二
 彼女の髪の色は、銅板に似ているんだ、ということにやっと思い当たった。光が当たるとピンクになる所とか、本当にそっくりだと思う。本人がどう思って髪を染めたのかはまだ聞いていないけれど、何かきっと、きちんとした事情があるのだろう。
 放課後の図書室の、今日はカウンターでなく、机の方に着席して読書をすることにした。今日はサン=テグジュペリの「夜間飛行」を読むはずが、向かいに座って、ページを熱心に見つめている栞さんの髪に、気付けば目がいってしまい、そのことを考えてしまっている。その度気を取り直して目の前の本に向かおうとするのだけれど、やはり気付けば、その髪先やら栞さんの仕草に、目が向いている。元よりこの本がわたしには合わず難しいということも、こういう風に集中できないことに関係しているとは思う。しかしそれにしたって、あまりにも気分が落ち着かない。目を上げると見慣れた人が居る、という状況にまだ慣れていないのだ。
 結局あの日から、わたしは栞さんに本を選んであげたり、栞さんと一緒に図書館へ出向いたりと、彼女に本についてを教えてあげている。栞さんが最後にした不審な呟きも気になったけれど、それだけを理由に先ほどまでの約束を破るのもおかしな話だった。本についてを教える、という抽象的なことに不安を覚えたりもしたが、幸いにも、彼女はすぐに本が好きになった。それにお互いの好みも似ている。こうなると本は選びやすい。ところが、上手く行っていないのは栞さんの方では無くわたしの方だった。予想以上に栞さんの飲み込みがはやく、彼女はもう自分の好みも分かって、面白い本を容易に探せるようになっている。これで、わたしも自分の本分に戻れると安心したのもつかの間、それが一向に出来ないのが今の状況だ。栞さんがいつも傍にいることに、単純に落ち着かない。
 今まで、短期間でこんなに人と喋ったことはないのだ。それも、それなりに親しく語り合う、ということをしたのも初めてだった。今までは本のことにかかりきりで、いつでも他人には興味がない、という顔で、本ばかり読んでいた。それはわたし自身にとって仕方がないことであって、それで友人が出来なくたって、そんなのは全然気にしたことがなかった。自分のやるべきことをやり遂げてから、友人は作ればいいと、そう思っていた。もちろん求める文章を探すことが出来ずに、友人を一人も作ることなく一生を終える可能性だってあるのだけれど、それもそれで、仕方がないことである。
 今までは、そう思っていた筈なのだ。
 栞さんとの関係性を定めたがる自分が、今確かに存在している。
 教えてくれ、と言われた。本について。得意分野だ。得意分野と言うか、わたしにはそれしかないけれど。しかし教えることは不得意で、でもなんとかやった。そしてやり遂げてしまった。わたしが彼女に教えられることなんて、あとは一つも無くなっている。もう、そこからは個人の領域だ。
 それなのに、今彼女はこうしてわたしの前に座っている。私の向かい側で、熱心に本を読んでいる。もう何日、何週間一緒にいるだろうか。彼女に慣れてないうちはまだ良い。もし慣れてしまったら、慣れきってしまったらわたしはどうするつもりなのだろう。本についてを教えるという役目なら、もうわたしは終えてしまったのに。彼女はどうして、こんなわたしと一緒に居るのか。
 もうわたしの手元の本は一瞥すらされていない。一文字も頭に入ってこない。どうしてなのかは分かっている。栞さんとのぼんやりとした関係性を不安に思っているからだ。……わたしは小さな頃から未だに変らず、不明瞭で不確定なものが怖いまま。幼いころからまるで成長しない自分と、やるべき本分に手が付かないもどかしさで、少しずつ変になりそうだ。栞さんが、わたしと一緒に居る理由を早く知ってしまいたい。そうして安心したいのだ。だって今の二人の関係性を、表す言葉なんて見つからなかった。
問いただしてみよう。そう思った。今すぐにでも、どうして一緒に居るのかを、聞いてみてしまえばいい。しおりを挟んで、文庫本を閉じた。その音で栞さんが本から顔を上げる。あの、と言いかけたとき、栞さんはわたしの言葉に被せるように、質問をした。わたしの言葉も聞かずにである。
「そういえばさ、星さんはなんでそんなに本が好きなの?」
 わたしは今そんなこと、少しも話したくはないのだった。喉の奥で、栞さんに言いたいこと、聞きたいことが轟々と渦巻いている。わたしのこの厄介な性質を、わざわざ人に告白したくなんてない。どうせ、理解などされないだろう。何より、言いかけていたことを遮られたのには驚いた。出鼻をくじかれている。
「それって、どうしても話さなきゃいけないことですか」
「別にそういうわけでもないけど。私が気になってるだけだし」
 彼女はそうして、伺うようなまなざしを私へ向ける。何か複雑な事情があるとかだったら、ごめん。彼女はそんなことを言った。
「……複雑な事情は、特にないです。ただ、栞さんにとっては馬鹿馬鹿しいし、きっと、意味がわからないような理由です」
「教えてはくれないの」
「今わたしにはそれよりも、あなたについて気になることがあるんです」
「じゃあさ、星さんが本をそこまで好きな理由を聞かせてくれたら、私もその気になることに答えるよ」
 それでいいか、と彼女はわたしに聞く。彼女の瞳は、彼女の思考を表したりはしない。彼女が、どうしてわたしに理由を聞くのかも分からない。今現在分からないことだらけである。それでも、分からないことを分かるようにするには彼女に質問をする機会を与えて貰わねばならないし、それには、まずわたしが彼女の質問に答えることが必要だ。わたしは渋々肯いた。
 
