彼の瞳の星について
第一夜
眠りこむには惜しい夜だった。死ぬのにもちょうど良い夜のことだった。煉瓦の歩道、ぼやけた電燈の影、汚れてしまっている自分の靴の、つま先の部分。俯いているから、そういうものだけが目に映る。考え事が多くなって、けれどそれを発出できずにいて、どんどん頭は重くなっていき、いつの間にか重力に逆らえない。顔を下に向けながら、静かに絶望しつづけている。わたしのまわりいっぱいに、ごろごろと存在している雑事。それが邪魔で進めなかったはずが、いざ雑事が消え失せてみると、一人で行くのが心細いのだ。矛盾に満たされてしまった心境。そしてそんな状態から、とうとう抜け出すことができなくなった。
自分の考えていることが、人に上手く伝わっていかない。
どんなに相手の目を見ても、どんなに言葉を尽くしても、最悪の場合正反対の誤解を相手に与えてしまう。せっかくの自分の感情が、相手の元に届く前に、地に落ちてどんどん土に塗れていく。わたしの頭に満ちている物、わたしの心にたゆたう物、わたしの喉に渦巻いている物は、渡したい相手に消化されない。
人に自分が正確に伝わらないということは、とても苦しいことだった。相手の中の自分と、自分の中の自分が永久に合致しないことを受け入れるなんて、できそうもなかった。全部が歪ですれ違ったような世界の中で、閉塞を覚えて立ちすくんでいる。
それも、今夜で終わりにするのだ。まわりに理解されない自分には、もう、疲れてしまった。ずっと俯いている所為で、曲がってばかりの首も痛い。そろそろ自分を放棄しても、怒る人なんて誰もいないだろう。
家から少し歩いて行った所にある、近々取り壊される予定の廃墟の屋上から、落ちようと決めていた。相手に伝わらず死んでいった自分の感情みたいに、死んでしまおうと、そう思っていた。今日から五日後の朝まで、母親が用事で家を空け続ける。丁度良い、と思った。わたしが死ぬことを、妨げるものは何もないみたいだった。
きしむ階段、黒ずんだ手すり、ほんの少しの人のいた証、そういうものを感じながら、四階分を上がった。最後の踊り場で、少し息を吐く。決意の為なのか怯えの所為なのか、よく分からないその息に、けれど自分が生きていることを知る。そしてその呼気にびっしりと纏わりついている、こまごまとしたやりきれない事々にも、当然意識は向いてしまうのだ。そういう事を、いまから捨てるだけのこと。
屋上に続く戸を開けた。錆びた音がした。風が舞い込んできて思わず目を瞑る。そうして、おずおず開いた視界にあったのは、風に揺らめく半透明の人影だった。目に映ったそれが脳に伝わって、喉の奥から言い表せない音が漏れ出る。
その音に気付いたのか、人影は声を発した。存外に大きな声だった。
「そういや、僕が死んでしまってから、ここにやって来たのは君が初めてだ」
人影は空を仰いでいた。夜空を見ながら、わたしにそんなことを言う。気味が悪くて、竦んでいた足をどうにかして駆けて家へ戻った。家の玄関で、自分の靴先を見て、今夜の自分の目的をやっと思い出した。思い出して、また胸の詰まるような気持ちになる。また上手くやれなかった、とさらなる自己嫌悪に陥りながら、一生懸命楽観的に、残り四日の猶予を思った。
第二夜
戸を開けると、半透明の人影はまたあった。夜の中、浮かび上がって見える。相変わらず面は空に向いたまま、しかしこちらのことには気付いているとでもいうように、戸の音に体は微かに揺れた。
灰色で出来ている屋上の、柵のあたりに彼はいた。目一杯、首を反らせている。よくあれで、大きな声が出せるなあ、と思った。そして幽霊にしても、とても不思議な格好だ。足があって、空を見ている幽霊。あんまり聞いたことがない。
屋上の縁、柵へと足を進める。今日失敗してしまえば猶予は三日しか残されていない。それを逃してしまったら、また窮屈な日々に逆戻りで、いつか耐え切れずに崩れて壊れてしてしまうだろう。そういうのはもう嫌だった。汚れた銀色の柵に手をかけて、体重を乗せようとする。脇を見れば、幽霊はそれなりに近い位置にいた。考えないようにして身を乗り出す。ところが急に、隣から声が飛んだ。体が竦む。
「見たところ自殺の様だけど、そんなんじゃきっと僕みたいに地縛霊だよ」
