鼓動が早急
教室の片隅の席にいる。廊下側の方、後ろの席。机は列から外れて、互いに近寄っている。椅子には内側を向いて、斜めに座る。教室の片隅であるので、あまり教師に見咎められることも無い。登校してから放課後まで、ずっと二人で肩を寄せて、下らない事を喋っている。授業が静かで小さな声さえ目立つときは、小さい手紙を渡しあったりと、女子小学生のようなこともする。ためになる話は、それほどしない。他愛のない、日々のつらつらとしたことを、別に人に言わなくてもいいようなことを、述べている。それにまた、下らない返答が返ってくる。二人とも、話にそれほど躍起にはならない。面白いことを言おうと頑張ったりもしないし、嫌われるかもと言葉を選ぶことも無い。気を遣わないお喋りの、例えば今日の天気のこと、昨日家族がした粗相、今朝の自分の滑稽さ、そういう中に、私達は意味を求めてはいない。取り敢えず、今発した言葉に、反応する声があればいい。そういうふうに、緩やかで気ままな時間をずっと過ごしている。全部の学校生活を、ずっとそういう風に。同級生の誰かが気を利かせて、ずっと席を隣にしていてくれるから、文字通りずっと、私達は言葉を交わしていられる。隣に座る相手を見て、下らない事をつらつらと。授業中でも構わずに話している私達は、偶に教師に叱責されることもあるけれど、成績が悪く見放されている私と、成績が良く心配すらされない彼女は、それほど怒られているわけでも無い。職員室に呼ばれて二人並んで立たされて、お前ら授業をちゃんと聞けよ、と言われる傍から、私達の頭の中にはさっき話していた下らない事がひっきりなしに渦巻いている。くだくだと気構えやら中学生としての自覚やら受験への相対を説く教師の前で、私達は二人して思いだし笑いをしてしまうので、とうとう教師も呆れてしまう。お前らそんなに楽しいことを話しているのかと、訝しげな表情をされてしまう。私達は目配せし合って、職員室から退散する。
ずっと一緒にいる。学校生活において、彼女の隣に居ない時は、きまって彼女を追いかけているときか、探しているときになる。彼女も、私の隣に居る時が、一番に多いと言う。それに照れたり安堵する前に、もう話題は別の物になっている。くるくる流転する話題は、さまざまである。私達はずっと一緒にいる。しかしそれは言い換えれば、ずっとお喋りをしているということである。周りから、よく仲がいいと形容される私達だけれど、実はそれほどに、仲は良くないのかもしれない。私は彼女と沈黙を共有することに、至福を覚えたりはしない。きっと彼女も、私と話す話題がなくなった時、困った顔をするだろう。だから私達にとっては、自分の語れるものの減少はとても怖いことである。しかしまあ、今の所は話すことは尽きそうもないので、所詮これは杞憂であろう。私達はこの心配すらも、話題の一つにしてしまっている。しかしその憂鬱を話す彼女の顔を見ていると、偶に本当に苦しそうに、焦れた顔をしているので、そうするとこちらがいたたまれなくなる。ずっと会話を交わしているけれど、そこまで仲が良くはない、という事実を、私は歯がゆく思っている。
歯がゆく思うということは、仲が良くなりたいのかもしれない。私は彼女ともっと密に、付き合いたいのかもしれない。しかし私はその欲求を、上手く正面を向いて捉えられないのだ。その思いと向き合うことが恥ずかしいのかもしれないし、初めてのことに当惑しているからかもしれない。中学に入り彼女に会うまでは、あまり人と親しくなりたいなどと、思ったことが無かった。いや思ってはいたのだけれど、学校に来て、いざ同級生の面々を見回すと、たちまちそんな気は萎んでしまっていた。元々が社交的な性格ではなかったし、またそれが不満なわけでも無かった。人に合わせることが苦手で、それが原因で不興を買ったり、激昂されたり、敵意を向けられたりもしたから、私には苦手な人ばかりが沢山いる。そういう風に、私にとっての人付き合いは、あまり気持ちのいいものではなく、それが常となっていたから、今が覚束ない。普通に気の合う、私のことを嫌いにはならない人が、まるで当然のように現れてしまったから、戸惑ってしまう。嫌われないならばそれでいい、と思っていただけのはずなのに、もっと好かれたいと思ってしまった、そんな自分の変化に追いつかない。きっとその根本の躊躇いが、恥ずかしさや当惑を引き起こしている。だから踏み出せない。
