玄兎が綺麗





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 ずっと小さな頃から本が好きだった。わくわくする冒険譚や脳の心髄に切り込む探偵小説、体を震わすファンタジー、心の奥を刺すような青春話、身体を弛緩させる私小説。大抵の本に対して、僕の身体すべてが呼応した。否応なしに感じさせられる、情動が好ましかった。その圧倒的な浸食性を、能動的に求めるのがたまらない。僕は本が好きなのだ。本は僕の心をつかんで離さない。本はいくつもの手法で僕を歓喜に陥れる。好きにならずにいられない。ずっと幼い頃から、大体の本を愛していた。
 しかしただ一つ、本の中でも大嫌いなものがある。
 恋愛小説が嫌いだった。どんなに美しい装丁でも、どんなに美しい筆致でも、好きになれなかった。理由は単純だ。読んでいてもつまらないから。美しく謳われても、醜く肉薄しても、どれにしたって、その対象が恋愛であるというだけで急に空疎なものになった。何故お話の中の登場人物たちはあんな些末な出来事に心揺れるのだろう。どうして皆死んでしまいそうなほど相手を好きなんだろう。幼い頃からの疑問は一向に解決されない。解決されないまま今に至る。そして本の中の華々しさを、僕は現実でも体感しなかった。どんな人を見ても、本を相手にした時ほど心は揺れない。空虚だった。本は好きだ。もちろんいっとう好きだ。しかし本だけが好きなわけではない。勉強だって割と好きだし、食べることも眠ることも好きだ。少ないが友人もいる。彼らと話すのは心地よいし楽しい。家族のことも愛している。他にも、単純に好きなことならたくさんある。僕の好きなことと、本は密接に絡み合っている。本に登場して好きになったことがある。好きなものが本に登場してより一層愛しく思えたこともある。その密接な相互関係は麗しい。相乗効果は目覚ましい。しかし恋愛ということだけが、よく分からない。綺麗な人や、優しい人、不幸な人、気の合う人、そういう人たちと会ってきて、嫌な事も良い事もあったけれど、そのどちらにしたって飛びぬけているわけではない。目が合うだけで、言葉一つで、頬が赤くなることなんてない。切なくなることなんてない。もし突然その人達に裏切られたとしても、きっと出会ってからの年数分しか僕は悲しめない。どんな人と見上げても、月はいつも同じ雰囲気でそこにあり、僕はいままでに一度も、死んでもいいと思えるほどに人を愛したことがない。
 恋愛小説の圧倒的な輝かしさに、僕は萎れてしまうしかない。だって全然分からない。何をそんなに希うのか。何をそこまで思いつめるのか。どうして恋愛にはこんなにたくさん種類があるのか。本屋に並べられたおびただしい恋愛小説の、一冊たりとも同じ恋愛ではないのだという。眩暈がする。
 ある有名なお話で、二人の名高い小説家に関する、愛の言葉の和訳についてのものがある。ある一人は英語の愛の言葉を「月が綺麗ですね」と訳し、もう一人はロシア語の愛の言葉を「死んでもいいわ」と訳したというものだ。真偽ははっきりしないが、有名なだけある、浪漫的な話である。
 美しい、情緒的なそれに泣きたくなる。麗しい事だけは痛いほど分かるのに、その言葉の意味を厳密に考えると、絶望的なまでに理解できない自分がいるのだ。月の容貌を変化させるほどの強制や、死に並び立つほどの価値が、果たして恋愛にあるのだろうか。暗闇にいるかのように分からない。そして何より焦慮を加速させるのは、僕以外の人間が、容易く恋愛に感じ入ることだった。恋愛小説は数えきれないほどの人間に読まれていて、そして恋愛小説を読む人間以上に、恋愛をしている人間の数は多いのだろうという事実には、打ちのめされるしかない。
 他人が容易く行うことを、僕はいつまでたっても出来ない。頭が痛くて、気分が悪くなる。焦っているのにも関わらず、いつまで経っても理解できない。
 恋愛で崩壊する人間がいる。恋愛で崩壊する人間関係はもっとある。恋愛に押しつぶされる感情がある。そういう惨事を引き起こす要因が、想い人の微笑み一つだなんて、まるで理解ができない。どこかおかしいんじゃないだろうか。
 最近恋愛小説を書くようになった僕のお気に入りの作家を、最近恋人にかかりきりな僕の友人を、数年前からずっと冷え切った関係の僕の両親を、たまに、本当にたまに消してしまいたくなることがある。通りがかりに見かけた名も知らぬ男女三名の修羅場とか、電車で僕の真向かいに座った疲れた顔をして手を握り合う意味ありげな二人とか、どう考えても望みのない人に懸想している僕の友達の女の子とかを、終わらせてやりたくなることがある。どうして好き好んで破滅に向かうのか理解できない。その恋愛感情さえ振りきれば、理性ある幸せな日々へ行けるのに。
 まっとうな理性を邪魔して、すべてを狂わせていく恋愛が嫌いだ。純真な慈しみを疎外して、塗り替える恋愛が嫌いだ。出来れば自分の身にも、他の人の身にも訪れてほしくない。いくら僕が他人と違っていたって、理解できないものは仕方がない。
 僕は恋愛が嫌いなのである。

 図書室に眠っていた、もう古くてぼろぼろになってしまった本を処分するので、良かったら手伝ってくれないか。司書の先生にそう声を掛けられたのは金曜日の昼休みのことだった。いつものように、気になる本を見繕って貸出手続きを済ませた僕に、司書の先生はにこやかに言う。もし何か好きな本があったら、いくらでも持って行っていいわよ。どうせ捨てちゃうし、もしかしたら掘り出し物があるかもしれないしね。
 楽しげな誘いを承諾して、授業をやり過ごして、放課後図書室に向かうと、いつもは綺麗な床がおびただしい本で埋められていた。
「これ全部ですか?」
「そうなの。結構あるみたい。これから図書委員の子達も来るけど、その子達とも協力して、まずこれをまとめるところから始めましょう」
