5
 人の波は白く濁って褪せて、本当に波のように、個人個人でなく、たゆたっているだけのかたまりのように見えた。夕方のファストフードの店で、文庫本を片手に彼女を待っている。彼女を待つのは久しぶりだった。入学当初から一年は、同じクラスだったこともあってよく話していたけれど、二年目になってクラスが別々になってしまってからは、彼女を見かけること自体が少なくなった。彼女は忙しかったのだろう。話しかける声は全然聞こえなくなって、僕は清々して読書に向き合っていた。そう考えるとこの半年と少しの間、ほとんど人と話していない。発声自体は授業で当てられた時にしているけれど、他人との言葉のやりとり、それも事務的でないものとなると、最近はまったくしていなかった。脳内で巡る言葉と、実際に口に出る言葉にも結構な差異がある。一般社会に生きる現代人としてまずいような気もするけれど、そもそも目と耳があまり利かない時点で、だいぶ僕はおかしかったのだ。いまさら気にする事でもない。本は今でもきちんと読める。むしろ精度をますます増している。去年読んだ本を今再び読んだら、去年よりもっと感動することができるだろう。それはとても嬉しいことだった。感動を逃さずに済んでいる。特に今この時期に、読書の精度が研ぎ澄まされていることはかなり安心できる。今僕が持っている文庫本は、長らく僕が好きだった作家の遺作である。これは心して読まなければならないものだった。この作家は、僕の好きな息のつまるような描写をするのが大変得意だ。心ゆくまで楽しみ、むさぼり尽したい。それが礼儀のようにも思う。そして嬉しいことに、この作品は息の詰まる描写だけでなく、著者の得意とする美しく崇高な友愛がこれでもかとばかりに書かれている。死の間際の作品だからこそ、これはもう唯一といっていいような、そういう凄みと儚さが同居している作品だと改めて感じ入っている。兎も角なんの変哲もないように見えるこの文庫本は、とても素晴らしい、まさに珠玉の作品であるということを声高に言いたい。そしてちょうど良く、僕の感受性が豊かな時の発行だった。素晴らしいとしか言い様がない。
 僕は理想的な条件に感謝しつつ、その作品に真っ向から突っ込んで、思う存分に魅了された。素晴らしい時間だと思っていた。
 読み終えて文庫本を閉じると、白い人の波が少なくなっていた。窓の外はぼやけていて良く分からないけれど、もうだいぶ黒くなっていた。そしてそういう不確かにぼやけるものよりなにより、はっきりとしたたたずまいで真正面に座る彼女を見て、僕は失敗を犯したことを悟った。
「何回呼んでも、少しも気づいてくれないんだから」
 疲れたような顔をして笑う彼女に、だんだんと焦りと罪悪感が沸きあがってくる。一体何分、何時間待たせただろう。目の前で何度も呼ばせて、一体どのくらいの時間を無為に過ごさせたのだろう。違う、それよりもっと悪い。無駄に過ごさせたんじゃない、最悪な時間を与えていたんだ。
「本当にごめん」
「いいよ。もう慣れてるから」
 いつ買ったのか分からないような萎れたフライドポテトを彼女は指先でもてあそんでいた。少しの間、言いよどむような表情と仕草を見せてから、彼女は小さな声で言う。
「わたしね、転校することになっちゃったの」
「転校?」
「そう。もうこの年だし、一人でこっちに残らせてって言うことには言ったけど、やっぱり駄目だった。家族一緒が良いんだって。わたしもそれが嫌な訳じゃないし。ここを離れたくない事情なんて、本当に、ほんの少ししかないしね」
「いつ行くの」
 ぼやけた音の重なりの中で、自分の声が間抜けに響いた。まったく間抜けだ。思考が上手く追いつかない。
「来週。ほら、ちょうど来週で二学期が終わりで冬休みでしょ。ちょうどいいから」
「来週? どうしてそんなに急なの」
「初めて転校のことを聞かされたのは半年前。一応いちばんにあなたに言おうと思ってたけど、あなた全然捕まらないから。他の人達にはもうみんな話してある。あとはあなただけ」
 捕まらない、という単語がよく分からなかった。僕は大抵教室の中のいつも同じような所で本を読んでいた筈だ。
