三
 友人、というのは親しく交流し合う人のことを言うらしい。今までは、友人なんてものは作れないものと思い込んでいた。わたしの中にまず第一にあるものは自分の性質に由来する探しもの、つまりは読書であり、それ以外のものはその下に置かれている。そしてわたしが今まで出会った人たちは、それ以外のものでしか交流が出来なかった。たまに読書が好きな人にも出会ったけれど、その人たちにとっては読書は趣味でしかなく、わたしのように些細なことを大事にして、読書に腐心するということは万に一つも無かった。そういう人たちとわたしでは、やはりどこかずれが生じる。わたしは何しろ本についてが最優先であり、それ以外にかまけていることは出来ない。本以外のことを少しでも求められたら、わたしはそれに応えてやることが出来ない。そうすると、わたしと交流を持ちたがる相手なんて、ほんの少しも居なかった。他人とただひたすらに本のことについてだけを語り合う、そんな経験をしたことが無かった。世間話、雑談、「そういえば」と突如切り出される話題、学校について、勉強について、遊びについて、趣味について、相手の話、わたしの話。きっとわたしはどれも満足に出来ない。頭の中を飛び交っているのはどこかで読んだ、どこかで感じた、どこかで知った、すべて紙の上の他人の言葉だ。自分の言葉なんかなくて、だからそういうものを求められると、途端に駄目になってしまう。
 栞さんはそういう所が、優しいのだと思う。彼女にしたら、自分の考えるままに、わたしと接しているのかもしれない。それでも、栞さんはわたしと、きっと本以外の話をした事は無いだろう。わたしたちの交流は本のみ、その上においてだけだった。お互いに本の話をしているときが一番楽しかった。そんな人は栞さんが初めてなのだ。栞さんとなら友達になれるし、なりたいと思った。彼女の見識は為になるものがあったし、何より言葉が正確なのが聞いていて気分が良かった。また彼女も、わたしの話を聞き流さずに居てくれた。本について話すというのは、余程のことが無い限りきわめて個人的な領域であって、あまり聞きたがる人も居ない。それでも、本を読むたびに溜まっていく感動の名残というのは確かに存在するので、たびたびそういうのを放出したくなるときもある。彼女はそういうことを拙く語るわたしの言葉もきちんと聞いてくれている。彼女がわたしの本の話を聞いているということは、やるべきわたしの本分も、友人が居るという状況も、綺麗に両立出来ているようで嬉しかった。
 栞さん以外にわたしの知っている友人というのは、どれもこれも本の中の登場人物であった。本の中で素晴らしい友情と語られる友人関係は、そのいずれも、お互いを理解しあって、一緒に居ることが双方の利であり、その友人と一緒に居ること自体が楽しくて、お互いに相手に正直であって、自然な気持ちで相手の前で過ごせる、というような、どれも美しいものだった。悪友と称されるようなものも、どれか一つくらいは満たしていた。
 栞さんともそうでありたいと思っている。完璧な友人関係をやっていきたい。あんなに優しい人を、出来れば手放したくはない。
 そう思っていたのだけれど。

