-------------------------------------------------------------------------------- 蛇の熱



 蛇の熱





 転入生がやってきた。やけに冷感的な男だった。ひたすら深い緑の黒板の前に立って、濡れて尖った声で形式的な挨拶をした。もしその声に触れることが出来たら、きっと俺の手は湿るだろう。そう思わせる声だった。声を転がす手のひらはちくちくとした痛みを感じながら、声そのものによって水気を与えられてゆく。容易に思い描くことが出来た。彼の声という抽象は、俺の中でたやすく結実した。その声は氷のような形をしている。純粋な水の分子が積み重なって構成される、その物質のもつ堅実な冷ややかさは、俺の手のひらを赤くする。
 その挨拶は排他的なものだった。教室の空気が若干変質する。彼は極めて無愛想な態度で、教師に指し示された座席に一直線に向かった。教壇を降りる時、彼の重量分の音がする。軽い音をたてながら、彼は自分の新しい席へと向かう。俺の座席の横を通った。乾いた黒髪と白い肌。骨みたいな白さだ。透明を何度も重ねたような白ではなく、あくまで平面に留まる白。肌という表層においてだけ存在する、質量のない白。女みたいに多層的じゃない。俺の視界を通り過ぎる。後ろの方で席に着く音がする。彼を追っていた視線を前に戻す。改めて黒板を見た。転入生の名前が書いてある。深緑に浮かび上がる白い文字を口内で転がしてみる。倉井探。よく似合った名前だと思った。湿潤と乾きの混在したような感じが彼自身にそっくりだ。くらいさぐる、と何度も繰り返して、いつの間にか口に馴染んでいる。


「今日来た転入生がさ、いい感じだった」
 夕食はいつも妹と二人きりでとる。父親は単身赴任、母親は夕食時パートに出かけていて居ない。それぞれ個別に食べてもいいのだが、一応は兄妹なので、お互いになるべく一緒に夕食を食べようと心掛けている。大抵いつも、軽い話をしながら食べる。二人とも学生だから、ほとんどが学校にまつわる話になる。今日もそうだった。妹が、友達との話を楽しげに話したあとに、俺はやってきた転入生のことを話した。
「高校でも転校生ってくるんだね。良い感じって、良い人そうだったの?」
「いや、全然。無愛想だし、陰気そうだし」
「何が良かったのよ」
「何か、冷たい感じが」
 兄さんってクールな子が好きなんだっけ、と言って、妹はおかずの煮魚を口に運んだ。妹の皿の鰈は悲惨なことになっている。妹は魚を食べるのが下手だ。
「うん。クールっていうか、冷たそうな人が好き」
「性格の話? それとも体温の話?」
「体温」
「変態だね」
 理解できない、というように妹は眉を顰める。
「そしたら、兄さんの歴代の彼女って全員冷え性だったの?」
「割とね」
「歪んでるなあ。変な趣味。わたしならなるべく体温高い人が良いけどな。というか、兄さんその転入生の子好きなの?」
「うん。多分好き」
 じゃあ一目惚れだね。妹は話を切り上げるようにそう言ってから、手を合わせる。ご馳走様でした、と小さく呟いた妹によって、悲惨な鰈はシンクの三角コーナーへと運ばれた。自分の皿を見下ろす。奇麗に骨だけ残されて、骨格標本みたいだ。じっと見ていたら、妹が飼っている金魚が頭に浮かんだ。
「お前、金魚にちゃんと餌やってる?」
「……やってるよ」
 少し煮え切らない風情の妹の声に大体を察する。妹は生き物が好きで、飼わせてくれとねだることがよくあるが、まずいことに妹の性格は致命的に怠惰である。それに加えて、飽きっぽい所もある。今までにも、金魚をはじめとしてカメ、メダカ、エビ、ハムスター、ねずみ、インコ、蛇、カブトムシ、クワガタと色々なものを飼っているが、そのほとんどが悲劇的な結末に終わっている。金魚は今までに何十匹と飼ってきたが、その割に今うちにいる金魚はわずか六匹ほどだ。飼いはじめた当初は熱心に本を読み漁って世話に勤しんでいた妹は、去年金魚が病気によって大量死してから、その熱情を失ってしまった。去年までは美しかった水槽は、いまや藻が水槽にこびりついていて側面から中を窺うのも難しい。メダカとエビは同じ水槽で共生させたがために食い合いが発生し、いつの間にかメダカの姿だけが忽然と消えていた。そのことで母親に叱られた妹は、エビを、とってきた川に返しに行った。カメも同様に、飼いきれなくなって近所の公園に放しに行っていた。インコはつがいで飼ったが、鳥籠を掃除中にオスが窓から外に逃げ出したのち、メスの方の元気がめっきりなくなり、最後には死んでしまった。妹はメスのインコの死骸を持って近所の公園に行き、そこに埋めて帰ってきた。クワガタも、虫かごから出して遊んでいて結局外に逃がしてしまった。ねずみも二匹を一緒に飼って、同じケージに入れて世話をしていたが、家族旅行に出かける前に妹が餌をやり忘れた所為で、旅行から帰ってきたときには共食いし合って死んでいた。ハムスターと蛇は、飼っていたケースの置き場所が悪くて死んだ。ハムスターは冬の寒いときに窓際に置かれて凍え死に、蛇は夏の暑いときに妹のベッドの下で蒸されたようになって死んだ。寿命を全うしたのはカブトムシくらいである。妹は生き物を飼うのに向いていない。今もきっと、録に金魚に餌をやっていないのだろう。両親は、今いるもの以上は妹に生き物を飼わせないことにしているらしい。妥当な判断だと俺も思う。
 しかし、妹がこんなにもペットを不幸にする理由は、何か他にあるような気もする。そう思う理由として、あの日の夜が、未だに深く俺の中に残っているのだ。


