二月の生活
目の前の梓の顔がぼやけて潤む。口からは勝手に引きつれるような声が出た。涙が頬を伝う感触が気色悪い。滲む景色の中に、梓の困った表情が見えて、なおのこと感情の収拾はつかなくなっていく。どんなに拭っても涙は止まらなくて、自分で自分が情けなかった。病気にかかったみたいだ。どうしてこんなにやりきれないのか、自分でもわからなくて、途方に暮れる。
「姉さん、泣き止んでよ。卒業式でも泣いたりしなかったのに、どうして」
上擦って困惑し果てた梓の声が聞こえて、それでも涙は止まらなかった。卒業式という言葉を聞いて、何が何でも泣き止まなければと頭は考えるのに、涙腺はその指示には従わない。
小学校を卒業して一週間後、引っ越しの前日のことだった。
困惑する二歳違いの弟の背後に積みあがる段ボールの、その一つに、弟が友人から贈られた餞別の品を丁寧にしまっていたことを、わたしはよく知っていた。父の転職の都合による引っ越しで、友人たちと最も不本意な別れを強いられたのは梓だったし、わたしたち家族はそのことをよく理解していたはずだった。
頭の中に友人たちの顔が浮かぶ。友人たちの言葉が浮かぶ。「最後まで木綿子と一緒で良かったよ」。「まあどうせ、行く中学違ったしね。向こうでも元気で」。友人たちの言うことは真実で、わたしは、たとえ引っ越しがなくたって、友人たちの多くと中学で離れることになっていた。友人の中には中学受験をする子もいたし、そもそも、この地区には複数の中学校がある。みんながみんな、同じ場所に進むわけではない。
この引っ越しは、わたしにとってはとてもタイミングの良いものなのだ。卒業による環境の変化も、引っ越しによる環境の変化も、重なったところで増幅するわけではない。むしろ重なったことで、まとめて一度にやり過ごすことができる。だから、わたしはまだ幸福だ。卒業と同時に引っ越しをするわたしより、小学四年生という中途半端な時期に転校を余儀なくされる梓の方が、ずっとずっと可哀想だった。そのはずだった。
卒業式では涙一つこぼさなかったのに、どうしてわたしは、友人と一緒に卒業できなかった弟の前で、馬鹿みたいに泣いているんだろう。至極冷静に動く頭に逆らって、心臓は引きつれるように痛む。自分でもわけがわからなかった。切なくて苦しくて仕方がない。
梓が、泣きわめくわたしを見かねて、おずおずとわたしの頬に手を伸ばす。頭の中に、ぱっと光景がひらめいて、心臓がもっと痛くなった。指が涙を拭う、その感触で思い出す。
「桐ちゃんと離れたくないの」
弟の指にはぼろぼろとわたしの涙が伝っていく。弟はわたしの言葉を聞いて、顔にあきらめの表情を浮かべてみせた。
*
物心ついた時から傍にいる人だった。お互いの家で、公園で、学校で、諍いを繰り返しながらも、いつも一緒に遊んでいた。年が近くて、大人びていて、桐ちゃんは遊び相手にぴったりだった。
自分自身でさえ掌握できないような部分で、わたしは彼女に慣れ親しんでいた。たまたま近所に住んでいた近い年の女の子。たまたま親同士気が合って、一緒に遊ぶようになった女の子。わたしの意志なんてそこにひとつも介在していない。それでも、それをなかったことにはできないのだ。むしろ、自分の裁量した物事より、ずっと深く尾を引いていく。生まれ持った自分の性質のようなものだった。幾度引き伸ばしても翌朝には癖のついている髪の毛のように、生半可な意志じゃ変えられない部分。いくら嫌がっても、いつかは引き受けなければならない部分。わたしの一番古い記憶にも、桐ちゃんの姿がある。そういうことは、もうどうやったって変えられない。