地縛霊、という言葉に、今更ながらわたしの行動は止まってしまった。この世に残留してしまうという可能性に、馬鹿なわたしは幽霊を目にしてもすぐには気付かなかったのだ。地に縛られて、半透明の中途半端な姿で、この世界を右往左往するというのでは、生きているときのわたしと、それほど違いがないみたいである。
「別に僕は、いままで上手くやってこれたけど、みんながそうとも限らないし、幽霊が性に合わない人だっていたりするんだ。あんまり無闇やたらに死んだりしない方がいいと思うけど」
そうすると俄然、彼の言うことが正しいように聞こえてくる。でもわたしは結局、心の底からそれを正しいと思いきることができなくて困窮しているのだ。……彼に、自分が死にたい理由を、伝えようとして止めた。自分の考えていることが、上手く人に伝わらない、そういう理由で死にたいと思っている。このどうにも重苦しくて、泣きたくなるような、この境遇と理由を、わたしが完璧に彼に主張できるとはとても思えなかった。また体が重くなってくる。やりきれない気持ちで視線を下げた。しんと静かになる空間と、時々聞こえる下の路地の人の声に、教室を思い出して居たたまれなくなる。決定的な誤解を与えた後に、黙りこくったわたしを見遣って溜息をつく人の存在も、自分のすべてを消してしまいたくなる感覚も、全細胞に一気によみがえる。人気のない屋上で苦しくなって、やけに呼吸のしにくい空気をつくる幽霊だと彼を恨んだ。
特に強い風が吹いて、それを区切りとでもしたかのように、幽霊はわたしへ意識を傾ける。
「いつもそうして下向いて、何か見てるの?」
下された質問に、息を漏らす。靴先とコンクリート。いま見えているものはそれだけ。呆気ない真実は、彼に伝えるにしてはあまりにつまらない。でもそういうつまらない真実が、わたしにはきっと向いているのだ。嫌になる。
沈黙するわたしに、話したくないなら別に良いけど、と幽霊は言葉を継いだ。ただ僕は一応、上を向いている特別な事情があるから、君もそうかと思って。
繰り出されたそんな言に単純に興味を抱いた。
「わたしが、下を向いているのは、見ているんじゃなくて、逸らしているだけ。あなたは?」
彼の息が白く口元でぼやけていた。
「星を見てる」
つり込まれてしまった。首の関節が鳴った。目蓋が引きつった。出てくるはずの白い息さえ、曲がり角で引っかかる。だんだん怠くなってゆく反りきったわたしの喉。見上げれば満天は星屑にあふれていて、まばゆい。思わず眩みそうになる。光もまばらな市街の上は、満月の時と変わらないくらいに輝いていた。普段過ごしている日常の上部に、これほどの物が存在していたことを、わたしは今まで知らずにいたのだ。凄い、という微かなつぶやきを拾って、幽霊は解説を開始した。
「あそこにあるのがシリウス。あれがベテルギウスで、あっちがプロキオン。この正三角形が冬の大三角。オリオンの腰の三つを軸にベテルギウスと対称の青い星がリゲル。ベテルギウスとリゲルを真ん中として大三角と反対にあるのがアルデバラン。向こうでカラフルにきらきらしているのはカペラ。ベテルギウスとプロキオンの近く、カペラ側にある二つの星がカストルとポルックス」
指さしと代名詞の多い説明が、不思議なことによく理解できた。隣に立ってみると、幽霊とわたしは同じくらいの身長で、だから目線も同じくらいだったのかもしれない。はたまた幽霊の霊力なのか、彼の説明したい星に、わたしの視線は吸いついた。齟齬なく上手く、彼の言うことが伝わる。楽だな、と思う。
「いつもこうして星だけ見ているの?」
「大体は」
「綺麗でいい。地縛霊も、なんだか楽しい気がしてきた」
ならば、とすぐに柵の方へと体を向けたわたしに、彼はまたお得意の大声をあげる。これを聞くたびに、わたしの体は瞬間動かなくなるのだ。彼はそれを充分理解した上で、わざとやっているような気がする。
「地縛霊って言ったって、死んですぐになれるわけじゃないよ。時間だってたくさんかかる」
幽霊の注意に、また少し足が止まった。
ところでね。打って変わって彼は囁く。明日は実は、流れ星が降るらしいんだ。
半透明の彼の姿に、想像の流れ星を見る。と、同時に、残りの日数を思って、少し悩む。悩んで結果、流れ星を最期に見よう、ということで自分を納得させた。従来の計画とは、だいぶ、ずれている。
第三夜