翌日、机に肘をついて、うとうとと眠り込んでいる倉井に声をかける。転入初日に排他的な態度をとったことで、俺以外の同級生は誰も倉井に声をかけようとしなかった。
「倉井、次の時限は教室移動だよ。化学室。実験だから」
 倉井の耳元に喋りかける。倉井は俺の声に目を開けて、何度か瞬きしてから顔をこちらに向けた。
「聞いてた?」
 俺の言葉に肯いて、立ち上がる。教科書と筆記用具を集めて抱えてから、もう一度俺の方を振り向いた。
「ありがとう」
「気にしないで」
 その礼の言葉が、予想ほど投げやりでも冷ややかでも無かったことに、少し驚きを感じた自分がいた。予想外に情の滲んだ声だった。心の中で、何かが沸き起こる。予想外だ。もっと冷たいものと思っていたのに。
 なんとなく連れ立って歩く形になった。並んで廊下を歩く。近くで見る彼は、昨日の彼よりも温かみがあるような気がした。これも予想外だ。
「もしかして、倉井は人見知りだったりするの?」
 当てずっぽうの問いかけに、倉井は小さく肯いた。何故か胸がちりちり痛む。
 そうか。彼は別に冷たい人間というわけではないのだ。
「俺、板橋っていうんだけどさ、今日一緒に昼飯食べない? 倉井のこと、気になってたんだ」
 倉井は目を見開いてから、また肯いて、少し笑った。
「ありがとう」
 暖かい、もう既に解けきった声だ。初日の硬質さはどこへやら。
 不思議な衝動が静かに俺を襲う。おかしな欲求だ。触りたい。その白い肌に触りたくなる。触って確かめたくなる。倉井の体温はどうなのか。
 熱かったらどうしよう。


