五
「へえ。あれを書いた人だったんだ」
「そうなの。びっくりした。でも、結局小説を書くことになっちゃったし、喜べばいいのかうんざりすればいいのか分からない」
 放課後の図書室で、事のなりゆきを栞さんに話した。小説を書かなければならなくなったこと、それを頼み込んできたのが話題に上った作品の作者だったこと、文芸部が現在危機的状況であること、これから一か月小説を書くのでなかなか会えなくなってしまうだろうこと。愚痴めいたわたしの話を、栞さんは文庫本片手に聞いていた。
「書くのは今回だけなの?」
「どうなんだろう。そのあたりはよく聞いてない。でも、このまま部員が入らないようだったらまた頼まれるかもしれない。そうなったら嫌だな」
「星さんは、別に小説を書くために読書家なわけではないしね」
「そうなんだよ。読書という本分をする時間もなくなっちゃうし」
 例の小説を見つけたことではしゃいで忘れていたが、わたしはまだまだ、読書をしなければならないのである。彼の書いたあの文芸誌に載る小説は、確かに、幼少期からの問題を解決する小説を求める、わたしの命題を進展させたが、決して解決してはいないのだ。わたしの読書遍歴至上、もっとも求めるものに近い小説であるし、とても素晴らしい作品であることも本当だが、しかし彼の小説が、わたしの求める小説と完璧に合致するのか、と問われれば、それには違うと答えるしかない。だから、わたしはまだ読書を止めることが出来ない。
 この世に本はたくさんあるので、どれか一つくらいはきっと、わたしの求める小説であろう。しかし本が大量にあるばかりに、無駄に時間を浪費してはいられないのだ。
 彼の小説が、わたしの命題を進展させたのは事実である。彼の小説が、これからもっとわたしの求めるものに近くなっていく可能性もある。彼の好む小説を知ることが出来れば、何かの手がかりになるかもしれない。そういった意味で、彼には恩義がある。だからもし、わたしが自分の命題を解決した時、そのときならいくらでも小説を書いてあげようとも思う。ただ単純に、いまそんな暇はない。従ってわたしはそれなりに憂鬱である。
「本を読む時間が減るのは嫌だな」
「私も星さんと一緒に本を読む時間が減るのは嫌かも」
 憂鬱に俯いていたわたしは、栞さんの言葉に顔を上げた。嬉しい言葉に、少し気分は明るくなった。栞さんは付け加えるように、また口を開く。
「だから、一か月をめいいっぱい使う必要はないと思うの。なんとなくどんな話にするか考えて、書きなぐってそれで終わりにしちゃえばいいよ」
「能力のないわたしがそれをやると、ものすごく質の低い作品になってしまうと思うけど」
「別にそれでもいいんじゃない。そしたら、もうきっと次の機会にしつこく誘われることも無いだろうし」
 なるほど、と感心する。確かに、下手くそな小説を書いて提出してしまえば、向こうもわたしを文芸部員として見限ってくれるだろう。良い案だ。それでいこう、と納得しかけた時、脳内に突然、昼休みの出来事が次々に浮かび上がってきた。露骨に面倒そうな彼の顔や、質の低い作品は載せない、と言い切った時の顔などが頭の中で形作られてゆく。
「いや、それじゃだめ」
「どうして?」
「やる気のない作品を持っていったら、多分あの人、わたしにもう友好的な態度はとってくれないような気がする」
「その人が星さんに友好的じゃないと、何か困る事でもあるわけ」
 わたしの発言の真意が分からない、と主張する尖った声音でそう言った栞さんは、不思議そうに首を傾げて見せた。
「その人があの小説を書いた人じゃないなら、別に友好的でなくても構わないんだけど、あの人が月井である限り、聞かなきゃいけないことがあるから」
「聞かなきゃいけないこと?」
「どういう気持ちであの小説を書いたのか、とかどういう作家をよく読んで、どういう文章が好きなのかとかそういうことを聞いて、答えを知らなきゃいけない。せっかく進展したのだから、彼を手掛かりにしなければやっていけないの」
 わたしの発した言葉を聞いて、栞さんはなんとか納得したようだった。
「なるほどね、そうすると、やる気のない作品を書くわけにはいかないのか。でも、どっちにしたって星さんには読書というやらなければいけないことがあるんだから、早く書き上げちゃったほうが良いのは同じでしょ。大雑把に、書く内容だけでも決めちゃったら?」
 早く書上げた方が都合がいいのはもちろんだ。栞さんの言うとおりに、書く内容について考えてみる。
「書く内容ね。まず、スポーツものとか職業ものとか時代小説とか歴史小説は、資料を調べる時間がないから無理だな」
「ファンタジーとかミステリーとか警察小説、冒険小説、SFは?」
「膨大な世界観を考える頭も、きちんとしたトリックを思いつく頭も持って無いし、刺激的な話も書けそうな気がしない」
 後はどんなものがあるだろうか。しかしなぜか考えれば考える程、上手く行かないような気がしてきてしまう。放課後で人気のない部屋には、陽の光もあまり入り込んでこない。ただでさえ暗い図書室の明度が、さらに落ちた気がした。
「じゃあ……青春小説とか、恋愛小説とか」
「残念なことに、どちらも経験がないし……」
「社会小説、経済小説、風刺小説、政治小説は?」
「小説ばかり読んでいて、今まであまり世の中に触れてきてないけど、書けるかな?」
 乾いた期待を乗せた言葉は、「多分無理ね」という栞さんの言葉によってあっけなく霧散した。栞さんが鞄からごそごそと紙と鉛筆を引っ張り出してきて、今までにあげられた小説のジャンルを書きつけている。