 既に疲れたような司書の先生の声に、これは結構長期戦になりそうだな、と内心で思いながらも、取り敢えず足元の本を積み重ねていくことにした。中腰になりながら作業をしていると、次々と図書委員らしい生徒が表れて、皆各々ぎょっとしたような反応を見せていた。結局最大十五人ほどの人員で、同じ大きさの本を手ごろな高さでまとめて縛っていく、という作業を行う。もちろん、題名が不思議な本や、装丁が奇妙なもの、好きな作家の本などを見つけると、皆一瞬手をとめて、いそいそと取り分けて置いていた。
 いよいよすべての古本がきちんとまとめられ、そうなったら次は、屋外のごみ置き場まで本を運ぶ段である。ここで一様に皆が顔を曇らせたのは、この学校にエレベーターが設置されておらず、また図書室が三階にあるからに他ならない。しかしこのまま古本を図書室に放置するわけにもいかず、主に男子が先んじて本を持ち上げた。本の重量分を手に食い込ませながら二階分を下り、そしてごみ置き場に置いたら、また二階分を上って来なくてはならない。考えただけでも暗澹とする。
 一つの手にハードカバーの本を六冊と、もう一つの手に大きめの図鑑を二冊かかえて、ゆっくりと階段を下りる。隣を、文庫本を十五冊ほど抱えた女子がそろりそろりと下りていく。あっちはあっちでバランスをとるのが大変そうだと思いながら、なんとか歩を進めた。
 全ての作業が終わったのは最終下校時刻の十五分前だった。謝る司書の先生を宥めて、皆それぞれ、今日のご褒美をまとめていく。文庫本を五冊ほど持った生徒や、大きくて分厚い荘厳な感じの辞書一冊だけを持った生徒たちが朗らかな顔で次々と帰宅する中、僕は失敗を犯したことに気が付いた。考えなしに気になった本をどんどん取り分けていたせいで、僕の持ち帰らねばならない本は他の皆よりずっと多量なのである。文庫本が三十冊、ハードカバーが十二冊、事典を三冊と図鑑を一冊。僕は自転車通学なので、自転車の籠や座席の後部にこれらを積んでしまえば、帰宅自体はなんとか出来るだろう。しかしまずこれをどうやって駐輪場まで運べばよいのか。自分の浅慮に気分が重くなる。司書の先生は何回かにわけて運べばよいと言うが、最終下校時刻はあと数分も無い。かといって、図書室に置かせてもらうのもどう考えたって迷惑だろう。施錠をしたいと至極申し訳なさそうな顔で言う司書の先生に咄嗟のつくり笑顔で挨拶をし、なんとか図書室から廊下に本を引きずり出したは良いが、ここからさらに二階分の階段という難関がある。一瞬、本を階段の下方へ落とすという考えが頭を過ぎったが、丁重に扱うべき古本にそんな無体なまねも出来ない。とりあえず持てるだけの本を持って駐輪場まで急ぎ、走って帰ってきて残りを持ち出す、という考えを実行に移そうともしたが、僕のいない間にここに残された本を、巡回の先生がどういう目で見るかを考えて足が止まった。この時刻だと、駐輪場まで行っている間に校舎が施錠されてしまう恐れもある。僕以外の人間にはただのごみである本の山を携えて、僕はしばし呆然とした。巡回の先生が来るのを待って、訳を話してみようか、それとも。本の処分が予想以上に重労働だったこともあり、僕の脳は上手く働いていなかった。窓の外を見るともう暗い。ついに最終下校時刻を知らせるチャイムが鳴った、そのときだった。
「君、何か困ってるの?」
 階段の上方、四階と三階間の踊り場のあたりで、窓から差し込む橙色に照らされた、背の高い人影が喋った。橙の光と黒の影の落差で顔はよく見えなかったが、声を聞く限り、知らない人のようだった。橙と黒の境目に一瞬見惚れて、そしてやっと掛けられた言葉を理解した。ありがたい申し出だった。
「ちょっと、荷物が多くて、どうやって駐輪場まで運ぼうかと思案に暮れてたところです」
 僕の言葉を聞いて、その人は僕の所まで下りてきた。橙の囲いを脱して、鮮明になった姿は、背の高い、どうやら先輩にあたる人らしい。上靴の色が二年生のものだ。「随分いっぱいあるんだね」と、すこし面白そうに言うその人に、どうしていいか分からなくてなんとなく下を向く。
「駐輪場までで良いんだよね」
 そう言って、その人はハードカバーの塊と三冊の事典をこともなげに持ち上げた。面食らう。背はやけに高いけど、全体的な印象では痩せて見えるので、驚くし心配だ。
「すみません。ありがとうございます。というか重くないですか、大丈夫ですか」
「大丈夫だよ。重いもの持つの慣れてるから」
 確かに、ハードカバー十二冊と事典を三冊持っても、少しもよろめいたりしていない。背筋もきちんと伸びている。慌てて僕も残りの本を持った。連れだって階段を下ってゆく。
「本当にありがとうございます。正直あんまり頭回ってなくて、どうしようかと思ってたので」
「気にしないで。でもそうか、下校時刻ももう過ぎてるもんね。少し急ごう」
 そういえば、下校時刻はもう過ぎている。思い出して、申し訳ない気持ちになる。この人は特に帰り支度もしてないみたいだけど、大丈夫だろうか。荷物だけ中に置いていて、校舎が施錠されるなんてことがあったら悲惨だ。
「ごめんなさい、先輩は時間とか荷物とか大丈夫ですか。このまま駐輪場まで行って、校舎閉められちゃったら大変だし」
「大丈夫。そもそも今夜、校舎は施錠されないよ。俺も帰らないし。君は急いだ方が良いけどね」
 そう言って彼は少し笑った。一瞬不思議に思って、すぐに合点がいく。
「天文部の方ですか」
 この学校には、公立校としては珍しく天文部がある。主な活動は夜に行われているので、他の部活のように、一般生徒がその活動を見かけることはほとんどない。そういえば、月に何度かある観測会の夜に限っては、下校時刻を過ぎて学校にいても、天文部員は一般生徒のように、先生にきつい注意を受けることはないと聞いたことがある。道理で、下校時刻間際で荷物も持たずに校内に居るわけだ。重いものを持つのに慣れているのも納得だ。今年の夏休み、図書室の開館日に行ったときに、天文部員らしき人たちが重そうな望遠鏡を運んでいるのを見たことがある。あれをいつもしているなら、力もつくだろう。
「そうだよ。天文部。君は図書委員?」
「本当は違うんですけど、いつも入り浸ってるので似たようなものです」
「この本は?」
「古本の整理をしていて、好きな本を持って行っても良いとのことだったので、ちょっと欲張りすぎました」