桐ちゃんと遊ぶのが当たり前だった。小学校に入学するときは寂しかったし、桐ちゃんが入学してくるときは嬉しかった。どんなにひどい喧嘩をしても、翌日には何でもないような顔をしてまた遊んだ。それが自然なことだったから。誰に教えられたわけでもないのに、それが当然だと思っていた。
家に訪ねて行って、いつも通りやる気のなさそうな顔の桐ちゃんを連れだして、なんでもないような遊びをする。それが日常の一環だった。母に世話をされて、父を見送り、梓の面倒を見る。桐ちゃんと一緒に居ることも、それらと同じだけの重さで、わたしの日常の中にあった。物心ついた時から傍にいる人だった。
桐ちゃんと一緒に遊んでいると、ごくたまに、周りの音が消えて、風景も遠くなって、しんと頭が冷えていくことがあって、そういうとき決まってわたしは、桐ちゃんがわたしに一番近い人なんだ、と真理に触れたような気分になった。全能感とも郷愁とも言い切れない気持ちでそう思った。大人には分からないことも、今のわたしの感慨も、桐ちゃんには全部伝わるのだろうと確信していた。そういう機会は、年を重ねるにつれて減っていき、小学校に上がるころにはほとんど無くなってしまったけれど、確かに、あの幼いころのわたしは、桐ちゃんを自分のかたわれみたいに思っていた。
成長するにつれて、賢くなって、人間の意志というものを尊んで、個人になって、決められた物事に抗って、そうして、なりたい自分になるために、自分を自分で成形した。そうするうちに忘れてしまう。一人でも生きていけるようになる。自分の身を裂かれるような寂しさなんて、あるわけがないと笑えるようになる。幼いころの感傷を振り払って、誰もが大人になっていく。
自分の知っていた桐ちゃんと異なる桐ちゃんに狼狽して、梓と自分を比べて不安になって、食事を共にできない程度のことで落ち着かなくなって、手を繋いだり傘を一緒に使うだけのことに照れて、子供みたいに悪夢を見て、離れることが寂しくて仕方がなくて、桐ちゃんを好き勝手に連れ回して、桐ちゃんに看病をさせて、桐ちゃんに自分を肯定してもらって、桐ちゃんの様子の変化に悩んで、桐ちゃんの前で号泣する。子供じみた情動は、どんなに頑張っても取り繕うことができなかった。今まで形作っていた自分が、桐ちゃんの前ではどんどんほどけて消えてしまって、わたしは、いつのまにか隠していた芯の部分を晒してしまう。そして隠れていたわたしの軸は、容易く感化され、変わって、揺らいで、わたしは大人なんて気取れなくなっていく。
作り上げた外面を崩してみれば、そこに横たわっている真実はずいぶん単純なものだった。多分わたしは、ずっと寂しかったのだ。
*
目を開くと、自分の前髪と、自室の白い壁紙のパターン模様が見えた。二三回まばたきをして、右手をつく。ゆっくりと上半身を起こし、伸びをした。身体に敷かれていた左腕がしびれている。
十五分ほどの仮眠のつもりが、本格的に寝入ってしまったらしい。カーテンの隙間からのぞく空はすでに黒くなっていた。思わぬ午睡に、自然と口からため息が漏れる。時計は十七時三十三分を示していた。
今はまだ春休みの初めで、わたしにはあと二か月ほどの休みが残っている。だから休日のたった三時間ほどを甲斐なく過ごしたくらいのことは、わたしにとって大した不利益ではない。しかし、午後四時を過ぎての起床は、何故だか、いつやっても惜しいことのように思ってしまう。外の暗闇が恨めしかった。
なんとなく身体がだるい。眠っていたはずなのに疲れていて、何故だろうと考える頭に、さきほどまで見ていた夢の内容がちらついた。そういうことか、と納得する。
