目にはいるものぜんぶ





 小さい頃、家の本棚に、ある絵本があった。子供が不思議に思っていることに分かりやすく答える、一問一答式の教育本だった。そのなかに、「どうして目はこんなに小さくて、ビルはあんなに大きいのに、見ることができるのか」という質問があった。わたしは答えを見て、本を元の所にしまってから、母の元へと駆けて行った。夕食を作っている母の足元で、わたしはいま覚えたばかりの言葉を口にした。
「どうして、わたしの目はこんなに小さいのにさ、お母さんとか、おうちとか、木とかを丸ごと見れるの?」
 母はその言葉に手を止めた。そうして手を布巾で拭ってから、しゃがんでわたしの頭を撫でた。お前は面白いことに、よく気が付く子なのね。そういって笑った。母がそれを、幼い子のつぶやきという体で、ある新聞の、子供の詩のコーナーに投稿したことを知ったのは、少し後になってからだった。父も祖母も、まわりの大人はみんな褒めてくれた。保育園の先生に至っては、私の詩が載っている新聞をお昼ご飯の後で取り出してきて、皆の前で朗読した。凄いことよ、新聞に載るなんて。みなさん拍手。という先生の言葉に、皆が手を叩く中で、ある子が一人、わたしを小突いた。彼女はわたしの耳元でひっそりと、凄いんだね、と笑いを含んで言った。いまになって思えば、それは単なるからかいだったのだろうけど、その時のわたしは、まるで罪を見透かされたような気がしていた。
 わたしは大きくなっても、その罪を繰り返していた。知らないことをさも知っているかのように、また既知のことに関しては無知のように振る舞った。とうに答えを知っている疑問を教師にぶつけて、答えられるようなら当然とし、逆に答えられなかった教師は心の内で軽んじた。わたしがそういう振る舞いをするのは、大人を試しているという快感のため、それだけだった。そういう点でわたしは意地が悪かった。あの絵本の一件でも、わたしは母に対して答えを知っている質問をして、母が答えられないようなら、得意満面で答えを言ってやるつもりだったのだ。それが違う方向に行ってしまったのは偶然であり、つまりわたしの罪は、盗作でなく、大人を試す意地の悪さに他ならなかった。
 意地の悪いままで学校生活を送っていたわたしが、本格的に罪を犯したのは算数の時間のことだった。指導要領が終わってもまだ時間はたっぷりとあって、たまたまその日、教師は楽しい問題を出した。数式も一切使わない、自らの閃きだけで答えを導き出すパズル的な問題である。わたしは、教師の語る問題を聞いてささやかに緊張した。その問題は、以前に本で目にしたことがあり、わたしはその答えを知っていた。難しい問題だった。それなのに答えは単純で、これを解くのは間違いなく凄いことだった。
 なかなか答えは出されなかった。わたしは手を上げて、裏返った声で答えを言った。教師は笑って、正解を言い渡した。
「凄い、わたし全然答えなんか思いつかなかったよ」
 授業終わりに、同級生に声をかけられた。その同級生は、保育園で一緒だった、あのわたしを小突いた子である。わたしと彼女は一緒の小学校に進んでいた。当然わたしは、彼女のことを見るたびにひそやかな罪悪感に苛まれていたが、彼女とは割と仲良くしていたから、応対せざるを得なかった。
「うん、何かね、突然ひらめいたの」わたしは彼女にそういう嘘をついた。
 中学校に進学して、彼女とは別れた。しかし依然罪悪感は続いていて、心はずっと重かった。幼いころからあるわたしの意地悪さと虚栄心は、確実に日々をつまらなくさせていた。わたしの意地の悪いものの見方は、全部のものを矮小にしていた。
 わたしの目に映る全ての物が小さかった。わたしの意地悪な目以外は全て、わたしの目に収まるくらいの大きさしかないような気がした。

 ざあざあ雨が降っている。傘を滴り落ちる雫はぼたぼたとわたしの鞄を濃紺にしていった。しおりのひもみたいに頬に張り付いてのたくっている髪房を、耳にかける。
 目に映る世界は雨にけぶってぼやけていた。肩にかかる鞄の重さと、雨の日の気圧のだるさ、それと目前の褪せた景色が、ないまぜになって気分を重くしている。
 突然に視界がぶれた。よろめいて、背中を誰かに押されたのだと気付いた。誰なのか確かめようと振り返るとあの同級生の顔があった。
「久しぶり。結構会ってなかったね」
 その言葉に肯いた。一歩引いてよく見れば、急な雨降りのせいか彼女は傘を持っていなかった。
「雨宿りがてらに、少しお喋りしない?」
 彼女の申し出を了承して、軒下にふたりで入っていく。言葉はするすると出て来た。ふたりとも近況を話した。
 たくさん話して、少し沈黙があった。次の話題を探す彼女に、わたしの口から、思わず言葉が飛び出た。
「あれ、全部嘘なの。保育園の頃の詩も、六年生の時の算数も、全部」
 彼女が驚いた顔をしたのは分かっていたけれど、言葉は止まらずどんどん溢れた。自分のしてきたことを子細に語って、自分のいやな性格も、すべて話した。とても長い時間が過ぎた。話し終えて、息を吐き、彼女の顔を伺うように見る。
「よく分からないけど、泣くほどの悪いことでもないと思うよ」
 彼女の手が伸びて、わたしの涙を拭った。ぼやけていた視界が鮮明になった。雨に濡れた彼女は、纏った雨粒に光を受けてきらきらしていた。雨が止むほどの長い時間を話していた。
 澄んだ心で見る彼女は、悠然として大きかった。光に照ってあんまり眩しくて、目に入らないくらいだった。




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