泥水をすする
夕飯の材料を買い求めるため訪れたスーパーの一角で、懐かしいものを見つけた。
陳列棚に寄って、そのパッケージを見つめる。有名どころのコーヒー粉に混じって、それは堂々と並んでいた。カミカワコーヒー。インスタント。三百グラム。パッケージから少し目線を下げると、値札に書かれた「三百十九円」のポップ体が目に入る。目を見張る安さだった。ちょっとどうかしている、と思わず考えてしまうほどに安い。
上品でスリムないでたちのパッケージや、業務用の大入りで四桁の値段を持つ商品の中で、安すぎるカミカワコーヒーは異様な存在感を放っていた。まるで運命の人と目があったときのような抗い難さで、私はそれに目を奪われた。そして私はその存在感にたじたじとなって、自分が今夕飯の準備のためにここへきている、ということさえ忘れそうになった。
いつの間にか私はそれを手に取って、買い物かごのなかに放り込んでいた。
家に帰ってリビングの時計を見る。まだ短針は上方を向いていた。
買ってきた食料品を所定の位置におさめ終えて、いざ。キッチンで、カミカワコーヒーと対峙する。白いキッチンカウンターの上に置かれたそれは、スーパーの陳列棚に並んでいるときよりも、ずっと大きく見えた。よくよく考えてみれば、三百グラムというのはそれなりの量である。
簡素なパッケージの前面には、申し訳程度のコーヒーの写真、ださいフォントで示される「カミカワコーヒー」「インスタント」「三百グラム」の文字、そのくらいしかない。そしてこれは税込み三百十九円なのである。ほとんど一グラム一円だ。やっぱりちょっと、どうかしている。
どうかしている、と思うのに、何故だか私はやかんに水を汲んでいる。それをコンロの上におろし、スイッチをひねって火をつけている。
お気に入りのマグカップを取り出した。ティースプーンを用意する。そうして、やかんの口をぼんやり見つめながら、過去のことを思った。
ずっと小説家になりたかった。
書きたいものがあった。小説が好きだった。心惹かれてやまない、ほとんど神がかりともいえるような筆致で描き出された文章を、物語を、私も書きたいと思った。高校を卒業してからは、アルバイトでお金を稼ぎながら、書いては投稿することの繰り返しだった。一分一秒も惜しくて、目の前に打ち出される、自分の頭の中にある文章が生活の全てだった。将来の事なんて一つも考えていなかった。
筆が乗ってくると、バイトに割く時間すらもったいないように感じられてくる。長編を書きあげるときは、バイトを減らした。芽はなかなか出なかった。自ずと、生活は貧しくなっていった。
当時住んでいた狭苦しいアパートの近くには安いスーパーがあった。食べるものはそこで買うことにしていた。ある日、締め切りまで間もないところで作品が行き詰まり、どうしようもなくなって逃げるように入ったスーパーで、このインスタントコーヒーを見つけた。
カミカワコーヒーは何しろ安かった。私はそのとき寝る暇さえ惜しくて、自分の周りのもやもやを吹き飛ばしたくて、そういうときに、ふらふらした視界の中で、そのあまりに簡素なパッケージと、安い値段はよく目立った。私はそれを購入した。
帰って淹れたそのコーヒーはとにかくまずかった。まさに泥水といった苦さで、とても飲めたものじゃない。けれど、それを飲んだ私は思わず一人で笑ったし、そのあまりのまずさに、私の眠気は吹っ飛んだ。
それから、カミカワコーヒーは私の執筆中の相棒になった。小説が行き詰まるとそれを飲む。そうして、身を削るように書いていた。睡眠も食事も、親の失望も、自分の将来の暗さも、書くこと以外はすべて頭から抜け落ちた。私には書くこと以外できないのだと思っていた。小説を書いて死ぬ運命なのだろうと思っていた。
そういう生活を六年続けて、とうとう親に殴られた。殴られて、泣かれた。そこで糸が切れてしまった。終ぞ芽は出なかった。一度、佳作に引っかかっただけ。それまで聞こえないふりをしていた「才能がない」という自分への評価が、一気に重くなったように思った。
親に言われるまま、親の知人の会社に入って、親の決めた見合い相手に会って、いつの間にか結婚することになった。その頃の私は自分のことをまるで死人のように思って生活していた。すべてのことがどうでもよくて、書かない自分がどうして生きているのかよく分からなかった。
蒸気が上がる。掠れた音が長く響く。慌てて火を止めた。お湯が沸いていた。
