2
先生のお説教がわたしのことから三か月前のいたずらのことへ移ってしまったので、わたしはやっと息をついた。縮ませていた体をひっそり伸ばす。ここで大袈裟に伸びをしたりすると先生に見つかって、また「話を聞く姿勢がなってない」と怒られるので慎重にだ。先生は怒るととても怖い。その怖さと授業中のつまらない話し方は、まるで同じ人とは思えない。あんなにぴりぴりがみがみ出来るなら、授業ももっとはきはき話してくれれば眠くならないのに。そう、わたしは先生のせっかくの授業を眠ってしまわないようにと思って、前の子とお喋りしているのである。というのはだいぶ言い訳である。単純に先生の授業はつまらないのだ。だから他のことをしたくなってしまうけれど、わたしは、授業を放っておいて他のことをするということに、それなりに覚悟を持っている。だから今日みたいに怒られても、少しは落ち込むけどそれに疑問を持ったりはしない。悪いことだと分かっているから。
だからこそ腹が立つのは、悪いことをしているのに怒られない人についてだ。そして怒らない先生を、ちょっとわたしは見損なった。最近結構見損なっている。クラス屈指の本の虫が隣の席になってから、その頻度はますます多くなっている。
先生は隣の奴を一度も叱ったことが無い。
さっきだって、わたしがお喋りしていたのと同じように、あいつは机の下で本を読んでいた。昨日だって、おとといだって、その前だって、ずっとあいつは本ばかり読んで、授業を真面目に受けていない。お喋りしない時もあるわたしよりもっと不真面目だ。先生だって、あいつが本ばかり読んでいることに絶対気付いている。それなのに、叱らない。先生は、どこか本を読むと言うことをえらいことだと思っているふしがある。というか大人は大体そういう感じだ。先生や、別のクラスの先生は、あいつがよく本を読んでいることを頻繁に褒める。うちのお母さんも、参観日に来たときに、休み時間まであいつが本にかじりついているのを目撃したらしく、真面目な子だと褒めていた。どこが真面目なんだろうか。そして、例え皆が言うようにあいつが真面目だとしても、本ばかり読むような真面目が、どうして褒められて当然なんだろう。
確かにあいつは成績がいい。それは悔しいが認めてやる。でもあいつより成績が良い子もいて、必ずしもその子が読書家というわけじゃない。そしてあいつに他の美点があるのかというと、他はこれといってない。顔が良いわけじゃないし、運動神経が良いわけじゃないし。むしろ逆なんだけど、まあそこまで言ってやるのは可哀相である。それにもし、本を読んで綺麗になれるんだったら、いまごろ女は全員本を読んでいると思う。ところが現実はそうじゃないし、むしろ本に躍起な人って自らの外面をまったく磨いていないイメージだ。内面は磨かれているのかもしれないけど。
でも、本を読んで心が綺麗になるか、と正面切って問われてみると、ちょっと煮え切らなくなってしまう。あいつは、なんだか使う言葉も大人っぽいし、いつ誰にでも難しくて頭のよさそうな喋り方をするけど、それはわたしたちにあんまり好意的な感じじゃない。むしろよそよそしいような、どちらかといえばわたしたちを下に見てる感じの喋り方だ。それはあまり気持ちのいいものじゃない。あとこれはだいぶ偏見だけれど、あいつはものの見方もひねくれていて素直じゃない。なんとなく、理屈っぽい本ばかり読んでいることが原因であると思う。
 頑張って考え込んでみたって、本を読んでいることが特別えらいわけじゃないような気がする。読書って、漫画を読んだり、映画を見たり、ボール遊びしたり、お喋りしたり、お絵かきしたり、そういうのと同じくらいのものじゃないだろうか。例えば読書で頭が良くなるとしても、お絵かきしたら絵は上手くなるし、ボール遊びしたら運動が得意になるし、他のことだって、とにかく楽しくはなれるじゃない。一体何が違うんだろう。あいつだって、頭をよくするために本を読んでいるわけではないと思う。きっと楽しいから読んでいるんだ。それは褒めて欲しいようなことではないはずである。