 そう話すと、彼は惜しそうな顔をした。
「そうだったのか。俺も行けば良かったな」
「本、好きなんですか?」
「小説とかはあんまり読まないけど、図鑑とか、手引書とか概説書とか読んだりはする。写真集も見たりとか。君のこの本見る限りだと、図鑑とかもあったみたいだから、少し行ってみたかったかな」
 彼はそう言って、僕の本の表紙に目を落とした。その様子がなかなか様になっていたので、よく本を読む人なのかもしれない、と想像する。
「図書室に来たりしますか?」
 初めて見かけた人のように思ったけど、意外に図書室ですれ違ったりしているのかもしれない。そう思っての問いかけだった。
「たまに行くよ。大抵調べ物のために」
「そうですか」
 困っているところを助けて貰うなんて、あんまりない接点だから、もし後日、図書室で会ったりしたら、少し嬉しい、と思った。何だか面白い縁の繋がり方だから。
 駐輪場の僕の自転車まで着いて、本を籠に乗せるのまで手伝ってもらって、僕は深く感謝した。頭を下げると、彼はまた「気にしないで」と言ってくれる。顔を上げると、彼は穏やかに笑っていて、なぜたがとてつもなくほっとした。
 そしてその安堵は不思議なことに、僕の中で名残惜しさに変質した。それじゃあ、と僕に背を向けて立ち去ろうとする彼に向って、口が勝手に動き出す。
「あの」
 彼がきょとんとした顔で振り向いた。「どうしたの」という声が終わらない内に、声が飛び出す。
「名前、教えてもらってもいいですか。なんか僕、とても、あなたにもう一度会いたいです」
 僕は過度に恋愛嫌いなことを除けば平凡な高校生で、おまけに友人も少ないし、人との交流もあまりない。だからだろうか、交際の活発な人にとってはただの親切に過ぎないだろうこの出会いが、なんだかとても特別なことのように感じるのだった。クラスで出席番号が近かったわけでもない、同じ部活なわけでもない、そういう今まで少しも知らなかったような人とふとしたきっかけで知り合うということに、とてつもなくわくわくしている。物語の序盤にある、異世界への扉が開いたり、知らない人からの手紙が届いたり、不吉な夢を見たりする、そういったはじまり。小説での、事件に巻き込まれる原因となる偶然のきっかけ。そういうものをこの出会いに感じているといったら、少々大げさで夢見がちかもしれないけれど、わくわくしているのも確かな気持ちだ。
 僕の言葉に、彼は面白そうに笑った。
「篠原忍。君は?」
「一年B組、辰巳いおりです」
「そう、それなら、再会のときはよろしくね、辰巳くん」
 それだけ言って、彼は腕時計を確かめてから校舎の方へ歩き出す。その背中が白い校舎に消えるまでを見送った。篠原忍、という名前を頭の中で繰り返す。深く暗い夜の中で、ふと思い立って上を眺めた。意外なほどに綺麗な星空だった。籠に積まれたたくさんの面白そうな本と、夜空に瞬く星と、たった今知った名前のお陰か、作業の疲れはいつのまにか軽くなっていた。

     2
 学年が違うから、それほど頻繁に会うわけじゃない。それでも一週間に一度は顔を見かけたし、二週間に一度は長く喋った。名前を教えてもらって以後初めての遭遇は、授業と授業の間の中休み、教室移動の最中だった。ぽつぽつと廊下に点在する人の中に篠原先輩を見つけて、一瞬緊張する。友達と連れだって歩いていた彼の視線がこちらに振れて、僕を見て目を見開く。会釈をすると、すれ違いざまに微笑まれた。笑い返す。脇の友人に彼のことを尋ねられた。経緯を話す。その一連全てが、少し恥ずかしくて、嬉しかった。放課後や昼休みなど時間のある時に出会った場合は、二人ともかなりの時間を喋った。世間話とか、勉強の話とか、家族の話とか、星の話、本の話。友人らと話すときの内容と、ほとんど変わりはないはずなのに、なんとなく高尚な会話のように感じて、濃やかに、上品ぶって話した。篠原先輩の前に行くと、なんだか神妙な心持になるのだ。
「いおりがそんな風に人のこと話すの、珍しいね」
 篠原先輩についての話を友人である川霧にしていたら、そんなことを言われた。しかし何故珍しいと形容されるのか良く分からない。僕は新しい友人が出来ると、大概いつも同じように浮かれている。その様子と、今の様子が特に異なるとは思わなかった。
「そんなことないよ。君と友達になった時だって、同じような感じだったよ」
「そうかなあ。そもそもいおりが年上に懐くっていうのが珍しいよ。それに、いくら困っているところを助けて貰ったとしても、いおりはそういう人に対して興味も感慨もあんまり抱かないようなイメージがある」
「失礼な。そんなに冷血でもないし無礼でもないよ。助けて貰えたら普通に嬉しいし、実際篠原先輩が声を掛けてくれて、凄く助かったんだから」
「でもいおりは割と内気でしょう。助けて貰った時は、顔も名前も知らない人だったわけだし。やっぱり珍しいよ」
 川霧はさらに主張した。僕は依然納得がいかない。
「大体、珍しかったら何だって言うの」
「別に。友達の立場としてはあなたの交友関係が広がるのはまったく嬉しい事だけどね、それでも、大概の場合において、特別なこととそうでないことは、明確に区別しておいた方が良い」
 謎のような言葉を発して、彼女は楽しくて仕方ないといったように笑った。何もかも良く分からない。この友人は、少し発言が奇妙なところがある。呆れてしまう。
 打って変わって篠原先輩は、いつもまともな言葉を使うよなあ、とふと思った。あの人の言葉はいつでも正しく簡潔だ。思うままに話している。僕や川霧のように、いちいち言葉をこねくり回して話す人間とは大違いである。

 放課後、帰宅前に自販機でお茶を買っていると、後ろから肩を叩かれた。振り向くと篠原先輩の顔がある。自分でも表情が緩んだのが分かった。
「もう帰り?」
「そうです。ちょっと寒かったので温かいの買おうと思って」
「じゃあ一緒に帰ろう。今日は自転車じゃないだろ」
「ええ、もちろん」