 数年前、親に蛇を買うことを許してもらった妹は狂喜した。衣装ケースを加工して蛇の飼い場所にし、グロテスクな餌の冷凍ねずみを嫌がることなく、ピンセットでつまんで愛しそうに蛇に与えていた。手や腕の上を這わせることもよくやった。妹の手に巻きつく蛇に、俺も若干の興味を持った。爬虫類は嫌いじゃなかった。もちろん触ったことなど無かったが、なんとなく格好良いものだと思っていた。兄さんも触りなよ、と目の前に出された蛇を、手のひらに受け取った。瞬間覚えたのは微かな違和感だった。予想よりも熱かったのだ。火傷するような熱さでは無かったが、生温いような感じだった。蛇はもっと冷たいのだと思っていた。その生ぬるさは変に生々しく、とても触っていられなかった。早々に蛇は妹の手へと戻った。蛇って冷たくないんだね、という俺に、妹は「そうだよ。でもそれが気持ち良いよ」と返した。俺はその時自分が曖昧に笑ったのを覚えている。
 その生々しさは、明るい日常においては忌避すべき類の暖かさである。その生ぬるさは、暗やみによく似合う。むしろ、その独特な熱がこうして明るい灯りの下で妹に乗っているということが、間違っていることのように思えた。生温かくて気持ち良いよ、と妹が呟くように言う。蛇が舌を出す。そぐわない、間違っている、と心のどこかで思っていた。その状況がなぜかとても居たたまれなかった。
 妹は欲しいペットを親にねだり、なんとか承知してもらう。やっと手中に収めた生き物を熱心に可愛がる。人に飼われるために生まれて、巡り合わせで妹の元にやってきた生き物を、妹はまるで運命の恋人のように扱う。親の許しをなんとか得た相手を、撫でて養ってキスをする。しかしいずれは飽きるのだ。飼われた生き物たちには妹しかいないのに、妹は辛辣にも次の運命の相手に熱をあげる。しかしその熱も、やがて冷めてしまう瞬間があるのだろう。
 蛇を飼いはじめて三ヶ月ばかりが経ったとき、二人ともが寝付けなかった夜があった。いつもは夕飯を食べるテーブルで、水を飲みながら、いつもとは違った話をした。
 妹は小学生の時に飼っていたクワガタの話を語った。結局逃がしてしまったクワガタだ。妹は、そのクワガタが可愛くて可愛くて仕方がなかったのだという。ある日妹はそのクワガタを手に乗せて、真正面から向き合った。そしてクワガタの顔を知覚した瞬間に、突然彼女の身体を嫌悪感が襲った。妹は手に乗せていたクワガタを払い落としてしまった。虫かごの土の上に落ちたクワガタは、裏返ってしまって、六本の足を、空をなぞるように動かした。嫌悪感は引くことはなく、結局妹はクワガタを外に逃がした。わたし、それ以来虫が苦手になっちゃったの、と妹は言った。
「本当に、それまでは大好きだったのよ。なのに、顔を見た瞬間に、何かに気づいちゃったの。気づかなければ良かったことに、気づいちゃった。それからずっと、怖いの。今とっても好きなものについても、同じようなことを起こしたらどうしようって思う。ヘビは逃がせないでしょう。あんなに可愛がってるものの何かに気づいて、嫌いになったらどうしよう。考えれば考えるほど思い当たっちゃうような気がするから、最近はなるべく考えないようにしてるんだけどね」
 妹のその話は衝撃的で、それでもとてもよく共感できた。思い返してみれば自分にも、同じような経験があったような気がする。
 お前はあんなに蛇が好きなんだから大丈夫だよ、と口先だけで励まして、その日俺は寝てしまった。次の日の夕飯は、またいつも通りだった。
 その日から数ヶ月後、妹のベッドの下に置かれたケースから、干からびた蛇が発見された。気づかなかったのだ、と妹は言った。部屋を掃除しようとして、邪魔だったからベッドの下に押し込めて、忘れてそのままにしちゃったの。妹を叱った母は溜息を吐いていた。何であんなに可愛がっていたのに、忘れて気づかなかったのかしら。
 日の当たる妹の部屋、息苦しくなるような熱気の中で、次第に自分の体温をはるかに超えて上がりゆくその熱の空気を、蛇はどう思っていただろう。過去の蜜月に妹と戯れていたベッドのその下で、妹に助けを求めただろうか。運命の恋人たる飼い主を必死に呼んだのだろうか。呼んで、それでも熱くなって、熱くなって、息がつまって、死んでしまった。
 妹の加虐性に、確かに俺は共感したのだ。自分の思い込みが取り払われて、俺もいつか、自分の恋人を殺すだろうか。


