世界のすべてを読んでいる





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「高校一年生の終わりごろのことだったと思います。わたしは家庭教師の先生から、国語の現代文の授業を受けていました。国語だけはどうにか得意だったわたしは、家庭教師の先生から大学受験用の問題集を与えられていました。しかし流石に、その問題集は当時のわたしには難しく、満足に解くことはできませんでした。問題は、複雑な私小説の読解でした。わたしはそれを持てあましてしまいました。深く読み解こうという意気込みも早々に萎れて、宿題として課されたその問題を放置し、わたしは次の授業を待ちました。待ち望んだ授業がやってきて、わたしは開口一番、手こずったその問題の解説を先生に求めました。先生はわたしの手からその問題集を取り上げて、その問題集の文面に、そっと目を落としました。その神妙な動作を見て、一旦わたしの急いた気持ちも静穏になりました。先生はなんどかその問題に目を滑らせ、口ごもるような感じで問題の文言を呟きました。わたしのことなんてまったく意識の外にありました。先生はその問題の小説にきちんと対面しているようでした。その情景に、わたしはこの問題を持てあましてしまった自分を少し恥ずかしく思いました。難解な問題に立ち向かわず放置して、素知らぬ顔で熱心ぶって答えだけを求める私の態度は、納得できる解説を求める生徒の態度としては最悪の部類でしたから。少し俯きつつ、わたしはもう一度、その問題の小説を一から読み直したくなってきました。とびきり難しい、現代文の問題の嫌な部分――分かっているのにちょうど言語化しにくい部分を記述しろと迫ってくるような所――が凝縮しているその問題は、しかし、小説として読むだけなら、まったく普通の、良い小説でした。簡単に言ってしまえば、私生活も停滞して胡乱げな主人公が、生活費の入った財布を男にすられ、一旦は呆然とし怒るのですが、そのスリが必死で逃げていく様に、生きていくことの本能や原始的な欲求を感じてしまい足が止まる、そういうようなあらすじです。結局そのスリは捕まって、主人公はそのスリとスリを捕まえた男たちに私小説らしい一種ひねくれた感想を持って終わり。これをただ単に小説として読め、と言われたならわたしは苦労などしなかったでしょうが、読解となると一転、とても複雑で難解になってしまい、当時のわたしは読むのも解くのも気後れしてしまっていました。しかし、何となくの憶測ですが、これはわたしだけではないような気がします。大部分の人は、小説に対して同じような感覚で居るのではないでしょうか。なんとなくは読めるし、うっすらと感動はできる。でも「あなたはその小説をどう読んだのか、あなたはその小説にどうやって感動したのか」と聞かれて、明快には答えられない。しかし大部分の人がそうであっても、答えられる人だって、同じように大勢いるのでしょう。間抜けな読書をしている自分の隣で、友達は自分の何倍もの感動を受け取れているのかもしれない。そういう危惧を、皆が持つべきだとわたしは思っています。そして高校一年生のときの劇的な授業まで、現にわたしは間抜けな読書をしていた。しかし先生は違いました。先生は長い考え事から抜け出して、わたしに第一問目の問題文を読むように言いました。第一問目は文章中の描写から、主人公の気持ちを推察して記述させるものでした。かなり前の出来事ですので、今わたしはここで、はっきりと完璧に詳しく、その描写箇所の文章を言うことはできません。覚えている限りで、なるべく詳しく説明して見ます。その描写は小説の最初の方にありました。線路の描写でした。私生活に対する意義を見失いかけている主人公は、線路を見つめています。だから、その問題になる描写は主人公によるものというわけです。線路の軌道のレール部分は青く光っていた、と描写されました。線路に敷かれている砂利は、白く乾いていた、と描写されました。第一問目は、この線路の描写から、主人公の心境を推察せよと言うものです。わたしは先生に言われて何度も問題文を読み上げましたが、答えは一向に思い浮かびませんでした。頭の中に、暑い日差しの中、頼るものもない主人公が何気なく目をやったレールが、青く光っていたり、砂利が白く乾いている、そういう情景が、頭の中に浮かびはしたものの、そういう情景が主人公の心境を表しているとして、それがどういうことなのか、まったく理解できませんでした。どんなに眉根を寄せて考えても、脳内には小説の情景が揺らぐばかりで、答えになりそうな文章や単語は一つも出てきません。困ってしまって先生に助けを求めました。先生はまず、「乾く」ということに何を感じるか、とわたしに聞きました。わたしは字面や、関連した単語を思い浮かべて、不毛さであるとか、虚無感のようなものを感じると言いました。