一月の来客





 紅茶のカップが受け皿に触れて、かすかに音を立てた。紅茶に落とした角砂糖がぽつぽつ溶けていくのに目をやった梓は、「気泡が生まれた」と子供のようなことを言う。冷蔵庫の中にはシュークリームとエクレア。室温は三十度。カーテンと窓の間にはきっと中途半端な冷気がある。木綿子さんはどこかへ出かけていて、今この場にはいない。
 十数分前にここへやってきた来客は、ゆっくり紅茶をかき回してから、受け皿にスプーンを置いた。そうして、おもむろに私の方を見る。
「どう? 最近の生活は」
「特に変わったことはないよ」
 紅茶飲まないの、と続けると、梓は「俺猫舌なんだもん」とこたえる。熱い紅茶は置かれたまま、その表面から白く細い湯気を立ち上らせる。
 ここは私の家で、梓は単なる来客だ。それなのに、今この場で居心地の悪い思いをしているのは、確実に梓でなく私だろう。カップに口をつけて、やっぱりまだ熱かった、と無邪気にしているこの男が、道端だろうとスーパーだろうと、場を選ばずにたやすく人を煩悶へと追い込む人間であることを、私はとうに知っている。梓は、たとえ初めて訪れた家の中であっても、その住人相手にあやふやな感傷を感染させるくらいのことは、簡単にやってのける人間だ。

 似ている、と言われた。桐は桐のままだとも言われた。それに衝撃を受けて、混乱に突き落とされて、でもその混乱の中で、私はどうしてか嬉しかった。嬉しくて仕方がなかった。木綿子さんが私に似ていること、私が木綿子さんに似ていること、どちらもが嬉しかった。思い返せば、十か月の生活の中で、私たちはお互いに影響し合って、様々なすり合わせを行って、ひそかに努力して、相手に近づこうと頑張った。それが報われたように感じたのかもしれない。
 梓に木綿子さんとの関係を指摘されてから、私はずっと落ち着かなくて、木綿子さんの顔を見るたびに、ほのかな嬉しさを感じたりしていた。そういうものにのぼせて、肝心の木綿子さんとの会話が覚束なくなってしまったので、慌てて梓の発言を忘れることに努めたのが最近だ。ようやく、いつも通りの私になって、木綿子さんと接することができるようになった途端、また梓に会うことになってしまった。
 心を動かす、というのは意外と大変な運動で、どうしたって疲労する。ぎりぎり足のつかないプールで遊ぶ時の感覚に近い。そういうことはたまにやるから楽しいのであって、三百六十五日ずっと感動に苛まれるということは、プールから上がらせてもらえないのと同じだ。たいていの人間は日常をつつがなく過ごすことに一生懸命で、浮き沈みの激しい心持で一生を送ろうとは考えない。私もまったく大多数の人間と同じである。感動なんてものは、月一回の映画くらいがちょうどいい。
 梓はそういうことに配慮せず、やけに暖かい言葉を使って、今まで気にも留めなかった事柄に、人がとらわれるよう仕向けてくる。時計の時を刻む音が、いったん耳につくとどうにも鬱陶しく、今までの自分がこの厄介な騒音を意識にのぼせていなかったことが不思議になるのと同じように、私も長い間気にも留めなかった木綿子さんの挙動や表情を、いちいち深く考えるようになってしまった。そしてそれは、意識の外に置こうと頑張ったところで、たいていの場合どうにもならない。結局、私の年末年始は、木綿子さんの些細な行動にいちいち心乱されるだけの時間だった。
 最近、やっとのことでその状態から抜け出したのに。そう考えると、つい私の梓を見る目は恨めしくなる。梓はそんな私の視線に気づいているのかいないのか、私のことを気にも留めず、興味深そうにあたりを見回していた。
