十一
 最後に姿を見たのは一年ほど前。言葉を交わしたのは二年前が最後になる。まだその美しい声を忘れることはないけれど、だからといって会えないことが寂しくないわけがない。たった一人の、初めての友人の輝かしい未来のためと、歩まなければならない自分の将来のために、わたしは彼女とある一つの約束をしたのだ。夢を叶えるまで、その夢以外に気を移さないこと。夢以外、という指定には、当然友人のことも含まれている。夢以外のことは、文字通りすべて含まれている。夢のために、わたしたちは幾ばくかの期間の隔絶を互いに誓い合ったのである。彼女は星を追求することにすべてを懸け、わたしは自分を表現することに執心する。そうやって過ごして来た二年間だった。そうすることを厳格に、自分自身に課してきたのだ。
 しかしわたしの表現の対象は、まず何よりも先に彼女である。ペンをとって想いを連ねてゆく最中、その結実は彼女への懸想に他ならなかった。何よりも彼女に解ってほしいと、それだけを思いつめて過ごして来た。思考の結果が溢れる紙片を、抱いたまま途方に暮れる。その繰り返しだ。わたしの命題が解決するまで、わたしの夢はわたしの信条で在り続け、わたしを一生縛っていく。それ以外のことを、何も考えさせてはくれないように。
 ペンはまるで彫刻刀だった。自分自身を切り裂いて、心の奥底まで突き刺して、内部をはかり取る。わたしの思考も思想も懸想もすべて、心の奥深くに渦巻くものを表出させようとする。余計な諦念や予防線や面映ゆさを削り取り、ただありのままのわたしの感情を、真っ白な紙面に刻むのだ。
 何よりも表現したい想いと、それを向ける対象への熱情が、合致し始めたのは何時のことであっただろうか。わたしが解き明かしたい不明確なあの感情が、いつしか彼女を思うたびに、心を侵すようになった。彼女のことを考えると、どっと不可思議な感覚が押し寄せてきて、堪らない気持ちになるのだ。
 昔からずっと、その感情の名が解らない。それでもいつかきっと、名前を見つけて、理解して、彼女にも理解してもらうのだ。それがわたしの執心すべき夢なのである。
       *
 凍てついた厳しさの中に、仄かに暖色が滲み始める三月のことだった。彼女から連絡があった。念願の大学に合格した、まだ夢には遠いが、一度会ってはくれないだろうか。そう綴られた素っ気のない文章は、それでも、ねだるような趣の震えが現れた文字で構成されていた。合意を示した手紙を送り返して、ささやかなやりとりが始まった。やっと決まった日取りが今日である。待ち遠しい。久しぶりだ。会いたくて仕方がない。
 約束の時間は十八時。丁度日没の時間。しかしいくら暗闇だろうと、彼女を見逃しはしないだろう。確信があった。自分の感情に裏打ちされた確信だ。
 手元の時計を見る。針は綺麗に真下を指した。十八時、約束の時間だ。待ち合わせ場所の噴水を背に、前方に目を凝らす。
 暮れなずむ微かな闇に、見覚えのある銅板色が見えた。こちらへ向かって駆けてくる。思わず口元が綻んだ。
「ごめんなさい、遅れちゃって。待った?」
「全然。それにしても、久しぶり。栞さん」
 わたしからかけられたあいさつに、彼女は変わらない笑顔を見せた。その恒久さにほっとする。お互いに、何度も久しぶりだ、と言い合って、その度に笑った。感無量だったのだ。
 立ち話はとりあえずやめにして、目的地の飲食店まで向かうことになった。彼女は相変わらず、背筋を綺麗に伸ばして歩く。隣にある気配に胸が詰まった。懐かしいようでいて、実際にわたし達が過去に並んで歩いた期間はあまり長いものではない。出会って、あまりに急速に深部まで進んでしまったから、こういう単純なことに立ち返る機会が無かったのだ。友人同士並んで歩く喜びより先に、ふたりが出会うに至る運命という、強大過ぎるものに立ち向かうせわしなさに専念しなければならなかった。
