五月の食事
小さいころ、読んでいた児童書に「夜はやさしい」という文章が出てきて、目を見張ったのを覚えている。その言葉を読むまでずっと、わたしにとって夜は暗くて怖いものだった。
澄んだ新鮮な空気にすっぽり包まれているような気分になるのだ、とその児童書の主人公は語った。成長して一丁前に夜更かしをするようになってからも、窓の外の暗さにたびたびその文章を思い出した。もはやその本のストーリーもタイトルもあやふやだけど、その言葉だけが妙に印象に残っている。
桐ちゃんが瞬きをする。黒く光る瞳が隠見する。朝食の時間だ。朝の空気は健全すぎていっそ苦しいくらい。今日は晴れで、窓のいたるところから陽光が入り込んでいる。時刻は七時十二分。テレビに映るアナウンサーの笑顔は今日も完璧。どこをとっても朝らしい朝である。
「桐ちゃんの目の色は夜みたいだね」
わたしの言葉を聞いた桐ちゃんは顔をしかめてから口を開く。どんな言葉が出てくるかと身構えてみたが、結局出てきたのは言葉ではなくため息だった。
「桐ちゃん桐ちゃん、なんでため息つくの?」
「なんで木綿子さんはそう突拍子もないんですか」
「突拍子なかったかな。なんかね、今日の朝はめちゃくちゃ朝って感じだなあ。なんか気後れするなあと思ってたんだけど、桐ちゃんの瞬き見たら落ち着いたから、桐ちゃんの目は夜みたいだなと思ったの」
わたしは夜の方が好き、夜型だし。小さいころに読んだ児童書に「夜はやさしい」っていう文章が出てきて、それから好きになったの。と付け加えると、いよいよ桐ちゃんの眉間のしわは深くなった。
「あんた大学でもその調子でお喋りしてるんですか。嫌われますよ」
「大学ではもっと筋道立てて喋ってるよ」
だってここは家だもの。気だって抜けるわと思いながらそう言うと、桐ちゃんは誤魔化すみたいなため息を吐いた。
伏せた睫毛は綺麗に黒い。首の中途で切り揃えられた髪はまっすぐ光る。瞳は濡れたようにかがやく。それらの黒は、彼女の肌と空気中の埃と食事から立った湯気の色に、よく際立つ。
「桐ちゃんは美人だね」
しみじみそう言うと、桐ちゃんの挙動が止まった。
「何食べたらそうなるの?」
「少なくともここ二か月は木綿子さんと毎日同じもの食べてますよ」
挙動が急に止まったから、てっきり照れたのかと思ったら、特にそんな様子も見せずに淡々と返答される。言われ慣れてるんだろうか。
幼いころから一緒で、桐ちゃんがこの容姿で居ることはまったく当たり前だから、気付きにくかったけれど、一歩引いて見てみれば、桐ちゃんはとても美人だ。ちょっと冷たい感じだけれど、それを補って余りある。よくよく考えてみれば小さいころから手も足も長かったしな、と記憶に照らし合わせて納得する。全く平々凡々の女子大生としてはうらやましい限りだ。
しかし、毎日同じものを食べている、というのは実際その通りである。身体の構成要素が同じなのに、どうしてこうも違うのかと落ち込みたくなった。
「じゃあやっぱり生まれつきの違いなのかな。むなしくなるね」
「木綿子さんだって美人ですよ」
「そういうのが一番つらいわ」
分かりやすい慰めに文句をつけると、桐ちゃんは露骨に面倒くさそうな表情をした。この桐ちゃんの顔を何度見ただろうと思う。こういった軽口のたたき合いはもう日常だ。
「あ、でもね、わたし最近痩せてきた気がする。桐ちゃんと一緒に住むようになってから」
「今までの食生活が相当だめだったんじゃないですか」
「たぶんね。このまま行ったらわたしも美人になれるかも。桐ちゃん、わたしに毎朝みそ汁作って」
「プロポーズですか」
桐ちゃんがやる気のない声をだす。そうだよ、と返すと笑われた。
「そうだ、そんな下らないことはどうでもいいんですよ。今日の夜私居ないので、夕飯一人で食べてください。一応鶏肉のトマト煮を作って冷蔵庫入れておいたので」