先生は肯きました。それを受けてわたしは、解答の作成に取り掛かりました。ノートに向かって、「乾き」から受けた不毛さや虚無感などを主人公の心境とする記述をしているときに、先生はさらに聞きました。「では、青や白にどういうことを感じるか」一瞬手が止まりました。先生の顔を見上げました。さて、あなたたちは今までわたしとの授業で、情景描写について学んだと思います。登場人物が悲しんでいるとき、空は曇っていたり雨が降っていたりしていたでしょう。登場人物の物思いが解決した時に、空は晴れていたと思います。家庭教師の先生と、わたしがやった問題も、大体はこれと同じことです。青も白も、主人公の気持ちを表している。それは分かります。だってあれは情景描写でしたから。しかし、不毛さや虚無感を感じて塞いでいるような主人公に、晴天を思わせる白や青は、どうにも不釣り合いであるような気もします。またわけが分からなくなったので、わたしは先生を見つめて自分の混乱を説明しました。青や白などの明るい色は、今の主人公の心境とは合わない。例えば、「鈍く灰色に光った」とか「濁って光っていた」とか、そういう描写なら暗澹たる主人公の気持ちと合うような気もするのに。そう語るわたしの言葉を、先生は丸ごと肯定しました。わたしの考えは当たっていると言いました。ではどうして、レールは青く光り砂利は白く乾いていたのでしょうか。先生の説明によると、あえて正反対の情景描写をすることで、主人公の虚無感や不毛さといった心境を明確にしている、とそういうことらしいです。それを聞いたときに、わたしは主人公の空しさに心底共感しました。よく理解できたのです。停滞して行きづまり、なおかつそこでレールと砂利が明るく光ることの絶望感と虚無感が。その共感によってもたらされるのは感動でした。そしてこの感動は、間違いなくわたし一人では得られなかった感動です。先生が居なければ、わたしはやり過ごしてしまう所だった。そしてそれは、ものすごく悔しいことでした。
 長く話してしまいました。皆さんには難しくて退屈な話だったと思います。わたしが皆さんに伝えたいことはたった一つです。読書とは、読んだ数や速さを競うことではないということです。読書とは、自分の全才能と全神経を集中して、本の中に潜んでいるありったけの感動を掴みとる能動的な行動です。これから皆さんが成長して、今わたしが言ったものとは全く違う読書の定義に会うことがあるでしょう。それも間違いなく正解です。そもそも読書の中に何を見出すかは、人の数だけあることです。しかし、今この場で、わたしが皆さんに課した「読書」の宿題においては、このわたしの定義でもって臨んでください。たくさん読まなくても構いません。簡単な本だって構いません。一回でもいいから読書をしてください。それがわたしからの最後の宿題です」

 小学校を卒業する日、担任が僕たちに課した読書という宿題の説明は、担任独特の演説を伴って、一種異様な雰囲気だった。思い出話から始まるその延々たる演説を、良く分からずにいる子が大半だった。でも一部の子は、とりわけ僕は、それにかなりの衝撃を受けたのだと思う。僕はいままでそれなりに、自分自身を読書家であると思いこんでいたけれど、担任の話を聞いたその瞬間、自らの遍歴は空っぽであることが分かってしまった。僕は担任の話を聞いて、いままでに読んだ本をすべて読み返したくなってきたし、なおかつ、いままできちんと読書をできていなかったことが惜しくなってきた。担任の話によれば、僕はどうやらいくつもの感動を取り逃がしてきている。高校生の頃の担任みたいに、僕はそれが悔しかった。もっと本に対して貪欲にならなければと思った。
 その日家に帰って、昨日読み終えたばかりの本を手に取った。担任は本に対して全才能と全神経を集中させろと言った。それがどういうことなのかを考えた。
 頭に浮かんだのは水中だった。視覚も聴覚も満足に機能しない水中は、とても息苦しいようなイメージであるけれど、もし水を、濃密な文章だとするなら、それに溺れて息が出来ないのは、それこそ担任が言う読書の極致で有るような気もする。そして僕はその濃密な息苦しさを美しいと感じたし、またその瞬間、心の奥底から、本に溺れたいと思ってしまった。