小学六年生の時の夢だった。引っ越しの前日に、桐ちゃんと離れるのが悲しくて、梓の前ではばかりもせずに泣いた時の記憶だ。あのときは、本当に身を引き裂かれるように辛かった。
記憶の再現と、もたらされた自己内省の結論に、暗い気持ちがこみ上げる。無性に寂しくて、ふと、この気分をさんざん味わった夏を思い出した。
眠りの中の自分がひどくあけすけだったせいで、わたしは今まで目を背けてきた事実に突き当たる。あのときはあんなにも悩んだけれど、結局のところただ単純に、わたしは桐ちゃんと離れていることが寂しい人間なのだ。理解してみれば呆れるくらい簡単なことだった。会わない間に形作った外面が桐ちゃんに接することで崩れて、あの夏、とうとう誤魔化しきれなくなっただけの話である。ここ一年の自分のどうしようもない振る舞いの理由が一つに集約されていることを悟った今、もういっそ、今までの自分を笑ってしまいたい。
まだ少し、寝ぼけているのかもしれなかった。耳にかすかな音が聞こえてくる。きっと桐ちゃんが夕飯を準備しているのだろう。小学六年生の頃の自分の悲しみが波のように打ち寄せて、しばし呆然とする。急に、桐ちゃんの顔が見たくなった。
ベッドから降りて立ち上がり、歩いて部屋のドアを開ける。居間に入って後ろ手にドアを閉めると、台所で白菜を切っていた桐ちゃんがこちらを向いた。
「寝てたんですか。おはようございます。夕飯は六時ころですよ」
淡々と言葉を発する桐ちゃんが、今ここになんでもないような調子で居ることが、どうにも感慨深かった。抑えていた寂しい気持ちが沸き立っていく。
「木綿子さん?」と訝し気に問いかけられて、自分がまだ返答をしていなかったことに思い至る。「うん。寝てたの。今もちょっと寝ぼけてる」とだけ返して、桐ちゃんへと歩み寄った。桐ちゃんはわたしの挙動に首を傾げてから、とりあえず、といった風に手に持った包丁をまな板の上に置き、布巾で手を拭う。
「どうかしましたか」
答えずに、そのまま桐ちゃんに抱き着いた。うわ、と驚いた声が頭上で聞こえたけれど、構わずに背に手を回して、肩に顔を埋める。
「木綿子さん?」
桐ちゃんが困ったような声を出す。これが子供っぽい振る舞いであることは百も承知だし、多分小学生がするような行動だ。それでも、寂しい気持ちを解消するには、こうするのが一番いい。
気が済むまでそのまま抱き着いていた。しばらくしてから、少し拘束を緩めて、抱き着いた訳を説明する。
「夢を見ちゃったの」
「……夢ですか?」
「そう。子供の頃の。引っ越す前の日の。桐ちゃんにお別れを言って、家に帰って、そのあと、わたし寂しくて泣いちゃって、その時の夢。桐ちゃん、わたしがその日お別れ言いに行ったこと覚えてる?」
「ええ、覚えてますよ。私と喋っていた時の木綿子さんは、別に泣いてはいなかったと思いますけど」
桐ちゃんの手が、ゆっくりとわたしの頭に触れた。そのままぎこちなく撫でられる。
「この間梓と会った時、梓から聞いたんです。姉さんは引っ越しの前日大泣きしたんだよって。最初はあんまり信じがたくて、だってあの日のあなたは普通に笑ってたから。でも、よくよくあなたのことを考えてみたら、木綿子さん結構泣き虫だし、寂しがりやですもんね。大泣きするのも納得です。十一年も一緒に居た人間と離れることになったんだから、泣くくらいするでしょう」
今も寂しくて来たんですか、と聞かれたから、桐ちゃんを抱きしめたままで小さくうなずいた。もう寂しくないですか、と返されて、それにもうなずく。
「なら良かったです」
突然、身体が引き離される。え、と驚きを口にする間もなく、桐ちゃんはわたしの腕を解いてすり抜けた。そうして何事もなかったかのようにまな板の前に立ち、再び白菜を切り刻みはじめる。