 窓の外は雨で白くなっている。朝から結構な大雨で、気温も前日より幾分か冷え込んだ。この雨の中自転車で登校してきた猛者もいるにはいるが、だいぶ少数派だろう。僕ももちろん今日は傘をさしての徒歩通学である。
 篠原先輩が自分のクラスの靴箱の方へ行ったので、僕も靴箱へと向かう。靴を履いて傘をふるい、三つ離れた下駄箱から篠原先輩が出てくるのを見てそちらに向かう。
 扉を開くと一気に冷たさと湿り気が迫ってくる。隣で篠原先輩がため息を吐くのが聞こえた。左を見ると呼気が白くぼやけている。
「雨、お嫌いなんですよね」
「星が見えなくなっちゃうからね。辰巳くんは?」
「わずらわしいけど、あんまり嫌いじゃないです。晴天だと読書に身が入らなくて」
「まあ晴耕雨読とも言うしね。でも俺はやっぱり苦手だなあ。晴れてる夜空の方がいい」
 篠原先輩の愚痴めいた言葉が雨音越しに聞こえる。傘の半径二つ分の距離を開けて連れ立って歩く相手のことを、僕はもうずいぶんと知っている。彼が何を好きで何を嫌いか。偶然の出会いから、確かに交友が深くなっているのがうれしかった。しかし、まだ足りない。ただの先輩後輩としては充分すぎるくらいの距離だけど、もっと友人として親しくなりたかった。
「一年生の時の合宿は、せっかくの遠出だったのに悪天候で、ろくに星が見れなかったんだ。今でもあれは悔しいな。自然のことだからどうしようもないけどね」
「そうか、天文部は合宿もあるんですよね。今年の合宿は、ちゃんと星が見れたんですか」
「うん。すごくきれいに見れたよ。こっちとは比べ物にならないくらい。本当にプラネタリウムみたいだった。星が多すぎるから、かえって星座が見つけられないんだ。ここだと明るい星しか見えないだろう、だから明るい星を持った有名な星座はすぐに分かるけど、あまり光害のない田舎だと、こっちでは見られないような暗さの星まで見えてしまうから、膨大な点にどう線を引いていいか分からなくなってしまう」
 記憶の空を思い返しているのだろう。弾んだ声で語られる情景は、想像してみると美しかった。
「いいですね。見てみたいです」
「そうか、そうだね。じゃあ今度一緒にどこかに見に行こうか」
 何気ない調子の誘い文句に心臓がひっくり返りそうになる。
「僕と篠原先輩でですか」
「嫌なら別にいいけど。なんだ、見たいんだと思ったのに」
「いえ、嫌じゃないです。ぜんぜん、うれしいです」
 自分の鼓動が大きくなって、耳に入る雨音すらかき消しそうだった。
「僕、今まで友達と遠出したりすること、なかったんです。だからちょっとびっくりしちゃって」
「何それ。ご両親が厳しかったりするの」
「いや、ただ単に、あんまり友達いなくて、その友達も出かけたりとか嫌がる性質なので」
「ああ、なるほど。彼女とかそんな感じだね」
 篠原先輩が想定しているのが川霧であろうことにくすぐったくなる。
「先輩、川霧のこと知ってるんですね」
「だっていつも君と一緒にいるから。君のこと見てれば彼女も目に入るよ」
 いつの間にか、相手と近しい人までを知るようになっている。それが楽しくて仕方がなかった。
 足元で雨水が波立っている。街路樹の葉に降り注ぐ雨は白く跳ねて、まるで葉を包むベールのようだ。空を映す水たまりも、すれ違う人々の表情も、街の色も、すべてが褪せて寂しいのに、僕の心中は軽やかだ。
「星を見るの、いつ行きますか」
「別にそんなに遠出するつもりじゃないから、普段の週末に行ってもいいんだけど、疲れることは疲れるからなあ。長期休暇に設定する方がいいかもね」
「じゃあ冬休み?」
「そうしようか」
 冬は星がきれいだよ、と篠原先輩が付け加える。豪雨によってますます激しくなる景色の寂しさとは正反対に、僕の心は明るくなった。

「もうだめだ」
 窓際の僕の席に突っ伏していた川霧がそんなことをうめく。昨日の放課後、篠原先輩に星を見に行こうと誘ってもらったことを川霧に話してしまいたかったのに、この調子では出来そうもない。よほど頭を勢いよく打ち付けたのだろう、髪の毛は机の上で放射状に広がっている。その中の一本に枝毛を見つけて、うつ伏せの川霧に声をかける。
「枝毛裂いても良い?」
「だめ」
「じゃあ起き上がってよ。僕の机だし」
 川霧がおもむろに頭を持ち上げる。目が赤くなっていて一瞬ぎょっとしたけれど、すぐに原因に気付いて暗澹たる気持ちになった。 「また恋愛ごとか」
「……たぶんもう意図的に、気付かないふりをされているんだと思う。何回も何回も友達だって繰り返されて、好きだって何回言ってもにこにこ微笑まれるだけ」
 中学時代の親友への物思いに川霧が悩まされていることはよく知っていた。知っていて、話もよく聞いていて、その上で僕はもう何度も、いい加減に終わらせてしまえと言っている。
 いつも冷静で、人を高みから見下ろして、何でもお見通しだとでもいうように振る舞う川霧が、この物思いのこととなると、途端に感情にあふれてしまうのが、僕はとても苦手だ。いつもの川霧の方がずっと良いのに、と思う。
 そしてますます僕は恋愛への嫌悪を深めていく。まったく嫌な病気みたいだ。それに罹った人間はもう平生のようでは居れなくなる。その人間の平生を好ましく思っていた人間からすれば、舌打ちでもしてしまいたい。
「なんでだろう、それなのに、いつも帰り際になると、もっと仲良くなりたい、なんて言ってくる。それを真に受けて告白するのに、それはまともに受け取ってもらえない。違う言語でも使ってるような気分になる」
「もう止めてしまえばいいんじゃないの」
 何度目かの提言は、今回もまた、沈黙ののちの微笑みで取り下げられる。
「無理だよ。とても無理」
 薄く笑む唇を見て、ため息をつきたくなる。
「どうしてそう、どんどん辛い方向に向かっていくんだか理解できないよ」
「ここまでくるとね、もうわが身可愛さだよ」
「わが身可愛さ?」
「今更やめてしまったら、今までの自分が無駄になる。まあもっと他に理由もあるけどさ」
 そう言い放ってから、川霧はしばし物思いに耽るような表情をする。そして少しの時間が経った後、平生のように僕に笑った。僕をからかうような笑みだ。ほっとする。
