止まない雨はない





 ある豪雨の夜、自宅に友人が訪ねてきた。友人曰く、豪雨は突然のことであって、だから雨具の用意はまるきりない、とのことだ。困窮している友人に意地悪をする道理もない。綺麗な家ではないが彼をあげた。彼の髪や肩や足は雨に濡れていた。彼とはあまり長い付き合いではないので、こういうふうに彼が湿るのを見るのは初めてだった。なかなかいいものだなと思った。
「雨の音って、フライパンで炒め物をする時の音に似てない?」
 夕飯がまだだという彼に、わたしがありあわせの炒め物をしている時だった。手元の音を意識してみれば、確かに彼の言うとおり、まるで雨音みたいである。雨が物を跳ねる音と、油がフライパンを滑る音が似通っているのだろうか。勘違いしそうなほどに、似ている。
 キッチンの隣の部屋に彼が居る。湿った髪を乾かしながら、雨が上がるのを待っている。わたしの及ぶ範囲に彼が身を置いている。それを意識するだけで、途端に落ち着かなくなるのだ。初めて会った時から、彼はわたしの心を動かしている。今も変わらず、いやもっと激しく。序盤は、それこそ勘違いだと思おうとした。強い友愛とほのかな恋愛を混在させて、すり替えてしまっているにすぎないのだ、よく似る感情だから、勘違いしているだけである、と。勘違いだと思い込めなくなったのは何時だったろう。何が決定打だったのか、今はもう、たくさんの彼の仕草や言葉に塗り込まれてしまって覚束ない。どんどん、今まで以上の彼で上書きされている。わたしにとっては幸せな飽和だ。
 けれど、この恋は、彼にとっての幸福では決してない。
「出来たよ。ありあわせで悪いけど」
「ううん、急に押しかけて、ごちそうにもなっちゃって本当申し訳ない。ありがとう。美味しそう」
 そう言って彼は、わたしから皿を受け取った。いただきます、と呟いて、さっきまでフライパンの上を跳ねていたものに箸をつける。彼が物を食べるところを見るのは、なんとなく居心地が悪い。意識をそらす。そらされた意識は雨音に向いた。まだまだ強い。まだ当分降るだろう。
 湿っぽい独特の憂鬱な匂いも、彼が纏えば好ましかった。炒め物の音と雨音。多分一生忘れられない。雨が降るたび、炒め物をするたび、このどうしようもない夜を思い出してしまうだろう。
「凄く美味しい」
「本当? 良かった」
 交わされる声も、まじりあう匂いも、すべて、雨音に直結する。
 この世の一般の幸福は、穏やかに晴れる健康な暖かさであって、冷たく濡れて匂う激しさではない。きっと大多数が、彼が、厭うだろうその不幸を、わたしはどうしても嫌えない。彼には、この雨降りはきっと災難に過ぎないだろう。厭って舌打ちをすべき気象なのだろう。きっとこの世の大多数が、今夜の豪雨を憂いている。健康的な日差しを待ち望んでいる。
 止まない雨はない、という人を慰める言葉がある。今が不幸であっても、いつかきっと幸福になる。そう言う意味を持つ言葉の、不幸の象徴に選ばれた雨について、わたしは深い共感と同情を寄せている。
 彼の食事はもうすこしで終わりそうだ。彼が食べ終わったら、二人で何をして時間を潰そう。彼のためなら、なんだってしてあげようと思う。まだまだ雨は止みそうにない。彼はまだ帰れない。なんだって、本当になんでも、してあげる。してあげたい。ここにずっと居てくれるならなんだって。

 止まない雨はないのだそうだ。なんて不幸なんだろう。




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