「なんで? 照れてるの桐ちゃん」
「照れてないです。なんでじゃないですよ。もう寂しくないんでしょ」
こちらを一瞥もせずに、桐ちゃんはそう言った。桐ちゃんの手元には、適度な大きさに刻まれた白菜がどんどん出来上がっていく。あまりにも突然だ。さっきまであんなに優しかったのに。
「それはそうだけど」
「いつまでもああしてたら夕飯作れないじゃないですか」
「それはそうだけど……」
「まだ寝ぼけてるんですか。暇なら手伝ってくださいよ」
手始めに野菜室から大根持ってきてください、と言われて、一瞬反抗的な気持ちになったものの、結局わたしの足は冷蔵庫へと向かった。野菜室から半分にカットされている大根を取り出す。
「頭の方半分だけ使います。短冊切りで。葉も五ミリ間隔くらいで切ってください」
包丁を渡され、まな板の前の位置を譲られる。桐ちゃんはわたしに野菜を任せ、コンロの方へと動いてフライパンを準備しはじめた。胸のもやもやを含ませた視線を桐ちゃんに送っても、桐ちゃんにはちらともこちらを見る気配がない。
寂しさを解消したくてやってきたのに、どうしてわたしは今桐ちゃんと並んでご飯を作っているんだろう。確かにもう慰めてもらったし、寂しさも今はないけれど、やけに突然日常に引き戻されたから驚いた。眠気が覚めたとも言えるけれど、夢が覚めたとも言える。もう少し長く抱き着いていられると踏んでいた。別に一緒に料理することが嫌なわけじゃないし、こういうのも好きだけど、それにしたって急だった。頭を撫でられた時の感動を返してほしい気分である。
まあ、よくよく考えてみれば、寂しい気持ちは解消されているし、桐ちゃんは隣に居てくれているし、桐ちゃんの対応がそれほどまずいというわけでもない。どうせ照れているだけだろうし。部屋で目を覚ました時より、気分が軽くなっているのは確かである。寂しい気持ちの時は桐ちゃんさえ傍に居れば良い、という思考になるのに、いざ桐ちゃんに対面して寂しさが解消されると、どんどん要求が加速するのは不思議だった。今、わたしの隣には桐ちゃんが居て、心の底に立ち返ってみれば、それでわたしは充分満足である。
それに、抱き着いたら受け入れてくれるということが分かっただけでも充分収穫だ、と臆面もないことを考えながら、目の前の大根を半分にした。しばしこれからの手順を想像して、ピーラーを探して取り出す。
おたおたしながら皮を剥いていると、手元に視線を感じる。視線を辿ると、桐ちゃんの心配そうな顔がこちらを見ていた。
「危なっかしい……」
「任せておいてなんて言いぐさ」
「ピーラー使ってて危なっかしいってすごいですね」
「大丈夫だよ。怪我なんかしないから」
言い切って、手元の大根に意識を集中する。なんとか一周剥き終えて、ほっと一息ついた。
「ね、怪我しなかったでしょ」
胸を張って剥き終えた大根を掲げてみせると、「何よりです」と、若干引っかかる言い方で返答される。あえて言い返すことはせずに、課題である大根に向き合った。
まずは円柱を縦に半分にする。切りながら、そういえば包丁を握るのは久しぶりだな、と考えた。
「さすがに怪我はしないけどさ、久しぶりといえば久しぶりなんだよね、包丁握るの。ここ一年弱、料理はずっと桐ちゃんに任せきりだったから」
パン粉をまとったイワシの火の通り具合を確認しながら、桐ちゃんは「そういえばそうですね」と、少し嬉しそうに言った。
「たまにさぼりましたけど、結構ちゃんと作ってるんじゃないですかね。我ながらえらいと思います」
「うん。わたしを慰めることよりも夕飯を優先するくらいには、桐ちゃん真面目だからね。えらいえらい」