 なるべく冷たい女がいい。そう思っていても、大抵すぐに熱くなってしまう。女は大概沸点も融点も低いのだ。だからだめだった。
 倉井のあの冷たい声には期待した。どんなことをしたって、とろけてしまうようには思えなかった。いつまでも、冷たく硬いまま、解けないままだと思った。しかしどうやら目論見外れだ。
 仲良くなると、倉井はよく喋った。俺に向けてはよく笑った。その様子を好ましいと思ったけれど、それは全く不本意だった。熱を上げてはいけない。行く末は妹とあの蛇だ。そう必死で言い聞かせるけれど、どうにも感情は言うことを聞きそうにない。倉井はあの冷たい声を出さなくなった。今俺に向けて放つのは、温かみのある、気を許した甘えた声だ。そして俺の心内でも、あの冷たい声が失われたことを残念に思う気持ちよりも、その声の甘美さを好ましく思う気持ちが勝っている。
 熱を上げてしまったら、どうせいつか冷めてしまうのに。


 家族が不在の日に、倉井を家にあげた。親交の証として、ただそれだけのつもりだったのに、番狂わせが起きた。玄関の傍の金魚の水槽の前で、倉井が気を取られたように立ち止まった。
「板橋、この水槽の中に居るのって金魚だよね」
「うん。そうだよ」
「何か、一匹死んじゃってるみたいだけど、大丈夫?」
「え」
 確かに水面には金魚が一匹浮かんでいた。腹を光らせている。水槽のそばにある棚に立てかけてあった小さな網で金魚の死骸を掬って、引き寄せたゴミ箱の中に捨てた。本来なら包んだりして生ごみ扱いにするか、丁重に埋葬するべきなのだが、今はとてもそんな気分になれなかった。できるなら、このごみ箱の中で朽ちて奇麗な骨格を現した金魚の死骸を、妹に見せ付けてやりたい気持ちでいっぱいだった。気分が重い。餌の袋を開けて水槽に向けて傾ける。餌をあげようとするその行動を察知して、水面に金魚が狂ったように集まってきた。水面に落ちた餌をたった五匹で奪い合う。共食いして死んだねずみ二匹の死骸を思い出した。結局見ることは無かった干からびた蛇の死体を想像した。気分は悪くなる一方だ。
想像を断ち切るように、ふと冷感が手を覆った。手元を見ると、倉井が俺の手を掴んで、袋から餌が落ち続けるのを止めていた。倉井はそのまま俺の手から餌の袋を取り上げて、封を閉めて元あった近くの棚に戻した。
「やりすぎだよ」
 気遣うようなその暖かい声に、色んなことを思って、それもまたどこかに消えた。
 倉井の手を掴む。想像通りに冷たい。倉井は一瞬狼狽えたようだったが、そのまま俺に手を預けていた。握りしめる。冷たかった手が、だんだんぬるくなっていく。俺から熱が移っているのだと気付いて、やるせない気分になった。このぬるくなった彼の手さえ、もう今は愛おしい。愛おしいし、好ましいし、最初から、きっと好きだったのだ。
「倉井」
 一声呼んで引き寄せる。抱きしめて首元に顔を埋めると、倉井が慌てているのがよく分かる。熱を持つ。もうどうなってしまってもいい。
「倉井、お前のことが好きなんだ」
 俺の言葉に赤くなるその白い皮膚は、冷えてそうなったんじゃない。きっと熱い。熱を持って、赤らんでいる。俺の言葉で。
 冷感を熱に変えて、熱くして、息をつまらせて、運命の相手を殺してしまおう。ベッドの下から拾い上げられた彼は、もう今までの彼ではないけれど。




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