三月の帰宅
一人暮らしの木綿子の家に新たな人間を迎え入れることが決まったのは一か月前のことだった。まだ桜が咲くのには早い時期、ちょうど寒さのほどけてくる季節、木綿子は自宅から三駅離れた実家へと呼び出された。家を出る前と特に変わったところもない母親は、何気ないような調子で、過去の人の話をした。
「昔、あんたも梓も小学生くらいのとき、私たち砂町のほうに住んでたでしょ、そのときに近所に桐ちゃんて子が居て、あんたたち仲良くしてたじゃない。覚えてないかな」
木綿子の頭に、細く薄い身体をした口数の少ない子供の姿が浮かんだ。たまに出る言葉の鋭さと、骨の浮く尖った華奢さとで、幼い木綿子はその少女の「桐」という名前を、当たり前に「錐」のほうだと考えていたのだった。木綿子より一つ年下のその少女が小学校に入ってしばらくして、「西尾 桐」と記名するのを見て初めて、ああ工具の錐のほうでは無かったのだ、と馬鹿な勘違いに気付いたのを、木綿子はよく覚えている。
「覚えてるよ。桐ちゃんね。わたし桐ちゃんの名前さ、あの穴開けるほうの錐だと思ってたんだよね」
「変なことばっかり覚えてるね。まああんたの勘違いはいいのよ。話を戻すとね、私たちがこっちに引っ越したあと、桐ちゃんたちも砂町を出て千葉のほうに行ってたんだって。それでその桐ちゃん今年から大学生なのよ。東京の大学に受かったらしくて、千葉から通うのもできないことないけど億劫でしょう、東京に家を探しているって話をこのあいだ私、桜子さんから聞いたのね、それでさ、あんた、あの家あんた一人じゃ広すぎるでしょ。桐ちゃんと一緒に住むっていうのはどう」
母親の語りの結論に、木綿子は目を瞬き、そして今住む家のなかみを思い描いた。母親の知人の見崎という男から借りている木綿子の家には洋室が三間あり、確かにそれは庶民かつ貧乏な大学生にとっては異質なことだった。部屋に招いた友人たちが軒並み驚いていたのを思い出す。木綿子自身も、台所に面した一室を居間として、もう一つを寝室として使っていて、あとの一部屋を持て余している。木綿子は持て余した一室に適当な荷物を置きながら、いずれ弟の梓が大学生になったときにここに住むのだろうと考えていた。
「わたし、お母さんがあの部屋を持ってきてくれたとき、梓といずれ一緒に住ませるために、あんなに広い部屋を見崎さんに頼んだのだと思ってたよ。梓はどうするの」
「最初のころは私もそういうつもりだったけど、前に梓にそのことを話したら、とんでもないって言うのよね。大学生になってまでなんで家族と住まなきゃいけないんだ、だって」
「ああそうなの。何がいやなんだか全然わかんないけど」
「ねえ。一人暮らしなんて大変じゃない。家族なら気も楽だと思ったんだけど、あいつはどうも違うみたいね。まあ梓の考えることは、もう昔っから私全然見当もつかないもん」
母親の口調が愚痴めいたものになり始め、木綿子はいささか気まずい気持ちになる。母親の愚痴を聞きたがる長女など一人だって存在しないだろう、と木綿子はかねてから思っている。
「ねえ、桐ちゃんはそのこと、了承してるの? わたしと一緒に住むってこと」
梓の行状から母親の意識を逸らすため、木綿子は話を元のものに戻した。
「ああ、桜子さんのほうから伝えてもらって、桐ちゃんは良いって言ってるって。だからもうあんた次第よ。どうする。別にいやならいやでもいいわよ。私と桜子さんの仲が気まずくなるだけだから」
あからさまに皮肉気な母親の口調に木綿子は苦笑する。
