後戻りできない





 いつも一緒の奴らがたまたま色んな用事でいなくなって、放課後の教室に変にだらだら残ってるのは俺と赤江くらいだった。窓際の赤江の机を見下ろすように、窓に寄りかかって立っている。赤江は俺と同じ向きを向いて自分の椅子に座っていて、だから俺には赤江の後頭部から頭頂にかけてが見えている。毎日面白みのないくらいに綺麗な髪の毛。西日に透けてほのかに金色だ。下らない会話が一瞬途切れて、俺が赤江の髪の金をぼんやり見ている空白の時間に、赤江の言葉がぽつんと落ちた。
「わたし、住崎さんのこと好きなんだ」
 赤江の表情が分からなかった。声は何か空気をかき乱すような響きを持っていて、もしかしたら赤江は真剣な表情でそれを言ったのかもしれない。しかし俺にとっては、その真摯な響きを打ち消すほどの驚きが、あげられた名前にはあるように思えた。
「住崎?」
 自分の出した声に、驚きと揶揄と心配が正しい配分で含められていることを確認する。驚きと揶揄と心配。俺の頭の中を占めるのは「よりにもよって」「なんでそんな」という言葉だ。どうして住崎なんか。
 住崎のことは知っている。同級生だ。住崎を見て受ける第一印象は「痩せてる」というもので、しばらく見ていると髪が痛んでいることや制服にしわがあること、猫背であることに気付く。住崎は声が小さくて、一回じゃ何を言っているか聞き取れない。クラスに居ても目立たなくて、行事やイベントで活躍したりはしゃいだりもしない。成績が良いわけでもないようだし、あいつになんの取り柄があるのか、クラスのほとんどの人間は分からないだろう。別に悪い人間じゃないんだろうけど、美点があるようには思えなかったし、わざわざ美点をさがしてやろうという気分にもさせられない。
「なんで住崎なの? ……なんか、普通、もっとほかにあるだろ」
「優しかったから。生理痛でお腹痛くて廊下でうずくまってた時に、住崎さんが声かけてくれて、保健室まで連れて行ってくれたの」
 淡々とした声は、俺に呆れているのかもしれなかった。けれどそれでもまだ俺には信じられない。金に光る茶色の美しい髪も、伸びた背筋も、慎重に計算されたスカート丈も、赤江の外側のすべてが、住崎なんかには惹かれないと訴えているようだった。
「優しかったって言っても、住崎、なんか俺とか赤江とかみたいにぱっと駆け寄っていくんじゃなくて、すごい周り見ておどおどしながら赤江に声かけたんだろうな。面白い」
 笑いながら言ってみた。赤江も笑うかなと思った。それまでの赤江なら一緒に笑ったような内容だ。だから、振り向いた赤江が、笑うのでもなく怒るのでもなく、ただ迷子の子供みたいな表情をしていたことに虚を突かれる。
「手が」
「手?」
 赤江がうわごとのように口走る。思わず俺もひそめた声になる。
「住崎さんとわたし、理科の実験の班が同じなの。保健室に連れて行ってもらってから、住崎さんのことが気になるようになって、それで、この間の実験の最中に、住崎さんの手がすごくきれいなことに気付いたの。白くて、指がまっすぐ長くて、平たくて細い指で、それ見てもうだめだと思った」
 赤江の目元が朱に染まって、恐ろしく長い睫毛が瞬いて、儚いのに鮮烈で、なんだか俺までつられて体の奥が熱くなった。病気がうつったみたいだ。
 色水が落ちた画用紙が、水滴の輪郭をなぞって鮮烈な色に染まるように、今にも立ち消えそうな雰囲気と生々しさが同居した赤江がそこにいた。薄いのか濃いのか分からないけど何かとてつもないものが繁殖して、一瞬で赤江を覆い尽くす。
「もうだめなんだ」
 呟かれた言葉に、今度は納得する。もうだめなんだろうと思った。もう彼女は元には戻れない。天啓みたいにそう思った。優しいところを好きになった、それだけならまだ大丈夫だ。抽象を愛しているならまだ回復できる。でも愛好の対象が具体になってしまったら、もう終わりだ。
 住崎の手を、赤江がどんな風に愛したいと欲望するのか考えて、底知れない気持ちになる。さっきまでただ綺麗だった女が一瞬で熱を持つ。
 西日はとうに終わっていた。それなのに、ただ感染した熱に浮かされて、そのままここから立ち去れない。心臓が鳴っていた。ただ人が恋するところを見ただけで。




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