*
 ぽとりと文字が紙に落ちる。書きたいことはたくさんあるので、インクをまとった感情の雨は止まらない。脳の最奥が熱くなって、今までの記憶を発信させる。最奥のエンジンによって脳の襞に引っかかっている記憶はくまなく集めとられて、わたしの知識の蓄積のフィルターによって変質されてしまう。微妙な改変と些細な粉飾を施されたわたしの思念は右手を通ってペンを通って、ペン先からゆっくりと滴ってくる。
ここに並べられた文字は、すべてわたしによるものだ。並べられた文字が生み出す意味も、すべて、わたしだけのものだ。
わたしだけのものであるということは、責任を伴う。しかし権利を主張することも出来る。わたしだけのものであるということが、滅法明け透けなものであることにはもう気付いた。それなくして共感を得られないことにも気付いている。本来は厚い皮膚と肉に覆われて他人には開示されない部分を、垂れ流すことによって他人と肉薄することが出来る。自分の心中をまったく表に出そうとせずに、他人の同感を得ようとするのは愚かな行為であるのかもしれない。
 今までに自分がやっていたのが、かなり回りくどい行動であったという事実を本心ではあまり認めたくない。認めてしまったら、今までの人生のおおよそが無駄である、という結論に至ってしまう。それは怖いことだった。けれど、「感動した事実」のみを示すだけの人間に、ある日、本を手渡されたとして、果たしてその人間に共感してくれる他人は存在するのだろうか。すべてを借り物で構成して、その上で、自分の気持ちを分かってほしいと訴えられたとして、困惑しない人間がどこにいるというのだろう。
 他人の書いたものを媒介として、人と共感し合うという理念には限界があるのではないだろうか。自分自身の言葉を持って伝えなければ、誰も自分の気持ちなんて理解しようとはしてくれないのかもしれない。
 もしその想像が本当であれば、今まで自分が読書に費やしてきた時間は、無駄であるのかも知れなかった。
 ため息をついて、ペンを置く。文字の書き殴られたノートを一ページ目から読み返す。これはわたしの私小説であり、語られるのは読書と、あまたの寒々しい図書室と、ざわめきの中のひとりぼっちの読書風景と、そして、たったひとりの友人についての小説だ。
 今までの自分の記憶と出来事と思いを、隠さずに書き残すということは、自分自身に結構な羞恥をもたらす。そしてわたしはある約束の下にこれをかき上げた。その約束によって繋がれた事項は、大雑把にいえば他人にこの開けっ広げな小説を公開するということである。羞恥はますます増殖する。ノートを閉じてしまいたくなる。それでも、約束は約束だ。もうすこし時が経てば、わたしのこの小説は、次号の自校文芸雑誌に載り、自校の生徒に公開される。自分の人生の何割かを恥ずかしげもなく公開するということだ。
 しかし救いもある。この恥辱を味わうことで、わたしは誰かの共感を得ることが出来るかも知れないのだ。
 この小説について、書上げる前は、読書についての素晴らしさと反面の孤独さ、などというものを素材にした出来の悪い文章が出来上がるのだと思っていた。けれどいざ書き終えて、読み返してみれば、一人の友人に対しての心の底からの感情の発露が、思うままに繰り広げられている乱文であった。誰かに対しての秘密の手紙のようであった。
 この小説を読んだ人は、まさか主人公が友人より読書を優先しているだろうとは思わないだろう。読み返してみて、作者の自分がそう思ってしまったのだから当然だ。知らない内に、天秤ばかりに変化が起こっている。
 なんだか、やけに恥ずかしい。


       六
 翌日の放課後、図書室で栞さんに小説を手渡した。ありがとう、読ませてもらうねと彼女は言って、小説の書かれている紙に目を落とした。ものを読むときに騒がしい人間はいないだろうが、彼女もその例に漏れない。静かな時間が、ゆっくり流れる。そういう空気や彼女と反対に、わたしは中々落ち着けない。人に目の前で自分の書いたものを読まれるというのは結構緊張するものだ。とりわけわたしは、栞さんにまつわる気持ちを主人公に代弁させているも同然の作品を読ませているので、緊張に加えて、羞恥や恐怖もある。普通に考えて、図書館でいつも本ばかり読んでいる人好きのしない暗い人間に、重苦しい感情の塊を投げつけられたら一般人は慄くだろう。