 ふたりとも近況を話し合った。わたしは小説の執筆がそれなりの所まで進んだことや、まだ命題の解明には至っていないこと、彼女とわたし共通の後輩と最近ばったり遭遇したことについて喋った。彼女は主に勉強の話をした。海理大学合格までの苦労譚である。大変そうに語ってはいるし、事実努力もしたのだろうが、高校時代における一年以上の空白期間をもってして、たった一年の浪人であの理系最難関の大学に合格してしまうあたり、舌を巻くしかない。にこにこと、しかしつきものが落ちたような晴れやかな顔で今までを語る彼女を見て、自分もすっきりとした気持ちになった。彼女は夢に向かって着実に進んでいる。素晴らしいことだった。そしてその素晴らしいことを、わたしにためらいなく教えてくれることも嬉しかった。明かしてくれるということは、どんなことだって良い事だ。彼女が最良の道を歩んでいるならなおさら。
 話しがひと段落して、彼女が息を吐く。吐かれた息は、未だ白に染まる。身を刺す冷感と合致するその白さに、目を奪われた。少しぼうっとする。
 彼女が今わたしの隣にいるということと、わたし達のそれぞれの未来についてのことは、精密に繋がっているようで、ゆるやかに断続しているのかもしれない。彼女の道は、段々とはっきりとしてきている。彼女の努力によって、彼女はいずれ夢へと到達するだろう。それなら、わたしはどうなのだろうか。不明快な感情は未だ解明できない。そのぼんやりとした性急さを、いつも持て余している。彼女を思うと、途端にその不明確な感情に襲われる。その感情の来襲も払拭も、共に突然だ。いつもつかみどころがない。それを掴んで見せることがわたしの信条だけれど、一体いつになったらそれは叶うのだろうか。いつか、わたしは解き明かすことをやめてしまいはしないだろうか。彼女に感じるその感情に、いつしか不穏さでは無く安寧を感じてしまうことはないだろうか。
 わたしは今、危うい所にいる。今日だって、こうして簡単に彼女と会ってしまったけれど、これはあの誓いの破壊に他ならないのではないだろうか。あの約束では、夢を叶えるまで他の事に気を回してはいけないことになっていた筈なのに。現在のわたしはどうだろう。彼女と会っている最中、一度でも小説のことを考えただろうか。
 彼女に懸想するということは、小説を書くということをないがしろにしているも同然なのかもしれない。それならばわたしが選択するべきは一つだ。彼女への懸想を止めて、小説に専念すべきである。他ならない彼女との約束に、則るならばそうせねばならない。しかし、いつの間にか、隣を歩く彼女が、わたしの半身に馴染んでいる。いつの間にか離れがたい。止められなくなる。
「星さん、大丈夫?」
 彼女の心配そうな声で我に返った。すぐ近くに寄せられた顔に、一瞬戸惑う。
「何か考え事?」
「そう、ちょっと……ごめんなさい、せっかくの時間なのに」
「いいよ別に。私も、約束やぶって誘っちゃったのは悪かったと思ってる」
 彼女は、謝罪の意を示した。それを訂正しようとして、何故か口が開かない。尤もなことだ。わたし達は、まだ夢を完璧に叶えきってない。それなのに恋しくてこうして会ってしまった。腹の底から、不安と焦りが立ち上ってくる。
「でももう今更離れがたいわ」
 不安に浸食されゆくわたしは、独り言のように落とされた彼女の言葉に、心臓が止まりそうになる。
「確かにわたし達には頑張らなければならないことがある。そしてその夢は、一生を懸けなければいけないくらいのものだから、もちろん真摯に向き合わなければならない。もしかしたら、一生の伴侶かもしれないからね。お互いに、その夢の事が愛しくて仕方がない。どうしようもなく愛さずにはいられない。ずっとその夢と一緒に居る。それでも、その恋と友情は別だと思う」
 彼女がおどけたように言う。わたしの方を向いてほほ笑んだ。依然心臓が上手く機能しない。さっきは止まりそうになったのに、今は物凄く速く鼓動している。
「私はあなたのことを、一生の友達だと思ってるの」
「わたしも。わたしも同じ。あなたのことが一生大切」
 急いて上擦ったようになったわたしの言葉にも、彼女は笑みを降らせた。心臓が高鳴る。全てが上手く行くような浮遊感。
「星さん、知ってる? 今年の五月、金環日食があるの」
「知ってる。最近たまに、ニュースなんかでやってるから」
「それでね、その後にもいろいろあるの。八月にはペルセウス座の流星群があるし、十二月にはふたご座流星群がある。多分素人でも見えると思うの。それで、提案なんだけど、ふたりで一緒に見ない?」
 彼女の口から飛び出てくる天体ショー情報を必死で処理していた脳が一瞬停止する。ふたりで一緒に?