それでも、仲良くなりたいのは本当なので、そうなれる方法を、実行に移しはしないものの、考えることもある。あの日々の戯言を、もっと深いものにすればいいのかなとか、もういっそ、もっと仲良くなりたいと言ってしまえばいいのかな、とか。でもそれ全部が、いざ想像してみればとてもとても出来ないようなことばかりなので、結局何も変わらずに、悶々としているだけになる。しかし私は本当に、はっきりしない。悶々と思いつめるにしては、目標がはっきりしていないということに、最近気付いた。仲良くなりたい、というのは、随分にあいまいで抽象的だった。どう仲良くなりたいんだろう。果てなく思いつめる時、ふっと友達みたいに、という言葉が浮かんだので、ああそれだ、と手を打ちたくなったけれど、直にその途方のなさに気が付いてしまった。友達、と簡単に言うけれど、私はそういう人を作ったことが無い。勝手が分からない。
外から、傍からみる友達ならわかるのだ。 彼女には友達がたくさんいた。私達の話を遮って、彼女に話しかけてくる人は男女ともにたくさんいた。その度に、彼女は一度請うような目で私を見るので、私は変に焦って首を縦に幾度も振っていた。それからやっと、彼女は友達と話し始める。話を終えて、こちらを向いて、彼女は私に話を遮ったことを謝るので、また私は焦って、気にしていないと、今度は首を横にぶんぶんと振る。一年生の頃は、そういうことが頻繁にあった。彼女と対照的な私を、彼女が推し量っていたのかは分からないが、彼女は私を極めて優先してくれていたので、私はなんだか彼女の友達に、申し訳ない様にも思っていた。しかし二年生になるころには、そういうことはきっぱりと止んだ。一度不審に思って彼女に訳を尋ねれば、愛想を尽かされたと笑いながら言うので、もうひたすらに、私の所為で、という思いでしばらくは落ち込んでいた。
友達というのは、とても仲が良くて、大切で、とられてしまうのが嫌なもの。私がなりたい形に、そっくりだと思う。欲求に呼応したその関係に、なるには、一体どうしたらいいんだろう。ずっとうだうだと考え続けて、日が経って行ってしまう。できるだけ早く、考えつかなければいけないことは分かっている。私たちは学校に居る時以外でも親しいわけじゃない。それなのに、もう卒業が近い。学期が始まったばかりだからまだ平気だと、安心している場合じゃない。多分このままの関係だったら、卒業した瞬間からもう、関係は崩れて回復しないだろう。それは嫌だ。物理的に一緒に居られなくなった時、今の私は彼女にとって、大したものではなくなってしまう。それに不安を感じてしまって、気が急いて、最近はどうしようもなくなっている。
「何か悩んでるの」
昼休みに、そう聞かれた。見透かされていたんだ、と呆けた私に、彼女は不思議な表情をする。いっそ打ち明けてしまおうかと思ったが、やはり気恥ずかしかったので、進路のことで、と適当にぼかした。
「芳野はどこいくの」
「まだ決まってない。頭悪いところに行くと思う。都立で」
「そっか。わたしはどうしよっかな」
そうやって考えているふりをするけれど、大体決まっていることも知ってるし、そこが、私がとてもいけないような所だってことも知っている。話の文脈に関係なく、彼女が私の髪を触った。こういうことはよくあることだったから、そのままにさせておく。よくあることだ、大体が話に詰まってしまった時に。いつだって沈黙に耐えられないから、何かをしていないと、二人して居たたまれなくなるから、とりあえず何かする。だから適当に彼女は髪を触るのだと思う。一応は私と関わって、言葉の生まれるのを待っている。彼女が私の髪をあやしながら、声が出ることにほっとするような表情で言った。
「高校行っても遊ぼう」
「うん」
肯いた。一応は気持ちと裏腹に。でもそうはならないと思う。余程強固な約束を取り付けない限り、二人が態々会うようなことはない。来ることが義務の学校だから、親しくできるだけだ。いつも目の前にいるから、話すだけ。私はそれを寂しいと思うのけど、彼女はどうだろう。考えることが怖いような気もした。