砂町を引っ越したのは木綿子が小学校を卒業するときのことであったから、桐と離れてから七年ほどの時が経っていることになる。その間、年賀状などの形式的なやりとりや、偶の電話越しでの会話はあったものの、木綿子は長い時間を桐と共有していない。そこに関しての不安は多少あったものの、しかし、不安はそれのみであると言うこともできた。木綿子の記憶の中での桐は、そっけない性格であるものの、不愉快なところは少しもない子供であった。だから木綿子の不安は、七年の間に桐の性質が木綿子のなじめない方向に変質していないかということと、七年越しのやりとりが齟齬を生まないか、という二点だけである。その二点も、悪い想定に過ぎないものであったので、木綿子は明るく笑って母親に返答した。
「わたしは全然かまわないよ。久しぶりだから楽しみなくらい」
持て余していた一室をきれいに掃除して、ついでに台所や居間も片づけて、少し迷って自らの寝室も整えて、木綿子は自宅を後にした。最寄り駅まで桐を迎えに行くのである。三月も後半になって、外気の健やかさは著しい。今日は桐を連れて一旦家に戻ってからは、近所を案内するつもりだった。明日は桐の入学する大学まで二人で行ってみる予定である。センター利用入試で大学に受かった桐は、まだ自分の通う大学に訪れたことがないのだという。オープンキャンパスにも行かなかったということは、もしかするとその大学への入学は桐の本意ではないのかもしれなかった。そこのあたりはあまり詮索しないようにしよう、と木綿子は決めている。
木綿子の通う大学と、桐の通う大学は異なるが、ちょうど木綿子の家を境に、対称になるようなところに位置していた。どちらも家から徒歩で十分ほどの距離である。
木綿子の家は中途半端に緑に埋もれているアパートの一室である。アパートは南北に伸びた直方体の三階建てで、二階と三階に三部屋ずつがあり、一階は管理人室が占めている。木綿子は三階の一番北の部屋である。驚くほど静かなアパートで、木綿子はほかの五部屋に住人がいるのかどうかすら知らなかった。
アパートを管理している見崎という人は木綿子の母の古い知人であり、柔和な笑顔と猫なで声が印象的すぎる男だった。部屋を格安で貸してもらっている身であまり滅多なことは言えないが、つまりは胡散臭い印象を与える男である。
桐は見崎のような男が嫌いだろうなと考えて、木綿子は自らに対して呆れてしまった。桐のあの素っ気なく労りなく直情的なところを、木綿子は頭でなく体で覚えているのだ。七年の間を隔てて、桐だって成長しているだろうに、そのことを考えに入れずに、見崎に素っ気ない態度をとる桐の姿を思い浮かべてしまっている。駅まであと少しというところで、木綿子は急に不安が増大するのを感じた。桐の性質が様変わりしていたら、自分は果たして桐とうまくやっていくことができるだろうか。
木綿子が単純に思い描いた、木綿子が会うのを楽しみにしている桐は、七年前の桐がそのまま成長した桐である、ということにやっと気づいて、木綿子は焦る。不安は心内にくすぶり、足取りは重くなった。
三分ほど歩いてから最寄り駅の南口のほうに到着し、桐の姿を探そうとしたところで、自分自身が桐の背格好について何の情報も有していないことを、木綿子はやっと思い出した。
「ああ、もしもし木綿子です。桐ちゃんはもう着いてますか。私は南口の、うん、改札の外。オレンジのコート着てる」
木綿子は携帯電話を取り出して、桐の母親である桜子と木綿子の母親を介して手に入れた桐の電話番号を呼び出し、電話をかけた。偶のやりとりで耳にした声とそう変わらない、落ち着きのあるかわいた声が耳に入ってくる。桐ももう着いてはいるが、改札の中にまだいるようだった。南口のほうへ来て木綿子を探すと言う。
「木綿子さん!」
声のするほうに目をやると、黒く短めの髪をした細身の女性が手を振りながら改札を抜けている。腕や脚の細さと大きな荷物が、かわいそうなくらい不釣り合いで、木綿子は思わず駆け寄った。荷物を半分受け取りながら声をかける。
「たいへん、重かったでしょ。半分持つよ」
そして自分より高い位置にある顔へ目を向けた。
