制服の君





 動くたび、喋るたびに笑い声を立てられる。誰も目を合わせてくれず、いつも視線は背に突き刺さる。何が原因だったかも分からないけれど、高校時代に僕は排斥されていて、いつも檻の中で見世物にされているようだった。いつしか自分のすべてが恥ずかしくなって、下ばかり向くようになり、目に入るのは自分の制服や誰かの脚、そんなものばかりになった。
 母校の制服は美しいことで有名だった。オリーブブラウンを基調にした微細なグレンチェックは静謐で、それをまとう学生自身も泰然として見えた。その制服目当てで進学した人が少なからずいたほどだ。入学当初は僕も例にもれずに、それを身にまとうだけで背筋が伸びた。
 その美しさがいつしか、僕に向けられる視線の主の象徴のように感じられてから、どんどんその制服が怖くなった。教室で視界に広がるオリーブ色や、掛けられた自身の制服を夜中にベッドから見るときの消えたくなるような心情は、あの制服に絡みついて、もはやほどけなくなっている。高校時代に僕を苦しめたものを、あの制服を見ることで思い起こしてしまうのだ。
 あの制服を見ると、気分が悪くなってくる。吐き気を催す。嘲笑う顔を思い出す。そして消えてしまいたくなる。今でも。大学は楽しい場所だった。人間関係は軽薄で、それがとても心地よかった。自分は普通の人間で、とても楽しくやることができる、そう思うはしゃいだ気分は、しかしあの制服が視界に入ることで空虚になってしまう。街角であの制服を見ると一瞬体が動かなくなる。それを着ているのがどんなにいたいけな学生であったとしてもだ。
 
 彼を初めて見たとき、なんてあの静謐が似合う人間なのだろうと思った。


          *
 インターホンの音にドアを開けると、上気した顔の恋人がいた。約束の時間よりも十分遅い。ため息をついた僕に、彼は微笑んで言う。
「ホームルームが予想以上に長引いちゃって。これでも走ってきたんだ、許してよ」
 そして返事も待たずに部屋へあがりこむ。許して当然という体だ。
「約束を破った」
「だから悪かったって。頑張って走ってきたんだよ」
「そっちじゃない。別に時間なんてどうでもいい。むしろ一時間でも二時間でも遅れて来てくれた方がましだ。……その制服を着て来るくらいなら」
 自分の声音が予想以上にみっともなくて、自己嫌悪はさらに深まる。笑むのを止めてこちらを見つめる彼は、あの忌まわしき制服を着こなしている。気分が悪くなってくる。
 年下の恋人は僕の偏執を理解しない。

 卒業後に母校に出向く用事があって、いやいやながらそこに赴いた。制服の群れや他愛もない笑い声にいちいち怯えながら廊下を歩く途中、彼に出会った。友人と連れ立って歩く彼は堂々として、それなのに気取った様子もなかった。自信と、その自信に足る性質を持った人間の振る舞いだった。それまで見た誰よりもその美しい制服が似合っていて、一瞬その忌まわしさを忘れて見とれた。しかしそれも少しのことで、すぐに体は硬直する。彼のネクタイの色を見る限り、僕が校舎に居たころに、彼はまだ入学していないだろう学年だった。だから彼も彼の友人たちも僕のことを知るはずもなく、僕は彼らのような子供に怯えなくても良かったのに、僕の頭は勝手に彼らに過去の敵を重ねてしまう。
 目を伏せてすれ違った。彼らは僕のことを気にも留めないはずだった。
 ノートが落ちる音がした。目の端に白がひらめいていく。ノートに挟まれていたルーズリーフやプリントはあたりに散乱した。あ、と声を立てた彼と、彼の友人が屈む。ここで足早に立ち去るのは、あまりにも情がないだろうと、足元の紙片を拾い集めて、何も言わずに手渡した。ありがとうございます、という声に軽く会釈だけして踵を返す。目を合わせることも出来なかった。
 その場から走っていなくなってしまいたかった。おかしな挙動をしてはいなかったか、あの後で彼らは僕を笑うのではないかと被害妄想が湧き出して止まらなかった。用事を済ませて、家に帰り、もう二度とあそこへは出向かないようにしようと決意した。
 街で急に声をかけられたのは、それから何週間かが経ってからのことだった。本屋で本を見ているときに、後ろから肩を叩かれて、振り向くと彼の顔があった。プリント拾ってくれた人ですよね、覚えてます? 俺のこと。そう言って彼は親しげに笑って見せた。