「いいおうちだね。日当たりもいいし。のどかな感じで」
「うん。住みやすいよ。洗濯物もよく乾くし」
「大学からも近いんでしょう」
「そうだね。十分ってとこかな」
 へえ、と相槌を打ちながら梓が立ち上がる。居間に連なっているベランダへ向かった梓は、感心したように「うるさくないんだね、景色もいいし」と言った。
「夏場はセミがひどいけど、確かに車の音とか生活音はしないかな」
「セミくらい良いじゃん。風流で。ああすごい、景色もいいんだ。この町マンション少ないんだね」
「月見のとき、満月がすごく綺麗に見えるよ。近所にすすきも生えてるし」
 そのすすきがとても風流とは言えないような生え方をしていることは黙っておいた。なんとなく、家を褒められるのは気分がいい。私が家主というわけではないけれど。
 いい気分で紅茶をすすっていると、景色に満足したのか、再び梓が机に着いた。ようやく冷めたらしい紅茶に口をつける。そうして、ぽつりと言った。
「ほんと、俺も暮らすならこういうところがいいなあ」
 その言葉がひどく切実な響きをもっていて、冷や水を浴びせられたような気分になる。高揚は水をかけられて、一気にしぼんだ。「ほんと、俺も暮らすならこういうところがいいなあ」という言葉が、ぐるぐる頭の中を回って、最悪の結論を導き出す。
「え、住みたかった? もしかして」
 嫌な想像が頭をよぎって、背筋が冷えた。
 そもそも、私と木綿子さんの同居話は梓がきっかけとなって持ち上がったものだ。東京の大学に受かったはいいけれど、その大学は少し家から遠くて、桐を一人暮らしさせようか迷っている、という何気ない母の愚痴に、「それなら木綿子の部屋に空きがある」と楓さんは告げ、恐縮した母に同居計画発案の理由を説明した。ゆくゆくは木綿子と梓の二人で住ませようと思っていた部屋を、梓が気に入らず、現状木綿子は住む一室の内の一部屋を持て余している、今から別の家を探すのも億劫だし、かといって一部屋分の家賃は惜しい、と言う楓さんと、渡りに船だと感じたらしい私の母との間で、とんとん拍子に話は進んだ。私と木綿子さんの同居が決定したのは去年の三月で、私がここに住みはじめてから、もう一年近くの時が経っている。しかしもとをただせば、私がここに住めているのは、梓の単純な好き嫌いのおかげに他ならない。
 今まで当たり前だと思っていた生活が、急にぐらぐらと音を立てて崩れはじめたような気がした。少なくともあと二年と少しは、私は木綿子さんと一緒にここに住めるものと思っていた。梓がここに住みたいと思い直したら、どうなるんだろう。そもそも正式な入居者は梓で、私は補欠みたいなものなのだ。楓さんだって梓を優先するだろうし、木綿子さんだって、幼馴染より弟と過ごす方が気楽に決まっている。私は別のところに家を探さなければいけなくなるかもしれない。そうなったら大変だ。引っ越しをしなければならないし、料理ばかりをしているわけにはいかないし、大学が遠くなる可能性もあるし、家賃も生活費も今よりかかるだろうし、何より、木綿子さんと一緒に居られなくなってしまう。
 それはとても困る、と思いながら恐る恐るした質問に、梓は訝し気な顔をした。しばらくして、「ああ」と独り言のように呟いた梓は、口角をあげて訂正を始める。
「違うよ。いい家だなとは思ったけど。別に住みたいとは思ってないから。安心していいよ」
「じゃあなんで、あんな言い方するの」
「どんな言い方?」
「寂しそうな言い方」
