声の銃弾





 私の友人は人の話を聞かない。その症候は、私の話を聞くとき特に顕著になる。耳の機能が壊れているのではないかと疑ってしまうほどに、私の話を聞いていない。十中八九聞き返してくる。どんな些事の連絡でも、どんな重大な連絡でも、すべて一様にそういう態度だ。
 それ以外は別段、普通の人間である彼女は、その一点さえ直せばとてもまっとうな人間であるはずだ。というかむしろ、他がまっとうである分、人の話を聞かないという一点が際立っている。
 私が彼女に何かを話すとき、彼女はまったく意識的に、聴覚の周縁へ私を押しやっているように思える。
 私の口が開いたのを認識した彼女は、一瞬厳正な儀式のように身を硬直させる。そのゆったりとした刹那が過ぎると、彼女は蝶の羽ばたきのように睫毛を震わせて瞬く。そして彼女が纏う雰囲気を、鋭敏なものにする。指先まで意識を行き渡らせているように、彼女の空気は尖る。まるで冷気を発散する氷の様だ。目に見えない冷気と鋭敏の壁に阻まれて、私の言葉は届かない。私の口から出た、彼女の元にしか行きようのない言葉を迷子にさせておいて、彼女は遂に言う。
「ごめんね、聞いてなかったの。もう一回聞かせて」
 腹の立つ話だ。私は彼女が纏うその冷気が嫌いである。
 腹が立つから、二度目は酷く乱暴にする。彼女の胸ぐらを掴んで引き寄せて、口が耳に触れるか触れないか、そのくらいの距離で喋ってやる。いつものことだ。二度目になると、彼女はやっと私の言葉を聞く。私の言葉を受け取った途端まともになる彼女の雰囲気と、触れる直前で感じていた、想定の冷気と異なる暖かい体温に少し驚くのも、まあ毎度のことである。
 彼女に話を聞かせると言うことは、つまり常に二度手間ということだ。厄介このうえない。
 二度目には聞けるのだから、一度目だって彼女自身が頑張れは聞けるはずなのである。それを頑張らないということは、彼女は意識的に、私の言葉を聞いていないということだ。そう考えると、少し悲しい。大事な友達には、やっぱり話を聞いてもらいたい。
 私の友人は話を聞かない。それでも、私はその友人が大切だ。彼女に聞かせる言葉を、特別な声色で、特別な情緒で、語っていることも珍しくない。できるなら、そのとっておきの音そっくりそのままを、彼女の心まで伝えたい。
 彼女の冷気を揺るがせて、彼女の鼓膜を震わせて、彼女の脳を突破したい。そして心に私の声を打ち込みたい。

 とっておきの音は優しいから、心に打ちこまれてもきっと痛くないよ。だから私の音を聞いて、さっさと心打たれてよ。

     *

 わたしの友人はいついかなる時も歌うように喋る。生来の話し方は、どんな非常時でも変わらない。驚く時も、腹を立てている時も、悲しんでいる時も、いつも真剣にさえずっている。わたしはそれが面白い。彼女がいくら驚嘆し、憤り、悲嘆にくれたところで、歪むのは歌詞だけで、彼女の口から出るのが歌ということは変わりないのだ。奏でられたそれに、わたしの気持ちは踊りだす。愉快で愉快で仕方がない。彼女はわたしを咎める時だって、素敵な声で歌うのだ。
 彼女の唇から、口蓋、舌、声帯に至るまで、調べ尽くしてしまいたくなることが、時たま、あったりする。わたしは馬鹿だから声の出る仕組みをよく知らない。人間の喉がどうやって歌うのかもよく分からない。それでも、彼女の唇や口蓋や舌や声帯に触れながら彼女と会話してみたいと思う。彼女の唇に触れながら、わたしは質問を投げかける。応答、によって引き起こされる、振動?
 まだやったことがないから、振動するのかどうかは分からない。とにもかくにも、唇と同じような要領で、口蓋や舌や声帯についても、やってみたい。彼女の応答は、一体どんな作用を引き起こすだろうか。美しい振動であるような気もする。
 彼女の音が美しいのは素晴らしいことである。しかし、音が有限であるというのはよくない。彼女の美しさには限りがあるということだ。特に、常日頃の会話では、彼女の一音はごく短い。言葉は残しておけるけれど、音は上手く行かない。録音という変質は嫌いだ。彼女の音を記憶する術はない。彼女の美しい響きを、後でこっそり、一人でなぞってみることがある。彼女の音を思い出しながら。変質であることは百も承知で、記憶をたどって歌ってみる。しかしいつも上手く行かない。わたしは彼女の音をしっかり覚えておくことが出来ないのだ。
 いつまでも、繰り返し、何度だって聞きたい。偏執であることは百も承知。
 彼女の言葉は重要でない。わたしは歌詞よりメロディで曲を選ぶ人間なのである。心ふるえる言葉を刻みつけられて離れていかれるよりも、他愛のない音をずっと傍で聞いていたいのだ。彼女はまともな人間なので、わたしへの言付けを終わり、伝えきれば、ひとたびの用は済むものだと考えている。でもわたしはそのひと段落の休符すら嫌なのだ。

 いつだって耳を澄まして、ひとつのゆらぎも聞き逃さないように、きちんと聴き入っている。彼女の声が奏でる音が好きなのだ。狂おしく離れがたいくらいに、執着している。彼女の声なしではいられない。どんな小さな呟きだって、愛している。ごめんね、聴いていないふりをしてるだけ。もう一回だけ聞きたいの。お願い。

     *

「君のことが好きなのに、いつも届かなくて悲しいわ」
 どうせ聞いていないだろう。そう思って発したとっておきの呟きに、彼女が耳の先まで赤くなるのはそのあとすぐのことである。





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