を巡る。彼女の言葉は僕の感性を澄ませてくれる。言葉が脳内に降ってくる。書きたくて仕様が無い。とっておきの装飾をして、馥郁たる匂いを纏わせて、僕なりの文章を。叶わない夢から、離れることが出来なくなってしまった人間だっている。愚か極まりない。それでも。
惨めなのに、幸せなのだ。
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星の手引き
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