 何かを惜しむような言い方だった、と思う。私の被害妄想も少し影響しているかもしれないけれど、何かを捕り逃したような、あるべき理想が叶えられなかったような、そういう切実さが、あの梓の声にはあった。だから私も、自分が家を出ることになるんじゃないかと狼狽えたのだ。自分が住むはずだった家を、惜しいと思ってあんな言い方をしたんじゃないか、梓はこの家に住みたいと思ったんじゃないか、と考えた。
 私の言葉に、梓は一瞬笑みを失くした。そうして、何秒か目を泳がせた後、諦めたみたいにため息をつく。
「あーあ。失敗した。桐に人間の心というものを教え諭すつもりで来たのにさ。自分が揺らがされてるんじゃ世話ないな。やっぱり、自分も弱みを晒さないと、人の心の深いところに触れるなんてできないね」
 そう言って、梓はまるでやけ酒のように紅茶を飲み干した。急に様変わりする雰囲気に驚く気持ちと同時に、梓の言葉と先日の行動に対する納得が、胸に湧き上がってくる。
「やっぱりそういう後ろ暗いこと考えてたんだ。正直、今日怖かったよ、梓と会うの。この間の話で、私しばらく混乱状態だったんだから。無意識じゃなくて意識的に、人の気持ちをもつれさせたりしてるんだね。性格悪い」
「そりゃそうだよ。面白いし。人が人間関係とか自分の気持ちとかでごちゃごちゃ悩んでると、口出ししたくなっちゃう。俺の性分だもん。でもさすがにこの間は、俺も弱み晒したでしょ。あんな話桐以外にしなかったし」
 好きな先輩が居ることとか、好きな人の性質を持てば恋を忘れられるっていう考え方とか、他の人には話したことない、と梓は拗ねたように言った。
 その様子に見えた梓の小さいころの面影は、私の緊張をじわじわと解いていく。
「いやでも、だいぶ性格悪いと思うよ、その趣味。人が悩んでるところ見るのが楽しいんでしょ」
「そういうわけじゃないよ。もどかしいだけ。早く気づいてほしいだけ」
「じゃあ何、学校じゃちゃんと恋愛相談乗ったり人間関係の調停したりするの?」
「悩める同級生たちに大人気だよ俺は。先輩を見習って人に信頼されるような人間になってしまったから」
 目の前でふくれる男が、優し気な表情でクラスの人間関係に気を配っていることを思うと、なんだかおかしくて仕方がない。思い切り笑って、「大人になったじゃん」とからかうと、梓は露骨に不機嫌な顔をした。
「さっきまでびくびくしてたくせに」
「途中までは怖かったよ。今はもう全然」
「じゃあ切り替えて、話そうか。積もる話第二弾」
「また私が悩んじゃうような話?」
 にやにやしながら言うと、梓はにっこりと笑った。
「姉さんの話をしようと思うよ」

       ○

「あーもう無理。もう何も考えられない。休憩!」
 杏が勢いよくノートを閉じたその衝撃で、お菓子のごみがふわふわと机を落ちていく。自分の足もとに落ちたごみを拾った萩野は、それを片手でごみ袋に突っ込みながら、反対の手で杏の頭をはたくという器用なことをした。
「何すんの、痛いんだけど」
「ごみを落としたら自分で拾え。だいたい『もう無理』じゃないんだよ。人がわざわざ教えてやってるのに」
「萩野なんてほとんどあてにしてないもん。私があてにしてるのは木綿子だもん」
 そう言いながら、杏が自分の座る椅子をわたしの方に寄せた。円卓の周りの三点からなる三角形は、正三角形から歪なものに変わる。
「そろそろ休憩っていうのには同意だし、ごみを自分で拾うべきというのにも同意。あと杏は萩野をあてにしてないかもしれないけど、わたしは萩野をあてにしてる」
 自然と口からため息が出た。
「十一月の二人の喧嘩が結構トラウマになってるから、あんまり言い争われると心臓がどきどきするんだけど」
「えー。また泣く?」
