十
一か月間調べ物をして、大体の事情を知ったわたしは栞さんを地学室に呼び出した。言いたいことがあった。どうしても言わなければならないことだった。わたしと栞さんにまつわるすべてのことのために、交わさなければならないやりとりがあるのだ。
もしかしたら呼び出しに応じてはくれないかもしれない、という心配は杞憂に終わったようだった。放課後の地学室に栞さんは居てくれた。相変わらずの髪と白衣を目にして、やはり気分が安らぐ。もうどのくらい姿を見かけていなかったのだろう。この後に大変な談判を行うとはいっても、久しぶりの友人の姿は嬉しいものだった。
「遅れちゃってごめんなさい。来てくれてありがとう」
物思いから覚めたように栞さんは顔をあげた。そこまで敵意をにじませた表情ではない。もちろん笑ってくれているわけもないが。ただ諦めたような表情をしていた。
「話って何」
「大事な話。まず言いたいのはね、わたしが本気で小説を書こうとしているという宣言。そしてそれに栞さんを関わらせて欲しい、というお願い。このふたつ」
「私は星さんが小説を書くのは嫌。もしそれをするなら、私は星さんの友達ではいたくない」
「栞さんが、わたしが小説を書くのを嫌がるのは、つまりわたしの夢が破れるのが嫌だからでしょう」
わたしの言葉に栞さんが目を見開く。
「少しね、調べたの。わたし栞さんのこと何も知らなかったから、知りたくて。勝手なことしてごめんね」
「別にそれは良い。どこまで知っているかは分からないけど、ある程度知っていてくれた方が納得させやすい。というか、私の散々な過去を知った上で私の二の舞をしようと躍起になってるのは何で?」
「そもそも、わたしは栞さんの過去を散々なものだとは思わない。そして、わたしが夢を叶えたいのには切実な理由がある」
「どうせ叶わないのに?」
栞さんが嘲るように笑った。心が痛むのは、この嘲りがわたしに対してのものではなく、彼女自身に対してのものだからだ。わたしは彼女を変えなければならない。
「あの小説を書いて、月井くんに褒めてもらって、わたしは何よりそれが嬉しかった。わたし個人の気持ちが、他人に伝わったことが嬉しかった。前にも言ったように、わたしには昔からずっと、人に分かってほしいことがある。共感してほしいことがある。それを一番分かってほしいのは栞さんなの。ここまでなら、栞さんはきっと受け入れてくれるんだと思う。わたしが読書をする理由を話した時、栞さんは笑わなかったから。でもね、栞さんに会ってから、もう一つやりたいことができたの。そしてそれは、読書という方法じゃ上手く行かない。小説という方法を用いることが最適だと思っている。わたしは、わたしがどんな風に栞さんを思っているか、他人に伝えたいの。その対象は栞さんだけじゃない。色々な人に、わたしはこの気持ちを伝えたい。だからわたしはもっと小説を書くし、上手くなる。皆に共感してもらえるような文章を書くために努力する。前は、誰かの本でその気持ちを表そうって思ってた。でもいくらその本で得られる感情と、わたしの気持ちが完璧に重なっていたって、それはわたしの言葉じゃない。わたしの本当の気持ちじゃない。今までなら、別に借り物でもよかったの。でも栞さんに関しては、あなたには、自分の言葉で伝えたいの。ありのままに、ロマンチックに格好つけて表現したいの。あなたに伝えたいの。読んでほしいの。それがわたしの夢になったの。小さい頃からの気持ちで、そしてあなたに出会って生まれたわたしの夢なの。わたしはあなたに、わたしのことを理解してほしい。叶えさせて。応援して。わたしは夢を叶えたいし、叶えるべきだと思う。そしてそこに、あなたの過去に囚われた気遣いは必要ない。あなたの友達として言うけれど、あなたも夢をかなえるべきだと思う。わたしは今日それが言いたかった」
何度も躓きそうになりながら、言いきった。わたしの夢には栞さんが深くかかわっていて、わたしが夢を叶えるためには栞さんの意識を根本的に覆すことが必要だ。彼女が夢を叶えることに対して持っているトラウマを治療しなければならない。
そして、わたしは栞さんの友人として、彼女に夢を叶えさせるべきなのだ。あの初めての出会いの日に、運命と言われたからこそ、わたしはそれを全力で覆さねばならない。この改革をしない限り、わたし達の友人関係は不自然だ。そして不自然だと言うことは、友人関係であることと矛盾する。
わたしの長い言葉を聞いて、栞さんは頭を垂れた。そして小さな弱弱しい声を出す。
「どうせ、理解らせてなんかくれないくせに……」
泣きそうな声だった。
