僕の好きな夜の本





 十二歳の春、夜が僕ひとりのものになった。
 それまでの僕らの家は狭いアパートの一室で、その三つの部屋のうちのひとつが、家族みんなの寝室だった。けれど父母の出世に伴って、僕ら家族はマイホームが持てるようになり、その新品の家にはきちんと家族全員分の個室があった。三階の二つの部屋は僕と姉に任されて、僕らはどちらの部屋を自分のものにするかを話し合った。結局東の方の収納の多い部屋が姉のもの、西の方の窓の多い部屋が僕のものということになり、僕は自分のものになった六帖ほどの洋室をとても愛おしく見つめたのだった。
 あの狭いアパートに住んでいた昔、子供は早く寝なさいと、僕と姉は九時になると羊みたいに寝室に追い立てられていた。母によってぱちんと部屋の明かりは消されてしまうので、僕と姉は布団に隠れながらゲームを操作したり、懐中電灯で絵本を読んだり、時には枕を投げつけ合って遊んだのだった。母の足音や声が聞こえると、僕らは即座に身を伏し、懐中電灯やゲーム機の電源を切ってすうすう寝息を立ててみる。母は眠る子供らに「早く寝なさいよ」ときっちり小言を投げかけて居間へ帰っていく。扉が閉まると、もうすっかり闇に慣れた目を開けて、姉と二人顔を見合わせてばつの悪い笑みを浮かべる。
 姉は中学生になると、途端に僕に構ってくれなくなった。枕投げしようよ、という僕のひっそりした声はまるで存在しないみたいに無視されて、聞こえないのかな、と声を大きくすると「お母さんに気付かれるでしょ」と鋭い声とともに蹴られる。中学生になった姉には携帯電話が与えられていて、姉は布団の上に寝転がるとすぐそれをいじり始めるのだった。つまらない気持ちは僕を睡眠へと誘い、だから姉が中学生になってすぐのころ、僕はたいへん健康的な生活を送っていた。何せ九時半には眠りについているのである。
 夜がつまらなくなって少しした頃、僕はある秘密を抱えるようになった。その秘密を守るのに、家族一緒の寝室はまるで向いていなかった。
 ある一冊の本に出逢ったのである。その本は人前で読むべきではなくて、人気のわりにあまり話題ではなくて、読者と非読者の間に薄い壁を設けてしまうタイプの、ちょっとまずい本だった。最初の一文字目から魅力的な内容だけれど、この本のここが良いよね、とはしゃいだ声を出そうものなら、周りの人の視線を感じるだろうことは簡単に予想がついた。学校でも家でも、この本のことを口にできなくて、僕は一度苦しくなって図書室でこの本について調べ物をしようとさえ思ったのだけれど、もしこの本に対して批判的な意見をつづった書物を見つけてしまったらと思うと、とてもそんなことはできなかった。
 一度だけ、学校の授業でこの本について語られたことがある。先生はなんだか気まずいような表情で、この本の面白さを一切伝えないような乾いた言葉でこの本を語った。ふざけるのが好きなクラスメイトたちは、おろおろしているのが子供の目にも分かる先生を、こそこそ笑ったりするのだった。僕はいよいよ孤独な気持ちになった。
 昼間、太陽が出ているような時間にはとてもこんな本は読めなくて、だからって夜は家族一緒の寝室にいるしかない。一度トイレで読むことも考えたけれど、トイレに閉じこもる僕を体調が悪いのかと心配する母の姿が容易に思い浮かんだので実行に移す前に止めてしまった。
 そんな窮地に立っていた僕にとって、鍵のかかるドアのついた自分だけの部屋は、大げさでもなんでもなく救いだった。この部屋なら、僕の夜は僕だけのものだ。この部屋の夜の中ならば、この本をいくらでも読むことができる。咎める人など誰もいない。
 引っ越しの後始末が終わって、僕の部屋も僕のものでおおわれて、新しい生活にも馴染んでいく中で、僕は何度かこの本を読んだ。読むたびに胸がどきどきして、たまらない気分になった。いつの間にか僕の頭の中では、夜とこの本は分かちがたく結びついていた。