昔から人付き合いがうまくない。友達も、特別に仲の良い人も、またそうなりたい人も居なかった。どうしていいのか分からない。自分のどうしようもなさの弊害が、こういうところで表れた。彼女をもっと知りたいと思うけど、この感情の取り扱い方を私は知らない。どうしていいか分からない。もし何か間違いをして、愛想を尽かされてしまったら、嫌われてしまったら、きっと私は酷く悲しいだろう。小学校の時の同級生にそれをされても、傷つきはしても悲しいことはなかったけれど、彼女だとそうなる。彼女は特別だ。
髪を触る手に目を瞑った。最初の頃は照れていたけど、今はそうならない。ただ単なる沈黙の解消なのだと知ったから、これは別に、嬉しいようなことじゃない。それが分かってからは、逆につらいことだとも感じる。沈黙を是とするくらいの仲なら、こんなことしなくても平気だろう。
「芳野さあ、本当に悩んでるのって進路のこと?」
「なんで」
「本当は違うことでしょ」
「もしそうだとして、それを川霧さんに言わなきゃいけないの?」
そんな、彼女のことをどうして彼女に相談してしまわなくてはいけないんだ。確かに打ち明けてしまいたいけれど、もしそれを言って、拒まれたら困る。まだ準備が出来ていない。
「わたしが聞きたいの。力になれるかも」
「良いよ別に」
「なんでそんなにつれないの」
「川霧さんこそなんでそんなに私を構うの」
分からない。気を持たせないで欲しい。私は思いつめているんだ、川霧さんとのことで。そう言ってやりたい気に駆られる。友達になりたいけど、そう素直になって、拒まれたら立ち直れないから逡巡してるんだっていうのに。そういう風に優しくされると、まるで仲がいいみたいな気がしてくる。嬉しいけれど、それは私だけかもしれないから、悩んでるんだ。
「だって友達じゃん。別に構ったっていいでしょ」
その一言で、一瞬呆然とした。
「え、友達なの」
「友達じゃないの?君は違うわけ? 何それ、傷つくわ」
「違う、そういうことじゃなくて、嬉しいんだけど、本当に、だって、どうして」
「どうしてって、別に。普通に」
だって私と友達でいる意義がないじゃない。そう言ったら、彼女も呆けた顔をした。川霧さんは私といつも一緒に居るけれど、それが友達なの?本当に疑問に思って聞いてるのに、とうとう彼女は笑い出した。
「君、難しく考えすぎてるんじゃないの?そんな気構えなくたっていいでしょ」
友達って言ったってそんな大層なものじゃないんだから。そう続いた言葉に、ちょっと驚愕する。
「じゃあそんなに、喜ぶようなことでもないの?」
「何が」
「嬉しいのに、凄く。友達って言われて。なんだか凄く、特別な事みたいに思うのに」
「ああ、うん……。君とあたしじゃ言葉の使い方が違うなあ」
切実な問題だなあ、と彼女は言った。私は未だ混乱したままだ。私は彼女と仲良くなりたくて、それには友達になるのが一番だと思っていたのに。なんだかどうやら、違うらしい。
「いっぱい喋ってたじゃん。あたし達。でもそれじゃ、まだ十分じゃないの?」
「うん。私も、そう思ってた。だから、友達になれば、充分になるんだと思ってた」
だから凄く嬉しい。友達になれて、友達であって、そうであったことが凄く。
彼女が私を見て、また、言葉の定義が違うみたいね、と言う。でももっともっと仲良くなりたいと、彼女も思うらしいので、私はそれを喜ばしいことだと思っている。
「友達って、どういうことするの」
「今までしてきたみたいなことじゃない?」
「高校行っても遊んでくれる?」
「さっきそう言ったじゃん」
それで十分、報われた気がした。先も一緒に居られることは、私の望みどおりであったから。
「そっか、友達だったんだ。嬉しいなあ」
「さっきからそればっかり言ってる」
「だって本当に嬉しい。私ね、初めてだから」
「何が」
「友達」
川霧さんが初めて。楽しくなってしまって、笑ってそう言った。やっぱり君、友達の定義が重すぎるよなあ、と彼女は言った。嬉しいけど。さりげなく付け加えられた一言が、嬉しい。もう全部が嬉しい。川霧さんごと全部。
初めての友達が川霧さんで良かったと思う。彼女と一緒に居ていい理由が与えられただけで、今までの過去全部の不遇を清算できるような気がする。昼休みが終わるまでに、そういうことを調子に乗ってどんどん言ったら、最後の方は咎められた。もうそんなに言わないで、と困ったように笑う、美しく、笑い崩れた彼女を見て、酷く自分が幸福だと思った。
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