佳人の細指のような白魚





「もう挽いてある深煎りのコーヒー豆の匂いを嗅いだら、動物園みたいな匂いがしたんだ」
 放課後独特のオレンジ色をした教室に、戸崎の言葉がぽつんと響いた。戸崎の向かいに座って、俯いて宿題をこなしていた木佐が、少し時間をおいて、顔をあげる。木佐の目が訝しげで、それを見た戸崎は再び同じことを言った。「だから、もう挽いてある深煎りのコーヒー豆の匂いを嗅いだら、動物園みたいな匂いがしたの」
「それがどうしたの」
「動物園みたいな匂いだ、って気付いた瞬間は嫌な気持ちで、だって動物園の匂いって良い匂いじゃないから。コーヒーの匂いも同じように良くない匂いってことになっちゃう。その時、まさにコーヒーを淹れようとしてたから、なんだか水をさされたようでさ、でも、それから少し考えてみて、逆に動物園の匂いを、『深煎りのコーヒー豆の匂い』って喩えたなら、どうだったんだろうって思ったの。そしたらなんだか、途端に味わい深くなった」
 弾む戸崎の声と対照的に、木佐の表情に動きはない。
「それの何が面白いの」
「だってさ、これって、喩えと喩えられるものが入れ替え可能ってことだよ。なんかすごくない? 喩えの関係に落とし込まれた時点で、その二つは似てるものってことになっちゃうから、べつにそれらを入れ替えたって通じるんだよ。入れ替えた前と後とで、雰囲気ががらっと変わるのも、よく考えたら当たり前だけど新鮮だし」
「戸崎ってそんなことばっかりずっと考えてるの?」
「そうだよ」
 木佐は戸崎から目線をずらして、大きくため息をついた。お気楽、と小さく呟き、再び紙の上の作業に戻る。
「木佐は何やってるの」
「宿題」
「つまんなそう」
「邪魔しないでよ」
 険のある声を出して、木佐は鉛筆を動かしていく。白い紙の上で黒い線がくねくね曲がっていくのをぼんやり目で追いながら、戸崎は不満げな声をあげた。
「構ってよ」
「今忙しいの」
「友達甲斐がないねえ」
「だってそもそも友達になんかなった覚えがない。いっつもいっつも戸崎が勝手に付きまとってくるだけでしょ」
 なにそれ、酷い言い方、と戸崎がかすかに呟いて、少しの間教室はしんとなった。鉛筆のこすれる音だけが響いている。戸崎はふと自分の手元に目を落としてから、その白い指を凝視した。しばらくしてから思い立ったように硬直を崩して、その手を木佐の目とノートの間に差し込む。木佐の視界いっぱいに白が広がった。
「邪魔しないでって言ったでしょ」
 苛立った声を上げる木佐の目の前で、戸崎は手を振ってみせる。
「白魚のような指」
「は?」
「ってよく言うでしょ、ものすごく当たり前な比喩。これをさっきみたいにひっくり返すと」
「指のような白魚?」
 なんか不味そう、と付け加えた木佐に、戸崎がにこにこ笑いかける。
「白魚って形容される指の持ち主は、たいてい美人と決まっているから、そういうのも補うと、『佳人の細指のような白魚』となる」
「ますます不味そう。なんか、小鉢の中に女の人の血の気のない指がいっぱい入ってるのを想像しちゃう」
「おいしそうだと思う人もいるかも。なんかこう、むしゃぶりつきたくなる感じ」
 そう言いながら、戸崎はおもむろに木佐の口元に指を差し出す。
「むしゃぶりつきたい?」
「戸崎は別に佳人じゃないでしょ」
「なにそれ。ひどい」
「……何、ほんとに咥えられてしゃぶられたら泣くくせに」
 そう言い放って、木佐は戸崎の指を眼前から払いのける。