「泣きはしないけど。というかそれ掘り返すのやめてくれない?」
 呆れながら言うと、杏がおどけたような顔をした。
 今日は一月二十一日。センター試験の翌週である。戸惑った様子の桐ちゃんから、「一月二十一日の昼頃訪ねるから、姉さんは席を外してね、と梓から連絡が来てます」と告げられたのが先週だ。「なんか梓、桐ちゃんに話したいことがあるみたい」と簡単に説明だけして、愛する弟のためわざわざ休日に学校まで出張ってきたのが今日である。梓の受験ほど重大ではないが、わたしも後期試験まで日が迫っているところで、杏から勉強会を持ち掛けられたのも丁度よかった。杏と萩野とわたしで、図書館前の飲食スペースに陣取って勉強した時間は、これでかれこれ三時間ほどになる。そろそろ集中も途切れて来る頃だった。
「甘いものないとほんとやっていけない」
「俺、ちょっと自販機で飲み物買ってくるわ。何か飲む?」
「ありがとう。ミルクティーお願いしてもいい?」
「了解」
 席を立って自動販売機に向かった萩野によって、閉ざされていた自動ドアが開く。飲食スペースを進む冷気はわたし達のテーブルまでやってきて、思わず身を震わせた。
「行ってもらってる身で言うのもなんだけど、よくあんな寒いところ出られるよね」
「純は寒いことより暑いことの方が苦手なんだよ」
 チョコレートの包み紙を丸めながら、なんでもないような調子で言った杏は、しばらくして、はっと顔を赤くした。
「違う。純じゃなくて萩野」
「純じゃないことはないでしょ。別になんでもいいよ。今更。喧嘩さえしないでくれたら」
 はあ、とため息をつく。こうしてため息ばっかりついていると、まるで自分が桐ちゃんになったみたいだ。
 「だっていろいろ恥ずかしいんだもん」と杏が唇を尖らせるから、後で萩野に一部始終を教えてあげよう、と内心で決意する。とにかく二人の仲が良好になるならなんでもいい。あんな風に悩むのはもうこりごりだ。
 しばらく何も考えず、チョコレートを口に放り込んでいると、杏がおもむろにわたしを見る。いつもの杏には珍しい挙動に首を傾げると、杏は少しためらったようなそぶりを見せてから、おずおずと話し始めた。
「掘り返すなって言われたけどさ、私、あのとき木綿子が泣いたの、割と衝撃的で。あの日はなんか、萩野と一緒にふざけた感じにしちゃったけど、萩野もきっと相当びっくりしてたと思う。今だから言うけど、萩野とまた顔を合わせる機会が出来たのは木綿子がきっかけみたいなものなんだ。私も萩野も、木綿子のことなんとかしなきゃって思ってて、そこでは協力できたから」
 初めて聞く話に、単純に驚いた。ぽかんとした顔をしてしまっていたと思う。
「何が衝撃って、だって、二年間付き合ってきて、木綿子が泣くイメージってほとんど無かったんだもん。感動もの見ても泣かないし、バイト先で失敗しちゃった、みたいな話も、落ち込んでる感じはあるけど全然泣かないでしてたし、なんか、すごくさらっとしてるっていうか、木綿子ってあんまり人前で泣いたりしないものと思ってたから、あの日目の前で泣かれて、相当傷つけてたんだなあって反省したの」
 杏が笑った。「だからね、私も木綿子が泣くんじゃないかって思うと、心臓どきどきする」と続けられた言葉に、ぽかんとした顔のまま、私は何を言っていいかわからなかった。
「その話自体衝撃っていうか、わたし普通に涙もろいよ」
 ようやく絞り出した言葉に、杏が「え」と驚いた顔をする。
「いや、ほんとに。家とかでも、めちゃくちゃくだらないことで泣いてるし。杏と萩野の件でも、家で一回散々泣いたし。ホームシックとか、夏バテがつらいとか軟弱な理由でも普通に泣くよ」