「まだ言うんですかそれ」
キッチンペーパーの上にきつね色のイワシを引き上げて、桐ちゃんが呆れた声を出す。だって、あんなふうに用が済んだ途端に距離を取られるとは思わなかった。なまじ最初の対応が優しかっただけに、余計にびっくりする。
桐ちゃんを横目で見る。全然分かってくれないんだから、という呆れを含ませて、わざとらしく言ってみた。
「もっと優しさが欲しいなあ」
桐ちゃんがフライパンからわたしに目を向ける。
その目が、想定していた反応よりもずっと真剣で、失敗した、と直感的に思った。冗談めかして言ったつもりが、きっと桐ちゃんには真剣な調子に聞こえたのだろう。桐ちゃんの表情は動かない。頭の中に、わたしに優しくしようと頑張る桐ちゃんの記憶が次々浮かんで、冷や汗が背中を伝う。嫌味なんかじゃなくて、単なる冗談だったのに。最悪なことをしてしまったかもしれない。
釈明しようと慌てて口を開いた。そして、言葉が飛び出すその瞬間、桐ちゃんが予想もしない言葉を口にする。
「木綿子さんは充分優しいですよ」
「え?」
思わず口から素っ頓狂な声が出た。わたしの反応に、桐ちゃんはゆっくり目を瞬く。
「えっと、今のは単なる冗談で、別に桐ちゃんが優しくないってわけじゃないからね……」
はてなが溢れる空気を打開しようととりあえず口から出した言葉は、喉元に準備されていた、先ほど発するはずだった言葉で、既に状況が変わった今ではひどく間抜けに響き渡る。桐ちゃんが訝し気な表情を浮かべた。
「今そんな話してました? 木綿子さんが優しくなりたいって話じゃなくて?」
桐ちゃんがとんちんかんな返答をする。何を勘違いしているんだろう。
「そんな話してないよ。なんでそういう風に思ったの」
「木綿子さんが『優しさが欲しい』なんて言うから。同居人の夕飯作りを邪魔せずに居られる思いやりが欲しいなあ、みたいな発言なのかと思って」
「違う違う。優しさが欲しいっていうのは、別に自分が優しさを身に着けたいってことではなくて、単に優しくしてほしいってこと。いや、別に今のままで桐ちゃん充分優しいから、あくまで『もっと優しくしてほしいなあ』って冗談を言っただけなんだけど」
おかしな勘違いをするものだな、と思いつつ説明した。というかやっぱり邪魔だと思われていたのか、と自分の行いを反省しながら、桐ちゃんの返答を待って、桐ちゃんの表情をうかがう。
桐ちゃんはわたしの言葉を聞いて、目を見開いたまま呆然としていた。思っていたような反応ではなくて、少し困惑する。上手く説明できていなかったのだろうか。
「桐ちゃん、大丈夫?」
桐ちゃんは戸惑った表情で、わたしから視線を逸らして、また向けて、そうしてとうとう、途方に暮れたような顔をした。桐ちゃんの瞳が揺れる。
「どうしたの?」
言葉を必死に探しているような困惑した表情で、桐ちゃんはわたしを見つめ、わたしと目を合わせた瞬間に、子供みたいな顔をした。桐ちゃんの口が、「木綿子さん」と小さく言う。
とうに六時を過ぎていることも、次第に冷めていくイワシの香草焼きも、放置されている大根も、その瞬間に、すべて頭から消えてしまった。音も、周りの風景もどうでもよくなって、しんと冷えた思考で、ただ桐ちゃんのことだけを考えた。
こめかみでどくどくと音が鳴っていて、少し遅れて自分の鼓動の速さに気付く。
桐ちゃんの口がかすかに開いた。瞳が潤んで、揺れて、頬に涙が一筋、綺麗にこぼれる。
「木綿子さん」
ぼろぼろと涙をこぼしながら、桐ちゃんはわたしを見つめて、木綿子さん、と再びわたしの名前を繰り返した。