「もう大丈夫だよ。いおりに心配させるほどのことじゃなかった。申し訳ない。で、その顔、なんかあったの」
 川霧の言葉に応じて、昨日あったことを話した。冬休みに行くことになるだろう、と言うと、川霧は面白そうに笑う。
「誘われてうれしかった?」
「もちろん」
「そうなんだ、楽しんできてね」
「なんだよ、その笑い方」
 別に、とさらに笑う友人に、不信が募る。
 恋愛のしすぎで頭が混乱してるんじゃないの、と軽口を叩こうとしたところで、現代文の教師がせわしなく入室してきた。みんながざわめきを抑え始める。川霧も僕の席を立つ。自席へ戻ろうとする川霧は、ふと思い立ったようにこちらを振り向いた。川霧の口が耳元に近づく。
「いおり、もう一度言うけれど、特別なこととそうでないことは、明確に区別しておいた方が良い。あとあとのためにもね」
 教師の、「川霧、席に着きなさい」という言葉にやる気のない返事を返して、川霧は自席に戻る。僕は再び渡された謎の言葉に戸惑った。
 僕が篠原先輩のことを語るたびに、川霧は少しおかしな反応をする。たいていは笑っているけれど、たまに真面目な顔をする。「特別なこととそうでないことを区別しろ」とはいったいどういう意味だろう。
 川霧がまず驚いていたのは、僕が初対面の人間にあれほど積極的になったことについてである。しかしそれも僕自身からすればおかしなことではない。本の中の出来事によくあるように、偶然から何かが始まることを期待した。またあわよくば友人が増えれば、と思って行動した。それだけだ。別におかしなことじゃない。
 確かに、出会い方は特別だったかもしれない。偶然に出会った相手と友人になる、という特別さは、僕をわくわくさせた。しかしそもそも、出会いなんてたいてい特別なものだという気もする。例えば、僕と川霧が仲良くなったきっかけというのは、単純に入学当初、席が隣であったから、というありふれたものである。しかし考え方を変えてみれば、とても馬が合う相手と偶然席が隣になった、ということだって、充分運命的で、特別だ。
 そう考えてみると、篠原先輩は別に特別というわけではない。もちろん友人としてもっと仲良くなりたいし、誘われたのもとび上がるくらいうれしかったけれど、それは他の友人だっておなじことだ。もし、川霧に「星を見に行こう」と誘われたとしても、不気味に思いつつも結局はうれしいだろう。
 なんだ、何もおかしなことなんてないじゃないか。篠原先輩も川霧も変わらない。どちらも仲の良い友人、もっと仲良くなりたい友人だ。特別なことなんてない。自らにそう言い聞かせて、川霧が本当に示唆していただろうことを追い払う。篠原先輩はただの友人だ。僕が篠原先輩に対して抱いているのは友情であり、決して、決して恋愛感情などではない。
 すぐそばの窓から外を見る。もう雨は止んでいるけれど、雲が空を覆っていることは変わらない。篠原先輩は今日も星を見れないのだ、と気が付いて、切ない気分になる。
「そしてこの明治において、夏目漱石と森鴎外は、近代というものに対して、各々の立場を取ります。森鴎外は体制側から、夏目漱石は、みなさんは知らないかもしれないけれど、この時代、小説家っていうのはかなりのアウトローですから、まあそういった対照的なところもね、きちんと気に留めておきましょう、特にこの森鴎外の体制側に立っての、西洋や、日本をどう見たか、というのはね、たとえばこの『かのように』という作品からは、それが見て取れるんですね。後で配ったプリントに目を通しておいてください」
 この現代文の教師は、文学史をさらうのに忙しく、なかなか『舞姫』に入ろうとしないのだ。曇り空を見ていると、なんだがプリントを読む気にもならない。それにしたって、先生は鴎外より漱石を語る方が熱が入っている。一体いつになったら『舞姫』の授業が始まるのだろう。
「そういえば、夏目漱石というと、逸話がありますね。有名な話だからみんな知っているかもしれないけれど。Iloveyouを「月が綺麗ですね」と訳したという。まあ都市伝説ですがね。二葉亭四迷は「死んでもいいわ」だったかな。まあ与太話に過ぎないが、美しくはあるね。二葉亭四迷といえば、じゃあ辰巳、二葉亭四迷が何という小説で言文一致体を創出したか覚えているかな」
 急に当てられて少し狼狽えるが、簡単な質問なのですぐに答えてしまう。「『浮雲』ですか」
「そのとおり。そして言文一致体は国木田で完成するわけだ。ところがこの語り口調の問題は、大正中期になっても饒舌体という形で、たとえば宇野浩二だね、言文一致体で完成された語りを、もう一度揺るがそうという試み……」
 誰かがした間抜けなあくびに、思わずつられそうになる。今日、まだ一度も現代文の教科書は開かれていない。
 ぼやけた頭に浮かぶのは、愛の言葉を訳した文句だ。そもそも僕には、Iloveyouさえよくわからない。ましてや「月が綺麗ですね」や「死んでもいいわ」なんてなおさらだ。
 今も僕は恋愛ということがよく分からない。篠原先輩のことを考えても、月が綺麗に見えたり死んでしまいたくなったりはしない。川霧の推測は間違っている。
 そう結論付け、気持ちを入れ替えて先生の言うことをノートにとっていく。謎の言葉の解決の爽快さとは裏腹に、空は依然曇ったままだった。

     3
 素晴らしい小説を読んだ。最後の一文を読み終わってからも、頭から心に刺し込まれた得体のしれないものがずっと心をかき混ぜ続けている。本を閉じて息を吐いても、乱れた思考は散らばって、未だもとには戻らない。頭の中が鳴っている。どこか身体が欠けてしまっているような気がする。胸を切り開かれて心臓を持っていかれたような気がする。僕の心のうちに湛えられた水に、絵の具を一滴落とされて、それが彗星みたいに尾を引いて、僕もどこの場所にあるか知らないような、心の奥底に着床する。水は染まってしまって、もう元には戻らず、心の奥底では今も何かが生まれ続けている。恥ずかしい小説だった。美しい小説だった。読むことで何かが変わってしまう小説だった。息を吐く。水底からやっと上がってきたような心持ちがする。
