気付いてほしい
人差し指を切った。開けた缶の縁に指を滑らせた結果であった。シンクの上の小窓から夕日のオレンジが差し込んでいた。遅れてやってきた痛みに、手は缶を取り落とした。中身のツナは乾いたシンクにぼとぼとと散らばった。缶が音を立てて、銀色の上を転がっていった。ツナはオレンジに光っていた。分離した油でシンクは鈍く輝いた。シンクで起こったそれらのことがゆっくりとぼやけて背景になって、焦点があてられたのは人差し指の傷だった。肌色に、だんだんと血が伝っていく。朱色の血は、そこまでは広がらなかった。そのかわり、人差し指の傷にしみ込んだ魚の油は、切り口をてらてら光らせた。魚の死体みたいだった。
外から車の走る音が聞こえてくる。はっと我に返って、傷口を水で洗い流し、ツナを生ごみと一緒にまとめた。ツナ缶は紙で覆って、もう缶の縁で手が切れることがないようにした。自分の血が排水溝の奥深くに落ちたこと、ツナ缶と生ごみをゴミ袋の奥深くに押し込んだこと、今の一件を思い出させるものが、もう人差し指の傷以外には無いことを確認して、やっと一息ついた。
傷口から、徐々にだるさが侵していく。
台所を出て、押入れを開ける。奥深くにあった救急箱から絆創膏を取り出して、人差し指に巻きつける。傷口はそこまで深くはなく、普通の絆創膏で事足りた。薄い茶色は肌に同化して目立たない。なんとなく手元が陰るような気がして、部屋がいつの間にか暗くなっていたことに気付いた。日常的に、節電のため昼間は部屋の電灯を点けないようにしておいている。外から差し込む光で充分足りているからだ。しかしもう夕方は終わってしまっていた。立ち上がって灯りを点ける。電灯の紐を引くときに、添えていた人差し指が少し痛んだ。缶を取り落とした時の夕焼けが思い浮かんだ。
電灯に照らされた部屋で存在を主張したのは、昨日紙袋から出して掛けておいた浴衣であった。昨日のはしゃいだ雰囲気を表すように、浴衣のあるそこだけは、気も早く祭りの彩色と雰囲気を醸し出していた。明日は夏祭りだ。友人と一緒に行く約束をしている。その夏祭りは特に目ぼしいことも無く、あまり人が集まらなくて人ごみも発生しない。はぐれる可能性のある大きな祭りよりずっといいと、友人とわたしの間では、そのさびれた夏祭りはなかなか好評を博している。おととしも去年も行って、半ば恒例になりつつあるその夏祭りを、わたしは楽しみにしていた。この浴衣も、張り切って新調したものだ。白地に赤い花柄で、この浴衣を着ていれば夜でもきっと目立つだろう。その友人と、万が一でもはぐれないようにと思って買った。はぐれてしまうのは、悲しいしつまらないし、その友人は少しも心配をかけたくない人だったから、少しの可能性も避けたかったのだ。もちろん単純に、新しい浴衣を友人に見てもらいたかったのもあるけれど。浴衣を買った日わたしはとても上機嫌だった。
人差し指を切る前は楽しみで面白かった事々が、今や急に冷めたことのように思われる。夕飯に食べようと思っていたツナサラダはもう作れない。浴衣も何だか馬鹿馬鹿しい。碌な冷房器具のない六畳間で浴衣を見つめたまま、しばらく呆然としていた。首筋を流れ落ちる汗で再び我に返ったけれど、意識は依然ぼんやりとしている。傷口が、痛い。たいしたことはない傷なのに、どうしてか、とても痛いのだ。
「浴衣、新しくしたんだね。似合う。なんか凄く可愛い」
夏祭りの開場である神社の入り口の所で、出会った友人は開口一番そう言った。ありがとう、という言葉を返して、鳥居をくぐる。素気なさがにじみ出た行動に、友人が少し狼狽えたのが分かった。
「去年と浴衣変えたよね。新しく買ったの?」
「うん」
「結構派手だけど、凄い似合ってるし、良いと思う。目立つから見失わないしさ」
「そうだね。そう思って買ったの」
例年よりも人は多かった。出店の数も去年より多い。本殿の方に向かい歩いていく間にも、何人かとぶつかった。傍らの友人が、例年よりも人が多い理由を説明してくれる。何でも、集客の低さと活性のなさを見咎めた町会が、夏祭りの日取りの抜本的改革を進めたらしい。要するに、お盆や他で開催される夏祭りの日程とかぶらない日取りにした、というだけのことらしいけれど。しかし目的は達成されて、こんなに人が多く集まるのだから、そういう単純なことでもいいのかもしれなかった。