「なんか用事?」
「サークルの飲み会です」
十八歳は澄ました顔だ。捕まらないでよ、と一応言っておく。そんな馬鹿やりません、という心強い返答が帰ってきた。
「そもそもそんな飲まないですよ。強くないんで。すぐ帰ってきます。夕飯だけ一人で食べてください」
「分かった。ご飯作っといてくれたんだね。ありがとう」
道理で今日は早起きだったわけだ。寝ぼけ眼をこすってわたしがのこのこリビングにやってきたとき、桐ちゃんはすでに台所に立っていた。いつもはせいぜいわたしより三十分早いくらいで、わたしが起きてくる時間には若干眠そうにしている。
それにしても常々桐ちゃんには頼りきりだ。桐ちゃんの作るご飯のおかげで、わたしは去年よりはるかに健康体である。感謝してもしきれない。
「ごちそうさまでした。そろそろ私出ますね」
食べ終えた桐ちゃんがシンクに皿を下げる。目の端に桐ちゃんがちらちら映るのを、なんとなく意識しながら、朝食を口に運んでいく。洗面所と桐ちゃんの部屋を経て、化粧と身支度をすませた桐ちゃんが玄関に向かうのを見遣った。
「さっきから二十分以上経ってますけど木綿子さんまだ食べてるんですか」
「わたし今日二限からだもん」
「のんびりして遅刻しないでくださいよ。それとお弁当、調理台のところに置いておきましたから忘れないでくださいね」
「うん」
じゃあ行ってきます、と桐ちゃんがドアを開ける。後ろ姿に「いってらっしゃい」と声を掛けた。
毎朝七時には完成する朝食と、いつも手抜かりのないお弁当、夕食も毎度手作りだ。甘やかされている、と思う。自分が腑抜けていることを実感する。
がやがやと騒がしい学生食堂に何とか三席分を見つけて滑り込む。左隣の萩野が「明らかに学生の数に席数が見合っていない」と呟くので、同意する。
「三限か二限空いてればいいけど、昼休みしか食べる時間ないと本当きついよね」
「最悪外のベンチか次の教室行って食うしかないもん。そうなると学食のものは食えなくて、そうするとコンビニ行くしかないけどコンビニもえげつないほど混んでるし」
「萩野も弁当にしたらいいんじゃない」
私の右隣に腰を落ち着けた杏の提案に、萩野は渋い顔をしてみせた。
「時間がない。バイト一時までやって帰ってきて課題片づけたり風呂入ったりしてたらもう四時でしょ。そこから六時間は寝たい。そしたらもう十時で、十時半からは二限始まるもん。どのタイミングで作るんだよ」
「そっか、一人暮らし」
「そうですよ。実家住みは楽だろうな」
「確かになあ。バイトそんな入れなくても生活できるし。いざとなったらお母さんとかお姉ちゃんがお弁当作ってくれるし」
わたしを挟んで展開する会話をよそに、桐ちゃんの作ってくれたお弁当の蓋を開ける。雑穀ご飯と卵焼き、からあげ、焼き鮭が二分の一切れ、ブロッコリーのからし醤油和え。今日も美味しそうだ。手を合わせる。
「うらやましい限りだよ。一人暮らしだと生活が荒む」
「あれ、木綿子は一人暮らしだったっけ」
話がこちらへ向かってきて、慌てて口の中のものを飲み込む。
「いや、同居。ルームシェア? そんなおしゃれな感じでもないけど」
「そうだ、年下の幼馴染」
「ああなんか、料理が得意だっていう」
「そうそう。今日のお弁当もその子が作ってくれたの」
何気なく発した言葉に、友人二人が驚いたような顔をした。
「お前は貴族かよ」
「え、お弁当までその子に作らせてるの? 毎日?」
「作らせてるって言い方も引っかかるけど、まあそうだよ。桐ちゃんは料理担当だから。わたしは掃除と洗濯と食器洗い。だから別に貴族ではない」
抗弁にも関わらず、二人の表情は変わらない。