ボブの黒髪はきれいにまっすぐだった。前髪からのぞく目は、深く暗い色の瞳を持っている。薄いくちびるに見覚えがあった。桐が、皮肉気に笑うのがたいそう似合う少女であったことを木綿子は鮮やかに思い出した。
「桐ちゃんだ。ひさしぶり」
幼いころの親しい人間が目の前にいることが、予想以上に幸福で、木綿子ははしゃいだ声を出す。そうだった、桐はこういう少女だった。いつでも他人のことに冷静で、何事にも億劫そうで、そういう態度を隠そうともしないところと意地悪な頭の良さで、周りからよく反感を買っていた子供だった。人をからかうのが得意だけれど、一転自分のことになると、その直情的なところが不利になる、そんなところが可愛かった。桐の、人をからかうときの嫌味な、だけど木綿子と梓からみれば至極楽しげな笑みや、弱みをつかれて拗ねる表情を思い出して、懐かしさと愛おしさが自分の心にあふれるのを木綿子はひしひしと感じた。
「木綿子さん、おひさしぶりです」
だから、最初の挨拶をした桐がにっこりと笑って見せたとき、その健やかさと記憶の中の桐の笑顔とのあまりの差異に、木綿子は少し面喰ってしまった。
「お邪魔します」
そう言いながら桐は靴を脱いで、弁当の入ったレジ袋を廊下に置いた。駅から一度家へ帰り、桐の荷物を部屋に置かせ、桐の実家から届いていた荷物の確認をさせた木綿子は、桐を連れてまず見崎のところへ挨拶にいった。見崎はいつもの柔和な笑みと猫なで声で桐に挨拶してみせ、桐はそれに対して愛想良く応え、礼儀正しい挨拶をした。木綿子はそれが少し胸に痛かったが、その心内を詳しく考え込むのは止して、桐を連れまわすことに執心した。一番近くのコンビニ、少し足をのばした先にある図書館や商店街、良心的なスーパーなどを案内し、途中の自転車屋で桐の分の自転車を購入するかどうかを話し合ったりした。帰りにそのスーパーで弁当を購入することに決めたが、いざレジに並んだときに、きちんと料理を作ってふるまうべきだったかもしれない、と木綿子は少し後悔した。
コートを脱いで手を洗ってから、居間に座って二人で食事を始める。木綿子が砂町を発ってから今までのことを話せば、桐も千葉での生活を話した。木綿子と梓のいない桐の生活を、二人がとても心配していたことを話すと、桐が困ったように笑った。
「確かに最初は、木綿子さんも梓もいなかったから、周りに誰も仲いい子いなくて、大変でした。でもちゃんと、友達作れるようになりましたよ。中学も高校もたのしくやれました」
先ほどから、自分の心内の調整が狂っているような気がする、と木綿子は思った。木綿子と梓のいない七年間を桐が楽しく過ごしたことは、とても喜ばしい報告であるはずなのに、不思議に自分は喜べない。にこやかに笑い、礼儀正しくある桐と、自分の記憶の中の桐の差異への違和感はますますひどくなる。駅で桐の顔をみたとき、確かに桐だと思って木綿子は喜んだし、母親から話を聞いてからの一か月、木綿子は桐に会えることを楽しみにしていた。今の桐はとても好ましい人物である。昔の桐に比べてみたら、はるかに好ましい人物のはずだ。それなのに木綿子はそれをちっとも喜べないのである。
木綿子は昔、自分が桐によく泣かされていたことを思い出す。桐の癇に障ることを言って、鋭くやり返されて悲しくなって、自分のほうが年上なのだからと頑張っても、こらえきれず涙があふれる。そういうことが何度もあった。そして、自分が泣くのを見て、そのたびに桐が狼狽して下手な慰めをし始めるのも、思い出した。
「そうか、じゃあ大学も楽しみだね、桐ちゃん。大学も楽しいこといっぱいあるよ。やっぱり行きたい大学に行くとやる気もあがるし。桐ちゃんの行く大学って第一志望だったの?」
ぼんやりとした考え事をしながら思わず出した自分の言葉に、気付いて木綿子ははっとした。触れないようにしようと、自分自身が決めたことだった。