思わず手が伸びる。桐ちゃんの頬に触れて、伝う涙を親指でなぞって、目じりを拭う。心臓がうるさい。血が沸騰する感覚に襲われて、爪の先まで鋭敏になる。親指の先で水滴が破れた。
「桐ちゃん」
「木綿子さん、私、あなたが」
初めて聞く声だった。涙を流すのに一生懸命のざらついた声。耳に入った瞬間に、心を動かす。
「わたし、あなたが、木綿子さんが好きなんです」
○
その性質が欲しいと思った。その穏やかでそこはかとない優しさを、心底欲しいと思った。そういう美徳が身近にあれば、私はいつだって強くあれるだろうと思った。だから必死で身に着けたのだ。自分のものになるように、その性質を備えた人をいつでも思い描いて、思い返して、なぞって、取り込もうとした。欲しくて仕方がなかった。その優しさを欲して、七年間ものあいだずっと努力して、優しくなろうと頑張った。自分のものにしたかった。木綿子さんの優しさを、どうにか取り込んで、自分のものにしたかった。
目の前がぼやける。頭の中が真っ白になる。欲しい。欲しかった。その性質が、優しさや温和が。ずっと、ずっとずっとほしかった。七年もの間、あんなにも強く欲しかった。木綿子さんみたいに優しい人になりたいと願う心のうちで、多分ずっと、木綿子さんに優しくしてほしかった。会って笑ってほしかった。
「優しさが欲しかったんです。ずっと、優しくしてほしかった。七年間、離れてた時、あなたにずっとそばに居てほしかった」
手を伸ばして、木綿子さんに触れて、抱きしめる。ずっと欲しかった。この人が欲しかった。自分のものにしたかった。優しい人になりたい。木綿子さんみたいになりたくて、ずっと。
「あなたみたいになりたかった。あなたを、自分の中にずっと置いておきたかった。あなたみたいに、木綿子さんみたいに、ずっと優しくなりたかった。ずっと、ずっと欲しかった。私、どうしたらいいんだろう」
木綿子さんの体温を感じて、涙はいっそう止まらなくなる。感情が緩んで揺れて、どうしようもなかった。泣くのなんて何年ぶりだろう。しばらく泣いていなかったから、止め方も忘れてしまっている。
自分は一人でも大丈夫な人間だと思っていた。だから木綿子さんと梓の引っ越しも、自分にとってそれほどの大事ではないと思い込んでいた。けれど木綿子さんがいなくなってから、どんなに自分の排他的な性質が人を遠ざけていたのか、どんなに木綿子さんの優しさが自分にとっての支えだったのかが分かって、それからはもうずっと、優しさを望む毎日だった。今やっと、その渇望が何であったか理解した。涙がこぼれる。こんなに熱いものだったっけ、と他人事のように思う自分と、今までの感慨に襲われる自分が、頭の中で争った。
「泣かないで、桐ちゃん、大丈夫だよ。泣くことないよ。今、わたしもよく状況が分かってないけどさ、わたしに関してのことで、桐ちゃんが不安に思う必要のあることなんて一つもないってことは断言できるから。安心して」
耳元で、木綿子さんが言った。木綿子さんの髪の毛が首に触れてくすぐったい。木綿子さんが手を動かして、私の頬に触れる。ぼやけた視界で、木綿子さんが笑ったのがかすかに見えた。
「桐ちゃんは桐ちゃんで、ずっと優しかったこと、わたしよく知ってるよ。ほらこうやってさ」
木綿子さんがゆっくりと、私の目を拭っていった。水の覆いを脱して、木綿子さんの顔が間近に見える。
「わたしが泣くと、おろおろしながら泣き止ませてくれたでしょ。覚えてる。桐ちゃんが優しいことなんて、わたしずっと知ってるよ」
だから泣かないで、とささやかれて、あふれる涙を再び拭われる。木綿子さんの肩に顔を埋めて、より強く抱きしめた。