 ある小説を見つけたのだ。それは、わたしの探していたものと完璧に合致するわけではないけれど、今までのどれより似ていた。見つけたのは膨大な図書の中では無くて、学校の隅に積み上げられていた文芸誌の中だった。まったく予想していなかったからこそ、驚いて、感激した。相当にはしゃいでいた。栞さんに会って、開口一番そのことを話した。まくしたてるような口調で、熱に浮かされたように喋っていた。語る間はその小説のことしか頭になくて、相対する相手のことなんて、全く考えてもいなかった。たくさんのことを喋り終えて、息を吐いてすぐ目に入ったのは、話から気をそらしているような栞さんの表情だった。
一気に熱が引いてしまって、途端やってしまったことの重大さに気づいた。今までのことが次々瓦解していって、もう今までのようには行かないのだと思い込んだ。栞さんが興味を持てない話をするということは、自分の掲げている友人関係の理想とは全く異なることである。惰性や同情や気後れで、わたしの話を聞いて欲しくなんか無かった。面白く思って聞くのじゃなければ、それは友人とは言い難いと思った。頭の中が空っぽになって、くらくらする。
 急に押し黙ったわたしに、栞さんは意識を戻した。どうしたの、と聞くその声は、相変わらず綺麗で、しかしそれも、視界に輝く彼女の髪も、初めて会った時を思わせて、今の状況との差異に思考はもっと混乱しそうだった。
「星さん?」
「今まで、一回でもわたしの話を、つまらないって思ったことある?」
 栞さんは目を見開いた。その反応で、また自分の気持ちだけが急いて、突っ走っているのが解ってしまった。慌てて、必死に言葉を探す。状況を説明できる言葉を求めていた。
「多分、わたしの話がつまらないなら、それは栞さんに無理をさせてるってことで、そういうのはわたしの望むことじゃ全然なくて、そうなるくらいならもう一緒じゃない方がいい。わたし多分、栞さんがつまらないような話しか出来ないことになる」
 とっちらかったわたしの言葉は、辺り一面に飛び散るように落ちている気がした。栞さんはわたしの言葉を拾い集めて、分かり易く咀嚼する、そんな真摯さでわたしのことを見つめていた。それに甘えそうになる。この人はいつもわたしに向き合って、色んなことを期待させるのだ。
「まだよく理解できていないけど、わたしは星さんと一緒に居たいし、星さんと一緒に居るときに無理なんてしてないよ」
「つまらないと思ったことはあるでしょう。さっき気を逸らしていたみたいに、そういう風にさせちゃうのは、わたしはいけないと思ってる」
「つまらないってわけじゃない。ただ一生懸命喋ってるなあって思って。今まで星さんそういうの無かったから、新鮮で、微笑ましい感覚だったの」
 そういうことじゃないの、と言って、栞さんはわたしの表情を伺った。
「でも、友達っていうのはいつでも、楽しく自然で居なくちゃいけないでしょう」
 栞さんがつまらない話を無理して聞くことも、わたしが本以外のことをあなたに与えるのも、どっちも不自然で楽しくない。精一杯にそういうことを説明した。一生懸命に説明をしているのに、彼女は笑う。
「星さん。そんなに真面目に考えなくたって良いんだよ。それに星さんは別に本だけの人じゃないよ。星さんと一緒に居るだけで、私楽しいよ」
 栞さんのゆっくりとした声は確かにそれを信じさせる響きだけれど、よくよく考えてみれば、とてもそんなことはありそうもない。いつもいつも本だけで、いつも借り物の言葉しかわたしの体内には存在しない。わたしのどこが楽しいのか全くもって分からない。きっとそれは顔に表れていた。
「納得いかない?」という彼女の言葉に、肯く。
「でも、星さんには本しかないとすると、私にも納得いかないことが出てくるよ。例えば初めて会ったとき、どうして本のことなんて何も知らない私の申し出を、断ったりしなかったのか」
 どうして。聞かれた言葉に思い浮かぶのはあの日の図書室の彼女の姿だけだった。暗がりから切り取られた光の中へと。綺麗な髪と不思議な色、ぼやけた白衣と、その声。正しいことを言い表すその美しい声。それだけだった。
 俯いた顔を上げるといつもと変わらぬ彼女の顔があった。あのときの彼女と同じ空気を纏ったまま。
 分からない、あやふやな、不明瞭で不確かな、そういうものを恐れていた。栞さんはまるでそんな風だ。予想外で、優しいくせにわたしの一番大事なもの揺るがしていく。それなのに、どうしてこんなに離れがたいのだろう。
「栞さん、また明日も、いつも通りでいいの?」
 いつも通り。いつのまにか当たり前になっている、不確かである筈の関係も状況も、全部含んで。栞さんはくすくす笑った。
「明日も、明後日もずっといつも通りだよ。あなたに初めて会ったとき、私、運命だと思ったの」
 生来から決められた定め。なんて根拠のない原因論だろう。それでも、わたしたちの関係が最初から定められていると言うのなら、これほど確実で明瞭で安心できることもない。栞さんの言う運命を、何だかわたしも信じたくなってしまった。




星の手引き

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