「でも個人的には残念。人が少ないのが良かったのに」
ね、とこちらを窺う友人に肯いた。確かに人ごみは凄い。だいぶ近くにいる友人とわたしの間を、人が通り抜けていこうとするのも珍しくは無かった。
祭りは賑やかだった。夜を明るく照らす色とりどりの灯りと、それに照らされる出店や人々。人々のざわめきも、それらの色も、わたしのすぐそばにある。なのに、わたしの周りで目まぐるしく移り変わるそれらが、急にぼやけて見えてしまった。すべてが些細で小さなことに思える。まるでただの背景のように、なんら特別なことではないように感じた。なんだかとてもよそよそしい。
「ねえ、人通りも多くなって来たし、このまま本殿に向かうのもつまらないから、何か買わない? あそこのかき氷はどう。あそこなら、人もあんまり並んでないし」
「いいよ。買おうか」
かき氷の屋台で、友人とわたし、二人分を買った。友人が厚意でわたしの分も払ってくれた。屋台の横で、二人分のかき氷を両手に持ちながら、友人が金を払い終わるのを待っていた。かき氷の入った紙コップは、想像していたよりも薄かった。氷の冷たさは、思ったよりも指先に伝導する。
「お待たせ。持っててくれてありがとう」
「いや、こちらこそ払ってもらっちゃって申し訳ないわ」
「別に全然いいよ」
そう言って友人はわたしの手からかき氷を受け取った。氷は手から離れていって、しかし、冷たさはまだ振りきれない。
友人の顔を見つめた。友人はわたしの視線に首を傾げて、でも何も聞こうとはしなかった。
「しかしこうも人が多いとはぐれそうだね」
「そうだね」
「手でもつないでおく?」
その台詞の語調に何も感じないわけじゃなかった。それが抱える意味にも想像がついた。けれど、わたしがしてほしかったのは、もっと違うことなのだ。
確かにつまらないことだ。夕食の支度をしていて、缶の縁で手を切るなんていうのはありふれていて、馬鹿みたいにくだらないことである。とても些細で、小さなことだ。それでも、あの時からわたしの人差し指は痛んでいるし、缶で指を切ったことが原因で、なんだかとても空虚になって、楽しみにしていたことも退屈になってしまった、あの呆然とした瞬間は確実に存在していたのだ。祭りがちっとも楽しくなくて、なんだかよそよそしいようにも感じてしまうのは本当のことなのだ。そしてまだ尾を引く昨日の出来事に、いつまでもこだわる方がおかしいのかもしれないけれど、でも、わたしはわたしで、気が乗らないことだってある。どんなに理解できないと言われても、今のわたしには祭りよりも重大なことがあるのだ。
派手なことも大きなことも明るいこともひしめく中で、まったく個人的で些細な事に、気付くことが困難なのはよく理解できるけれど。
もし、彼がわたしの指先に気付いて、少しでも気にかけてくれたとしたら、わたしはゴミ袋と排水溝があるあの暑い六畳間に、今夜彼を上げることだってあったのだ。気付いてくれたその瞬間に、指の傷は心の底から完全に些細な事になって、背景だった祭りは本来のにぎやかさを取り戻しただろう。わたしはおとといのように、また上機嫌になってしまうだろう。それこそ、手をつなぐことが凄く嬉しいことに感じられたに違いない。
ただ、派手な浴衣にも、夏の催しにも惑わされずに、日常なら気付くべきことを、今日だって気付いて欲しかっただけ。
あんなに小さい傷でも、どんなに目立たない色の絆創膏でも、きっといつもの彼なら気付いてくれる。そしてそのことが、なお一層拍車をかける。
今、手をつないだとして、絆創膏の感触は彼にも伝わるだろう。でもわたしは、最初に会った時に、かき氷を手渡した時に、気が付いて欲しかった。
「手はつながない」
友人は面食らった表情をした。
「大丈夫だよ、きっとはぐれない。わたしの浴衣は良く目立つから」
非日常に隠された、小さな傷よりもずっと良く。
TOP
小説メニュー