「うそ。わたし達の前では、あのとき以外一回も泣いたことないでしょ」
「ああ、まあ確かに杏たちの前では泣かないけど、涙もろいことはもろいよ」
 頭の中には、情けない自分が次々と浮かんでは消える。思い出すだけでどんよりとした気持ちになった。
「ただいまー」
 双方が言葉に詰まる状態を壊すかのように、自動ドアから萩野が現われる。「はい、ミルクティー。百十円」とわたしにミルクティーを差し出した萩野は、横から思いっきり杏に抱き着かれ、よろけた。
「なに、何なんだよ」
「木綿子、実は涙もろいんだって。衝撃じゃない?」
「全然話が見えない。急に抱き着くなって、危ないから」
 杏の手をほどいて体勢を立て直してから、萩野は自分の椅子に座る。わたしの百十円を受け取って、萩野は「で?」と杏を促した。
「だから、本当は涙もろいんだって、木綿子が」
「今、杏から、あの日わたしが泣いた後の事を聞いたのよ。そしたら杏が、木綿子に元々泣くイメージがないから驚いた、みたいな話をするから、いやわたしは意外と涙もろいよって返したの」
 杏の言葉を補うと、萩野はへえ、と間の抜けた相槌を打った。
「で?」
「衝撃じゃないの?」
「大して」
 そりゃ見えてる木綿子がすべてじゃないだろ、と萩野が至極まっとうなことを言った。えー、と杏が不満げな声をあげる。
「あのとき木綿子が泣いちゃって、びっくりしなかったの?」
「あのときは、正直、これでおあいこだなと思ってた」
「は?」
「俺も杏と喧嘩中、木綿子の前でちょっと泣きかけて、それが結構自分なりに恥ずかしかったから。俺も木綿子の泣き顔見て、おあいこ」
 平然と言う萩野に、杏が絶句する。そういやあのとき、杏は萩野が杏とのことを大して気に病んでいないと決め込んでいたな、と思い出して、少し愉快な気分になった。
「……泣きそうになるほど気にしてたの?」
 杏の小さな声に、「気にしてなかったらだいぶ人間としてやばいだろ」と素っ気なく言い終えてふと、赤くなった杏の顔に気付いた、萩野の表情を見て、わたしはまたため息をつく。
「一生そのままでいてね。お願いだから」
「……今の杏は良かったな。不覚にも」
「もうこの話やめよう。木綿子の話しよう」
 ばん、と机を叩いて、杏がこちらを見る。
「意外と涙もろいのはもうわかったからいいけど、じゃあいつ泣いてるの? 家で?」
「それは気になる。一人で泣くの? 同居人の桐ちゃんの前で泣くの?」
 矢継ぎ早の問いかけに湧き出て来る記憶は、一人のものも、桐ちゃんと一緒のものも、たくさんある。振り返ると、いかにこの一年の自分が情緒不安定であったか分かって、辛くなった。
「どっちもある。もしかしたら桐ちゃんの前で泣くことの方が多いかもしれない」
「へえ。桐ちゃんは慰めてくれるの?」
「うん。手慣れたものだよ。昔からずっと」
 そっか、そういや幼馴染だもんね、と杏が納得する。思い返してしみじみ、わたしは桐ちゃんにさんざん慰められてきたんだなと再確認した。
「なるほど。相手がちゃんと受け止めてくれるならいいね。じゃあ今までで一番泣いたのはどんな時? それも桐ちゃんの前?」
「どうだったかな。多分小さいころだと思うけど。二人が一番泣いたのは?」
「俺は普通に受験落ちた時」
「私は小三で骨折したときかな。次点はこの間の喧嘩の時」
 差し込まれた杏の発言に、一瞬雰囲気が剣呑になった。勘弁してくれ、と思う。また喧嘩へと発展しないように、話をもとに戻そうと、急いで頭を働かせた。
(わたしが今までで一番泣いたのは、何の時だったっけ?)