 切なくて、美しくて、酷かった。疲弊する頭のうちで、ふと、これを篠原先輩に読んでほしいという気持ちが沸き起こる。あの人の好きなもののことならよく知っているし、これから、その好きなものを実際に見に行く機会も設定されている。けれど、よく考えてみると、僕の好きなものを、先輩にはまだ分かってもらっていない。
 これが僕の好きな小説なんです、と言って渡して、読んでほしいと言ってみよう。もし読んでくれるようなら、ぜひとも感想を聞いてみたかった。

 昼休み、先輩のクラスを訪ねても先輩はいなかった。思い当たるところを探してみるが、図書室には居らず、天文部室も中は無人のようである。屋上にいる可能性が一瞬頭をよぎったが、日中は施錠されているはずだ。
 おかしいな、もしや入れ違いになったか、と思いつつ廊下を歩いているとき、吹き抜けの空間越しにちょうど見慣れた黒髪が目に留まった。一階の自販機前だ。先輩は屈んで商品を取り出してから、二階へつながる階段の方へ歩く。落ち合えるように僕も階段の方へ向かった。階段を下って踊り場に立つと、ちょうど向こう側から先輩がやってくるところだった。
「篠原先輩!」
 篠原先輩が僕を見て、「辰巳くん」と口を動かした。階段を下る。たくさんのノートを抱えて下る女子生徒を、危なっかしいなと思いながら慎重に追い越して、「先輩、いま暇ですか」と言おうとした瞬間に、後ろから悲鳴が降ってきた。
 振り向く。ノートが舞っている。脇を篠原先輩が駆けていった。状況が理解できずに不安になって、無性に篠原先輩の名前を呼びたい気持ちになる。
「大丈夫?」
 階段の斜面に寝そべっているような態勢で、女子生徒が顔を歪めている。足を滑らせたのだと分かって僕も駆け寄った。
「立ち上がれる?」
「大丈夫ですか、頭打ったりとかしてないですか」
 僕の言葉に女子生徒は頷いて、篠原先輩の手を取って立ち上がろうとする。上半身を起こして足に力を込めようとしたところで、女子生徒は急に言葉にならない声を出した。
「滑らせたときに足首も捻ってるみたいだね」
「……ごめんなさい」
 女子生徒が泣き出しそうな顔をする。篠原先輩が少し考え込むような顔をしてから、僕の方を向いた。
「辰巳くん、ノート拾ってあげてくれるかな」
「わかりました」
 散らばったノートを拾い集める。数えてみるとノートは五十冊ほどもあり、こんなに大量に持っていれば、視界も悪くなるだろうと思った。拾い集めて、少し整えて持ち、一番上に持っていた小説を乗せる。
 昼休みは短い。今日のうちにこれを篠原先輩に渡すことができるだろうか、と考えて、慌ててその思考を振り払う。今はそんなこと考えている場合じゃない。
「これ、どこまで運ぶはずでした?」
「えっと、職員室にいる古文の佐々木先生に」
「分かりました。僕これ運んじゃいますね」
 歩き出すと、背中に、「すみません」という泣きそうな声がかかった。参ってしまう。普通の人間だったら当たり前にこのくらいはするだろう。むしろ、僕に関しては助けるのが遅れてしまって申し訳ないくらいだ。
 そのまま歩み続けるうちに、少しだけ、後ろの二人が気になった。けど振り向くのもおかしい。
 足早に職員室へ向かう。失礼しますとひと声かけて、足で扉を開けた。体育科の先生が運悪く居るとこれで一喝くらったりするのだが、今日は不在なようだった。無礼を咎められることはなくてほっとする。佐々木先生の机まで行き、机に一気にノートを置くと、先生が僕を見て訝しげな表情をした。
「君を受け持った覚えはないけどなあ」
 どうやらノートを運んできたのが係の生徒でないことを不審に思ったらしい。釈明かつ非難のために、今あったことを少々大げさに伝えた。
「こんなにいっぱい持たせちゃだめですよ」
「分けて運んで来いとは常々言ってるんだけどねえ。まあもう一度ちゃんと話すようにはするから。あなたもありがとう」
 佐々木先生の言葉を聞き届けて、すぐ職員室を後にする。階段の方を見やるともう二人は居なくて、保健室へと行き先を変える。
 廊下を早足で歩く。保健室の前にたどり着いて、その白い戸を開くと、奥の方に三人の姿が見えた。ベッドに腰掛け、養護教諭と対面する女子生徒のそばに、篠原先輩が立っている。
「大丈夫でしたか」
「辰巳くんか。ノートありがとう。大丈夫だったよ。そんなに怪我はひどくないみたい」
「ごめんなさい、ありがとうございます」
 女子生徒がこちらに頭を下げるので、いやぜんぜん平気です、と焦った言葉が口から出た。女子生徒が面を上げたのを確認して一息つく。
「じゃあ俺はこれで。お大事に」
 そう言って篠原先輩が、出口にいる僕の方へ歩み寄ろうとしたとき、女子生徒が「あの」と先輩を呼び止めた。
「あの、本当にありがとうございました。重かったと思います。ごめんなさい」
「いいえ。俺こそ。足触っちゃってごめんなさい」
 篠原先輩の声がいつも通りだから、その女子生徒の声の異質さがはっきり分かる。明らかに熱のこもった声。
「格好良かったのよ。お姫様抱っこで運んできて、全然重そうなそぶりも見せないし」
 養護教諭の言葉に、頭がくらくらし始めた。自分の鼓動の音が、こめかみでうるさく聞こえている。
「今考えると失礼ですね。望遠鏡の鏡筒はそうやって抱えて運ぶから、つい。はやく保健室に連れて行かなきゃと思って焦っちゃって」
 落としちゃ困るから、と付け加える声も、まったくいつも通りだ。養護教諭の発言も、とりたてておかしなものじゃない。女子生徒のその熱っぽい表情と、僕の頭だけがおかしくなっている。
 さっきまでただ心配だったはずのその女子生徒のことを、僕はおぞましいもののように思ってしまっている。その表情にも、声にも、すべてに苛立って仕方がない。おかしい。急に感情が変になっている。
「じゃあ行こうか、辰巳くん」
 篠原先輩の言葉に頷いて、すぐに保健室を出る。あの女子生徒をこれ以上見ていたくなかった。早くそこから立ち去りたくて、黙々と歩く。
「先輩って、あの女の人と知り合いなんですか」
 思わず出てきた言葉があまりにも拗ねたような響きを伴っていて、自分で自分に驚く。