「絶対に分からせる。だって、それがわたしにとっての人生の命題だから。わたしはそれ以外にすることがないし、それをやり終わらない限り他のことは何もできない。それが夢なんだもの。諦めるわけにはいかない。そして、あなたも夢をあきらめるべきではないと思っている」
「そんなこと言って、なんで、そんなことに執心するの。ひとつのことにかまけて、それが上手く行かなくなったらどうするの。どうせ叶わないことに期待するなんて無駄でしょう。私は、君を私みたいにしたくなくて、だから期待させたくない。どうせ裏切られるのに」
「わたしはわたしの夢を絶対に叶える。栞さんのそれは堅実なんじゃなくて臆病なだけ」
思わず語調が強くなった。言葉が止まった栞さんは息をつく。そしてまた諦めたような表情をした。
「分かったわ。もういい。君の夢をいちいち邪魔したりなんてしないわ。それでいいでしょ」
「それであなたはどうするの」
「また別のものを見つけるわ」
「ずっとそうやっていくの? 原因は相手じゃなくてあなたでしょう」
栞さんがわたしを睨みつける。そういう風にわたしに敵意を表すとき、この人は決まって泣きそうでもあるのだ。
「じゃあ自分と向き合って、夢を叶えるっていうの? 無理だよ。叶わない。叶うわけないの。だからこれは運命なのよ。私は夢を叶えることが出来なくて、この高校に入って、でも代わりに君を見つけて友達になったの。運命よ。それでいいじゃない」
運命。この談判の中核だ。この思想こそがそもそも、こうまでになった原因だ。
「……わたしはどう頑張ったって、あなたの夢の代わりにはなれない。わたしだけじゃない。他のどれでも代わりにはなれない。だから夢を叶えようとしない限り、あなたはずっと上手く行かない。代用可能なものなんて、そもそも夢じゃない。そして現にあなたは夢を諦めきれていないし、わたし達の関係は今にも壊れそう」
「でも私は、あなたと会えて、友達になれて、本当に良かったと思ってるのに。そもそもあなたが不相応な夢なんて持たなければ、私達上手く行ってたじゃない。あなたのその夢がずっと叶わなかったら、あなたはどうするの」
「それでもいい。ずっと叶えようと頑張り続けるだけ」
「そんなの不幸だわ。良くない!」
ついに涙を流した栞さんは、そんなの不幸だ、とまた小さく呟いた。
「不幸じゃないよ。栞さん。もっとよくないことがある。そうやって、無理やりな理論で自分を正当化して、今を幸せだと思いすぎることだよ。本当に悲しむべきことや、落ち込むべきことを、幸せの理由になんてしちゃいけない。あなたのお母さんが病気になったことや、あなたが夢に破れたことで起こる「良いこと」なんて、あってはいけない」
嗚咽する栞さんに向かって言う。
「わたしと出会う未来より、あなたが夢を叶える未来の方が、良い未来に決まってる。中学生のあなたがどちらを選ぶのかなんて、分かりきったことじゃない。だから、わたしにとってのあなたは運命かもしれないけれど、あなたにとってのわたしは、そうじゃないよ」
「でも、そしたら君が」
「今とは別の未来を望んだって、わたしは笑ったりしないから」
栞さんが落ち着いて、わたしもすこし気を緩めた。もうすぐ日が暮れる。最近日が落ちるのが早くなった。栞さんが涙を拭う。そしてわたしに向き直った顔は、不安げで、少し申し訳なさそうな表情だった。
「でも、上手く行くかどうか、分からないわ。何度だってやるべきだけど、でも、出来るだけ早く叶えた方が良いでしょう。叶えない限り、その夢だけで手一杯になっちゃうから」
「栞さんは、割と早く叶うと思うよ。高校入試は失敗したと思ってるんだろうけど、聞いた話ではその時お母さんの具合が悪かったんでしょう。平常なわけないと思うよ。だから今挑戦すれば、充分叶えられると思う」
「……ありがとう。本当に、ありがとう。ごめんね」
別に謝らなくてもいいのに、と思う。寂しいのは確かだが、わたしにだってやるべきことがあるのだから。
「夢を叶えるとすると、今から一生懸命勉強して、何年かかけてとりあえずそれなりの大学に行くことからかな。長い道のりになりそう。それに、そうしたら多分二人とも、忙しくて会う暇なんてなくなっちゃう」
「一つのことで手一杯だからね」
「叶ったら、また会おう」
「そうだね。約束しよう」
そう言って二人で顔を見合わせて笑う。栞さんの「また明日」はもう聞けないかもしれない。それでも、大泣きした後のかすれた声で発された、未来の約束で、もう十分すぎる程だった。
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