桐の様子をうかがう。怒られても仕方のないことをした、と木綿子は思った。
桐は笑って言う。
「いや、第二志望なんです。第一志望のほうは馬鹿やって落ちました。まあ単純に努力不足かも。でも、切り替えて頑張りますよ」
「……そうなの。ごめんなさい。変なこと聞いちゃって」
「別に全然かまいません」
本当に気にしていないように、桐はまた弁当を食べ始めた。その後も他愛もない会話が続いたが、木綿子の心内の調整は依然狂ったままだった。
携帯電話の着信音が響いて、木綿子は慌てて飛び起きた。着信は桐の母親の桜子からである。時刻は十二時で、早めに就寝した桐は壁一枚隔てた隣で眠りについているだろう。一人暮らしゆえこの部屋の壁の薄さがどれほどのものかはわからないが、気を付けるに越したことはない。着信音が桐を起こしていないことを願って、木綿子は電話にこたえる。電話から桜子の声が聞こえてきた。
「ああ、木綿子ちゃん。ごめんなさいね夜中に。少し迷ったんだけど、やっぱり電話しようと思って。桐、迷惑かけてないかしら」
「いえ、お気になさらないでください。全然迷惑なんてかけられてないですよ。礼儀正しくて、なんだかびっくりしました。わたしのほうが迷惑かけちゃうと思います」
「あら、そうなの。家じゃ少しも成長しないで、態度も悪いし屁理屈ばっかりだから心配してたんだけど。じゃあうまくやれてるのかしら。まあいざむかつくことがあったら放り出していいからね。木綿子ちゃん」
木綿子の頭の中で、桜子の言葉が繰り返される。意味を理解して、狂った感覚が騒ぎ始める。
「いえ、そんな。わたしも同居人として頑張っていきたいんですが、力になれるかわかりませんし」
おざなりな返答をどう思ったのか、桜子は笑い声を立ててから、もう眠いわよね。ごめんなさい。何かあったら連絡頂戴ね、桐をよろしくお願いしますと述べ立てて、ゆっくりと電話を切った。木綿子は停止した会話を終了させ、携帯電話を枕元に置いて、再びベッドに寝そべる。
(家じゃ少しも成長しないで、態度も悪いし屁理屈ばっかり)
桐の内実が変わっていないことに、木綿子はびっくりするくらいの安堵を覚え、そしてそれが自分に対しては取り繕われていることに気づき、再び暗い気持ちになった。
買い置きの食パンを焼いてバターを塗る。いつもならこれだけで済ませてしまうのだが、さすがに今日は、と思いながら木綿子はベーコンの入ったフライパンに卵を落とす。木綿子は料理があまり好きではない。
「おはようございます」
後ろのほうで声がして、振り返ると桐が申し訳なさそうに立っている。支度はもう済ませているようで、髪や衣服に乱れはなかった。
「まだ何かやることありますか。お手伝いします。初日からやらせてしまってすみません」
「いいんだよ。昨日かなり疲れたでしょう。今日ぐらいはわたしがやるよ。味は保証できないけど」
「美味しそうですよ。いいにおいがします。でも、そういうのも決めないといけませんね。料理とか掃除とか買い出しとか。そういう当番」
「そうだね。わたし料理苦手だからな。そういうのも加味しよう」
言いながら、木綿子は、まるで他人同士の会話のようだと思った。少なくとも、過去にある程度の時間を共有した人間同士がする会話ではない、と思った。
料理が出来上がって、木綿子は暗澹たる気持ちになったが、結局、崩れかけた目玉焼きに文句も言わず、桐は美味しいですよ、と言いながら完食した。木綿子からすれば白身の火の通り加減もおかしかったし、とても美味しいとは思えなかった。
「今日は大学のほうまで案内してもらうということで良かったですか」
「うん。そのつもりだよ」
「何時ごろ出ますか」
「用意ができたらもう出ちゃおうと思ってる。たぶん今くらいの時間なら人も少ないだろうし。最寄駅から大学までの道がね、割と混むの。そうなると結構歩きにくいから」