「まだ出てないのは……ああ、伝奇小説とかゴシック小説とか、恐怖小説は?」
「わたし自身がそういうの結構苦手なんだ。ごめん」
「じゃあ、児童小説。ジュブナイルとかライトノベルも」
「うちの部誌を児童が読む機会はあるかな……あと、これはわたしの技量の問題だけど、わかりやすくかみくだく、っていうのは結構難しい」
 矢継ぎ早に送られるわたしの否定に、栞さんは真剣に考え込み始めてしまった。鉛筆の尻を顎に当てて、口を引き結んで、視線の先は、紙の上の撤回された小説のジャンルの文字たちにある。申し訳ない気持ちになりながら、わたしも必死で、書けそうな小説のジャンルを思い出そうと努力する。とりあえず、今までに読んだ本を一から思い返してみることにした。長い道のりになりそうだ。
「まだ挙がっていないジャンルって言ったら、それこそ暗黒小説、アンチヒーロー、ピカレスク小説、官能小説みたいなものしかないんじゃないの」
 頭の中で巻き起こる今までの読書の歴史は、栞さんの弱弱しい声で動きを止めた。残るラインナップが全体的に物騒なものである、という事実に戸惑いが隠せない。仮に、エロティシズムとグロテスクに彩られた小説を彼に提出したとして、どうだろう。もしわたしの書いたそれが傑作であったとしても、文芸誌には載らないだろうし、それを読んだ彼が軽蔑の表情をありありと浮かべるのも想像がつく。それはまったく、わたしの本意では無い。
「本当に、もうないのかな」
「だって、大概のものは挙げ尽くしてる」
 栞さんが紙の上の文字を指でなぞりながら言う。確かに、虚実・今昔・和洋・明暗、すべての方向のジャンルを挙げてしまったようにも感じる。しかし、本当に漏れはないだろうか。案外、見落としているジャンルがあるような気がする。
 今いるここは、おそらく学校内では一番に本がある所だ。ゆっくりと周りの本棚を見回してみる。批評本やノベライズが目に付いたが、これらは見当違いだ。他に何があるだろう。
 そもそも、文芸部の部誌では何を扱っていただろうか。脳内で、安っぽいわら半紙製の部誌をめくっていく。つまらないミステリーと、甘ったるい恋愛小説、筆者の思考が丸わかりの風刺小説と、あまり怖くないホラー小説。後何があっただろう。
 視界の端では、栞さんが頬杖をつきながら、わたしが話し始めるまで読んでいた文庫本をぺらぺらとめくっていた。ページがめくられる音に重なるように、頭の中の文芸誌もめくられていく。数多の凡作をやり過ごして、とうとう最後の作品になる。そうだ、そういえばこれは、彼の作品だ。
 月井は何を書いていただろう。
 思い返すだけで、脳を侵し尽くす文章はめまぐるしい。めくるめく典雅は、あれは正当な純文学で私小説だった。
 わたしが声をあげたのと、栞さんが立ち上がったのはほとんど同時だった。ふたりで顔を見合わせる。栞さんが手に持つ文庫本は「城の崎にて」。まぎれもなく私小説である。
「灯台下暗しだよ。私、本当についさっきまでこれ読んでたのに」
「純文学、私小説っていう、メジャーなジャンルに気付かなかった」
「それじゃあ、星さん、私小説を書くの?」
「そうするよ。少し興味もあるし」
 意外にも近くにあった正解に、わたしは若干上機嫌になる。私小説、というのはいい考えかもしれない。自分の経験をもとに書けばいいわけだし、純文学ということなら多少わたしの読書経験も役に立つかもしれない。
「……興味があるって、小説を書くことに?」
 なんとなく冷やかに感じる栞さんの言葉に、虚を突かれて、栞さんの顔を見つめる。まったく納得がいかない、といった表情だった。
「別に小説を書くことに興味があるわけじゃなくて、私小説を書くっていう行動が、ちょっと面白く感じただけだよ」
 自分の言葉は、まるで嘘を取り繕うようだった。急に、今まで居心地の良かった二人きりの空間が不穏なものになる。突然すぎて、理由もよく分からなかった。ただ、腹の奥が疼くような、変な緊張感が漂っている。
 初めて栞さんと会った時のようだった。不思議で、及びのつかない人と対峙している感覚だ。
 次の言葉がなかなか出てこないわたしを、一瞬睨むように見詰めた栞さんは、その後急に、相好を崩した。わたしは呆気にとられる。
「まあ、小説を書くのが楽しいなら、別にいいんだけどね。ただ、あんまりそっちにかかりきりになられてしまうと、寂しいなと思ったの」
 打って変わって甘えたような声音に、図書室の空気は元に戻った。ほっとして息をつく。たちまち消えた不穏さは、わたしの中の不安や緊張も一緒に拭い去っていったらしい。少しの時間で、先ほどのような他愛も無い空気に体も思考も適応していた。
「大丈夫だよ。なるべく図書室には来るようにするし、小説もさっさと書上げちゃうから、安心して」
いつもの通りのやりとりが出来ている。わたしは栞さんに甘えられたことを嬉しく思っている。これが通常だ。あのひと時が異質だっただけ。それももう、段々と現実味を失っていく。不穏なひと時が、まるでわたしの勘違いのようにも思えてきた。
「そうなの、それならいいかな。でももう一つ、お願いしていい?」
「何」
「小説が書きあがったら、一番に私に見せて」
 ささやくように言われたその言葉に、慌てて首を縦に振った。




星の手引き

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