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 頭の中を巡るのは丁寧に織られた文章だった。水のような質感を保った織物の表面を、輝きが流れるように飛び跳ねていく。鉱物を構成する微細で強大な物質の、一片を垣間見るように。白く立つ波の泡一粒ひとつぶを検分する、ビロードで出来た花弁の表面に触れる、網膜に美しい円を閉じ込めるように、指紋に感触が伝わるように、脳の隙間に入り込む糸は、あの文章のほどけたやつに他ならない。冷えた飲み物を飲むときみたいに、気持ちがいいけれど球体を飲みこんだことに不安になる感覚。煌く太陽に目を細める瞬間、目蓋に張り巡らされた赤い枝。この世のうつくしいものだけを選び取って組み立て、成立したような文章だった。夢を見ているみたいだ。幻想的で不可思議で神秘的な理論。
 美しい小説だった。その文章にはわたしの好む色彩しか織り込まれていなかった。もしこの小説を書いた人間が、この小説を、美しいものとして書き表したのなら、この文章はわたしの収まる場所のない感慨と、ついに合致する。少なくとも、わたしの今まで消化してきた文章の中では至上のものだ。
 幼少期から今まで、説明し難い感情に心を侵されることが頻繁にあった。突如わたしを内から襲うその感情を人に伝えることはできず、いつまでも結実しないそれをずっと持て余している。わたしはそれをどうにか人に伝える手段として、文章を媒介に用いることにした。伝えるために存在している言葉で感情を揺り動かす文章は、わたしの突発的で得体のしれない感情も、人に伝達するという要素も、どちらも持ち合わせているように思われた。その文章の持つ感情的要素が及ぼす感動が、わたしに潜伏している感情と完全に重なれば、その文章がそのままわたしの感情の説明書になる。幼少期に感情に縛られてから今までずっと、数多の文章に浸りながらわたしだけの説明書を求めている。そしてわたしは、その説明書にかなり似通ったものをついに発見した。それは、わたしの通う学校の、暗く埃っぽい廊下の一角、目立たない場所に積み上げてある文芸誌の中の一篇だった。美しい小説だった。わたしはそれに深く感動したし、興奮した。そのわたしの浮つきが元で少しの諍いも起きたけれど、そのやりとりは結果素晴らしい友情につながったので、言うべきことも無い。息を、言葉を飲みこむほどの文章だった。
 長い間縛られていたことから、少し解き放たれたような気持である。わたしというものを説明する手立てが不完全であるにしろ手元に存在していて、そしてそれを渡したい友人も、今はいる。この素晴らしい小説を、一番最初に紹介したい彼女は、わたしが手をのばせば届く所にいつだって居てくれるのだ。


「綺麗だけどなかなか複雑だね」
 安っぽいわら半紙の集まりをぱたんと閉じて、彼女はそう言った。不思議な色に輝く髪をかき上げて、溜息を絡ませて笑う。またいつも通り、昨日と同じように、人気のない図書室の午後のことである。常連はわたしと彼女のふたりだけ。
 わたしの感情と文章に纏わる因縁めいた事情をよく知る彼女は、わたしの差し出した例の文芸誌を読み終わり、考え込むような表情だ。
「なんだか切ないような気もするけど、感覚的な領域だから、難しいね。これで星さんの気持ちが全部分かったとは思わないし」
 星さんに昔からあるその突発的な感情は、この小説みたいな感じなんだよね、という彼女の確認に肯く。再び考え込むような格好で彼女は少し首を傾げた。
「まあこの小説が星さんのその感情そのもの、ってわけじゃないんだろうし。完璧に合致しているわけじゃなくて、今まで読んできた本の中では一番に親和性が高いってだけでしょう」
 なんとなく素気ない口調が、ちょっと気になる。確かに完璧に同じというわけでは無いけれど、十数年生きてきた中で一番のものを見つけて、わたしはそれなりに嬉しかったというのに、彼女の反応とわたしの興奮はかなりの差異がある。なんとなくつまらない顔をしてしまったのかもしれない。わたしの顔を見遣って、彼女は焦ったような面持ちになった。
「いや、別に星さんが持ってきたこの小説を批判するわけでも、星さんのその状況みたいなのを軽く見たわけでもないの。ただ……何か悔しいというか、私にはこの小説難しかったみたいで、実を言うとそんなに理解出来ていないんだ」
 それがすなわち星さんを分かってあげられない、ってことになると、少し気に食わないの。若干口ごもったようなその言葉に、目を見開いてしまった。
「栞さんはわたしのあれを理解したいの?」
「勿論。大事な友達が大事にしてることだもの」
「面倒じゃないの? わたし自身も持て余してることなのに」
「まあ、実際複雑だし、込み入ったことだし、個人的なことだけれど。それでもあなたが持て余してることを、受け取る人間だって必要でしょう」
 直接的な好意には慣れていない。栞さんの取り繕わない言葉に、顔が一気に熱くなった。それを見て彼女も若干照れたような顔をする。
「そんなこと言われたの初めて」
「私も言ってる途中でちょっと恥ずかしかった」