栞さんが一般人かはともかくとして、彼女はわたしより世間というものに近い位置にいる人間である。人当りも良く優しい、そういう面では社会というものに完璧に対応できる種類に属している。わたしの変人さが社会生活不適応者・あまり関わりたくない人間という軸のベクトルだとすると、彼女の染色した髪や初対面での親しげな態度は社会に笑顔で受け入れられる種類のものである。わたしの精神性と彼女の精神性には歴然とした隔たりがあり、同じ変人という言葉に形容されるとしても決してひとくくりにしてはいけない差異を持っている。長々と続けてしまったけれど、大雑把にいえば、彼女にわたしの暑苦しい想いが拒否される可能性は十分にあるということだ。不吉な想像は止まず、嫌な考えが発展するにつれて、息苦しくなっていった。
 彼女の伏せた目が、快適なテンポで上下に進められていく。それをぼんやりと見つめていて、彼女の睫毛が真っ黒なことに気付いた。元々の色だろうか。それとも化粧しているのか。どっちにしても、彼女の銅板色の髪と合わせて考えると、なんだか面白い。
 彼女が紙を繰っていく。そろそろ終盤だ。読み終わっての第一の感想はなんだろう。拒絶されないといいけれど。相変わらず彼女のテンポは揺るがない。彼女の目の進み方、それを気にする。彼女の視線、いやもっと奥深く。
 わたしの文章はどうだろうか。
 一瞬湧いた考えは、何故か思考の隅に残留した。
 彼女の目が、最後の紙の左下隅を捉えた。心臓が鳴っている。緊張の一瞬だ。息をついて、彼女はわたしに微笑みかける。
「ねえ、この小説の主人公の友達って、誰を元にしてるの」
「……えっと、言いにくいんだけど、栞さん」
 俯いて答えを返す。けれど反応が気になって、少し栞さんの方を伺った。
「……うれしいわ。凄くうれしい」
 喜色満面に、笑って彼女はそう言った。小さな声だった。本当に嬉しそうな様子に、緊張の糸が緩む。
「喜んでもらえてよかった」
「でもこれが載った雑誌が学校に置かれるとなると、ちょっと恥ずかしいね」
「うん。それは書き終わってわたしも思った」
 ふたりで笑いあう。良かった、と心から思った。彼女にわたしの気持ちを受け止めてもらえたみたいだ。
「本当に嬉しかったよ。発行されたら私ももらって来よう。じゃあこれ返すね」
 そう言って栞さんはわたしに小説を手渡した。
 それで終わりなのか、と脳内の何かが問いかける。
 図書室と彼女は小説を読ませる前の雰囲気に戻っていく。戻れないのはわたしの内心だけだ。何故だろう、栞さんに喜んでもらうこと、それだけで満足するはずなのだ。だって気がかりはそれだけだった。栞さんが小説の内容を不愉快に思わないか、ただそれだけのはずだった。そしてその気がかりは解決したはずなのに、どうしてまだ物足りないのだろう。あんなにも喜んでくれたのに。わたしは、それを見て安堵したのにも関わらず、どうして、栞さんの反応が気に入らないんだろう。
 嬉しい、と彼女は喜んだ。まるで友達から手紙をもらった時みたいに。
 でも、いくら心情を綴った乱文だって、わたしは手紙じゃなくて、小説を書いたつもりだったのだ。
「あのさ、栞さん。わたしの小説、なんか文章おかしい所とか無かった?」
「特にないと思うよ。私、国語苦手だから良く分からないけど」
「じゃあ、わたしの文章どうだったかな。上手かった?」
「うん。上手だったんじゃない」
 言いたいことが確実にあるのに、口が上手く回らない。栞さんは不思議そうな顔をする。早く言いたいことを言わなくてはならない。しかし言葉は生まれない。
 不思議そうに首を傾げる栞さんと言いよどむわたしの対面という切迫した状況は、突然の足音によって乱された。ふたりとも耳をそばだてて、改めて顔を見合わせる。急ぎ足の足音はこの埃っぽい図書室へと向かってくるようだ。
「ここあんまり人気がないと思っていたけど、私達以外の来室者も一応いるのね」
 栞さんの言葉が終わるくらいのところで、図書室のガラス戸が開いた。
「ここにいましたか」
 現れたのは月井だった。若干息切れしている。小説を栞さんに読ませてからすぐ月井の元に持っていこうと考えて、未だに図書室に居る自分に愕然とする。今日は正真正銘締切日だ。書き終わった小説は、月井の所に持っていかなければならないはずだった。
「ごめんなさい、今持っていこうと考えていて……」
「構いません。持ってこないなら取りに行くと確かに言いましたから」
「でも疲れてそうだし、大丈夫ですか」
