一
 物心ついたときには、わたしの心の中にはすでにそれが息づいていた。
 来客のときのコーヒーの香り、小学校の教室の窓、習い事への行き途で見た緑色のオウム、電車の一番隅に立つとき、いつまでも忘れらないただの練習曲のメロディ、同級生の爪の形、ふとした時の猫の表情、そういうものに、突如頭を侵されるときの、あのどうしようもない感傷。何でも無い筈のことが、いつまでも頭の片隅でかさばっている、そういう時の切々とした思い。小さい頃は、そういうとりとめのない些事に、突然心を侵略されることが怖くて怖くて仕方がなかった。普通の人は、大事な思い出、特別に嬉しかったり悲しかったりしたこと、深く感動的な物事、そういうものに追慕するものだ。それなのに自分は、大した事は無い記憶と感情とに襲われて、長い時間を浸っていることがよくある。そのことは、自分が他人と酷く違っていると言うようで、この突発的な情動をわたしはなす術なく持て余していた。そこはかとない、当てのない、病のようにも感じていた。
 少し大きくなってから、本を読むようになった。周りの大人は、本を読むことで言葉を覚えられる、とよく言っていた。自分の胸の内を説明する言葉を探すことが目的で、わたしは読む本を増やしていった。しかしすぐに、目的とは別のところで、本に魅了されるようになる。最初は分からなかった物事が、理路整然と区別され、今までしつこく絡まっていた物事がやすやすとほどけていく感覚に、すぐにわたしはやみつきになった。すべて言葉で書かれている点で、わたしにとって一般の本は、絵本より余程好ましいものに思えた。
 しばらくして、批評や解説を行う本に出会った。今までは実態が無いように思えていた絵画や音楽や個人の感情を、本の著者は明快に言葉で示すのだった。このときの、自分の周りに漂う不明瞭なものが次々に解読されていくイメージは、今でも忘れることが出来ない。
 次に出会いを果たすのは小説だった。書かれるのは物語、人間関係、概念、感情、そういう不確かをすべて言葉によって体現してゆく、そういう所が目覚ましかった。すぐに虜になってしまった。小説の、言葉で描かれる、という半ば当たり前のことをとても愛しく思っていたわたしは、その普遍性も気に入った。今までに読んできた小説の中には、わたしを感動させるものがいくつもあった。その中には、読後数日引きずるような苦い感動も、説明し難い素晴らしさも、物狂おしさもあった。幼少期からわたしの心臓に棲む情動に、それはとても似通っていた。常々、他人に理解はされないだろうと思っていた自分の情動に似通った読書の感動は、しかしたやすく人と分かち合える。そのことが衝撃だった。ずっとずっと昔からわたし一人で悩んでいる、あれが、もしかしたら他人にも説明が出来るのではないかと、そういう希望を持ってしまった。
わたしにも他人にも、わたしの情動と完璧に合致した感動を味わわせてくれる、そういう本を、文章を、希望を抱いたその時からずっと探している。一片でいい、そういう文章の欠片が手に入ったら、そのときこそ、わたしはやっと息を吐けて、自分の心に漂っているものから自由になれるのだ。そしてそれは、わたしにとって、きっと一番に大切なことである。だからわたしには、自分のために書かれたような、そういう文章を見つけることは、一生を懸けるべきことだった。そういう文章を見つけなければ、平穏ではいられない。
遊びも勉強もあまり好きではなかった。そもそも興味の対象ですら無かった。
 小さい頃からずっと、自分のための本を探していた。音楽でも絵でも駄目、言葉で書かれた、文章でなければならなかった。今でもそうだし、おそらく未来でも探すのを止めはしないだろう。わたしには脇目も振らず探さなければいられないものがあって、他のことにかまけている暇など無い。今までもずっと一人で、これからも、その文章を探し当てるまでは一人だろう。昔から他人よりも自分の心内に多大な興味を抱いていると触れ回っているも同然の行動を、恥ずかしいとは自覚している。やるべきことに一心な状態では、他のことを満足にやり遂げられる筈も無いことも理解しているので、とりあえず他のことについては、平穏に、自由になってから考えることにしている。わたしにとっての人生は常に本が纏わりつくことになるだろう。高校も、図書室の蔵書量で選んだ。まずはそこにある本を、三年間ですべて読むことにしている。それだけ読んでも、探し当てることは出来ないかもしれないけど。