「そんなに親しいわけじゃないな。生徒会の会計担当の人なんだよ。僕も天文部の会計だから事務的に少し話すくらいの仲」
「先輩は優しいですね。わざわざ保健室まで抱き上げて運んであげるなんて」
「本を抱えて立ち往生してる下級生のためにわざわざ駐輪場まで本を運んであげるような人間が、優しくないわけないでしょう」
 からかうような声で発された言葉に、思わず俯いた。
「そういや、なんの用事だったの?」
 篠原先輩の声に、歩調をゆるめる。心がざわついていて、落ち着かなくて、自分の要件を思い出すにもしばらく時間がかかってしまった。
「あ、えっと。篠原先輩に、本を貸したくて」
「本?」
「はい。この間、篠原先輩が冬休みに星を見に行こうって誘ってくれて、うれしくて、何か僕も、先輩に良いものを教えたくなったんです」
 手に持っていた本を篠原先輩に渡す。先輩は興味深そうに表紙を眺めた。
「でも、それ僕が気に入ってるってだけで、篠原先輩が好きかどうかは分からないし、そもそも篠原先輩小説はあんまり読まないでしょう。だから先輩は気に入らないかもしれません。別に、鬱陶しかったら読まなくてもいいですし。ただ、僕はとても良い小説だと思ったから、もし読んでくれるなら、うれしいです」
 よく考えてみると、他人から本を押し付けられるというのは煩わしいことかもしれない。隣を伺うと、目が合った。微笑まれる。
「そんなこと言わないで。ありがとう。読んでみるよ」
「……うれしいです。こちらこそ、ありがとうございます」
「いつ頃返せばいいかな」
「いつでもいいです。どのくらいかかっても」
 ちょうどそこで予鈴がなって、少しばかりの挨拶を交わして別れる。心臓が、うれしさと不安でどきどきしている。篠原先輩が本を受け取ってくれたことに対しての喜びと、あの女子生徒への苛立ち。両方を、どう扱っていいか分からなかった。

「川霧、一緒に帰ろう」
「あれ、今日は自転車じゃないの」
「パンクしたの直してないんだってば」
「ああ、なんか言ってたね、そういえば」
 鞄のファスナーを閉めて、川霧が立ち上がる。いつもの、人を見通す目、僕の好きな目で僕を見る。
「本はちゃんと渡せたの?」
「うん」
「じゃあ渡す途中に何かあった?」
「うん」
 教室を出て廊下を歩く。スラックスの裾が動いて晒される足首が寒くて、冬が近づいて来ていることを知る。冬は星がきれいだよ、という篠原先輩の言葉を思い出すのと同時に、あの女子生徒の表情を思い出して、相反する二つの感情に、心が引き裂かれそうになる。
「今日、階段のところで先輩を見つけたんだけど、ちょうどそのとき階段で足を滑らしちゃった人が居てね」
 教室から、校門を出るまでの間に今日の昼休みのいきさつを話した。校門を後にして、街路を歩く。
「本当に、それまでは、ただただ心配だったんだ。足がひどくなってないといいなあとか、もっと早く反応すればよかったとか。それなのに、篠原先輩への声とか表情とか、そういうのが、急に癇に障って、物凄くその人を嫌な人みたいに感じたんだ。自分でもわけがわからない」
 それまでずっと黙って僕の話を聞いていた川霧が、淡々とした口調で言葉を発する。
「その女の人は、たぶん篠原先輩のことが好きなんだろう、ってあたしは思うけど、いおりは?」
「……僕もそう思う」
「それなら、あたしは多分いおりが納得しやすいような結論も用意できる。恋愛嫌いのいおりは、その女の人の恋愛をしているところが気に食わなかったんだろうね、って言ってあげることはできるよ」
 川霧の言葉をそのまま納得しそうになる。確かにそれなら、しっくりくる。僕は恋愛をしている人を見て、急に苛立ってしまったのだろう。しかし川霧の表情は、僕がそう納得することを許さない。
「ただ、それはあんまりにも、あなたに都合のいい考えだよ。他人の理解は得られない」
「じゃあ他人の理解を得られる結論っていうのはなんなんだ」
「嫉妬」
「え?」
 短い言葉に唖然とする。
「単なる嫉妬でしょう。別にいおりが特別だと思っていた人助けは篠原先輩にとってはごくごく普通のことで、いおりの一件は先輩にとって少しも特別じゃない。いおりが特別なわけじゃない。大量の荷物に困る下級生を助けるのも、転んだ女子生徒を助けるのもなんの感慨もなくやってのけてしまえる。たぶん篠原先輩は、その女の人が自分に関わってきたら、すぐにいおりと同じくらいの位置にその女の人を迎え入れる。今回の一件がきっかけで、二人が仲良くなったりすることだって十分あり得る。おまけにその人はいおりなんかよりもよっぽど自分の好意を伝えることに臆面がない。話だけ聞いてても、その人、いおりよりも前に知り合ってるみたいだし、すぐに篠原先輩と、いおりよりもっと仲良くなりそう。いおりはそれが嫌なの」
 言葉をつらつら述べ立ててから、川霧はこちらを見る。
「ああ、でもそうか、いおりは篠原先輩のことはただの友人として好きなんだよね。ねえ、いい機会だし、その女の人とも仲良くすればいいじゃない。友達増やしたかったんでしょう。冬休みに星を見に行くんだったら、三人で楽しく行って来ればいいよ。友達どうしで。それで、もし篠原先輩とその女の人が付き合ったりするんなら、ちゃんと喜んであげなきゃね」
「川霧、ごめん、もうやめて」
 もう十分だ、と吐き出した。川霧がため息をつく。
「一度、ただの友人どうしって関係に安穏とすると、もうそこから先の展開は遅々として進まないって、あたしの愚痴聞いてたら十分よくわかってたはずだよ。なのに、いおりは特別とそうでないものを全然区別しなかった」
 胸の中がぐちゃぐちゃになる。
「だって、恋愛なんか嫌いなんだ。そんなものを自分がするなんて、考えたくもない」
「どうして」
「あんなもの、頭がおかしくなって、いろんな関係が崩れて、今まで上手くいってたことが全部歪んで、ただ苦しくて壊れていくばっかりだ」
 少し前まで心配だった女の人のことを、僕は今日、あんなにも憎く思ったのだ。頭がおかしくなかったらなんだろう。