「大丈夫です。でもなんでうちの図書室は五階にあるんでしょう。」
それはわたしも疑問である。この学校において、図書室と資料庫しかない五階というのは相当に辺鄙な場所である。そして場所が場所だから、もちろん来室者も少ない。設計者がどうしてここに図書室を誂えたのか、まったく意図が汲めない。設営当時には何か確固たる理由があったのだろうか。
「もとはエレベータをつける予定だったけれど、資金繰りの関係でとりやめになったって話よ」
 横から栞さんが簡潔に答えをくれた。学校設計当時の話なんて、よく知っているな、と栞さんに感心しつつも、予想外の間抜けな理由に呆れてしまう。
「よく御存じですね。栞先輩」
「最近この学校のことをありったけ調べたの。健やかなる青春のスクールライフを堪能するために」
 そう言って栞さんはにこりと笑った。冗談なのか本気なのか区別がつかない。栞さんのにこやかな笑顔と、「健やかなる青春のスクールライフ」という言葉の抱かせる空虚な感覚が上手く合致しない。どう受け取って良いものか迷うし、応答の仕方も躊躇してしまう。
 考えあぐねて、結局微妙な笑いを返していると、傍の椅子に月井が腰掛けていた。口ではああ言いながらも疲れたのだろう。そしてわたしの方に手をのばす。
「では、読ませていただいてもいいですか」
「え、今ここで読むんですか」
「ええ。載せられないような作品だったら、またわざわざ探して返しに行かなきゃいけないじゃないですか」
 わたしの手から小説をもぎ取りながら月井は言う。相変わらず遠慮のない人間である。とてもあんな美しい小説を書く人とは思えない。
 ぱら、と紙をめくって、月井は文章に目を滑らせた。
 上下に文章をなぞっていく。栞さんよりも速かった。読みなれているのだろう。紙をめくる手つきも、文章を噛み砕く所作も、慣れていて美しかった。その美しさはあの小説の綿密さを想起させた。少しだけあの小説の作者ということを納得した。
 ああいう小説を書くまでに、彼はどのくらいの時間がかかったのだろう。どの程度努力したのだろう。それとも、努力をせずに、最初から誂えられた才能で、息をするように簡単に、あそこまで書けてしまう人なのだろうか。もしそうだとしたら、妬ましい。羨ましくて仕方がない。他人に美しいと思わせることができるというのは、並大抵のことでは無いのに。
 読み終えるのも早かった。紙を綺麗に整えて彼は言う。
「合格です。文章は問題ありません。誤字もありませんでした。主人公に感情移入できる良い小説だと思います」
 月井は一息でそう言い、少し笑った。その笑顔に唖然とする。わたしは、彼が笑うということをあまりしない人間だと思い込んでいたし、もしほほ笑むことがあるとしても、その対象がわたしになることはありえないと感じていた。
「初めてですか、これが。素晴らしいです。文章もごてごてしていなくて読みやすいし、僕にはとても書けません。他の先輩方には失礼ですが、文芸部では一番、あなたが上手いと思います」
 急に柔らかくなる声の意味を、咄嗟には理解できなかった。あまりにも意外なことばかりで、脳が少し停止している。褒められたというのは分かった。そしてその内容が結構な賛辞だということと、それを言っているのが、あの小説の作者なんだとようやく理解したところで、一気に胸が熱くなった。単なるお世辞かもしれないけれど、感情移入したと、そう言ってくれた。彼がわたしの小説に共感したという事実が、どうしてこれほど胸を打つのだろうか。
「これからもっと上手くなりますよ」
 彼の優しい言葉を咀嚼する。喜びと不安と疑念がないまぜな気持ちになる。本当にわたしは上手くなるだろうか。次に書いた小説は、栞さんをもっと感動させることが出来るのだろうか。
彼の言葉によって沸きあがる期待の裏で、密かに冷静な思考がめぐる。やはりわたしは、あの栞さんの感想では、内心満足していないのだ。それは一体なぜだろう。
「私小説のような雰囲気ですが、実話なんですか」
「ええ。書いていて恥ずかしいくらいに」
「主人公が星さん?」
「恥ずかしいけどそうです」
 心中をぶちまけた小説の内容を思って顔が熱くなる。しかしそのわたしの気色を気にした風も無く、月井は面白そうに言葉を続けた。
「それなら、この小説のように本に依存した感情発露の形よりも、小説によって自分の言語で感情を表現する形式の方が良いと思います。そちらの方が、星さんの命題解決を幾分か早めることが出来ると思います」