夜空に発光して走る、くらやみの中の火球。目蓋の裏に思い描く流れ星は、写真や映像で見たもので、実際のわたしの記憶では無い。わたしは、流れ星を見たことが、そういえば、無いのだった。大体、燈のたくさん灯った街路の中で、流れ星が見えることなんてあるのだろうか。
とても自信有り気に空を見つめる彼と、背中を合わせて座る。感触は当然のごとくないのだけれど、振り向けば彼の頭が見えることに、少し新鮮さを感じてはいる。
「大体いつ頃、流れるの?」
「あともう少しで」
彼の声は弾んでいる。流れ星を心待ちにしているように聞こえる。わたしの声は彼にどう届いただろうか。彼となら、だいぶ上手く話せているような気が、している。微かな予感だけれど。絶望感に満ちて死んでいくよりは、少しくらいの楽しいことを引きつれて逝った方が良いだろう。少なくとも、人ときちんと成立した会話を胸に抱えて、死ぬ寸前に思うのが自分以外の人間だというのは、結構幸せなんじゃないかと思う。今日、死ぬ寸前のわたしに留まっているのは彼と流れ星の記憶だろう。それは確信していた。
「あっ」
彼の言葉に顔を上げる。光が線を描いて走っていった。無数に、星は消えていく。天球の上を、星が尾を引いて転がっていた。光球のビーズをひっくり返して、空に落としてしまったみたいだった。
心臓が凄いはやさで打っている。初めての景色に、興奮した。どうしてだか、そのことを彼に伝えなければいけないような気がして、その瞬間背中の感触が無いことに、ぞっとするような寂しさを覚えた。
「綺麗だね、ここまでの、あんまり見たこと無いよ」
「やっぱり?」
「うん。ここまで綺麗なのは珍しい」
良かったね。言葉は後にそう続いた。
流星群が終わってから、立ち上がった彼をなんとなく見る。ずっと空を向いたまま固まった彼の視線。その視界にあの景色が表出したなら、それはきっと素晴らしいことだ。何故彼がずっと特別に、空を見ていなきゃいけないのかは分からないけれど、でもそれが、悲しい事情でなければいいな、となんとなく思った。
「君っていまから死ぬ予定なんだっけ?」
「そうだよ」
「そうか、残念だな。出来れば死んで欲しくないや」
「どうして」
彼は不意に押し黙って、なにか考えているようだった。体感だと、とても長い時間が過ぎてから、彼はようやく口を開いた。
「よく分からない。よく分からないんだけど、でも」
彼は息を吐いて考えている。きっと慎重に、言葉を選んでいるのだろう。
「君は知らないかもしれないけど、実は幽霊は、自分自身の感触は、分かる場合が多いんだよね。本当は無いんだけれど、きちんと足とか手とか心臓とかが、あるような感じがしているの。僕も死んでからずっとそうだった。それなりに感触はあったんだ。しかしなんだか今日はとても特別で、凄く生きてるみたいに感じた。星が落ちてきたときに、確かに鼓動が早くなったの」
「それで?」
「君と同じくらいの、はやさだったらいいと思ったんだ。それだけ」
空を見たままの彼の、反った白い喉がやけに記憶に残った。
第四夜
「そう言えば、どうして君は死のうとなんてしているわけ?」
わたしはちょっと身構えた。四度目の屋上はもうだいぶ見慣れてきていて、どこにひびが入っているのか、どこに段差があるのか、くらやみの中でも大まかな事は分かっていた。自分の死に場所に慣れるというのも、不思議な話だけれど、慣れてしまっているのだからしかたがない。そういう、ちょっと崩れたような雰囲気のコンクリートの上で、彼に答えにくい質問をされている。
結局いつも、自分が相手にきちんと伝わらないというもどかしさと、人は絶対分かり合えないんだという事についての馬鹿みたいに大きいむなしさと、自分の感情が相手に伝わることなくどこかへ消えてしまうことについての切なさ。そういうのが何対何対何で混ざり合っているのか、自分でも良く分からないし、形容しがたい。まわりの人はわたしを分かってくれていない、なんて言おうものなら、誰かがすぐにしたり顔で宥めてくれるのだろう。でもそういうのを求めていたわけでは無いし、そういうもので自分が塗り込められていくのも嫌なのだ。まったく浅薄なようにも、とらえどころがないほど深遠なようにも、どちらにもとれる心の不可思議さを、伝えたくても伝えられなかった人が、いままでの、とても少ない人生の内でも、たくさんたくさんいたものだから、わたしは死のうとしている。もうこれ以上、ままならない自分を増殖させないように。