 しばらく考えて出てきた答えは、自分でもとうに忘れかけていたもので、なんだか不思議な気分になる。
「桐ちゃんの前じゃないわ。一番泣いたのは、小学校六年生のとき」
 「何が理由で?」という杏の言葉と、「誰の前で?」という萩野の声が重なった。
「弟の前で。引っ越すのが悲しくて」

       ○

「さっきの会話で気になったんだけど、もし俺が気を変えてここに住みたいとか言い出して、母さんが薄情にも俺をここに住ませることにする、とか言い出したら、桐はどうなの。困る?」
 姉さんの話をする、と言うから身構えていたら、先ほどの続きのような問いかけがなされたので、少し気が緩んだ。
「普通に困るよ」
「新しい家を探したり、金銭的にも日常的にも大変な一人暮らしをしなきゃいけないから?」
「それもあるけど、木綿子さんと離れることになるのが一番困る。せっかく木綿子さんに優しく出来るようになって、生活も順調なのに」
 当たり前でしょ、と付け加えると、梓が頬杖をついた。
「仲良しな人と離れることの、何がそんなに困るの?」
「え?」
 当たり前の常識に、軽い疑問を投げかけられて、何故だか私は言葉に詰まった。
「寂しいし……」
「でも今時、顔を合わせようと思ったらいくらでも方法があるでしょ。わざわざ文通なんてしなくても、一秒のタイムラグなく話せるし。それに、別に今生の別れってわけでもない。会おうと思えば会える。だから俺、引っ越しの時も、父さんが単身赴任するときも、母さんが入院するときも、姉さんが一人暮らし始めるときも、先輩が卒業するときも、全然悲しくなかった。いくら距離があったって、縁や絆が切れるわけじゃない。友達は友達で、父さんは父さんで、母さんは母さんで、姉さんは姉さんで、先輩は先輩だ」
 至極当然、といった風に梓が言ってのけた内容は、なかなか普通の人間にはできないような考え方だった。それに慄きつつも、梓の言葉には、どうしても耳につくことが何点かある。
「それ、なかなか悟った考え方だと思うし、それに対して言いたいこともあるんだけど、その前にちょっと聞いていい? お父さんって単身赴任なさってるの?」
「そうだよ」
「梓と木綿子さんが引っ越さなきゃいけなかった理由って、お父さんの転勤じゃなかったっけ」
「ううん。転勤じゃなくて転職。それで砂町から西の方に引っ越したの。転職先の会社の近く。で、二年後かなんかにその会社に転勤命じられて、さすがに付いていけないわって母さんが宣言して、単身赴任になった」
 笑えるよね、じゃあ最初から引っ越さなきゃよかったよ、と梓は笑う。勘違いを訂正されて、幼い自分のしていた誤解に、やはり小学生だなと呆れを覚えた。きちんと話を聞いているつもりで、実際には分かっていなかったのだ。
「もう一個聞きたいんだけど、楓さん入院してたの?」
「うん。婦人科系の病気で。結構長かったよ。二年半くらい。その間は母方の祖父母が家に来ててくれたの」
「そうだったんだ。全然知らなかった。この間会った時もすごく元気だったし」
「頑張ってるんだよ。『桐ちゃんが来る』って気合入れてたし。桐がそう思ってたこと知ったら、母さんもきっと嬉しがるよ」
 まったく知らずにいた話に、思わず息をついてしまう。木綿子さんも木綿子さんだ、全然話してくれなかった、と心の中で非難しかけて、同居初日から木綿子さんを混乱させていた自分の所業を思い出した。よくよく考えてみれば、思い出話をするようなタイミングは私たちの間になかったような気もしてくる。
 同居の始まりのころの自分を思い出して暗い気持ちになっていると、梓が「しかし、こういう話は正当な「積もる話」だね」としみじみ言った。確かに正当な積もる話だ。会えなかった間の思い出話。知らない話を知るということ。
「さっき梓がさ、距離が離れたって縁も絆も切れるわけじゃないって言ったけど、やっぱり、ほつれるくらいはすると思うよ。だって、相手に何があったのか、私ほとんど知らなかった。そういうの、やっぱり寂しいよ」
 梓の考え方に異を唱える。梓の言うことは、とても理想的だけれど、だれもがその理想を上手くできるわけじゃない。置かれる距離の長さに、離れる時間に比例して、相手に対する関心は、どんどん薄れていくものだ。それが普通の人間だ。