 疑問が顔に浮かんでいたらしい。彼女は口角をあげながら、やりきれないような声で真相を話した。
「何度呼んでもだめだったの。一年生の時は、わたしの呼ぶ声だけには反応してたあなたが、いきなり無反応になっちゃって。教室に入って、肩を叩こうと思ったけど怖くてできなかった。そこでも反応されなかったら、もういよいよ耐えられないと思ったの」
 初めて知る話だった。まったく身に覚えがなかった。彼女に呼ばれた記憶は、一年生の時を最後にしてない。一度も呼ばれていない。呼ばれて話したら覚えている筈だ。彼女に呼ばれたなら気付いてしまう筈なのに。
「無視されてるのかと思ったの。ほら、わたしあなたにずっと付きまとって、いちいちいらない世話を焼いてたでしょ。あれが嫌だったのかなと思って。ずっと気に入らなかったのかと思ったの。そういえば、そもそも最初は全然仲良くなかったし。あなたはよそよそしくて、わたしのことなんて邪魔だっただろうって」
 違う、違うんだ。呼ばれてわざと反応しなかったことなんてない。無視なんて一度だってしていない。あんなに邪魔されるのが嫌だと思い込んでいたけれど、そんなこと全然無かったんだ。本当は凄く嬉しかった。
「呼んでも反応されなくて、もし肩を叩いても反応されなかったとして、それだけでも十分辛いけど、でも本当に面と向かって、邪魔だって言われるのも嫌だったから。でも今日は、もう後がない。今日こそ言わなきゃと思って。下駄箱に手紙なんて入れて、直接言わないで変な呼び出し方してごめんなさい。直接言って、断られたら嫌だった。でも何も言わずに転校しちゃうのも嫌だったの」
 そんなのは僕だって嫌だ。清々なんて絶対しない。……さっきから、言いたいことの一つも言葉に出来ない。息が詰まってしまって、おかしい。君とならもっときちんと話せるはずなんだ。
「でも、今日は言えてよかった。言うまでに、だいぶ気持ちは折れかけたけどね。まだ後があるなら、わたしの何が気に障ったのかちゃんと聞いておきたかったけど、でももういいわ。もうたくさん」
「違う。違うんだ。君のこと、うっとうしく思ったことなんて一度も無い。ずっと嬉しかったんだ。話しかけてくれて。君の声だけは、いつも聞き取りやすいし、今だって他はぼやけてるけど、君のことはよく見える」
 ようやく振り絞った言葉が、きちんと彼女に行きつくのかどうかを注視した。きちんと思いのまま、なんの変換も無く届いてくれと願った。
 彼女の唇が震えて、目から涙がこぼれた。
「じゃあ、無視はしてないの?」
「そう。そうなんだ。本当に僕はいよいよだめかもしれない。君の声にも気付けなかった。でも、君を悪く思ったことなんて一度もない。それだけは信じて」
「……分かったわ。信じる」
 彼女は首を縦に振ってから、ハンカチで目をぎゅっと押えた。いよいよ別れが身に迫って感じられた。彼女と離れなければならない。今にも離れてしまう。必死で今までを思い返した。彼女の会話の端々を。何か彼女に返し忘れているものがないだろうか。必死で頭を回転させた。何か忘れている。
(「ねえ、じゃあ、あなたの好きな本一冊教えてよ」)
 頭に突然降ってきた言葉は、確かに思い出だ。そしてこの言葉に、僕はいま答えられるものを持っている。
「一年くらい前に、君が僕に、好きな本を聞いてくれたことがあっただろう。いまならちゃんと答えられるから。僕はね、この本が好きなんだ」
 手元の文庫本を彼女の手に渡す。彼女は目を見開いた。「これがいちばん?」
「うん。これがいちばん」
「どんな話?」
「……息がつまるくらいに綺麗な友情の話」
 僕の渾身の言葉を聞いた彼女は、一瞬呆けたような顔をしてから、思いっきり笑った。唖然とする僕は置いてけぼりにされたままだ。彼女は堪えきれないように、まだ人目もある飲食店で大笑いしている。
 ようやく笑いが引いた彼女は、開口一番僕に「この社会不適合の変人め」と罵りを浴びせた。