「埒のあかない、覚束ない、そういう自分をもう許してはおけないから」
わたしの繰り出す、どうしようもない言葉の断片たちを、彼はどう耳に入れたのだろうか。出来るだけ、正確に伝わっていることを、心臓が引きつるくらい強く、願っている。
「僕は昔から、人と感情を分かち合うのが苦手で仕方なかった」
夜の匂いの空気の中で、彼のぽつりと零した言葉がくっきり存在を示した。
「楽しいこととか、嬉しいこととか、絶対に人に分けてやるもんかって思ってたよ。全部独り占めが良かった」
じゃあなんで、わたしに流れ星のことを教えてくれたのか。聞こうと思っても、彼は目を閉じてしまっていて、そうすると本当に、わたしへ意識を、これっぽちも向けてないように思える。
「目を瞑ったりもするんだ」
「それはそうだよ。ずっと明るいものばかり見ていたら疲れるから」
空に溶けそうな、彼の姿を見て、つい口からこぼれ出る。
「感情を分かち合うのが苦手だったから、あなたは死ぬことにしたの?」
それだったら、わたしと似ているな、と思っただけ、それだけの発言だった。こんな風にしてこの屋上で佇む彼と、死因が同じであるのかどうか、それを確かめたいだけの発言で、それ以外はなにもふくまない筈の発声だった。
一瞬微かに彼が虚をつかれたような表情をしたのが、横顔だけでよく分かった。彼の睫毛が震えて、ゆっくりと、いままでのリズムを取り戻すみたいに瞬いた。わたしの言葉を、封じるような、覆うような口調で、「違うよ」と短く言った。呆れたような声色に、わたしはまた、失敗を犯したことに気付いた。頭の中が一瞬で、真っ白になってしまう。また上手く、伝わらなかったのだ。確実に、彼の中のわたしは損なわれた。すさまじい倦怠感に襲われて、それでも言い訳を試みた。他意はなかったのだというわたしの必死の言葉に、彼はなんとか肯いた。
第五夜
剥げたペンキのかさつく音、階段を一段一段上がっていく足、さっき不用意に手すりを掴んで、切ってしまったてのひら。そういったものを抱えながら、カンカンと独特の音をたてて金属を歩く。廃墟の踊り場、うかつに触ってはいけないような、欠けたドアノブ、そうだ、最初の日、わたしはここで息を吐いた。あともう少しで自分の人生は綺麗に終わるのだと信じ切っていた。戸を開けた先に起こる出来事も知らずに。
蝶番が錆びきって、嫌な音を立てるんだ。ドアノブを捻って、開け放した先に、空を向く彼が立っている。
「待ってたよ」
彼の大きく響く声は、きちんとわたしの耳から伝わり、脳内で綺麗な意味を持って残った。真夜中のことだ。もう誰も外を歩いていない。ここの辺りで、息づいているのはわたしだけ。とうとう術のなくなったわたしは、ここへ来るしかもう仕方がないのだ。
「なにがあったの?」
柔らかく問われたそれに、喉から舌まで、さまざまな器官が反応しあい、応答する。自発的なものだった。息を吐く間もないほどに、急いで話さなければならないことがあるのだ。
とうとう、他人の言うことが、まったく理解できなくなってしまった。自分の言うことも、相手の言うことも、違う言語を話しているみたいに、行き違ってしまっている。いつの間にか、わたし以外の人たちの中でわたしは、物凄く嫌な人間になっていたのである。不必要な、齟齬のある、誤解を与える、そういう発言が、積み重なって出来たわたしの像は、醜悪な形をして、人々の元にあるのだった。過去の会話の諸々を思い出して絶望している。
そんな中で、わたしに囁かれたたった一つの悪口から、一切の言葉が、理解できなくなってしまった。嫌われることを拒むように、耳は塞がれてしまっている。上手く意志の疎通が出来ない、そんな群れの中で、わたしは必死に夜になるのを待ったのだ。早く解放されたいと願っていた。
もう耐えきれないと思った。全部が嫌になってしまった。自分の、すべてを気に入らない。
話し終えて、彼を見れば、彼は初めて会った時のように、半透明で風に揺らめいていた。
「本当は、君が思っていたように、僕は自殺したわけじゃないんだ」
彼の言葉に、不意をつかれたような気分になる。