なるほど、と桐が合点したように言う。地図を見る限りでは、この家から桐の大学までの道には、途中大学最寄駅からの道が合流する形になっている。大学最寄駅から大学までの道の混雑は、毎朝嫌というほど体感している。人が多いと自分の歩調で歩けないのだ。
桐に譲ってもらって、先に洗面所で支度をする。最低限の準備だけして桐に洗面所を空け、寝室で着替えと化粧をして居間へ出た。桐の支度も済んでいる。
二人で玄関へ入ったときに、木綿子は桐の靴が神経質なほどきれいに並べられているのに気付いた。昨日の夜、帰宅したときに桐が「お邪魔します」と言ったことが急に気にかかった。
「どうしました、木綿子さん」
桐が心配したように問いかける。言葉につまって、木綿子は「何でもない」と返し、ドアを開けた。
音を立てながら階段を降りる。外は少し肌寒かった。
「えっと、まずはいったん大通りに出たほうがいいですよね」
「そうだね。桐ちゃん地図持ってる?」
「持ってます。出しますね」
二人は、入学案内の最後のページにのっている簡略化された地図を覗き込む。
「大通り出て、五百メートルくらい歩く」
「神社のところあたりまでだね。そこで左に曲がると、あとはもう一直線。この道が大学と駅つなぐ道だから」
歩き出してしばらくすると、大通りに出る。家から大通りの道までを覚えるほうが大変かも、と桐が小さくつぶやいた。
大通りに出てからは簡単で、神社で曲がるとちらほらと学生らしき姿が見え始める。ほどなくして着いた大学の門の前で、桐は感慨深げに立ち止まった。
「中に入らなくていいの?」
「どうしよう。入学までとっておきたい気もします」
「じゃあそうしようか。そのまま家まで帰る?」
「あ、なんかこの辺公園あるみたいなこと聞いたんですけど、木綿子さんわかります? もしわかるなら、そこ寄ってから帰りませんか」
ここです、と桐は地図の端を指さす。あそこの公園だな、と見当をつけて、木綿子は地図から桐の顔へと視線を移した。
「わかるよ。何回か行ったことあるから」
木々や水や遊戯施設の多い公園で、利用する近隣住民が多いのはもちろんのこと、割と遠くからも人が訪れる。テニスコートもあるため、まだ実家に住んでいたころ、行きたがる梓を連れて、木綿子は何度もこの公園を訪れたことがあった。
大学を回り込んで公園へ向かう。春の初めは、暗い緑の木が多いなと木綿子は思った。これが夏になると、一気に明るい緑がざわめくようになる。桐と一緒にそれを見ることも当然ありえることだろうが、不思議なほどに、木綿子は桐と一緒にこれからを過ごす情景を思い描くことができなかった。
隣を歩いている桐が、どうしてこうも現実味がないのだろうと考える。自分と桐のあいだに、透明な壁が一枚あるようだと木綿子は思った。そしてその壁を形成したのが自分なのか桐なのか、もはや木綿子にはわからなかった。初めは、桐が自分に対して他人行儀であるのだと思っていた。しかし、その他人行儀な桐を拒んでしまっている自分にも責はあるような気がする。ぐるぐると思い悩む木綿子の隣で、桐が小さくくしゃみをした。木綿子ははっと我に返る。
「桐ちゃん寒い?」
「いや、大丈夫ですよ」
「でも、風邪ひいちゃったら大変だよ。入学初めに欠席続きだと厳しいことになるし……」
木綿子は周りを見回す。そろそろ公園の入り口あたりに差し掛かったところである。木綿子は記憶をたどって、もう少し中に入ったところに自動販売機があったのを思い出した。
「気休めだけど、なんか暖かい飲みもの買ってくるよ」
木綿子はそう言ってコートを脱いで桐に渡す。
「いいですよ木綿子さん、大丈夫です私」
「いいからいいから。そこで座って待ってて」
それだけ言って、答えは聞かずに木綿子は駆け出した。風が吹き付けて露出している肌が痛いくらいだが、桐の隣にいるときよりもましな気分だった。