「学生でバイトもしてて、毎日毎日三食作るのって相当きついよ。いくら他の家事がなくても」
「え、バイトしてるのその子」
「週二日ね。学校と被らない日に」
「いや、それでもきついでしょ」
二人の視線に居心地が悪くなる。確かに、言いながら自分自身でも、桐ちゃんに負担を負わせ過ぎているような気がしてくる。
「木綿子は年上なんだからさ、そういうところ気を遣ってあげないとだめじゃないかな。辛くても言い出せないかもしれないよ」
「いいなあ。毎日三食作ってくれる年下の幼馴染。俺も男でいいから欲しいな」
「女でもそうそういないよ、そんな甲斐甲斐しい子。ただの幼馴染相手に」
矢継ぎ早の非難にますます居心地が悪くなる。
「三食のうち一食分だけでも作るの代わったりすればいいかな」
「木綿子の料理を食べなきゃいけないのもつらいよ」
「バイトしてるんだから昼くらい外で都合つければいいんじゃないの。弁当作りの分だけでも負担軽くしてあげなよ」
目の前のお弁当が今まで以上に尊いものに見えてくる。俯きながら小さい声で「そうします」と呟くと、やっと二人の視線がわたしから外れる。
「そういえばさ、ここからもう少し街道離れて住宅街側の方に新しい店見つけた。イタリアン。ピザが旨かったよ」
「え、行きたいな。高い?」
「安い。この間男ばっかりで行ったんだけど、一人当たり三千円あればかなり飲み食いできる」
中々気になる情報で、思わず顔をあげる。そういえばしばらくの間ピザを食べていない。
「行きたい行きたい。え、どうしよう。萩野今日バイトは?」
「ないよ。今日行く?」
「木綿子は?」
いつもは桐ちゃんが夕飯を作って待っているので、こういう突然の誘いには乗れない。外食するときは事前に約束をして、桐ちゃんに今日の分はいらないと伝えるのが慣例だ。
「今日は桐ちゃんがサークルの飲み会だから、わたしは夕飯一人」
「ちょうどいいじゃん。じゃあ行こうよ」
もちろん、と返そうとして、朝の記憶がよみがえった。
(一応鶏肉のトマト煮を作って冷蔵庫入れておいたので)
「あ、だめだ。夕飯あるんだわたし」
二人が訝しげな表情でこちらを見る。
「なんで。桐ちゃんとやらはサークルの飲み会なんじゃないの」
「夕飯作ってもらって冷蔵庫に入ってるから」
わたしが言い切らない内に、二人の顔が引きつっていく。自ずと声が尻すぼみになった。
「木綿子ちゃん、小学生じゃないんだから」
「本当に至れり尽くせりしてもらってるのね。じゃあ木綿子はそのやさしさをかみしめて今日は家帰りなよ」
とうとう小学生扱いされてしまった。しかし鍵っ子の小学生と同じ程度の世話をされていることは否定できない。それをいったん受け止めると、ピザが食べられないことよりなにより、自分のどうしようもなさに心が重くなる。
そもそもどうして、桐ちゃんはわたしにこんなに良くしてくれるんだろう。昼休みが終わって講義が始まっても、その物思いは中々終わらなかった。
「ただいま」
しんとしてぼんやり暗い部屋に、わたしの声が響き渡る。五月の十七時というのはまだ明るくて、一瞬電燈をつけるのをためらった。
自室に入ってコートを脱ぐ。今日はもう出かける用事がないことに気付いて、そのまま寝巻に着替えてしまった。横着だがそれもたまには良いだろう。
着替えてしまって、次に何をしたらよいのだろう、と湧いた疑問に我ながらびっくりしてしまった。少し考えて手を洗いに行く。
去年は、大学から帰ってきたら買い物に行ったり料理をしたり家事をしたりバイトに行ったり、何かと忙しくてこういう風にぼんやり考え事をする時間はほとんどなかった。自分の体が自分の生活のためにシステム化されていた。ところが今は、桐ちゃんと同居していることでずいぶん生活に余裕ができている。家事分担のおかげでわたしの負担はたいそう減った。今だって、食事はもう冷蔵庫の中に入っているし、部屋はまだ汚れていないし、洗濯機を回すのは桐ちゃんが帰ってからでいい。今日はバイトもない。今は自由な時間だ。何をしてもいい時間。