「見るの? 二人で?」
 驚きのあまり問い詰めるような口調になってしまった。栞さんが眉を下げる。
「だめ?」
 そう聞かれてしまえば、不本意なことなど何一つだってない。ただ少し驚いただけだ。考えれば考える程、良い提案だった。一緒に星を二人で見る。彼女の恋しているものを、知ることが出来るかもしれない。
「全然だめじゃない。楽しみ」
「本当? ありがとう」
 微笑み合って、嬉しくなる。彼女との新たな約束だ。自分の夢のことも、今は気にかかるけれど、それでも先程栞さんが言ったように、恋と友情は別物だ。
 意識しない間に、すっかり夜は更けていた。目的地の店まではもう少しだ。少し先の、彼女とした約束に胸を弾ませて、夜道を二人で歩いてゆく。
「本当はね、来年も、再来年も、その先もずっと、いろいろあるの」
「じゃあそれも一緒に見ようか」
「うん。たくさんあるの。星さんに見せたいものも、星さんに教えたいこともたくさん。一生かかっても足りないくらい」
「やっぱり、物凄く星が好きなんだね」
 夢見るような彼女の口調に安堵する。二年前、少しでも選択を間違えていたら、好きなものにまい進する今の彼女はいなかっただろう。こんな風に、星について夢見るように語る彼女は存在しなかったのだ。それを思うと、胸が熱くなる。
「ベテルギウスの爆発も、一緒に見たいな」
「それって随分先の話じゃなかった? わたし達が死んでしまった後の話」
「いつ爆発するかは、きっと誰にもわからない。この瞬間かもしれないし、天文学的数字が経った後かもしれない。それでも、絶対に綺麗だから、出来るなら一緒に見たい」
 夢見るような口調だ。遥か遠い謎に恋をしている声だ。何が何でも、見たくて、知りたくて、暴きたくなる気持ち。理解したいと思うのは、恋をしているも同然のことなのだろう。
 (ならば、理解してほしいと思うのは、一体どういう気持ちなんだろうか。)
 湧いた疑問に思考は揺らぐ。感情が揺さぶられて、せつせつとした想いが波のようにわたしを侵略する。彼女の綺麗な髪と、綺麗な声、あの笑顔が、向けられる謎。あの不可解な闇と美しさ、途方も無く遠いところにあるあの星たち。彼女はそれに向かって、いつまでも真摯に手をのばすのだ。なんて麗しい人生だろう。いつまでも、生きている限りずっと、彼女はそれを求め続ける。分かりたい、と欲し続ける。
 羨ましい、と一瞬思った。どちらを羨ましく思ったのだろう。夢見る彼女と、彼女に求められる謎と、わたしは今どちらになりたいと思ったのか。
「ねえ、星さん」
「何?」
「ずっと一緒に居てくれる?」
 彼女の綺麗な声が、わたしに向かって問いかけた。瞬間。
 清廉な青が視界を覆う。青はどんどんセピアになって、甘い感傷を思わせる。脳が痺れて、思考がたゆむ。反対に心臓は引きつって、切り裂かれるような細い痛みに打ちひしがれる。暖かい血が溢れるみたいに、一瞬心臓に纏わりつく温暖の核の崩壊と、麻痺の痛みの快さ、ないまぜになる、痛みと甘さの、青が踊って、心と脳をかき回す。溢れて溢れて止まらない。何が何かも分からないのに、これが激情であることだけは容赦なく痛感させられるのだ。捉えようのない感情だ。この激情の名は何。昔感じた、彼女に感じる、今感じる、この衝動の名は。
 この気持ちの名が知りたい。この気持ちを解ってほしい。この気持ちを彼女と共有したい。彼女に共感してもらいたい。彼女に解ってほしい。彼女にもこの激情を痛感してほしい。わたしの手によって、わたしと同一の感情を、彼女にも味わってほしい。
 わたしと同じ気持ちになって。
 この身を切り裂くような激情に浸って奪われて、わたしに解ってほしいと望んでよ。わたしが何をあなたに思ったかを、そうして理解すればいい。
 わたしを理解してほしい。わたしを求めて欲しい。わたしに手をのばして欲しい。
「うん。ずっと一緒にいるよ」
 今までたくさん本を読んできた。その中に何度も出て来た「この感情の名はなんだろう」という逡巡の答えが、独特であることがあっただろうか。いつでもそうだった。その感情の名は、陳腐極まりないあれだ。いつでも、どんな本でもそうだった。馬鹿みたいだ。こんなに単純な答えに、一体何年を費やしたのだろう。
 わたしの命題は、たった今解決された。わたしの信条は、たった今解き明かされたこの感情を、彼女と他人に理解してもらうことに他ならない。
 来客のときのコーヒーの香り、小学校の教室の窓、習い事への行き途で見た緑色のオウム、電車の一番隅に立つとき、いつまでも忘れらないただの練習曲のメロディ、同級生の爪の形、ふとした時の猫の表情、彼女のこと。
 わたしはそれらすべてを、愛していたのだ。

                    〈終〉




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