 中学生になって、家にももうずいぶん慣れて、あっという間に新生活はただの生活になった。中学二年生の新学期、クラスが変わって顔ぶれが多少新鮮になった。僕は新しい名前順で僕の前になった男の子と仲良くなった。
 彼は僕なんかよりずっと成績が良くて、笑い方も大人っぽくて、そしてなにより、あけすけだった。僕が慌てるような話を、何の臆面もなく口にする。クラスの何人かが「変に照れて話してる方が自意識見えて気持ち悪いよね」と彼のそれに好意的な態度をとるのも不思議で、僕は彼のそういうところにだけはいつも面食らっていた。自分の心身のうちを簡単に人前にさらすのは、とても勇気がいることで、勇気の分だけ害される危険もある。彼はやわらかいそれを、少しの防衛もなしに人に見せて回る。見物人の誰かがナイフを持っているかもしれないのに。
「君がテストで百点をとったり、君が二日連続で告白の呼び出しを受けたりしても僕は全然平気な顔をしていられるけど、君のそのあけすけなところにだけは、いつもびっくりするよ」
 ある日の昼食時、思わず僕の口から零れ落ちた言葉に、彼は綺麗な目をまばたきさせた。
「あけすけって、別にそんなことないだろ。誰だって同じようなことをやるし、考える。お前がいう『あけすけ』を、大人は平気な顔でテレビでぺちゃくちゃ喋ってるぞ」
「そうだけど、教室で話すのはまた違うじゃないか。……怖くないの。僕は怖いよ」
「何が怖いの」
「馬鹿にされたり、そんなこと考えてるなんて気持ち悪いって言われたり、笑われたりすること」
「ばか、そんなの気にしてどうすんだよ」
 彼はいつものように声をたてて笑った。僕はむくれる。
「気にするなって言われても気にするよ……普通は」
 僕の言葉をきちんと聞くそぶりもなく、最後の米一粒を口に入れた彼は弁当の蓋を閉じ、何かを考えるような顔をした。十数秒たって、彼が口を開く。
「そういえば、俺、お前が好きなもの何も知らないかも」
「君みたいにぺらぺら言ってないもの」
「気になってきた。何が好きなの。何のために必死になったことがある?」
 彼は眼を爛々とさせて笑う。悪い気しない、という率直な思いと、僕の答えに歪む彼の顔の想像で、僕は困ってしまった。
「言わないよ。僕は君じゃないから」
「なんだよそれ。言っておくけど、どんなださい趣味の奴より、人のこと気にしてばっかりの人間の方がつまんないんだからな」
 彼は人を不安にさせるのが上手だ。さっきまで輝いていた目がその輝きを失って、急に他人みたいな顔をする。底冷えする気持ちになって、僕は思わず口を滑らせてしまった。
「本を」
「本?」
「うん、一冊だけ小学校五年生の頃からすごく好き、なんだけど、誰にも言ったことないし、たぶん馬鹿にされるし。ほんと、家族にも言ったことない。でも好きだし、たぶんそれを馬鹿にされたら、立ち直れないって、思う」
 言いながら、だんだん恥ずかしくなってくる。目線をあげると真剣な彼の瞳とかち合って、一気に顔が熱くなる。
「いや、なんか、そこまでじゃないかもしれないけど、ていうか君、よくこんなこといつもやってるね。すごく恥ずかしい」
「なんだよ。いいことじゃん。お前がそれだけ好きな本か。気になるな」
「いいよ気にならなくて……やっぱり聞かなかったことにして」
「するわけないだろ。タイトル教えろ」
 今にも立ち上がって図書室にでも行きそうな彼に、心臓が早鐘を打つ。どうしよう。ここまできて、気持ち悪いって言われたら。
 言われてしまったら、僕は大事な友人と、あの本に対する愛のうちわずかを同時に失ってしまうのだ。テレビの有名人が、街の人が、クラスの人が、笑いながらあの本を否定するたびに、彼らのことを意識から排除しながらも、ほんの少しだけ、あの本とそれを好きな僕まで嫌いになる。
 昔のことを思い出して感極まった僕の様子に、彼が気付いて、困ったように頭をかいた。顔を寄せられる。
「……なあ、ほんとに、馬鹿になんてしないから。別に大きい声で言わなくてもいいよ。俺にだけ教えて」
 真剣な目だと思った。
 ゆっくり彼のシャツを引いて、耳元に口を持っていく。
 ささやいて、彼の横顔がほんの少しだけ驚きに変わって、それからぱっとこっちを向く。
「読んだことないジャンルのやつだ。面白そう。読んでみたいから今度貸せよ」
 彼の声がはしゃいでいて、僕は少し呆気に取られてから、なんだか思わず泣きたいような気持ちで、頭を縦に振っていた。




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