黒歴史





 小学生の頃、近所でも有名な大型犬に吠えられて思わず漏らしたことがある。濡れるズボンと、傍で馬鹿にしたように笑う義之の顔をよく覚えている。
 中学生の頃、体育祭のリレーのアンカーとして走っていて、最後の最後に面白い転び方をしてしまった。応援の声が不思議な笑いに変わって、結局俺は同じチームの人間にさんざんどやされた。義之に芝居がかったしぐさで肩を叩かれてむかついた。
 高校生活のさいご、仲間に乗せられてなんだか異様にポジティブになり、卒業式の壇上で好きだった女子に告白したことがある。全校生徒のどよめきと可愛い可愛い「ごめんなさい」の声。うなだれて帰り道を歩く俺の横で義之がしゃっくりをしていた。俺を乗せた仲間の中で一番長く笑っていたのが義之だ。
 大学生の頃、おとなしくて頭のいい同輩の女の子に気に入られたくて、その子にしたり顔で小難しい話を語っていたとき、俺の隣にいた義之はずっと半笑いだった。折口信夫をおりくちしのぶと読むことを知ったのはもっとずっと後のことだ。「おりくちのぶお」と言い続ける俺を、義之は止めてくれなかった。女の子は後日別の男と付き合い始めた。
 社会人としての半ば、ひそかに結婚を考えていた彼女とひどい喧嘩別れをして、一人でやけ酒した結果、とんでもなく酔って路上で一人嘔吐したことがある。たまたま目についた義之の番号にかけて迎えに来てもらった。礼を言う俺に、義之は「結婚目前の彼女にふられて一人でやけ酒して挙句の果てに路上でひとりスーツがゲロまみれのかわいそうな祐樹なんて、優しくしないわけにいかないじゃないか」と言った。哀れみたっぷりの目をしながら口元は笑っている義之に、俺は「お前に向かって吐いてやる」とかなんとか、そういうようなことを言った記憶がある。
 ほかにも、自信満々に挙手して答えを言って見事間違える俺や、シュートを失敗する俺、階段で転ぶ俺、お化け屋敷にびびる俺のそばにはいつも必ず義之の笑顔があった。俺の、自分でも笑えるような恥ずかしい行いを一番最初に笑うのは義之だった。義之の嫌味な笑顔は、突然思い出して枕に顔をおしつけて足をばたばたさせたくなる記憶の中に、いつも紛れている。全部が全部消したい記憶だった。いや、今でも、消したいことには変わりない。

 遺影の義之はとても優しく健やかに笑っていた。
 泣いているおばさんの肩があんまり小さくて、なんて声を掛けていいかわからない。傍まで行って、どうしようもなく佇む俺に、おばさんがぱっと気付いて笑いかける。
 義之の家は半ば俺の家のようなものだった。同様に俺の家は義之の家だった。あいさつもせずいつの間にか上がり込んでいる俺に、おばさんは嫌な顔一つせず、気付かなかったわと言って笑う。「ゆうくん来てたの、びっくりしたあ。いまジュース出すからね」。今も、昔のそれと同じ顔だ。涙だけが違う。
「よくできた子だったのよ。私にはもったいないくらいの。あの子が中学生のときに、うち離婚したでしょ、自分で決めたことなのに、無性になんだか泣けてきてね、毎晩キッチンで泣いてた。ある日義之が後ろに立ってて、何も言わずに私の手を握ったの。思春期の男の子が、自分でもいろいろ考えることはあったでしょうに、どういうつもりであんなことしたのか考えると、わたしね、もうずっとあのことは忘れないわ。ぼけちゃってもあのことだけは、義之のことだけは忘れないわ」
 おばさんが、知らない義之の話をした。俺はおばさんの肩を抱いた。

 人がたくさんいた。見知った顔もたくさんあった。みんなが優しく悲しい顔をしていた。ぼうっと歩いていた俺は、何人もの人につかまった。「このたびはほんとうにねえ。本当にね、どうしようもなくつらいね」それから、みんなぽつぽつ語り始める。
「わたしは義之さんと同じ会社でね、二十もわたしの方が上だけど、よくしてもらったの。わたし会社でセクハラにあっててね、でもそのときもう四十を過ぎてて、こんなおばさんがそんなこと言ったって、信じてくれない人と笑う人しかいなかった。義之さんだけ違ったの。一緒になって怒ってくれたのはあの人だけ。今でも、あんな男の人、二人といないと思うわ。旦那にさえ笑われたわたしをね。あの人だけよ。あんなに優しいの。あのとき、わたし泣いちゃったのよ、うれしくて」
「久しぶり佐々木君。俺のこと覚えてる? うん、田辺だよ。あのちびの。佐々木君、よしくんと仲良かったもんなあ。つらいよね。ほんとつらいよ。中学が一緒だっただけの俺でこんなにつらいんだからなあ。……よしくん、いい人だったよ。俺すごい馬鹿だったじゃない、勉強なんも出来なくて、とろくて、先生にも嫌われてみんなに馬鹿にされてて、でもよしくんだけ違ったんだ。放課後、なんども勉強教えてもらったよ。解けなくて、分かんなくて、怖くて固まってても、よしくん嫌な顔ひとつしなかったんだ。いい思い出だよ本当に。なんかの話でさ、今までの人生に恩師が居たかみたいな話になるとさ、俺、ほんと本気で、よしくんって答えたくなること、あるよ」
 様々な人が、泣きながら、でも本当に癒されたような表情で、義之を語る。
 なんか、スーパーマンかよ。めちゃくちゃいい人じゃん。偉人伝みたいだ。ヘレンケラーとかナイチンゲールみたいな。読んだことないけど。すごいなほんと、みんな泣いてたよ。俺もうっかり泣きそうだったよ。そもそもここにめちゃくちゃ人いっぱいいるし。俺が死んでもこの半分も来ないんじゃないかな。昔っから人気あったもんな。昔っから凄い不思議だよ。義之、性格悪いのに。
 俺の恥ずかしい記憶の中にはいつも義之が居る。性格悪そうに笑ってる。笑われた俺はほんとうに恥ずかしくて仕方なかった。突発的にその記憶を思い出しては消えてくれと願った。こんな記憶があったって、足をばたつかせることしかできない。枕に向かって喚くことしかできない。
 消したいよ。さっさと忘れたいよ。いらないよこんな恥ずかしい記憶。人生の汚点だ。さっさと脳みそのメモリから消去するに限る。
 義之のせいで、俺はこれらの記憶を死ぬまで覚えてなきゃいけない。お前が急に死んだりなんかするから。お前が俺の前でしか性格悪く笑わないから。俺が忘れたら、義之が良い人になっちゃうから。それは義之ではないから。義之が消えてしまうから。
 お前のせいだよ。俺はこれからもずっと脳のメモリの一部を不名誉な記憶に占領されたままだよ。お前が死んだりしなきゃ俺はすっかり忘れて健やかに生きていけたんだ。なあ、義之。いいかげんにしてくれよ。人に迷惑かけんなって。なあ。忘れさせてよ。忘れても忘れてもまた笑って、馬鹿にしてよ。ねえ。




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