ここ二三か月、その自由を桐ちゃんとの会話に充てていたことに気付いて、なんだか照れるような気持ちになった。
暇な時間は、今まで先延ばしにしていた文学史の講義のノートを再構成をやることに決める。有島武郎の『宣言一つ』の「黒人種」発言にひやひやしたりもしながら、講義をまとめていく。途中少し分からないところが出てきたので、同じ授業を履修している萩野に聞いてみようと携帯を手に取った。
そこで萩野と杏が食事に行っていることを思い出して携帯を置いた。楽しんでいるところに水を差すのも悪いだろう。
食事のことを考えたらなんだかおなかが空いてきて、いったん作業を中断する。自室を出て居間へ行くと、電燈をつけていなかったので真っ暗だった。いつの間にか三四時間は経っていたらしい。
電燈をつけて、冷蔵庫から取り出した鍋を火にかける。夕焼けみたいな色のスープに鶏肉やナスやコーンが揺れていいにおいがしてくる。いつの間にか楽しい気持ちになって、口元が緩んでいた。
温かくなったトマト煮とご飯を食卓に置いて手を合わせる。いただきます、と小さくつぶやいた。さっきの「ただいま」みたいに、あんまり大きく響くのは嫌だった。
夕焼け色の表面に連なる金色の円を、スプーンを突っ込んで乱す。口に運ばれた鶏肉は柔らかくて美味しかった。たまに崩れきっていないトマトがあるのも楽しい。桐ちゃんは本当に料理が上手だと感心しながら、昼間の友人たちからの提言を思い出す。毎回毎回食事を作ってもらえることのなんとありがたいことだろう。
スプーンですくって口に運ぶ。居間だけが明るい。美味しくてすぐに食べ終えてしまいそうだ。とてもとても美味しいけれど、聞かせる人がいないので、わたしは「美味しい」と口に出して言うことはしない。最後の一口を嚥下する。わたしの向かいには誰もいない。
窓の外は暗かった。黒い夜だ。今朝のわたしにとっては嬉しかったはずの暗さである。
夜という好きな時間帯に、わざわざ作ってもらった美味しい食事を食べながら、しかしどうして、わたしはこんなに寂しいのだろう。
独りぼっちの食卓なんて、去年でもう慣れきったはずだった。慣れてしまえば侘しいなんてこともなく、かえって気楽だった。それなのに、わたしは今桐ちゃんがここにいないことがとても寂しい。「ただいま」に応答する声がなかったときから、本当はずっと寂しかった。
食器をシンクに下げる。そのままスポンジに洗剤を含ませた。茶碗の方から洗ってしまう。水が冷たくて気持ちよかった。
桐ちゃんのご飯は美味しくて、今日の晩御飯もいつものお昼ご飯もとてもいい気分になるけれど、わたしはそれらより、桐ちゃんと二人で桐ちゃんのご飯を食べるほうが楽しいし、もっと言えば、桐ちゃんと二人でなら、どんなにまずい食事でも、きっとわたしは楽しいのだろう。桐ちゃんのご飯を食べるのもいいけれど、わたしはそれよりもっと、桐ちゃんと同じものを一緒に食べることに楽しさを感じているのだ。
自分の思考にやるせなくなる。いくらなんでも甘えすぎだ。食事を作ってもらうだけで十分、いやそれすらも過分であるのに、彼女にそこまで求めるのはどうかしている。「小学生じゃないんだから」「年上なんだから気遣うべきだ」という友人の声が正しい。わたしたちはあくまで幼馴染として同居しているだけだ。確かに家や生活は同一だけれど、わたしたちは家族ではない。桐ちゃんにはこの家を自分の家のように思ってほしいけど、それはわたしたちが家族であるということにはつながらない。
わたしたちは単なる同居する幼馴染だ。わたしは桐ちゃんに家族としての役割を求めるべきではない。