「本当ですか。わたしに出来るでしょうか」
 でもこれは、本当は小説を書いた時から、内心で密かに育っていた意志なのかもしれない。わたしは自分の感情を伝えたい。そして伝えるためには借り物ではもうだめなのだと。いつの間にか気付いていたのかもしれない。だからこそ、栞さんの更なる感想を求めたのだ。個人的な手紙に対する反応では無く、表現の手段としての小説に、対する感想が欲しかった。
「わたし、もっとたくさん、書いてみようと思います」
 月井に向かってそう言った瞬間に、美しく、尖った声が耳を侵した。
「だめ。だめよ星さん、そんな風にはしゃがないでよ」
 いらついたような栞さんの声で、繰り出されたのはそんな言葉だ。美しい声は耳から脳細胞へ突き刺さり、わたしに恥をもたらす。「はしゃぐな」と叱咤されるということは、すなわちわたしが不用意に浮き立っていたことを意味する。栞さんには、わたしが不相応な言葉を真に受けて、単なる世辞に本気になっているような人間に見えたということだ。もしくは、栞さんはわたしへの喚起として、「はしゃぐな」と言葉を投げつけることで、わたしが恥ずかしい行動をしているということを事実として仕立て上げることに成功したのだ。短い言葉で、わたしの心内は大いに変わる。もしわたしの「小説を書こう」という決意が今ほど強くなかったら、わたしは栞さんの言葉に臆して小説を書こうとするのを諦めただろう。水をかけられたのだ。一言で、わたしを制止させようとした。瞬間的に反論したくなる。酷い言いざまである。「はしゃぐな」なんて、熱を冷ますような、せっかくの決意を揺るがすような、何もそんなことを言わなくても良いではないか。
 反論しようと振り向いて、栞さんの顔が目にはいった。怯えたような顔をしていて、のど元まで出かかっていた言葉が止まる。あんなに尖った言葉を投げつけた人とは思えないくらいに、弱弱しい表情をしている彼女の、差異に面食らう。
「栞さん……?」
「だめ。絶対だめ。どうせくだらないことになる」
 小さな声で、強迫されているみたいに呟いている彼女は、まるで、わたしから小説を書くと聞いた時の、あの異様な雰囲気だ。いつもの穏やかで、優しい空気が、濃密になって変質する。途端に知らない彼女になる。急速に見慣れた図書室が歪んでいく。
 この間と違うのは、その歪みと異様さが、いつまでたっても元に戻らないことだった。待てど事態は好転しない。泣きそうな顔でつぶやき続ける栞さんと、淀んだ空気と、言葉一つ出せないわたしが滞っている。心臓が握りつぶされそうになる。まただ、また意味の分からない、およびのつかない緊張感だ。腹の中が変容して背筋が凍る。確信も無いのに、この場が続けば大事なものが壊れてしまうのだという思い込みが止まらない。
 耐えきれなくて、かばんを掴んだ。「さようなら」と言って、駆け足で図書室を出る。月井の声が聞こえたような気がしたけれど振り切った。一目散に外に向かった。階段を転びそうになりながら駆け下りていく。背中にも手にも汗をかいていた。
 「さよなら」は言ったけれど、「また明日」を言い忘れてしまったことに気付いたのは、もう学校を出て長い時間が経ってからだった。頭が冷えるにしたがって、後悔が首をもたげている。考えれば考える程、先程の栞さんは平生では無く、それをあの場に放ってきてしまうのは、友達のする態度では無かったように思う。もしわたしが急におかしくなったとしても、栞さんならばきっと変わらずわたしのそばに居てくれるような気がする。それを思うと、先の自分の態度がますます申し訳なくなった。
 それにしても、どうしてあれほど突然に態度が変わるのだろう。この間と今回で、今までに二回あった。共通点は、彼女の態度が急変するのが、二回とも「わたしが小説を書くことに興味を持っている」と分かった時である、ということぐらいだ。人が小説を書くことに、何かトラウマでもあるのだろうか。しかし、小説を書く月井に会ったとき、特段変な反応は見せていない。あくまで、友人が小説を書くようになることがだめなのだろうか。
 単純に友人と会う時間が減ることが嫌なのだろうか。確かに、小説を書くのには時間がかかるし、そのかわり別のことをないがしろにしなくてはいけない。小説を書いていた一か月、栞さんと会う時間は確実に減っている。もしそれを寂しく思っているのだとしたら、さっきのわたしの去り際の態度は相当に悪い。