桐と一緒にいるとわくわくした。桐なら何でもできるのだと思っていた。自分よりも年下なのに、ずっと格好良かった。あまり強くものが言えなくて、いつも人に流されてばかりの自分には、桐がとてもまぶしかった。木綿子は昔のことを思い出す。昔の桐を思い出してしまう。桐と梓と三人でいつも遊んでいたけれど、偶に喧嘩もあった。桐は、人を慰めるときに、ものすごく乱暴に涙を拭うのが常で、それは今木綿子が思うにはひどく不器用な方法だけれど、幼い木綿子はそうされると不思議にすぐ泣き止んだ。あの冷たく細い指を覚えている。思い出す。
暖かい飲み物を買って、熱いくらいのそれを冷ますように両手で交互に持ちながら道を戻る。自分は桐に昔のようになってほしいのだ、ということがわかって、木綿子は居たたまれない気分になった。七年間の重さを思った。
桐を置いてきた場所に人影が二つあるのを見て、木綿子は足をはやめた。不安に加速する鼓動と比例するように、歩みも速くなっていく。誰だろう。変な人じゃないといいけど。言いがかりをつけられたりしてないだろうか。
人影がはっきり見え始めたところで、木綿子は足を止めた。桐と話していたのは弟の梓であった。確かに、梓はよくこの公園を利用するので、おかしいことではない。桐と木綿子が同居を始めることは梓の耳にも入れている。たまたま公園に来て、姉の使っているコートと似たものを着ているなと目にとめた人物が、かつての幼馴染の面影をしていたら、声をかけるのもおかしいことではない。全く予想の埒外の人物であったから驚いたけれど、まあ不思議な偶然だ、と木綿子は思って、再び足を進めようとしたときだった。
この位置は二人の会話も聞こえてくる程度の距離なのだ。
「なんでお前がこんなところにいるの」
「居ちゃだめなのかよ。テニスコートあるから。よく来るの」
「勉強しろよ受験生」
「言われなくてもやってるよ。それでお前は本当に性根が悪いな。久しぶりの再会で挨拶もそこそこに幼馴染を蹴るか普通」
何言ってんの、嬉しいくせに、と言って桐が昔のように笑ったのが見えた。木綿子の体から力が抜ける。
中身の入った缶が落ちて嫌な音を立て、梓と桐が木綿子のほうを振り向いた。桐が目を見開いて、梓は顔をしかめる。
「なにやってんの姉さん。缶、落としてるよ。せっかく買いに行ったんでしょ」
「わたし、帰る」
「え?」
居ても立ってもいられなくて、木綿子はその場から駆け出した。後ろで梓が驚いているのがありありと想像できる。木綿子自身にも、自分がどういう行動をしているのか、はっきりわからなかった。
駅での桐の笑顔と、見崎に対する桐の態度、神経質に並べられた靴、「お邪魔します」という言葉、梓に対しての笑顔。全部がないまぜになって木綿子の頭の中で暴れている。だめかもしれない、と木綿子は思った。このまま同居を続けて、桐にずっとあの態度を取られたら、自分はおかしくなってしまう。梓への態度と自分への態度の違いに泣きたくなってしまう。そうして昨日の晩のように、不用意に桐を傷つけることを言ってしまうかもしれない。だいたい桐だって、わたしと同じ家じゃ気なんて休まらないだろう。もうだめだ。
公園から家への、通常は五分ほどの距離を、木綿子はどのくらいの速さできたのか見当もつかなかった。足がもつれていたような気もするし、速く走れたような気もする。部屋に入って鍵を閉め、玄関に座り込んだ。
何がこんなに苦しいのか、木綿子にはまったくわからなかった。ただ頭に、桐の梓への笑顔が浮かんで、もうだめだ、と頭が結論を出すことの繰り返しだった。
携帯が突如音を立てて、木綿子はびくりと身を震わせた。着信は桐からだ。また頭に昔の桐の記憶が浮かんで、木綿子は耳をふさいで目を閉じる。桐の記憶を振り払おうとする。
突然背にドアが打ち付けられて、木綿子は驚いて目を見開いた。ドアが外側からたたかれたということがわかった。