読書がまったくえらくないという結論が出たところで、あいつへのわたしの憎しみはいよいよ深くなった。単純にいらいらする。なんで先生はあいつだけは怒らなくて、逆にあいつは怒られないことに疑問ひとつ感じないんだろう。実は先生もあいつも馬鹿なんじゃないだろうか。
憎しみをありったけこめてあいつを睨んだ。あいつは素知らぬ顔で机の下の本に目をやっている。視線は上下に動くばかりで、こっちの方を少しも向かなかった。嫌な感じだなあと思った。
何となくそのまま睨み続けていた。あいつの挙動を見つめる意図も多少あった。ページをめくろうとして、あいつの視線が脇にぶれた。目が合った。
 こちらの憎しみのこもった目線に一瞬硬直した後、また気付かない素振りで目をそらした。またそうやって、よそよそしい感じになる。気付いている癖に向き合わないで無視をする。そういうところが、素直じゃなくてひねくれていてよそよそしくて性格悪いな、と思う。
 そういうところが嫌いなんだと、心底、思う。



     3
 一言一句に集中する。外界を封じて。精神を丸ごと本の世界に漬け込む。漏れがあってはだめで、少しでも意識が乱れてしまうのもだめ。完璧に誠実に向き合わなければいけない。確実に潜り込まないと、文章の波にまごついて、正確な感動が取り出せなくなってしまう。余計なものは排除しなければならない。目をしっかり見開くけれど、余分な光はいらない。本の中で語られる景色のみを目に入れて噛み砕かなければならない。一部の漏れも無い様に。少しの偏見も振りかざさないように、真剣に対面するのだ。本の語る声以外の音など、耳に入れなくて構わないから、惑わされないように、今よりもっと耽溺しろ。
 かなりの強迫をもってでないと本に入り込めなくなることが、本を真剣に読むようになってから何度かあった。気が乗らない、という言い方はあまりしたくは無いけれど、少しの時間も無駄に扱えないのに、自分の精神が邪魔するときというのが確実に存在していた。今はもうそんなことはなくなって、どんな環境でもすぐ本の世界に入れるようにはなっている。だからもう心配しなくてもいいのだけれど、また本が読めなくなるんじゃないかという不安に襲われることは度々あって、その度に一時期使用した強迫の文句を精神安定に使っていた。どうやって読書をするのかを良く分からせてくれる、簡潔で良い文句だといまでも思う。
 僕は読書が好きで、だからこそめいいっぱい読書を楽しみたいと思っている。しかしそういう人間はどうやら少数派のようだった。自分と同じくらいに読書にまい進している人間をまだ見たことが無い。どうせなら深く読みたいし、どうせならたくさん読みたい。分かりやすい感情だと思うのに、分かってもらうことすら難しかった。いつの間にか、他人との間に壁が出来ているような気もする。せっかくの入学だったが、以前と状況はあまり変わらない。僕ほどの読書好きはこの学校にもいないようだった。そしてそういう人間が居ないなら、別に仲良くしてみたい人間もいないのだ。新しい同級生の顔は、皆薄いベールのようなものに覆われているようで、よく覚えられなかった。人の顔だけでは無い。馴染むはずの学校の風景も、思い出そうとしてみるとなんだかもやがかかっているようだ。変わらずよく見えるのは、落ち着いた色の本の表紙と、白いページと黒い文字くらいである。本が読めるので、それくらいの視界でも特に不十分はない。充分事足りている。困るのは耳の方だった。本に集中していると、人に話しかけられてもまったく気づくことが出来ない。入学してまだ時間もあまり経っていないが、既にその体たらくで他人の信用をだいぶ失いかけている。