「ここの廃墟の屋上から見る星空が、とびきり美しいことを知って、星の降る日に、一人でここにやってきた。誰にも教えたくないというのもあったし、誰かの興をそぐ発言で、つまらない気持ちになりたくなかったというのもあった。とにかく僕はここに一人でやってきて、一人で星を見ていて、あんまり綺麗な星空だったから、近づきたくて身を乗り出して、そしてそのまま落ちてしまった。単なる事故だ。狭量にも、綺麗な場所を独り占めしようと考えたから。決して君のように、死にたくてここにやってきたわけじゃない」
事故。彼はそう言った。彼が死んだのは事故だったと。わたしはいま自分の身に降りかかっている途方もないことに、押しつぶされてしまいそうなのに、いわば共感めいたものを感じていた彼は、わたしと大きな違いがあった。裏切りだなんて、勝手な気持ちが発出した。血を吹くみたいに悲鳴を上げる心臓の、音がはっきり耳に響いていた。
「それだけのことで死んだの?」
重大な理由も無く、重圧に耐えきれなかったわけでも無く、逃げたかったわけでも無く。それだけのことで。そんな馬鹿げた理由で。
「傷つけたようならごめんね」
でもあのときの僕には、それが本当に大事なことだったんだよ。君が馬鹿げているって言うことでも、他の人にとっては大切なことだってあるんだよ。
彼は言い聞かせるようにそう言った。あまりのことに座り込んだわたしに、彼はそれでも目を向けなかった。ひどい幽霊だ。
「だからそれと同じようにね、僕も君の死ぬ理由をさ、馬鹿みたいだなあって、思っているんだよ。意志の疎通がはかれないって、確かにそれは悲しいことだけど、それは死ぬ理由にはならないよ。改善すべき問題であるだけだ」
だからね、死ぬのだけは止めてよ。できれば僕は、死にたくなんて無かったよ。幽霊なんて、本当に馬鹿みたいな制約だらけだ。彼はそんなことを言った。
「それでも、つらいの。我慢できないくらいに」
幽霊の方が、まだ幾分かいいような気がする、とみっともない声で続けた。
彼は難しい顔をしていたけれど、そのうち、ふっと空気を緩めた。
夜闇とわずかな光を背にして、まるでそうするのが自然とでもいうように、空を仰いで立っている。夜の空気に分け入るような、ひそやかな声を出す。
いまからいちばん大事なことをするからね。耳を塞がないでよく聞いていて。俯かないでよく見ていて。耳元に、彼の口が近づいた。
「この星空を分けてあげるのは君が初めて。出来れば、生きていた時に会いたかった。ねえ、僕は結構君を気に入っているんだから、君も君を気に入るべきだよ。自分の気持ちを分けてあげなきゃいけないと思ったのは、君が初めてのことなんだ」
わたしの頬に、彼の手が伸びてゆっくりと触れる。「僕の目を見て」顔を上に向けられて、目を開けば彼の顔がそこにあった。今までを思い出せば、そう言えば彼は一度も、わたしと目を合わせたことが無い。
覗き込む彼の赤い瞳はアルファルドさながらで、それにかちりと目を合わせた時、わたしは彼の言う特別な事情の一端を理解した。
わたしの頬にあった手は、粒子のようにばらけて立ち消えてゆく。彼の体はまばゆく光ってから、星の大群に成り代わる。目の前で広がる蜂蜜色、琥珀色、白色、青色、赤色の燦然とする燈のまたたきに、彼の言ったことを思い出す。
(ただ僕は一応、上を向いている特別な事情があるから、)
(あんまり綺麗な星空だったから、近づきたくて身を乗り出して、)
彼の体の合ったところに、光り輝いてほどけていく星たちは、あの日彼が見た星空だろう。たしかに美しかった。もう二度と手に入らないものだった。手を伸ばしてみても、光はすぐに立ち消えて、手のひらの中には何も残っていなかった。彼の苦手としていた感情の分かち合いは、立派に成功したのだろう。彼の死因の星空の美しさも、きちんと理解した。自分を気に入るべきだという、彼の言葉も、あれが最後だと言うのならば、守らざるをえないだろう。目を合わせたら消えてしまう幽霊が、最後に目に映したのは星空でなくわたしだった。
座り込んだ屋上の、コンクリートのひび割れがよく見えて、はっと顔を上げればもう空は浅黄色だった。五日目の夜はこれで終わりだ。早く帰らないと、母がわたしのいないことに気付いてしまう。
眼から涙がどんどんあふれて、コンクリートに染みをつくった。涙はいっこうに止まる気配を見せなかった。けれども目蓋の裏に留まった星光は、留まったまま、ついに最後まで流れ落ちること無くそこにあった。
TOP
小説メニュー