 今日も外は晴れだった。相変わらず暗い図書室で、わたしたちは二人きりだった。声を潜めて、とりとめのない不明瞭な、わたしの想いを語っていった。わたしの声は何物にも邪魔されず、がらんとしたこの部屋に、こもったように響いていた。わたしの言葉が、彼女の耳に触れているのを意識する。ゆっくりとわたしの心は暴かれて、少しずつ検分されてゆく。彼女の視線も、わたしに対するまなざしも、段々と変質していく様を、どこか他人事のように見ていた。わたしの口は、止まらずに動いたけれど、このどんよりとして、しかし儚いような白昼夢のような状況を、すべては把握できずに、ただただ彼女の目に、促されるままに喋ってゆく。
 やがてすべてを話し終えたとき、彼女の目には、どうしてか安堵のような感情が浮かんでいた。しかしわたしも、理由も置いてその瞳に安心する。少なくとも、わたしを変に思ってはいないようだった。
「凄くいい理由だと思ったよ。てっきりさ、小説家とかになりたいのかなあって思ってたから、ちょっと意外だったけど。うん、でも素敵だ」
「自分でも、変なことは分かってる。でも強迫観念みたいに、たまに凄く苦しくなることがあるから、どうしようもないんです」
 喋りながら、自分は随分病的で、扱いにくい人間だと思い知る。他にわたしみたいに、おかしな人間が居るだろうか。
「確かに星さんの言っていること、全部分かったわけじゃないけど、それでも星さんはそれをやらずには居られなくて、仕方がなくて、止めるなんて出来ないってことはよく分かったよ」
 彼女の言葉は、急いたわたしの心を落ち着かせた。彼女にどこか、救われているような感覚もする。ただ、初めてわたしの奇異な行動に対して首を傾げなかった人が、新鮮なだけかもしれないけれど。それでも、彼女の言葉は嬉しかった。
「別に、変なことは分かってるから、笑ったって怒らないけど」
「笑わないよ。あんまり友達のそういうところ、笑ったりする人はいないと思うよ」
 友達、彼女は何気なくそう言った。わたしと彼女の関係は、今ひそやかにも定義されてしまった。
「そろそろ外も暗くなって来たね。今日はこれくらいにして帰ろうか」
 そう言って席を立つ彼女を、目で追う。視線に気づいて、彼女は笑った。
「そう言えば、質問はもういいの?」
「あ、うん。もう解決したから、平気。さようなら。……また明日」
 また明日。どきどきしながら出した声は、自信のない情けない声だったけれど、彼女はその言葉を受け取って、さっきよりもっと、優しく笑った。
「また明日」
 今までずっと、繰り返されるのはただひたすらな本の題名、明日に読む本をきちんと考えることだけが、わたしが未来に対してしていた約束だった。今までは、それだけが明日について思うことだった。
 今はもう違うのだ。栞さんはわたしの、初めての友人になった。




星の手引き

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