しかし、集中できるというのは、読書にとってはいいことであるので、とくに状況を変えてみようとも思っていない。読書を始めてから何年かが経ったが、あまり変わったことはないように思う。変わらずに読書は好きだ。そしてそれ以外のことは、良く分からない。変わっていたとしても気付いていない可能性が高い。ああ、しかし、ひとつ思い出すことが出来た。読書関連の事項だが。最近、小さい頃のような物思いはしなくなった。水の中に沈むように、永遠に本の世界に入り浸っていたい、というような欲求が沸きあがることはなくなっている。だから最近は脳内で警鐘がなることもなく、快適な限りである。
 そういえば、もうひとつ変わらないことがあった。小さい頃、隣の席だったあの女の子のことである。あの時の学区とはそれなりに離れたところに進学したつもりだったが、偶然彼女と同じ学校になってしまっていた。学校内で初めて顔を見合わせた時はお互いにかなり驚いたが、同校出身という気安さからか、今は割合話すようになっている。流石の僕でも彼女の顔ははっきり覚えているし、耳慣れているからなのか彼女の声は読書中でもよく聞こえてしまう。目下の悩みといえばそれだ。彼女には読書を簡単に邪魔されてしまう。視界の端に彼女の影のようなものが動いたりすると、途端に集中が途切れてしまう。どんなに良い世界に沈んでいても、彼女の声がすると現実に引き戻されてしまう。だから、くれぐれも、と彼女には僕が本を読んでいたら話しかけたりしないように頼んでいるのだが、彼女は一向に聞き入れてくれそうもない。解決策が見当たらない状況である。長年親しんでいる彼女であるから、いい加減僕の読書への執着を理解してくれてもいいだろうに、彼女は僕の読書を尊重しない。彼女はきっと僕が本を読むことを好意的には見れないのだと思う。どういう理由があるのかは聞いてみたことが無いので分からないが、彼女が僕が読書するのを好んでいないことは確かである。
 一度聞いてみてもいいかもしれない。どうして僕が読書をするのを、君はあまり快く思っていないのか、と。もしそれにきちんとした回答をもらうことが出来れば、彼女だけが邪魔できる僕の読書世界を、完璧に守るための解決策が見つかるかもしれない。そうなればしめたものだ。そんな世界に考えを巡らせてみれば、もややベールに覆われて、余計なものは見えないし聞こえない。まったく素晴らしい。思うままに読書に溺れることが出来る。
「ねえ」
 妄想を遮るのは彼女の声。思わず椅子から飛び上がる。彼女は僕の挙動に訝しげな表情だ。説明するまでもない、昔の物思いの際の脳内警鐘の鳴り方と、彼女の声のかけ方のタイミングが、似通っていて驚いただけのことである。



     4
 珍しく読書ではなく考え事をしていたらしい彼に、まったくもって普通に声をかけたところ、ものすごい反応をされてしまって理解に困る。椅子から飛び上がる程びっくりさせたつもりは全然無かったのに。まあこいつの挙動がおかしいのはいつものことだ。ついでにこいつは普段の行動もとびきりおかしい。
 まさか一緒の学校に進学するとは思っていなかったけれど、それ以上に驚いたのはこいつが依然本の虫のまま、いやむしろ度を増していたことだった。そしてますますどうしようもないのは、こいつが本以外のことに対してさらに不真面目になってゆくだろうということだ。手に負えない。まだ入学して一か月も経っていないのに、こいつを遠巻きにする人は溢れている。四六時中本を読んで人の呼びかけを無視していれば、当たり前のことだし自業自得である。むかつくのはこいつがそれを少しも気にしていないということだけれど。しかし一応友達は欲しいらしい。ならば、と同校出身のよしみで、良い友人候補を見繕ってきてやろう、とかいがいしく決意してみたこともある。しかし肝心の、どういう人と仲良くなりたいのか、という質問にあまつさえこいつは「僕みたいな感じの人」とのたまったのだ。いるわけないだろ。そういう経緯で、こいつは未だ友人の一人もなく読書にのめり込む生活を送っているというわけだ。寂しい。可哀相。確実に哀れな人間である筈のこいつは、しかし何故、こんなにも毎日に満足そうなんだろう。単純に疑問である。数年前からずっと疑問だ。