「何、よりによって綺麗な友情の物語って。あなた唯一の友達と言っていいくらいのわたしにずっと気付かないで過ごしたまま、よりによって本の中の友情に感動してたの? もう理解しようとも思わないわ。意味分からない。本当あなたに関わってわたしどのくらい時間を無駄にしたんだろう。馬鹿みたい」
 突然散々な言われ様だ。
「もうあなたが人間として充分末期状態だってことは理解したわ。本に溺れてどこかいなくなっちゃえばいいのに。いや、願わなくても多分本当にそうなっちゃうね。話しかけも肩を叩いても本を読み終わるまで気付かないなんて、それはもう病気だよ。早く病院行ってね。お願いだから」
 いいかげん愛想がつきたわ、とかいろいろ言いながら、彼女は萎びたフライドポテトの上に千円札を二枚置いてさよならも言わずに去ってしまった。怒涛のことでまだちょっと成り行きが理解しきれない。とりあえず、僕がとうとう一人の優しい女の子に見限られてしまった、ということだけはよく分かった。
 何がそんなにいけなかったのだろうか。敗因は何だろう。ということを考えてみて、とりあえずはこの僕の厄介な集中体質に問題があるのは確かだ。しかしそれ以前に、もっと色々なものが欠けているような気がする。そういえば僕は、碌に一般常識を知らない。いや知っている物が大半なのだけれど、それら常識をきちんと体現できているのか、と問われるととても言葉に困る。しかしいまさらそんなことに気付いてみたりしても、もう回復の余地はない。今僕はほとんど親と連絡をとっていないし、唯一の友人の女の子にも先ほど愛想を尽かされた。今から僕に手取り足取り一般常識を教えてくれるような奇特な人間がどこにいるというのだろう。そもそも今思えば、どうして彼女はあんなに僕に対して熱心でいてくれたのだろう。尽かすほどの愛想が一体僕のどこを見て沸きあがったのだろうか。はなはだ疑問である。
 そういえば今ようやく思い出したけれど、彼女に投げかけられて、答えていない質問はまだあった。「そういえばわたし、何であなたのことなんかをずっと気にかけてるんだろう」というものである。難問である。
 彼女もよく分かっていなかったような疑問に、対象者の僕が答えられる筈も無い。この問題に頭を悩ますのは不毛である。いつの日か答えが見つかればそれで良いことにしよう。
 きちんと椅子に座りなおして、再び文庫本を最初から開く。視界の奥の方で、フライドポテトから滲みだした油が千円札の野口英世の顔に染みていた。野口英世の顔がだんだんとただの青いかたまりに変わり、最後には褪せたようにぼやけた。思い立って目線を上げてみると、もはやほとんどのものがはっきり見えなくなっていた。どれも、元の色が白濁したような色味になり、それぞれが互いに最悪な色どうしで重なり合ったりしていた。視界はただ混沌としている。本に目を落とすと、相変わらずどんなに小さく細かい字でも一向に滲むことなく、きちんと読むことができる。何故だか、それを空々しく感じた。そういえば、本以外に唯一はっきり見える人を、先程遠ざけてしまっていたのだった。



     6
 まるでしゃぶられているみたいだった。体の隅々まで覆い尽くしたそれは貪欲に僕の思考を求めている。めくるめく典雅と隙のある歓楽、そういったものがないまぜになっている。欲しがっているのは僕の真摯な思念ただひとつ。それさえ向ければ、どんな甘美も、惜しまず僕にくれるという。濃密で、ひっそりとした秘密を開腹して美しい病原体のように色鮮やかに巣食っていく。心の奥のいちばん過敏な部分を刺激されるときに、あっという間に思想はそれにとってかわる。奇麗に瞬きながら接近する新しい思想は、かならず美しくて心地の良い、舌触りの良い表現に塗れてやってくる。そういうものは、きちんと解き明かされるべきだ。その思想が纏う外面を解いて、その思想のありのままを見る。ふさわしいと判断したものだけを僕の頭と心の中に住まわせてやる。選択も抽出も大事な作業だ。