「じゃあ、いくら親しい人間でも、距離を置いてしまえばその親しさは薄れるってこと?」
「そうだと思うよ。だから私は出来るなら木綿子さんと同居を続けたい。せっかく仲良くなったのに、巻き戻したくない」
 そういうことなんじゃないのかな、と言うと、梓は、ふいに子供みたいな顔をした。
「それじゃ、子供の頃の俺があんまり浮かばれないじゃないか。別れないわけにはいかなかったのに、そんな強制で、ほつれるなんて可哀想だよ」
 梓が少し俯いて、考えるようなそぶりをする。
「姉さんも泣かなかったんだ。父さんが単身赴任にいくことになった日も、母さんが入院する日も、家に居る最後の日も、全然泣いたりしなかった。母さんは、姉さんが一人暮らしすることになったとき、やっぱり寂しいって泣いてたけど。お母さんも涙もろくなったね、って姉さんは笑ってるだけだった。それが当たり前なんだと思ってた。別に家族の縁が切れるわけじゃないんだから、そんなことでいちいち泣くのは、感傷的な人がすることだと思ってた」
 梓が、ふっと笑ってみせる。
「俺の覚えている中で、姉さんが最後に泣いたのは、砂町から引っ越す日なんだよ。桐ちゃんと離れたくないって、びっくりするくらい大きな声で泣いたんだ。俺はよく慰め方がわからなくて、桐の真似をしてもだめで、母さんを呼んでくるって言ったら、それでやっと泣き止んだ。心配かけたくないからって言って、目を擦って、それが最後。ちょっとだけ悔しかったんだ。父さんと離れるときも、母さんと離れるときも、全然泣かない姉さんを見て、そりゃもう子供じゃないんだし、って思いながら、じゃあ俺の時はどうだろうって思った。まあ多分泣かないんだろうけどさ。でも、ずっと昔から、俺は自分が一番遅く生まれてきたのが嫌で仕方なかったよ。三人で遊んでいても、いつだって姉さんは、俺と共有してるものより桐と共有してるものの方が多いんだ。ままごとのルールにしたって、お絵かきで使うクレヨンの色にしたって。俺より桐と過ごした時間の方が長いんだから当たり前だけど」
 はあ、と梓はため息を吐いた。
「ただのシスコンじゃんね、こんなの。だから嫌なんだ」
「……やっぱり、木綿子さんとここに住みたかった? きょうだい一緒に」
 なんて言うべきか分からなくて、それでも何か声を掛けたくて、むりやり喉から引き出した言葉は頓珍漢なものだったかもしれない。梓が「あはは」と声を立てて笑う。
「いや。そんなことないよ。ただまあ、このまま六年以上桐と姉さんが一緒に住んだりしたら、また一歳の差にしてやられた感はあるけどね。でもいいよ。俺は桐と違って離れていたって上手くやれるタイプだから。小学校の頃の友達と遊ぶとか、桐にできた芸当じゃないだろ、絶対」
「小学校の頃の友達とかいるの? 転校したのに?」
 いるに決まってるじゃん、と梓は腹の立つ顔をした。それに顔をしかめてみせると、「桐は小学校の全員から嫌われてそう」とさらに腹の立つ発言が付け加えられる。
「言っておくけど、中高大の友達とはうまくやってるから。木綿子さんに学んで優しくなったおかげで」
「それはよかったね。大事にしなよ。離れてしまえば絆はほつれる、とか冷めたこと言ってないでさ」
 梓に言われるのはなんとなく癪だけれど、発言自体はもっともなので、渋々頷く。
 突如、目の端が金色にまばゆくなった。光の眩む方に目をやると、ベランダのガラス戸からの西日が、深く部屋に入り込んでいる。輝く光に、二人ともが目を奪われた。一瞬陶然とする。
 梓は光が瞬くのを、じっと見ていた。
「桐」
「何?」
「姉さんのことよろしくね。意外とどうしようもない人なんだよ。壁の薄いマンションで、わんわん大声で泣いちゃうような、手のかかる人なんだ」
 梓が私に目を合わせる。
「自分の気持ちをよく考えてあげて。深く、真剣に、ないがしろにしないで、否定しないで、感情を厭わないで、きちんと考えて。自分のことをほどくのは、意外と大事な作業だよ。自分を把握できない人間が、他人を把握することなんて不可能だから」