 新年度が始まって一か月も経てば、学年中が戸崎を変人として扱った。木佐もその例に漏れなかったはずが、何故か戸崎が木佐を気に入って、二人のだらけた付き合いはそれからだった。木佐は戸崎のことを友達だとは言わないし、優先もしない。しかし他の同級生たちのようにあからさまに対話をぎこちなくしたりもしなくて、きっと戸崎は木佐のそういうところを気に入っていた。うざったいと心内で思ったり実際に口に出したりするけれど、木佐も、戸崎が傍にいるのを厭うことはなかった。毎日が、戸崎の抽象の話と、それに対する木佐の的確だったりそうでなかったりする応答でめぐった。しかしというか、だからというか、二人は友人にしては遠い間柄である、と学年の誰もが思っている。
 教室のオレンジが黒とぴかぴかした白になったので、木佐は問題集を閉じた。戸崎は跳ねるように立ち上がる。放課後の時間はもう終わりで、これ以上ぐずぐずしている生徒は教師に小言を浴びせられることになるのだ。さっさと支度を終わらせて、二人は急ぎ足に学校を出る。
 校門を出たところで、戸崎が急に左隣の木佐を覗き込んだ。
「木佐はさ、比喩のこと考えたりしないの? 普段過ごすうちにこれはあれみたいだなあとか思ったりしない?」
「全然ない。戸崎はあるの」
「しょっちゅうだよ」
「今も?」
 木佐の目の前にはいつもの道が広がっている。戸崎がうん、とうなずいて、口を開く。
「今、足元、『止まれ』の白線の縁がまだらに剥げてて、まるで黒い画用紙に白いクレヨンを塗ったみたい」
「なるほど、確かに」
 足元を見ながら木佐は呟く。呟きながら、内心で戸崎の比喩をひっくり返す。黒い画用紙に白のクレヨンで線が引かれたのを見るときに、思わずその線を道路の白線の縁みたいだと喩えてしまうだろう予感がした。
「さっき通ったヒマラヤスギの、枝を切り取った切り口が、本当に人の傷跡みたいだった。じゅくじゅくしてるの。樹液があるからなおいっそうそう見えた」
 戸崎と木佐はよそ見をしながら帰路を歩いた。道中で、花びらの感触はビロードに喩えられ、道に落ちて茶色に腐った木蓮の花は失敗した目玉焼きに喩えられ、すれ違った通行人の個性的な服の色は子供用の折り紙の色に喩えられた。なんで子供用の折り紙の色って、あんなにださい色しかないんだろう、と二人は下らないことを話し合いながら、たびたびお互いの顔を眺めては、寒さに反応した互いの頬の色を見て、ピンクだ、目玉焼きの黄身の色だ、と言い合ったりした。
 戸崎の家の前に到着して、軒先の自動センサーが灯る。石段を上がった戸崎は木佐を見下ろして、木佐の髪の先に指を滑らせた。
「こういう光にあたるとさ、木佐の髪ってモールみたいだね。ぴかぴかしてる」
「痛んでるって言いたいの?」
「なんでもかんでも嫌味にとるなあ」
 戸崎は薄く笑ってから、気を取り直すようにくるりと戸に向き直り、じゃあねと言葉だけを残して家に入る。戸がぱたんと閉じるのを木佐は一言もなく見守ってから、踵を返して先ほどまでの道を戻っていく。木佐がわざわざ遠回りしてまで戸崎の家まで戸崎と帰路を共にすることは習慣であったが、それは木佐当人しか知らないことで、木佐自身もこれからずっと誰かに言うこともしないだろう。
 先ほどまでの道を逆行しながら、木佐は自らと戸崎の関係について考えたが、数分ほどで面倒くさくなってやめてしまった。それからはいつも通りに道を歩いた。自宅について、ふと庭の木に椿の花が咲いているのを見つけて、ああ、と思った。
 咲いたのか、綺麗だな、まだつぼみだ、いい気分になった、家族に言おうか、いや独り占めしておこうか、じわじわうれしい気分が胸に広がって、木佐は少し、途方もなくて、倒れそうになった。心の中がぐるぐるかき回されて、眩暈がする心地になって、木佐はそこでなんとか、今日の戸崎の話を思い出した。比喩の話である。唐突に、この気持ちを喩えてみよう、と思った。喩えてしまえばこの気持ちに対処できるような気がしたのである。
 うれしい気持ち、独り占めしておきたい気持ち、眩暈がするような気持ち、何みたいだろう、と考えて、木佐は思いついて、頭をかいた。
「恋でもしてるような気持ち、っていうのは、さすがに陳腐かな」
 陳腐だと自省しつつも、心のざわめきは、喩えの効果かとりあえず治まったので、木佐は何事もなかったかのように家に入った。


 翌日、教室に戸崎は来なかった。そんな些細なことでは特に変わった様子もない教室に、担任の教師は戸崎が自宅で怪我をして足を折ったことを伝えた。変わらない教室で、木佐だけが一人、ばかだなと呟いた。
 いつも通りのはずの授業が、木佐にはやけにのんびりしているように思えて、木佐は授業中に何度も意味もなく窓の外を眺めた。帰りのホームルームの間にがさごそ音を立てながら帰宅の準備を済ませた木佐は、日直のさようならの挨拶とともに席を立って急ぎ足に教室を去った。
 昨日とは打って変わって明るい道のりを、木佐は早足で通り過ぎる。止まれの白線と、木蓮の木のところで少しだけ歩調はゆるんだが、それもすぐにもとの張りつめた足運びに戻った。
 戸崎の家の玄関チャイムを鳴らして、出てきた戸崎の母親に見舞いに来たことを告げた木佐は、恐縮した様子の戸崎の母親の後について家の中の階段を上り、戸崎の部屋の前まで案内された。
「戸崎、入るよ」
 かちゃりとドアを開けると、木佐の目線の先にはベッドの上に寝そべる戸崎が居た。木佐に気付いて、一気に表情が柔らかくなる。
「来てくれたの? 木佐がわざわざ?」
「笑ってあげようと思って」
「いやほんとに、馬鹿みたいだよ。てすり掴んでるのに足踏み外してさ、階段五段落ちて骨折」
「ばか」
 そう言いながら、木佐はわけもなく安心した。
「でもほんと、木佐が来てくれるなんて思わなかったよ。お礼に今度、とびきり良いもの見せてあげる」
「何?」
「学校の近くに公園あるじゃん。あそこの公園、池があって、その周りに木がいっぱい植えてあるんだけど、それが秋になると紅葉するの。晴れた日だとさ、池に紅葉した木が映ってさ。でもあんまり清潔な池じゃないから、なんか白いあぶくみたいなのがいっぱい浮かんでるんだけど、それもあいまって、ほんとにあの水面は、オパールみたいだよ。早く木佐に見せたいな」
「じゃあ戸崎は、オパールを見たときに、白いあぶくが浮いて紅葉が映った水面にそれを喩えるの?」
 昨日の会話を思い出して、木佐はおずおずそんなことを言った。戸崎の顔がぱっと明るくなる。
「そう、そうなんだよ。ひっくり返すの。比喩だからね。なんか今日の木佐、珍しいな。覚えてるんだね、二人で何話したのか、ちゃんと。聞き流されてるもんだと思ってたから、びっくりした」
 言いながら、戸崎は急に、感極まったような顔をして、一瞬遅れて、あわててそれを取り繕おうとした。なんか照れちゃったじゃん、木佐のせいだよ、とそう言う戸崎を見て、咲き初めの椿を見たような気持ちだ、と木佐は思った。




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