 窓の外で木の葉たちがざわめき揺れて、まるでペリドットみたいに光っていた。外は清々しくゆるやかに晴れていて、時々笑い声も聞こえてくる。正午から三時間ほどたった日の中は、きっと気持ちがいいのだろう。わたしのいる図書室には、人が二三人ほどしか居ない。元からこの学校の生徒達は健康的で、この影差す図書室には中々近づこうともしないのだ。にぎわうのは雨のときくらいである。今いる二三人にしても、様子を見る限りは遅い午睡をとっているだけのよう。あくびを一つしてから、貸出返却の業務を行うカウンターの内側で、持っている文庫に目を落とした。あとほんの少しである。そしてこの本は最後のほんの少しまで難解である、気がする。
 図書室にある本は、とりあえず作家ごとに読んでいくことにしていた。図書室に一冊しか本のない作家もいれば、何十冊と置かれている作家もいる。あいうえお順に作家を、作品を読み尽くす勢いで居た。今までに読んでいて、大体を知る本はこの際読んだことにしてしまって、そうしてみればなんとなく、出来るような気がしていた。しかしそれは甘かったかもしれない。外の新緑を見ても分かるとおりに、高校生活も一年と二か月が経っている。それなのに、未だサ行の作家の果てが見えそうなところでしかなかった。勉強を度外視しても、あと一年と十か月で、この図書室にある残りの本を読んでしまわなければならないのに。それに成果も芳しくはなかった。阿井景子から、今読了したサン=テグジュペリの「人間の土地」まで、面白く、感動したのもたくさんあったが、すべて探している文章では無かった。
 手元の文庫本を見つめて、溜息しそうになる。簡単には分からないくらいに薄く色づいたページが重なり集まって、本ののどの部分はミルクティーのような色をしている。文庫本だけれど紐のしおりがついていて、それに表紙も美しい。中の文章も綺麗で古めかしかったし、良い言葉もたくさんあったけれど、どうしたってこの本は随筆と言うより哲学書だ。圧巻で、次に読む本の為には必ず読んでいなければいけないような本だけれど、わたしにはとても難しかった。こんなにしおりを挟んだ本は久しぶりだ。長く時間がかかってしまった。
 読書で時間を気にするなんて一番あってはならないと、今一度思い直す。「人間の土地」を持って立ち上がり、本棚の方へ歩いた。窓から光の差しているその場所だけが平行四辺形を切り取ったみたいに目立って明るい。それが目立つのは図書室がいつも暗い所為だ。点滅している照明もいくつかある。歩いて文庫の区画へ向かって、たどり着いて、サ行の作家、サン=テグジュペリ、と探して、「星の王子様」の左隣へ仕舞った。そして隣の「星の王子様」を取り出す。「人間の土地」は「夜間飛行」にもたれたようになった。
そこで、少し離れたところにいる人影に気が付いた。背の高い本棚の影が作る暗がりにいるその人影は、白衣を着て、不思議な髪の色をしていた。染髪していることと髪の長さから見て、教師ではなく女生徒なのだろう。暗がりで、本の背表紙を目で追っている。見にくそうだった。
「何かお探しですか」
 一応、読書に便利だろうと図書委員会に所属しているので、こういうときには活発に人助けをしなければならない。しかし本心では、こうしているよりも、はやく次の本である「星の王子様」を持って読書に入りたいと思っていた。さっき時間を惜しんだばかりである。しかし、助けずに立ち去ると言うのも、貸出の手続きのために彼女がカウンターに訪れ、再び顔を合わせた時に、気まずいだろうとも思った。
 その人はこちらにゆっくり目を向けて、それから口を開いた。
「星の王子様を、探しているんですけど」
 澄んでいて綺麗な声だった。一瞬空白が生じたような気がしてしまう。そして少し呆気にとられた。「星の王子様」は今わたしの手にある。