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 机の下で読みかけの本のページを開けば、あっという間に教室は遠くなっていった。ぼこぼことした木の机と、教室の天井に取り付けられた姦しい色の電灯は、僕の本の上に白と黒の段差を作る。しかしそういう真逆に違う色も、始めこそ頭の隅に引っかかってはいるけれど、美しく刷られた文字を追い、本の中の世界に入り込んでいくうちに、いつの間にか気にならなくなっていく。この、現実と本の世界の狭間にいる一瞬、現実から本に突入する瞬間が、僕はたまらなく好きだ。地上から水の中へ上手く落ちることが出来た時みたいに気持ちがいい。ほとんど水音を立てないで、水面と下層の空気の間に諍いを起こさないようにして、入り込む。水の中に頭の先からつま先まで潜りきった感覚と、読書は似ていると思う。視覚も聴覚も上手く行かなくなる感じと、見知った世界がだんだんと遠のいていくようなところがそっくりだ。あと、本の中の世界の、一枚膜を張ってあるような覚束ない儚さと、水色越しの景色も似ていると思う。水の中で視線が乱反射して、物の位置や色が正確に分からなくなる所と、一緒の本を読んでいる筈なのに、友達と感想が全然違う所、これもそっくりだ。水中と読書は、似通っているように思えて仕方ない。
読書の中で僕がいっとう気に入っているのは、本を読んでいるときの息苦しさである。たまらない展開と、息もつかせない迫力と、咳き込むようにしている喉、感動からくる手の震え、今にも涙を落そうとする目。素晴らしく上等な小説の、いちばん佳境を読んでいるとき、僕はたまに呼吸を止められているような気持ちになる。本に書かれた文字を飲みこむたびに息が出来なくなっていく感覚は、首を絞められているというよりも、水の中で、与えられるべき吸気を奪われてしまった感覚に近い。知らぬうちに、息を止めてしまうような本は、この世の中にたくさんあって、僕はそう言うのに出会うたび、感動で死んでしまわないようどうにか頑張っている。
小さい頃は、読書なんて大人が褒めてくれるからしていたようなものだった。でもある日、中毒みたいに本から離れられなくなっている自分に気付いて、それからはもう虜だった。熱烈に恋でもしているみたいに、いつまでも本にかじりついていたくなる。どんなに探り尽くしたって、足りないような気がする。褒められたいという下らない気持ちで読書に臨んでいた一時期があったからこそ、今はもう、勿体ない読み方をするのは嫌だった。ひとつの本に、とびきり熱心に向き合わなければ、何か大事なものを受け取れないような気がするのだった。だからもう僕は不誠実な読書は出来ない。しかしそうなると、驚くほど時間がかかる。けれど読書好きなら誰だって、たくさんの本を読みたいと思うものだろう。僕もまったく同じ気持ちだ。だから、僕の人生に取り立てて重要ではなさそうな時間は、読書にあてることにしている。今がまさにそうだ。あまり面白くない授業も、下らない事ばかりの同級生も、喧騒にまみれた教室も、全部感知しないで、本に溺れるのが正解だ。先生や同級生の声が上手く聞こえなくたって、刺すような明るさの教室が上手く見えなくたって、構わない。水の中に居るみたいに、本の世界に居られたらそれでいい。
時々、僕はずっと本の世界に入り浸っていたいと思うことがある。透明な水色の薄い膜に遮られた眩しくも無く煩くも無い世界に、ずっと居たいと思うことがある。そこに現実はないけれど、現実以上の実際があるように思う。自分自身では絶対に体験できない事々を、あたかも現実であるかのように見せてくれる。他人のものを自分に接近させてくれる。肉薄させてくれる。そういう世界に居れば、現実の色は褪せるけれど、そのかわり見たことも無いような色を見ることが出来るような気がする。しかし脳の最奥は、その考えに至るたび、警鐘を鳴らすのだ。その世界は危ういものだと、頭の奥は言っている。そして自分でも一応は、それをしたら僕のどこかが死んでしまうことを分かっている。
それでもたまに夢見てしまう。読書をしているときの一種夢見がちな状況に、いつまでも身を置けたら、と思ってしまう。出来ないことは理解しているつもりなのに。
物思いに耽ってしまって、中断していた思考を机の下の本に戻した。再び文字を追っていく。この作家独特の、可愛らしい文体が瞳の表面を跳ねていき、僕の思考を紡いでゆく。誰が何を言ったって、これが僕にとっていちばんの幸福だ。
小説の筆致に感嘆の息を漏らした時、ちょうどそれは起こった。先生が、僕の隣の席に座る女の子に注意を飛ばしたのである。先生はかなり手厳しく、彼女が授業中のお喋りをいつまでたっても止められないことをなじった。彼女は身を竦ませていた。教室は一転して静かになった。皆が息を殺している。先生の説教はやがて全体に向けてのものに移っていった。叱咤の内容は一貫して、生徒は授業をきちんと聞かなければならない、という主張だった。ところが徐々に話は段々別のことにも及んで、先生の口調も説教が長引きそうな雰囲気を匂わせ始め、教室の空気は弛緩した。
そんな緩んだ空気に紛れるようにして、突然、先ほどまで俯いていた筈の隣席の彼女が僕を睨みつけた。身に覚えのない敵意に一旦は慄いて、しかし僕はその視線に気付いていないふりをした。








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