 読書の最中の脳内は、せわしなく思考が蠢いて忙しそうだといつも思う。美しい表現を、心に残る描写を、大切な真実を、きちんと選び取って心と記憶にしまわなければいけない。ここのところを間違えると、僕のいちばん大事な根幹が腐り落ちてしまうことになる。だからこそ、集中しなければならない。気を緩めて息抜きに本を読む、なんていう行動は、僕の読書の定義には無い。だっていつ、素晴らしいものに出会うのか、なんてだれにも分からない。生涯唯一至高だ、という作品を初めて読んだ時、実はそんなに集中できていなかった、なんてことがあったら僕は自分自身を呪ってしまう。だからいつでも真摯に、真剣でいなければならないのだ。
 学校を卒業して何年か経っていたときのことだ。僕は今と同じくらい周りが見えなくなっていて、同じように周りの声も聞こえていなかった。良く考えてみれば、それは幼い頃に思ったように、まるで水の中にいるようだった。その分読書に集中していた。溺れていた。知らぬ間に、こと切れていたりしたかもしれない。
 ある日、感動する本を読んだ。僕はその本にあるありったけの感動を受け取った。僕は涙を流した。目が乾く前に、次の本を探しに行った。同じ作家のものが良いと思ったが、あいにく近隣の書店には置いていなかった。赤く泣きはらした目のままで図書館に行った。目当てのものを見つけて借りる時、ちょうど僕を担当していた司書が、僕の目を見て言った。
「良い本を読まれたんですね」
 僕はこの時ほど、自分が理解されたと思ったことはなかった。泣きはらした目を見て、良い本を読んだのだと、ほとんど確信に近く思ってしまえる、そういう人間の、そういう考えの対象に僕が選ばれたことがとても嬉しかった。
 僕はその司書と、いつの間にか頻繁に話すようになっていた。会話は滞りなかった。話した内容は、いつも満足できるものだった。こういう人を求めていたのだと、内心思っていた。
 日が過ぎても、僕とその司書の会話に取り立てて変化はなかった。本以外の話はしなかった。本以外の話をすること自体が、どこか冒涜のようにも感じられた。僕と司書が本の話をすることで、完成する何かが確かにあった。
 僕は、意識しない間にこれまでのことを司書に喋っていた。司書は特に感想をよこさなかったが、僕は満足していた。司書との間の空気が、僕の回想によって壊れなかったことに安堵していたためだ。その空気の中に僕の今までの生き方が違和感なく受け入れられたということは、いつも僕が本と共にあったことを実証しているようで、それは気分のいいことだった。
そういう日々が続いていた、ある日のこと。僕はとても悲しい本を読んだ。僕はそれを読んで、たまらず泣いてしまった。僕は小説を読み終えて、司書の方へ向き直った。その悲しい小説は、図書館のものだったのである。僕はいちばん最初の、あの完璧な司書の受け答えを思い返していた。今回僕の泣き顔を見て、司書は何を言うだろうと思った。まったく予想がつかなかった。
司書の視線が、僕の顔へ向き、そして手元の本へと動いた。司書の口が開いた。
「とてもかなしいはなしですから、ほんのなかのできごとでよかったですね」
 瞳から最後の一粒が流れ落ちて、飛び込んできたのは極彩色だった。全ての物音も、司書の声もがなっていて刺すみたいにうるさい。鮮やかすぎる色と景色は光っているみたいで、まぶしくてあまりのことに目を閉じても目蓋を透かした赤が見える。光も音も全部が脳髄深くを刺してくるみたいだ。痛くて仕方ない。手元の本を取り落とした。思わず目を開けたらその激しい真紅の本には先ほどの涙の跡がついていた。その跡だけがどうにか見慣れた優しさだった。最初から、世界はこのくらい鮮烈だったのだ。それを僕が知らない内に、何百人もの作者と何千もの本と何万ものページと何億もの字が、僕の目と耳を塞いで、曇らせて、詰まらせていたんだろう。
 今まで僕の記憶があった脳の奥底は、光と音に刺されてもう破壊されてしまっているらしいので、僕の世界の手がかりは、残るはもう、この涙のしみくらいなのだが、これもいずれ乾いて光るんだ。僕はもう二度と自分の世界を思い出せない。さっきまでの深刻な白濁すら、もう既に、分からない。







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