ハサミで袋を開ける。ティースプーンを突っ込んで、山盛りにすくう。マグカップの中に入れて、袋の口を閉めた。布巾を手に取ってやかんの持ち手を掴み、カップに注ぐ。
スプーンを回す。カップの中の茶色が均一になったのを確認して、背筋を正し、口をつける。
「うっわ」
苦みを通り越して、もはや痛い。食べたことがないけれど、毒のある虫はきっとこういう味だ、と根拠なく思った。無意識のうちに声が出る。はあ、と息を吐いて、だんだんと舌から刺激が引いていくのを、ぐったりしながら感じていた。とんでもない味だ。数年前の自分がこれを飲んでいたとは、とうてい信じがたい。
目の前のマグカップには、未だなみなみとコーヒーが揺れている。気合を入れて、もう一度それに口をつけた。二回目になると、初回より衝撃は少ない。何度かちびちび味わうと、だんだんと刺激は気にならなくなっていく。過去の私も確かこうやって慣れたのだ。しかし、それにしてもまずい。何度飲んでもまずさだけは新鮮だ。
そうやって、顔をしかめながらコーヒーを飲んでいると、上から足音が聞こえてきた。階段の方を振り向くと、夫が顔を覗かせる。顔が眠そうだった。
「あら、もう起きたの」
「うん。今日店開ける前に浅岡さんのとこ行かなきゃいけないんだよ」
「ああ、この間言ってたね、そういえば」
「そうそう。でも眠くて」
そう言って夫はあくびをし、目をこすってから、私の持つマグカップに目をとめた。
「あれ、何飲んでるの」
「コーヒー」
「いいなあ。俺も飲みたい。牛乳あったっけ」
「あるよ。今買ってきた」
「買い物もう行ったの。お疲れ様」
いそいそとキッチンに入って冷蔵庫を開けた夫は、ちらとカウンター上のカミカワコーヒーを見て、目を丸くした。
「知らない銘柄だ。見たことないや」
「めちゃくちゃまずいよ」
「え、そうなの」
「うん。三百グラムで三百円」
「うわ……」
夫にマグカップを押し付ける。こわごわ口をつけてから、彼はぎゅっと目をつむり、呻いた。
「あははは」
「どうかしてるよこれ」
「ね、まずいでしょ」
「なんでこんなの買ったのさ」
うえ、と言ってマグカップをこちらに突き出す夫をさらに笑う。乾かしていたコップをとって、水道水を汲んで彼に渡した。
「ありがとう。それにしても、あなたよく飲めるね、こんなの」
「うん。まあ慣れてるのよ。昔よく飲んでたの」
マグカップを受け取った。口をつける。目の端で夫が顔をしかめるのが分かって、笑いだしたくなる。
結婚生活は、想像よりずっと良いものだった。書くことができなくても、あたりまえに幸福を享受することができるのだ、と気づかせてくれた。夫は優しかったし、夫の家業は面白かった。だんだんと、ただ生活することが楽しくなって、結婚してから一年も経つころには、書くことから解放されていた。そうして、自分がどんなに恵まれているのかを自覚した。私のあの六年間は、私のような人間には許されない贅沢だったのに、私はその罰も受けず、社会から見放されもせずに、今まっとうな生活を送れている。夢を追って人生を無駄にした人間にとって、今の生活はかなり幸福なものだ。私はそれに感謝しなければならない。
コーヒーをすする。苦かった。何度も何度も味わった落選を思い出した。「あなたには才能がない」という言葉が、いろいろな人の声で頭に響いた。
今の私は幸せだ。誰がどう見たって、あの頃の私よりも幸せだ。
まずいコーヒーを飲んで、一心不乱に書いていた。いつか良いものが書けると信じていた。自分の生み出したものは、人の心を動かすことができると信じていた。自分には才能がある、周りはああ言うけれど、私には書くことしかないと、信じ込んでいた。ただひたすらに、文章のことだけを考えて、六年間も過ごしていた。
「うわ、ちょっと。涙目になるほどまずいなら飲むのよしなさい。体に悪いよ」
「え」
「涙目になってるよ。いいよ、まずいなら捨てちゃえば」
夫がおもむろに手を伸ばす。マグカップは私の手から離れて、シンクの上へと運ばれた。夫が手を傾ける。
夢を見ていた。いつか自分は、何かになれると思っていた。泥水をすすりながら生きて、けれど希望に満ちていた。
あれは希望の味だった、と思いながら、かすかにぼやけた視界の中、コーヒーが排水口に流れていくのを見送った。
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