「ほら、大丈夫だから。泣き止んで。……それにしても、桐ちゃんは、わたしみたいになりたいことを、わたしを好きだってことにするんだね。なんか照れるなあ。優しくしたいって言われたときと同じくらいくすぐったいよ」
木綿子さんが楽しそうに言う。
「ねえ桐ちゃん、寂しかった? 会えなかった間、どうだった? わたしはね、ずっと寂しかったよ。誤魔化してたけど、本当はずっとずっと寂しかった。会いたくて仕方なくて、桐ちゃんに傍にいてほしかった。離れてるのは苦痛で、本当に、自分の身が引き裂かれるような気持だったよ。桐ちゃんはわたしと別の人間なのに、そんな気ぜんぜんしなかった。そういうのって、桐ちゃんがわたしみたいになりたいことと、似たようなものかもね。そしたら、じゃあきっと、わたしも桐ちゃんのこと好きなんだ。ずっとずっと好きだったんだ」
そう考えると意外と単純な話だね、と続けて、木綿子さんがわたしの背中に手を回す。体温が移って混ざる。今熱く感じる木綿子さんの手も、数分もすればすっかり馴染んでしまうだろう。
涙がゆっくりと引いていく。それにつれて体温はどんどん混じって、同じになっていく。
「桐ちゃん」
「はい」
「もう泣き止んだ?」
「はい」
鼻を鳴らして言うと、木綿子さんは私の髪に手をやった。そのまま緩やかにあやされる。
「それはよかった。桐ちゃん、普段はあんまり泣かないもんね、わたしと違って子供っぽくないし。なんか不思議な感じがするな。もしかしたらわたしの涙もろいところがうつったのかも」
木綿子さんが私と目を合わせて、赤くなってる、と呟いた。自分がどんな顔をしているか想像もつかない。急に気恥ずかしくなった。あんまり見ないでください、と言って、再び木綿子さんの首元に顔を寄せる。木綿子さんが私の背を撫でた。
「桐ちゃん、よく考えてみてよ。桐ちゃんは昔から優しいし、それに、もうすっかりわたし達似てきちゃってるよ。一緒に住んでるうちに、好みも、だらしない癖も、お互いうつっちゃってる。突拍子もないところなんて、わたしそっくり。急に泣き出して好きだなんて言うから、びっくりした」
嬉しいけどね、と続けて、木綿子さんは私から体を離す。隙間が空いて、それがどうにも名残惜しかった。その空気が寂しくて、木綿子さんも、同じように寂しかったらいいと思う。
「木綿子さん、私、あなたが好き。木綿子さんが私と同じだったら、すごく嬉しい」
だから同じになって、とすがった。
周りの視界が褪せて、木綿子さんのことだけしか考えられなくなって、今までの人生全部が新しく改められていくような心持になって、目を閉じる。祈りみたいだと思った。同じがいい。ずっと同じが良い。ずっとあなたみたいになりたかった。
同じ温度の手が、私の手に触れる。目を開いた。木綿子さんが私の手を握る。
「わたしも桐ちゃんが好きだよ。同じだね。お揃いだ。ずっと一緒に居たいと思うし、きっと、ずっとずっと前から、とっくに、同じだったよ、わたし達は。そしてもっと同じになったんだ」
木綿子さんはそう言って、私と目を合わせて笑う。見慣れた笑顔だった。思わず私も嬉しくなった。
手を引っ張って、また抱きしめる。木綿子さんが胸の中で「情熱的だ」とけらけら笑った。嬉しくなる。泣きそうになる。多分木綿子さんもそうだと思う。
このまま、人生も生活も同じになって、最後には心臓のはやさまで一緒になる。そういう未来を思い描いて、幸福な気分になる。あわせたその目の色で、相手が同じ気持ちであることを知る。
共有している。おそらく最後の一瞬まで。幸せな予感だった。
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