こんなに寂しいなんて、実は気付いていないだけでホームシックにでもかかっているのかしら、と思ってため息をつく。普通なら、母親や梓や父親に会いたい、と思うところを、桐ちゃんに甘えてしまっているのかもしれなかった。
食器を拭いていく。キッチンの小窓の枠縁に置かれた時計は二十一時を示していた。桐ちゃんが帰ってくる前に、入浴を済ませてしまおうと思った。
湯に浸かって一息つく。浴槽の縁に頭をおいて天井を見上げていると、隅の方に黒ずみを発見する。後できちんと洗浄しよう、と掃除担当として決意する。しかしあまりやる気はおきない。週末の暇な時間にでもやろうと思う。
今度はぼんやり下を見る。自分の身体が目に入って、やっぱり去年より痩せてきたなと実感する。変な肉が減ってきた。
そしてよくよく考えてみれば、いつの間にか吹き出物やらも減っている。バイトが忙しくなるといつも唇の端が切れていたのに、そういうこともなくなった。去年より健康的な生活は、桐ちゃんのおかげである。ありがたい、と思って、また思考が先ほどのように発展して、落ち込む。
風呂場というのはどうしてこう考えごとがはかどるのだろう。お湯から抜け出る。風呂場と脱衣所の温度差がないことに、春が終わっていくことを実感した。
寝巻を身に着けて、鏡の前に立つ。ドライヤーの電源を入れて髪を乾かしていく。髪を乾かすたびにもっと髪を短くしたくなる。桐ちゃんくらい短いと楽そうだ、いやかえって手入れが大変なのかな。そこまで考えて、自分の思考がいい加減嫌になる。いくらなんでも桐ちゃんのことを考えすぎだ。前はこんな風じゃなかったのに。
前はこんな風じゃなかったのに、どうして。いよいよ本当にホームシックをこじらせているのかもしれない。近いうち実家に帰ろうかな、と思った時だった。玄関で音がする。
駆けてドアを開けると、桐ちゃんがびっくりしたような顔をする。たかだか十数時間離れていただけなのにずいぶんひさしぶりにあったような気がして、抱き着きたいような気持になった。
「桐ちゃんおかえり」
「ただいま。もしかして寝てたところ起こしましたか。それだったら申し訳ないです」
桐ちゃんの目がわたしの寝巻に向いている。
「ううん、そんなことないよ。これは家帰ってきてすぐ着替えただけだから」
会話をしながら二人で居間に向かう。「楽しかった?」と聞くと「割と」という簡素なこたえが帰ってきた。
「あ、ご飯美味しかったよ。ありがとう」
「口に合ったならよかったです」
桐ちゃんが家にいるだけではしゃいだ気持ちになって、ついにこにこしてしまう。桐ちゃんはそんなわたしを見て不思議そうな顔だ。
「そういえば木綿子さん、今お腹空いてます?」
「どうして?」
「飲みに連れてってもらったところが串焼きもやってて、それがすごく美味しかったので、お土産に買ってきたんです。食べますか」
ずっと提げていたビニール袋を桐ちゃんが机に置く。中から取り出されたパックには串焼きが何本か入っていた。
「なんか今朝きれいになりたいとか言ってたし、もう十時だし、食べないなら食べないでいいですよ。私が食べます」
「お気遣いありがとう。でも食べる」
桐ちゃんが串焼きを電子レンジで温めてくれる。キッチンにいる桐ちゃんを見てなんだかほっとする。今までの寂しさが瞬く間に薄れていった。
音が鳴って、桐ちゃんが皿を取り出す。私の前に置かれた串焼きは四種類あった。
「これがシソと豚肉、こっちはピーマンとチーズ、こっちは豚肉とトマトで、こっちがカシラ。私が一番おいしかったのはシソと豚肉のやつです」
桐ちゃんが指し示したのは、二センチくらいの厚さの塊が三つ連なっている串だった。裏表に渦巻きがあって、なるほど二センチ幅の豚肉とシソを重ねて巻いているのだろうと納得する。口に入れてみると、豚肉のうま味とシソのさっぱりとした趣がうまく混ざって目を見張る。