「どうしてあなたは俺が制服着てるのをそんなに嫌がるのかなあ」
「何回も言わせないで。嫌なことを思い出すからだよ」
「うん、それは分かるけど。でも俺は別にあなたのことをいじめたりしないじゃん。それとこれとは別でしょう」
「君のことは好きだけど、それが目に入ると気が滅入る」
 目を伏せて言う僕に、彼は視線を向ける。わかっている。彼があいつらと違うことは十分すぎるほどわかっている。彼はいつでも僕と目を合わせようとするし、僕のことを嘲笑ったりしない。それでも、過去の被害は僕を苛み、そのきっかけはいつだってその制服だ。
「まあ、あなたの言うことをそのまま受け入れるとしても、一つだけ謎なのは、一番初めに見たあなたの表情なんだ。あの日廊下で、俺を見て、した、あの顔。あれがいつまでも気になってて、何週間もたってるのに頭から離れなくて、たまたまあなたを見かけたときに運命だと思って声かけたんだよ。我ながら気持ち悪いなとは思ったけど」
 声を掛けられて、「覚えている」と返答したら、彼はとても喜んだ。そして何故だか話は続いて、些細なきっかけの相手に僕はすっかり気を許してしまった。それからもたびたび会うようになって、何回目かの時に告白された。不思議な成り行きだったけれど少しも嫌ではなかったから了承した。彼と話すのはとても楽しかった。それでもそのとき一つだけ条件を出したのだ。二人で会うときにあの制服を着ないでほしい、と。彼はその条件を承服してくれた。その条件を出すに至った僕の過去の話も、少しも馬鹿にすることなく聞いてくれた。再会のときも、それからの機会も、彼は制服を着ていなかった。付き合い始めてからも、それは変わることはなかった。
 それがどんなに僕を癒したことだろう。
「君は最近、約束を破ることが多くなった」
「うん。あなたへの愛が最初よりずっと深くなってるからね」
 謎かけのような茶化し方に顔をしかめる。彼は諦めたような笑い方をする。
「しかし本当にこの制服嫌いみたいだね。さっきから目も合わせてくれない。……本当に、焦るし苛々するな」
 独り言のように呟かれた内容は、あまり彼らしくないものだった。
「君が焦ったりなんかするの」
「するよ、あなたのことに関しては。ねえ、いつになったら、ちゃんと俺のこと見てくれるの。今日、まだきちんとあなたの目を見れてない」
「君がその制服を脱いだら、すぐにでも」
 「何それ」彼が笑った。「誘ってるの?」


「結局のところ俺の焦りの原因は、俺自身より、あなたのひどい過去の方が、あなたにとって影響があるということなんだ」
「……僕は自分の高校時代の記憶なんてなくなってしまえばいいと思うし、僕は君のことを好きだよ」
「正負じゃなくて、絶対値でいったら、俺よりもそのひどいいじめの方が、あなたに深く巣食ってる。俺はそれが嫌だし、それを早くどうにかしたい。いくらいじめてきた奴らと同じ制服を着てたって、それを着てるのが俺なら、あなたには俺の方を意識してほしいの」
 彼は真剣な目をしてそんなことを言った。真摯な顔は美しい。彼は顔だけじゃなくて、どこもかしこもきれいだけれど。
「いくらでも似合う服があるんだから、そっちを着ればいいじゃない。わざわざあんな服にこだわらなくたって」
「これはそんな表面的な問題じゃないの」
「そうかなあ。くだらないことだよ全部。あの制服さえなければ僕は惨めな気持ちにならないんだから、君があの制服を着なければ、とても楽しくやれるよ」
「くだらなくないよ、全然」
 大事なことだと思うんだよ、と彼は呟く。そして考え込むような顔で布団に顔を埋めてから、急に飛び起きた。
「ねえ、俺の制服着てみてよ」
「え?」
「着てみて。見たい。着てるところ。絶対似合うよ」
「急に何言いだすの」
 いいから、と言って、彼は足元のシャツを拾って被せてくる。なんなんだ、という反抗の声は届かない。やむなく着せられたシャツの襟の几帳面さに、一気に高校時代を思い出す。次はこれ、と渡されたスラックスに泣きそうになる。
「こんなの無茶苦茶だ」
 ショック療法にもほどがある。本当に涙が出かけたところで、彼が顔を寄せてきた。
「ねえ、初めて会ったとき、俺のことどう思った」
「覚えてない」
「嘘つかないで。あの表情の意味を教えてよ」
「覚えてないよ」
 あの忌まわしい制服がなんて似合うのだろうと思った。彼のあの姿に見とれたのだ。覚えている。それでも口にはできない。それを言ったら、何かが壊れてしまうから。
「あなたが受けた被害は多分とても重いもので、それを俺がひっかきまわしたりしちゃいけないとは思うけど、それでも俺は、そんな被害なんてさっさと忘れちゃえばいいと思うんだよ。いつまでもそんなことで苦しんであげなくてもいいと思うんだ。あなたは一切悪くないし、加害者が全部悪いんだ。今のあなたもどこも悪くなんかないよ。たかが制服に怯える必要なんてない」
 だんだんひびが入っていく。
「たかが制服だよ。単なる服だ。いじめの象徴でもなんでもない」
 美しい格子柄が一点湿って暗くなる。自分が泣いていることに気付いて、何かがほどける様な心持ちでいる。
 ブレザーを肩にかけられて、彼に涙を拭われる。
「似合うよ。本当によく似合う。高校時代も良く似合ってたんだろうね。少しもおかしくなんかないよ」
 高校生のあなたに会っても好きになってた、と言われて、仮定の話なのに胸が暖かくなった。
「変じゃない? ほんとに?」
「変じゃないよ」
「いっつも笑われるんだ、だから、どこかおかしいんじゃないかな。僕が分からないだけで」
「おかしくないよ。笑う方がおかしいよ」
 似合うよ、格好いい、と彼が笑って、その表情の熱烈さにくらくらする。
 僕もあのとき彼を見て、こんな顔をしたんだろうか。
 忌まわしかった制服の美しさは、僕の涙でぐちゃぐちゃになる。湿って暗いオリーブブラウンはそうなってしまうともう、今までほどの怖さを有してはいなかった。




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