しかし、もしそうなのだとすれば、あの「くだらないことになる」の言葉に納得がいかなくなる。友人に会えなくてさびしいことを、くだらないとは形容しないだろう。栞さんの真意が分からない。もし正直にすべて打ち明けてくれたら、出来る限りのことはする。だってわたしたちは友達のはずだ。
 明日、なんとしても会おうと思う。そして今日の態度を謝って、詳しい話をしてもらおう。なんとかなるはずだ。きっと。そして、小説を書きたいということを分かってもらおう。わたしが小説を書こうと思う理由の一端には栞さんもいるのだから。
 小説のことを考えていたら、頭の中に月井の顔が浮かんだ。あの褒めてくれた言葉を思い返して、自分を勇気づけるようにする。そして思い出した。そういえば、あの良く分からない状況にわたしは月井を置いてきてしまっている。
 後悔の念はますます深くなった。あの男のことだからさっさと見切りをつけて図書室を後にしている可能性も高いが、ろくに知らない二人どうしで気まずい時間を少しでも過ごしたことは確かである。申し訳ないことをしてしまった。そこまで考えたところで、先程の状況に、少し気になる部分があることに気付いた。確か、図書室の場所の話をしていた時、月井は栞さんのことを「栞先輩」と呼んでいなかっただろうか。月井が図書室に来てから、そのエレベータの話をするまでに、わたしは栞さんの名前を口に出していない。そう考えるとわたしの発言から栞さんの名前を推察したのではないのだろう。月井はきっと栞さんのことを、多少は知っていたに違いない。しかし栞さんの方が月井のことを知っているのかどうかは不明である。わたしが月井の小説を栞さんに見せた時、知り合いだと言う反応は見せなかったことから、栞さんは月井のことを知らない可能性が高い。総合して、とりあえず一方的には、少なくとも知らないどうしではないわけだ。
 これに安堵すればいいのかどうかは分からないが、月井に申し訳なく思う気持ちは少し落ち着いた。しかし、一体どうして月井は栞さんのことを知っているのだろう。
 分からないことが一気に増えた。栞さんの挙動のことや、月井と栞さんの関係。しかし分かったこともある。わたしは、自分自身が小説を書きたがっていることを、深くまで理解することが出来た。
 わたしには、ずっと説明できない感情がある。そしてそれを、誰かに言い表してほしいと思っていた。今は違う。いまだ説明のつかない感情は抱えてはいるけれど、もうそれを他の物には頼らない。自分で表現できるようになる。だって、わたしの気持ちは、わたしが説明しないと意味がない。そして説明することで、分かってほしい。栞さんにもそれ以外の人にも解ってほしい。他人に理解してほしい。わけのわからない感情を、わたしは完璧に説明したい。その感情に相手を共感させたい。それは、小説を書き始めた時から小さくも確実に存在していた意志だ。
それなら、わたしの第一の試みはどうだったのだろう。あの第一作の小説を読ませて、栞さんの反応はどのようなものだっただろう。あの時、回らない口で言いたかったことが今なら分かる。
「栞さんはわたしの小説に共感したか」
 これが言いたかった質問だ。そしてもう答えも分かっている。共感はされなかった。だって共感していたら、嬉しいどころではすまないはずなのだ。あの小説と、わたしと、同じ気持ちに一瞬でもなったのなら、あんな風ではいられない。わたしは、もっともっと、嬉しいだけじゃすまないような、そういう気持ちであの小説を書いたのだ。出会えた嬉しさと、自分が許される喜びと、彼女に出会うことで生み出されたすべての激情を表現したつもりだ。その激情に共感してもらえるように、精一杯の文章にした。
 しかしその努力は不十分であったのだろう。
 もっと書くべきなのだ。言うべきなのだ。伝えたいのなら、もっと力をつけるべきだ。共感してほしいなら、もっと巧みな説明が必要だ。栞さんへの気持ちも、あのわけのわからない感情も、とても説明しにくい。だからこそ、もっと研鑽しよう。
 わたしは受け取って欲しかったのではない。共感してほしかった。共感して感動してほしかった。そうさせたかったのだ。

 頭の中に、静かに言葉が降ってきた。ペンとノートが欲しくなった。




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