 助言の内容をかみしめて、今度は素直にうなずいた。金色の光の中で聞く梓の声は、とても優しいものに聞こえる。距離が離れた人間を、きちんと忘れずにいられる人の声だと思った。息を大きく吐く。いろいろな顔を見てきたけれど、結局のところ、もうずいぶん大人なのだ。会わない間に、成長して。
「ありがとう」
「いや。こちらこそ。ごめんね急におしかけて。そろそろお暇しようと思う。紅茶、美味しかった」
 梓が立ち上がって、椅子に掛けていたコートを手に取る。私も見送りのために立ち上がった。
 コートの袖に手を通す梓を見つめているうち、ふと耳慣れた音が飛び込んでくる。はっとして玄関の方を向くと、数秒して、がちゃんとドアが音を立てた。
「ただいま……あれ、梓まだいるの?」
「いるよ。でももう帰るところ。姉さんもごめんね。寒い中外に居てもらっちゃって」
「いや別に、学校行ってたからいいんだけど」
 木綿子さんがとたとたと廊下を駆けて、居間に入ってくる。
「もう話終わったの?」
「終わったよ」
「じゃあもう少しゆっくりしていけば?」
「いや、いいよ。母さんも待ってるし。もう帰る」
 梓がマフラーを巻き終えて、木綿子さんに向かって微笑んだ。
「エリンのエクレア買っといたから。シュークリームもあるし。食べてね」
「ありがとう。駅まで送ろうか」
「いいよそんなの。じゃあ桐、今日はありがとう。ごちそうさまでした。姉さんもまたね」
 そう言って、梓は廊下を帰っていく。玄関のところまで木綿子さんと二人で見送って、「お邪魔しました」と去る梓に手を振った。
 ドアがばたんと閉まる。なんだか急に静かになった。傍らの木綿子さんは黙ったままで、その沈黙が、どうにもむず痒い。
「木綿子さん、おかえりなさい。寒くなかったですか」
 話しかけると、木綿子さんははっとしたようにこちらを向いた。
「ただいま。うん。ずっと室内だったし。全然寒くなかったよ」
 木綿子さんは一転明るく笑って、エクレアエクレアと呟きながら居間へ戻る。桐ちゃんも食べよう、と居間から声が聞こえて、慌ててドアの鍵を閉め、居間に向かった。
 居間に入ると、梓の持ってきた紙箱を、冷蔵庫から木綿子さんが取り出している。エクレアの方は木綿子さんに任せて、私は皿とフォークを準備した。
 机に皿とフォークを並べていると、木綿子さんが「あ、一番好きなやつ」と嬉しそうな声を出す。「何種類かあるんですか」と聞くと、「五種類」と返ってきた。
「中のクリームがいろいろ違うの。チョコクリームとか、抹茶クリームとかあって。わたし昔から抹茶が好きなんだ。変な味なんだけどね」
「え、変な味なんですか」
「桐ちゃんにはカスタードがあるよ」
「すごく安心しました」
 箱の中にはエクレアが二つ、シュークリームが二つ入っていた。緑色のクリームがかけられたエクレアを木綿子さんの皿に、普通の見た目のエクレアを私の皿の方に乗せて、残りのシュークリームは冷蔵庫にしまう。
 席について、いざ食べよう、とフォークを手に取った時、あんまり場が静かなことに気付いた。なんとなく気になって、木綿子さんの方を見る。木綿子さんはエクレアを見遣りながら、おもむろに、小さく口を開けた。
「覚えられてるとは思わなかった。あんまり行くような店じゃなかったし。……梓、もうちょっとゆっくりしていくかなと思ってたんだけど、すぐ帰っちゃったね。まあ忙しいだろうし。勉強をないがしろにされても困るけど。……なんかね、梓の『お邪魔しました』って言葉を、わたしの家で聞くなんて、想像したことなかったから、ちょっとびっくりしちゃった」
 木綿子さんが綺麗に笑う。
「なんかちょっとね。びっくりするね」
「……泣いてもいいですよ」
 本心からそう言った。

 木綿子さんの表情が変わる。梓が狼狽えるときと同じように、子供っぽい表情だった。酷く似ている、と思った。二人が姉弟であることがよく分かる。
 数秒して、ぽろぽろと涙をこぼす木綿子さんの、頬に手を伸ばして、涙を拭う。過去に思いを馳せる。今、駅への道を歩いているだろう梓に、思いを馳せる。
 涙は幼いころと同じ暖かさだった。別れの前夜に、梓が拭おうとした涙も、同じ熱さだったらいいと思う。




共有している

TOP