 いまだにわたしは、読書なんてたかが趣味のひとつだという考えでいる。確かに映画や漫画に比べたら能動的な趣味なのかもしれない。読書の素晴らしさを語り合ったり、好きな本で盛り上がっている人たちを見ると、大層健全だと思う。でも、こいつのする読書のような、誰かと感想を分かち合うわけでもない、ただひたすら自分に素晴らしい感動を貯め込んでいくだけの行為が、そんなにも有益なのだろうか。むなしくならないのだろうか。こいつが、今までに読んだ本の数を自慢して来たり、感動した本を無理に薦めて来たり、そういうことをわたしにでも誰にでも、誰かに対してしてくれたら、わたしはすごく安心する。理解できるから。感動を分かち合いたいのも、誰かに褒めて欲しいのも。そういう気持ちなら良く分かる。
 わたしが彼を睨んだあの時、彼はどういう気持ちで本を読んでいたのだろうか。褒められたいという気持ちでだろうか。彼は先生たちが褒めてくれるのを、喜んで受け取っていたのだろうか。もしそうでは無かったら。あんな小さい頃からもう既に、わたしには理解できない心境で、本を読んでいたとしたら。
 それは、少し怖いことだと思う。
 理解してくれない人間をずっと傍に置いておけるほど、人は優しくないし余裕も無い。そしてわたしは理解できない人間だ。そして、彼を理解してあげられる人間の中で、わたしのように彼を構いたがる奇特な人間は果たしてどのくらいいるだろう。
 いよいよ彼が本当に一人になったとして、彼はそれを寂しいとは思わない気がする。
 嫌な考えだった。出来ればもう考えたくないようなことだ。気を取り直そう。
「ねえ、この学校読書クラブっていうのがあるんだって。入ってみたら?」
 彼に伝えたい本題はこれなのだ。程度の差はあれど同じものを好きな人たちとなら、上手くやっていけるのではないか。そういう希望を込めての提案だ。
「それはどういうことをするクラブなの」
「本を読んで、感想と感動を共有するっていうクラブだよ」
「ああ、じゃあいいや。そういうのは向かない」
 途端に色を失う彼の言葉に、焦ってしまう。ここまで興味を示さないとは思ってなかった。何を間違えたのかも分からない。
「何が、どこが向かないのよ」
「そうやって、お喋りしている暇があるなら一冊でも多く本を読みたいから」
 彼の明快な言葉は、つれなく聞こえる。なんだかよそよそしいようにも。彼は本当に、感動を分かち合うとかそういったことに、興味がまるでないみたいだ。予想以上に深刻だ。本当に大丈夫なんだろうかこいつは。一般常識が汲めるのだろうか。
「ねえ、じゃあ、あなたの好きな本一冊教えてよ」
 極めて一般人的な質問である。これにまともな返答が出来ないようではいよいよこいつはだめだ。一般人か変人かの踏絵みたいなものである。
「え、とうとう君も読書に興味が出てきたの?」
「違うよ。どちらかというと興味があるのは読書の方じゃなくてあなた」
「凄く意外だ。僕に対して興味を持つようなきっかけか何かあったの?」
「ずっと気になってたよ。今じゃなくてずっと昔から。あなた自分がおかしい生態してる自覚ある?」
 彼はわたしの言葉に首を傾げた。質問に答えないということは踏絵を踏んでいないということ、つまりこいつは社会不適合の変人で確定である。
「そういえばわたし、何であなたのことなんかをずっと気にかけてるんだろう」
 ふと立ち上った疑問にも、当然彼は答えなかった。





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