「……えっと、それだったら」
 そう言いながら手に持っていた本を彼女の方へ、一歩踏み出して手渡した。今度は彼女の方が驚いているようだった。
「この本、あなたが読むなら、私別にいいけど」
「いえ、星の王子様なら、別にハードカバーのもあるから……」
 何となく声が上擦る。そういえば最近、あまり人と話していないのだった。途端、大した理由でもないのに恥ずかしくなってしまって、顔が熱くなる。
「そう? じゃあ遠慮なく」
 そう言って彼女はしっかりと本を手に持った。彼女はきっとこの本を借りるだろうと見当をつけて、貸出手続きの為にわたしもカウンターへ向かう。何となく、一緒に歩く形になってしまい、気恥ずかしさで顔を俯かせた。
「図書委員会の人?」
 無言で肯く。しかし元から俯いているので、微細な変化である筈だ。
「私、この図書室使ったの初めて」
「確かに見かけたことは無いです」
 こんな目立つ出で立ちの人、一度でも見たら忘れないだろうと思う。でも、暗くない場所で見る彼女の髪は、変わっているけど綺麗だった。ベージュと言うには橙色がかった、言い表しにくい色だけれど。
カウンターの内側に入り、座って貸出手続きを始める。本の奥付に張られた紙に、日付を記載するためスタンプを押したところで、頭上から声が降ってきた。
「私、まともに小説読んだりするのも初めてなんだけど、その本って面白い?」
「……面白い人には面白いと思います。えっと、もしあまり読書経験がないようなら、もっと易しいやつからでも、いいんじゃないかと思うんですが」
 段々言葉が失礼になっていく気がして、少し口ごもりながら言う。
「あの、どうしてこの本を?」
 なんとなく尋ねてみたくなった。よくよく考えてみると、結構な偶然であると思う。ただでさえ少ない利用者の読みたい本が、それなりの蔵書があるこの図書室で一致するなんて。
「何となく題名で。以前何かで題名を見て、気になったから、凄く」
 弾むようにそう言って、それから彼女は何故だかわたしを見つめた。すこし後退りたい気持ちになる。どんな言葉が飛び出すだろうと、彼女の唇に注視する。何だか気持ちが、慌てている。
「あなた本に詳しいみたいだし、良かったら、私にいろいろ教えてくれないかな。最近やることがなくなって、読書をしてみることにしたのは良いんだけど、何しろ素人みたいなものだから」
 だめかな、と少し気まずそうな表情で言うものだから、何か、断り難いのだ。
「私で、良ければ……」
「本当? 嬉しいな、ありがとう」
 相当に減るであろう時間を思って、少し気落ちした。そもそも、教えると言ったってわたしはそういうのが不得意だ。大体、他人とあまり分かり合えないからこそこんな風に読書に勤しんでいる。数分前に初めて会った親しくも無い人の申し出を、簡単に了承してしまった自分の口を呪いたかった。
「じゃあ、これからよろしく。そういうわけで、ぜひ、名前を教えて欲しいんだけど」
「二年のA組で、星と言います」
 彼女の顔つきが少し変わった。
「ホシって、保存の保に志すの保志?」
「いいえ、普通の、空にある方の星ですけど」
 彼女は少しほほ笑んだ。じゃあよろしくね、と手を差し出される。白衣の袖には、薄墨のような染みがついていて、長い間身に着けているのだと分かった。科学部だったりするんだろうか、と考えながら、手を握る。
「私は二年E組の栞と言います。名前みたいだけど名字なの」
 しおり。さっきまで読んでいた本の、真紅のしおりがぱっと目に浮かんだ。あんまり悪い人でも無さそうだ、と根拠無く思ってしまう。
「じゃあ早速、読んでみることにするね」
 また明日、と手を振って、彼女は本を胸に抱える。図書室の出口へと向かう彼女は、立ち去り際に小さく「運命だ」と呟いた。
 確かにそう呟いた。聞こえるか聞こえないかの、誰に言うでもない囁き声は、確かに運命だと言っていた。




星の手引き
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