 そう言って、栞さんは赤らんだ肌を冷ますように頬に手を当てた。そんな彼女を見て、しかしもっと恥ずかしいことは、今までにも二回程度は言われていることを思い出す。彼女が繰り返すあの、「運命」という言葉にわたしは何度か救われたけど、それを発する彼女の心境はいかなるものか。自分のことで精いっぱいで、考えたこともなかった。
 恥ずかしいと呟いて、まだ赤い顔をしている栞さんを見て、頭の中に再生される台詞。わたしの好きな声で告げられる、勘違いしそうになる言葉。
 (あなたに初めて会ったとき、私、運命だと思ったの)
 本当に運命なのだと、思い込みたくなる。


       四
 読み始めたばかりの文庫本へと差し込んだ、わたしの視線を遮る影。昼休みの喧騒の中のことだった。図書室が司書の都合で開かないので、わたしはやむなく教室の机で本を読んでいた。開かれた本の上に突如差した人影に、渋々わたしは本から顔をあげて、その持ち主を見上げる。教室のざわめきは、モーターのうなりみたいな音を伴って一気に遠くなっていった。
「星さん、で合ってますか」
 見上げた先に居たのは見たことのない男子生徒だった。校則を逸脱しない制服の着こなしと、えげつないほど白い肌、綺麗な黒髪、黒い眼鏡のフレームとで、彼の第一印象は、やけにモノクロだ、という浅い驚きである。瞬間的に彼の全身を見回した視線を、ゆっくり彼の目線に合わす。どんなに見たって、今初めて会った人だ。わたしに一体何の用だろう。
「えっと、確かにわたしが星ですが。どういった用件ですか」
 無愛想なわたしの応答を気にした風もなく、彼は口を開く。
「文芸部の要件です。星さんにお願いがあって来ました。今話したいので、少し時間を下さい」
 彼は目線をすこしわたしの本へやった。その視線を受けて、本にしおりを挟んでから閉じる。時間は空いている、という意味の行動である。正直、彼のお願いを聞くよりは読書をしていたかったから、個人的には時間は空いていないと言いたいところだけれど、「文芸部」という言葉を出されては、そうも行かない。
実はわたしは文芸部に在籍している。けれど実態はただの幽霊部員である。なにか部活に入ろうと思ったときの、どうせなら本に近いものが良いだろう、というあやふやな気持ちでの入部だった。そしてあわよくば、その部活動の中で自分の理想の文章を発見できれば、という目論見もあってのことだった。しかしその目論見は、わたしの人好きのしない性格を原因に、いとも簡単に打ち砕かれてしまう。わたしが文芸部に勝手に抱いた、単独活動、孤高といったイメージとは正反対に、わたしの高校の文芸部は部員内で高め合うことを目標としていて、その結果部員全体での交流がとても多かったのである。こういう年代・性別を超えた協調を強いられる状況は、わたしが一番に苦手とするところだった。そもそも小説や詩を書いてみる気は無く、やりたいことと言えば部で発行する文芸誌を読むことくらいであったわたしに、文章を書くことを前提として批評会や大会への一斉提出を行う文芸部は中々苦痛で、だんだんとわたしは部活への足が遠のくようになった。文芸誌は文芸部の手にしか渡らない、という勘違いが正され、実際に校内の片隅に「ご自由にお持ちください」と置かれた文芸誌を発見してからは、部活には一度も参加していない。しかし退部届はすっかり出し忘れている。おまけにこの高校は年度ごとに部員整理をやったりはしないので、わたしは文芸部に今でも在籍している筈だ。
簡単に言ってしまえば気まずいのである。そして状況的にも良心的にも、こちらが下手に出ざるをえない。
「えっと、どういうお願いなんでしょうか」
 わたしの声に集中する素振りは見せず、彼はわたしの前方の席の椅子を引き出して座り、足を組んでこちらに向き直る。昼休みに活発に動く人がその席の主なので、現在彼が座っているその席は空いてはいるのだが、あまりに遠慮なくざっかけない態度には少し動揺してしまった。そして座り込んで話すということは、長引くお願いなのだろうか。
 溜息を吐くわたしに、彼は予想外のことを口にした。
「単純に言うとですね、小説を書いて欲しいんです」
 彼の発言が脳内で処理されてから、すこし間があった。小説、という言葉が頭の中で黄色く点滅している。小説。文章を書くということだ。
 余程わたしの顔が間抜けていたのか、彼は露骨に面倒くさそうな表情をした。そうしてゆっくりとした丁寧な声で、また同じ願いを繰り返す。私に小説を書いて欲しい、というお願いを。
 二度も言われたって、わたしはまったくの素人なのだった。
「駄目です。わたし小説なんて書いたことが無いので、すみませんが書けません」
「書いてもらわないと困るんです。第一あなた文芸部員でしょう、書く義務はありますよ」
「そんなこと言われたって、技術も無いし、根本的なことも分からないし……」
「あなたが今読んでるようなのを、書けばいいんですよ。それこそ自由に」
 彼の指はわたしの文庫本を指し示す。まったく頓珍漢だ。書けるわけがないだろう。大体急に現れて、粗野な態度に不躾なお願いと、彼には不信感が募るばかりである。こんな風にぞんざいな頼みでは、受けることなんて出来ない。あくまで初心者相手に、あまりにもいいかげんだ。