「美味しい」
あっという間に三つともなくなって、わたしは次にトマトと豚肉の串を手に取った。これもまた、シソとは違った方法でトマトが豚肉のしつこさをうまいこと打ち消している。次にピーマンの串を取る。豚肉で巻かれたピーマンが二つ串にささっている。一つ目に歯を立てると、中にチーズが入っているのが分かった。濃いチーズとピーマンの苦みを、今度は逆に豚肉があっさりとさせている。とんでもなく美味しかった。
「わたしこれが一番好き」
そう言って桐ちゃんの方を見ると、すぐに目があってびっくりする。頬杖をついていた桐ちゃんは、「本当においしそうに食べますね」と言って少し笑った。わたしのこと見て、そんな風に笑うんだ、と思ったら、一気に顔が熱くなる。
「あんまり食べてるところ見ないでよ」
「別に良いじゃないですか」
楽しそうに言ってのける桐ちゃんはいつもと少し違う。お酒を飲んでいるからだろうか。楽しそうな桐ちゃんは、わたしを見て飲み会の話をし始める。
「今日、同期の人と一緒に帰ってきたんですけど、その人もルームシェアしてる人で、自然同居人の話になって、私も木綿子さんの話をしたんです。割と変な人だって」
「何それ。変じゃないよわたし」
「木綿子さんは変ですよ。それで、朝の会話のことを話したんです。その同居人は突然、昔読んだ児童書に「夜はやさしい」という表現があってそれを読んでから夜が好きなんだ、とか喋り始めるんだ、って言ったら、その人もその小説を読んだことがあるらしくて。その人が言うにはその小説『カミングホーム』っていう題名らしいですよ。血のつながっていない家族の話。同じ小説なんですかね」
桐ちゃんの話を聞いて鮮やかに記憶がよみがえる。表紙の絵まで思い出した。そうだ、あれは家族の話だった。主人公が家族と一緒に夜の散歩をするシーンでの主人公の述懐が「夜はやさしい」だったのだ。めぐる記憶に懐かしさを覚える。
「うん。たぶん同じ小説だと思う。懐かしいな。まだ実家にあるかな」
「面白いですか」
「いい話だったと思うよ。もう細部までは覚えてないけど」
あれは家族の話だった、と再度思って、この夜がちっとも寂しくないことを実感して、目の前に桐ちゃんがいることにやたら胸が苦しくなって、勝手に口が開いてしまう。
「今日ね、桐ちゃんと一緒にご飯食べれなくて、わたしすごく寂しかったの」
桐ちゃんが目を丸くする。
「桐ちゃんに夕ご飯まで作ってもらってるのに、そういう家族の役割まで桐ちゃんに求めちゃうのは絶対違うし、たぶん変にホームシックこじらせてるだけなんだけど、でもすごく寂しかった。だから今すごく楽しい」
桐ちゃんの目がだんだん元に戻って、ため息をつく。嫌がられてしまった、と思って落ち込みそうになったとき、桐ちゃんが投げやりな調子で言う。
「別に寂しくたっていいんじゃないですか。この三か月ずっと一緒で、そういえばあなたを夜ここに一人きりにするのだって今日が初めてだし。別にそんなに恐縮することじゃないですよ」
そう言い切って、笑う。今度はさっきみたいなほほえみじゃなくて、からかうような、いつもの桐ちゃんらしい笑みだ。
「それに家族でもいいじゃないですか。プロポーズもしてくれたんだし」
朝の会話をこんな風に利用されて、今度こそ顔が真っ赤になる。真っ赤になったわたしを桐ちゃんがまた笑う。日常の幸福が、目の端に映った窓の外の暗闇によって肯定されていく。
夜はあたたかくてうるわしい。居間だけが明るくて、それにとても幸福な気持ちになった。
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