貧乏舌
「俺さ、中学生の頃、一万で買ったヘッドホン一週間で壊しちゃったことあって、それ以降百均のイヤホンで音楽聞いてるんだよね。切り替えた当初はほんと雑音にしか感じられなくて、わりとつらかった覚えがあるんだけど、今はもう全然満足してるの」
俺の目の前にあるのは小さく美しいケーキ。レースみたいに弱弱しい紙に側面を覆われて、皿の上で佇んでいる。えらく高そうだ。そのケーキのさらに向こうには男が一人。同じ大学の友人で、二条という名前。休日にわざわざ俺を家まで呼び出して、何故かケーキを振る舞った。今、俺と二条は、一つのケーキを挟んで机に向かい合っている。謎めいた状況だ。
二条はコーヒーカップから口を話して、俺の方をねめつけた。
「お前の耳の話はいいんだよ。早く食え」
「だからさ、こないだ中華食いに行った時も言ったけど」
「嫌いじゃないだろ、ケーキ」
「うん。むしろ好き。いや、だから、俺はケーキも中華も好きなのよ。それで俺、コンビニの安いケーキでも冷凍食品のあんかけでも全然美味しく食べれるのね。でもそこで本物の味を知っちゃったらさあ、やっぱり安物は美味しくないの。俺貧乏だから舌が肥えても何一ついいことないわけ。まずいまずいって安物食べるしかなくなっちゃう。それだったら本物なんて知らずに安物で満足してた方が幸せなんだよ。それをお前はさ、いい店に連れ回しやがって。財布が痛むだけじゃないんだよこっちは。その後の生活にも影響あるの」
小さく美しいケーキは俺に崩されることなくそのままそこにある。来るたび目を回しそうになる二条の広い部屋の空気は、俺の情けない言葉なんて耳に入らないように、依然穏やかなままだ。
「どうせ食うなら良いもの食った方がいいだろ」
「だからさー、それは金持ちの論理なの。貧乏人には貧乏人なりの涙ぐましい処世術があるの。安いコンビニのケーキで俺は満足してるし。金持ちには分かんないだろうけど」
「……お前のその、変な論理は確実に人生つまんなくさせてるぞ」
「別に良いだろ。つまんなくたって。お前には関係ないよ」
初めて二条の部屋に来たとき、俺は本当に目を回した。話しぶりや入る店、付けてるものでなんとなくは感じていたけど、いざ実際に面積という形で財力を突き付けられると、頭がうまく処理しきれなかった。けれど熱くなる頭の内、冷えた一点で、冷静に、こいつとは分かり合えない、と確信もした。生き方が違う。そして生き方が異なるなら、たいてい考え方も違うのだ。
「なんかさあ、楽しいことがあったっていつか終わるじゃん。終わって悲しくなるくらいなら、そもそも楽しくない方がまし。それで多分、ずーっとこのまま。そんでいつか死ぬ。おしまい。だって一万円のヘッドホン壊れたらきついじゃん。日常食べるものが不味かったらつらいじゃん。どうせ死ぬのに、どうせ無くなるのに、良いことなんてあってもさ」
「つまんない人間とつまんない恋愛ばっかりしてる理由もおんなじか?」
耳に入ってきた急な言葉に驚く。え、と言いながら二条の顔を見ようとした瞬間に、口の中に何かが突っ込まれた。こっちに身を乗り出す二条と、次第に舌に広がる繊細な甘さ、目線を下に向けると、崩れたケーキがあった。口蓋に何かが触れる。なぞられる。
「つまんない一生だったからようやく死ねてうれしい、そんな人生最悪だ。死にたくない失くしたくない別れたくないって泣けるような人生じゃなきゃだめなんだよ。分かったか馬鹿」
短い爪の指が、ひっかくみたいにして口を出て行った。二条は再びソファに腰掛けて、今までのことが嘘だったみたいに素知らぬ顔をする。なにがなんだか。そもそもどういう行動だ。つまらなくない状況だということだけは、確かだけれど。
「……二条、俺と付き合って、俺に捨てられたら、お前泣く?」
「もちろん」
二条はすました顔でそう言ってのける。泣くのか、この男が。とうてい信じられないような気持ちだけれど、何故だか無性に笑いだしたくなる。
目の前のケーキはぐちゃぐちゃで、先ほどまでの微細な美しさはとうに壊れてしまっている。ちゃんとフォークを使えよ。馬鹿はそっちだろう。
舌に残る甘さと口蓋の感触。
「このケーキ、旨いな」と呟くと、二条が少し笑った。
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