「木綿子さん、聞こえてますか。何が何だかわからないんですけど、とりあえず中入れてください」
「や、やだ」
「どうしてですか」
「だって、桐ちゃんと、一緒に住むの、上手くいかないの。桐ちゃんが七年前と違うとかそういうくだらないことばっかり気にしちゃって、桐ちゃんがこの家になじめるかとか全然配慮できなくて、わたしが気を遣わせてるのに、こんなんじゃだめなのに」
桐の声に応対して、自分の理由を話しながら、木綿子は情けなくて泣きそうになる。
「私が七年前と違うってどういうことですか」
「桐ちゃんは、そんなに礼儀正しくて、やさしくなんかなかった。桐ちゃん他人みたいなんだ、わたしに対して。梓には違うのに。わたしばっかり遠いみたい。わたしはそれがすごくすごく嫌なの。悲しくなるの。だからそういう桐ちゃんと一緒に過ごすの、悲しくてだめになる」
いよいよ涙が溢れてきて、声が引きつって、木綿子はこらえきれずに泣いてしまった。
桐がドアの向こうでため息をつく。
「木綿子さん、泣かないでください。泣かせたいわけじゃないんです。別にあなたを遠ざけてるわけじゃないんです。ただ欲しくなって。あなたの性質を」
考えているような間があってから、桐の言葉が続く。
「あなたと梓が引っ越してから、いろいろなことがうまくいかなくなって、それであなたのことを思い出したんです。いつも笑ってて、丁寧で、穏やかで、それが、急に欲しくなって、それさえあれば何でもできるんじゃないかと思って、頑張ってあなたの真似をしたんです。そしたらうまくいくようになって、友達もできるようになって。母から木綿子さんとの同居の話を聞いたときに、木綿子さんにも同じように接してみようと思ったんです。あなたの前で完璧に、あなたの性質を演じられたら、私はその性質を手に入れたことになるんじゃないかと思ったのと、あと単純に、あなたと遊ぶのは心地よかったから。あなたの態度とかがそうさせてるんだろうなと思って。木綿子さんがやるように木綿子さんに接したら、木綿子さんも、私みたいに心地よくなるんじゃないかと思ったんです。まあ結果的に全部大失敗なんですけど。……わたしは木綿子さんと梓がいなくなるまで、結局のところ自分は一人でも大丈夫だと思ってて、だから木綿子さんと梓に嫌われても構わなかった。でも二人がいなくなってから、二人の必要性に気付いて、特にあなたは、あなたの持つ性質が欲しくてたまらなくなってからは、あなたにだけは嫌われたくないんです。梓といると地金がでちゃうし、あなたといるときも何度もそうなりかけたけど、でもあなただけは、不愉快にさせたくないんです」
少しの間の後に、がちゃん、と音を立ててドアが開く。よろけた木綿子を抱きとめて、桐は再びため息をついた。
「それにしたって、こんな下らないことで泣かないで下さいよ」
木綿子が呆然とした顔をする。
「なんで開いたの、鍵閉めたのに」
「あんたさあ、ここ私の家でもあるんですよ。鍵持ってますって」
木綿子の目から涙が溢れて、桐は慌ててその涙をぬぐった。木綿子の目が赤くなる。
涙を拭い去った細い指の感触が記憶通りであったことに自分でも驚くほどの安堵を覚えて、木綿子は桐に身を預けた。桐は、心配と複雑が入り混じったような表情をしている。まるで幼い頃のように。木綿子は桐の顔を見上げて言った。
「桐ちゃん、この家、桐ちゃんの家になれるかな?」
「そのつもりですよ。昨日からとっくに。あんたは違ったみたいですけど」
桐の言葉に木綿子が笑う。昔の桐ちゃんだ、と弾んだ声を出したのを聞いて、桐が腹を立てたような顔をする。
「おかえり桐ちゃん」
不承不承といった面持ちで、桐は「ただいま」とこたえた。
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