「文芸部員ということに責任があるなら、退部届を出してきます」
「ここの高校の部活動の最小期間単位は学期です。今すぐ退部届を出したとしても、一学期が終わるまで星さんは文芸部員です。残念ながら」
 初めて知る事実に面食らい、二の句が継げない。こんなことなら足が遠のいてすぐに、退部届を出しておけば良かった。しかし今更後悔しても、遅すぎる。そしていざ別の逃げ道を考えようとしてみても、他の手立ては無さそうだった。
 自分の中に段々と緩い倦怠感のような諦めが広がっていく。わたしは渋々逃げるのを断念する。彼の理論に、わたしは今現在たちうちが出来そうもない。不本意であるが、小説を、書かなければいけなくなってしまった。かなり億劫だ。まったく不本意だ。読書の時間が減るだけでない、きっと小説を書くなんて根を詰める作業だろうから、今までよりずっと栞さんと話す時間は減るだろう。段々と図書室に居る時間が減っていくことを考えると、気が滅入ってしまいそうだった。
「……そもそも、どうして今まで幽霊部員だったわたしまで、小説を書かなくちゃいけないんですか」
「星さんが一年生の時は、当時の二年生三年生が大量に居たそうです。なので割合きちんと部活動を行えていました。しかし今年になって、当時の三年生は卒業、現三年生は既に勉強に専念している人が大半です。気の早いことですが。加えて、困ったことに去年と今年は入部者がとても少ない。つまり単に人数の問題です。このままでは文芸誌が薄くなってしまいます。そうすると伝統的な部活として体裁がつきません。場合によれば部誌が出せないことも考えられます。一応文芸部は危機的な状況にあります。だから今、あなた以外の幽霊部員以外にももちろん声をかけています」
 ぜひ協力してほしいです。と付け加えられた言葉に唸ってしまった。正直に言えば、文芸部の伝統はどうでもいい。しかし、部誌が出ないのは困ってしまう。わたしはあの、追い求めてやっとたどり着いた作者の文章に、まだ一作品しか触れていないのだ。その作者の小説が手軽に読めない、というのは結構な痛手である。……わたしが下手くそな小説を部誌に載せることが、ゆくゆくは件の作者の小説に触れる機会に繋がっていくというなら、わたしは、この申し出を受けるしか道はないのではないか。
「そこまで言うなら、分かりました。書きます」
「ありがとうございます。助かります」
 愛想笑いの一つもせずに、彼はそう言って椅子から立ち上がった。そして、あらかじめ用意しておいたらしい冊子をわたしに手渡す。ぱらぱらめくってみると、小説を書く際の基本事項や、締切の設定、ページ数の指定、部員の連絡先などが書かれているのが分かった。流石に、手放しで初心者に書かせるといったわけではないらしい。少しほっとする。締切日を確認してみると、ちょうど一か月後に設定されていた。時間も一応は確保されているらしい。
「締切日に、僕の所へ原稿を持ってきてください。やって来ないようならこっちから行きます。くれぐれも仕上げてくださいね」
「締切日から部誌の発行まではどのくらいの期間があるんですか」
「およそ一週間です。その間に原稿を確認して、載せられるようなら載せます」
さりげなく言われた言葉に引っ掛かりを感じた。載せられるようなら載せます、ということは載らないことがあるのだろうか。
「せっかく書いた原稿が部誌に載らないこともあるんですか」
「僕たちが確認して、あまりに質の低い作品のようなら載せません。部誌の名に傷がつくので」
 随分不遜な言いざまである。
 文芸部の部誌の名前なんて知らないが、あれの内容なら読んでいるからよく知っている。はっきり言ってしまえば、わたしが出会ったあの美しい小説以外の文章はつまらないものばかりで、特別すぐれてはいなかった。わたしの意見では、あの部誌に載る小説の大半は、そんなに威張れる出来ではない。
 まあ、わたしがそのつまらない文章以上を書けるのか、と問われれば口を噤むしかない。あくまで読者側の意見としてである。だから、その文芸誌に名を連ねる作者側になった今では、これら読者としての個人的意見は暴論であるのかもしれない。
 彼の不遜な態度に物申したいことはさっきから山ほどあるのだが、それは無理やりにでも腹の底へ押し込んだ。少なくとも、一か月後にも交流のある相手である。
「分かりました。頑張って書いてみます。それで、あなたはなんて名前の人ですか」
 出だしの勢いに押されて有耶無耶だったが、そういえばこの人は序盤に名乗ってさえいないのだ。これでは、原稿も渡しようがない。
「ああ、言ってなかったですか、すみません。一年B組の月井といいます。締切日には教室にいるようにするので。それでは」
 椅子を元に戻して教室を出ていく彼のことを、呆然として見送った。
 月井というのは、あの例の、美しい小説の作者だったはずである。




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