 本当に篠原先輩へ向ける思いが友情なら、今日のあの一件にだって、僕は浮かれたんだろう。新しいきっかけ、新しい出会い。それなのに、篠原先輩があの女の人に駆け寄っていったときも、あの二人をその場に残していったときも、僕が真っ先に考えたのは篠原先輩と小説のことだった。僕がないがしろにされたことだった。今まさにおこった事故と怪我人を優先することは人として当たり前の行いであって、篠原先輩が怪我人を放って僕との要件を優先するなんてこと、あるわけがないのに。
 その当然を覆したいと思ってしまった。
 倫理観や常識さえ曲がっていく。脳が汚染されている。
「嫌だ、こんなの」
 川霧が笑った。
「それなら止めてしまえばいいんじゃない?」
 幾度となく繰り返した自分自身の言葉に、殺されてしまいそうになる。

     4
 篠原先輩に抱いているのが恋愛感情だということを自覚した瞬間に、いろいろなことに支障が出始めた。まず上手く頭が回らなくなる。少し油断すると篠原先輩のことが思い浮かんでどうしようもなくなる。篠原先輩のことを考えると他のことが手につかなくなる。篠原先輩が他の人と親しくしているのをみると嫌な感情が湧き出てきて自分で自分に疲弊する。そしてなにより困るのが、本人を前にしていつも通りに振る舞えなくなることだった。みっともないところを見せたくなくて、自然相手を避けるようになる。
「疲れた」
 正直な感想を川霧に吐露すると、川霧が楽しそうに笑った。川霧はここのところずっと機嫌がいい。恋愛に関するこれまでの僕の無神経な発言がよほど癇に障っていたらしく、それが清算されていくさまを間近で見るのが楽しくて仕方がないとのことだ。自業自得とはいえ、親友がこんな調子だと一層疲れはひどくなる。
「疲れるでしょう。これで相手とばったり会ったりなんかしてごらん。心臓も脳みそもぐちゃぐちゃになるからね」
「自分の精神に体が全然追いつかない」
「じゃあやめたらいいんじゃない?」
「その発言についてはほんとうに謝るから、もう言わないで。お願い」
 過去の自分の能天気さに腹が立ってくる。止めろと言われて止められるならそんなに楽なことはない。
 しかし、過去の自分の恐怖には、共感する部分もある。確かに恋愛は、ひどく病じみている。精神はひどく消耗するし、周りに及ぼす迷惑も多い。だからといって特効薬があるわけでもないから、余計に性質が悪いかもしれない。
 疲弊している。篠原先輩と話したくなって、自分自身が哀れになった。話したら話したで、あとで辛くなるだけだ。
 もう何日会ってないだろう。篠原先輩は僕のことをどう思っているだろうと考えて、期待とそれの打消しで頭がどんどん膨らんだ。張りつめて痛くなる。
「ねえ川霧、前に『わが身可愛さ』って言ってたじゃん。あれってどういう意味なの?」
 正直、恋愛で消耗していくわが身を思うと、止められるものなら止めてしまいたい。わが身可愛さに恋愛を止めるなら分かるけれど、わが身可愛さに恋愛を止められないとは一体どういうことだろう。
「……好きになると、相手と同じになりたくなってくるの。相手と同じ考え方、相手と同じ好物、相手と同じしぐさ。そういう風にどんどん相手に寄せていくと、いつの間にか、相手の性質と自分の性質が分かちがたくなってくる。そうなるともう、相手を嫌いになれないの。相手を嫌いになったら、相手と同じ性質である自分まで嫌いになっちゃうから。やっぱり自分は可愛いじゃない。そういう意味だよ」
 滔々と語る川霧を見つめる。
「相手と同じになりたくなってきちゃうの?」
「そうだよ。同じようになりたくなる。同化してしまいたくなる」
 まるで呪いみたいに川霧は呟いた。

 日が落ちるのがずいぶん早くなった。今日は雲が月を隠しているのでなおさら闇深い。早いうちに帰ってしまおうと自転車に乗りかけたところで、駐輪場の入り口にいる人影を認識して、身がすくむ。
 こちらに駆けてくる篠原先輩を、逃げることも出来ず、その場に固まって待っていた。
「良かった、辰巳くん見つかって。最近全然つかまらなかったから」
「何かご用ですか」
 そう言うと、篠原先輩が戸惑ったような顔をする。当然だ、今まであんなに懐いていた後輩が、自分を避け続けた挙句、頑なな態度をとれば、不審にも思うだろう。
「あの、もう暗いから、早く帰ってしまいたくて」
「そうか、それなら、少し歩きながら話せないかな」
 少し迷って、頷いた。このまま対面で喋るより、並んでいるほうがまだ緊張せずにいられる。それに本当は、一緒に居られることがうれしくて仕方がない。
 自転車を引いて歩く。右隣の先輩は、鞄から本を取り出した。
「これ、返さなくちゃいけないと思って。本当はとっくに読み終わってたんだけど、辰巳くんなかなかつかまらなかったからさ」
「ああ、わざわざありがとうございます」
「あのね、これとても面白かったよ。読めてよかった。ありがとう」
 思わぬ言葉に、思わず右隣を向いてしまう。先輩は本の表紙をじっと見ながら、それについて語りだす。
「最初の導入は堅苦しくて、なかなか大変だったけど、一度世界に入ったら、ページをめくる手が止まらなかった。実はこれを集中して読んでいたせいで、呼び出しを一つ素っ放しちゃったくらい」
「呼び出し?」
「うん、あとで謝ったら、告白だったみたいで。申し訳ないことしたなと思ったよ」
 告白、という言葉に胸がざわつく。
「あの人ですか、あの、階段で怪我した、会計の女の人」
「うん。怒られちゃった。もう好きじゃないって。仕方ないけどさ。でも本当に、そのくらい面白かったんだよ。大事な告白の呼び出しに行かないで、それをあまり後悔しないくらいには。中断したくなかったんだ」
 心の大部分を占めていた、あの女の人への不安が一気に取り除かれて、かえって心のバランスがおかしくなる。先輩の話が、ここからどういう風に展開するのか分からない。
「読んですぐに、君と話したくなった。だけど全然君と会えなくて、もどかしくて仕方がなかった。読み終わったあと、なんか上手くいえないけど、ぐちゃぐちゃになって、頭とか、うまく回らないし」
 笑いながらそう語る、篠原先輩の声の温かさに、なぜか突然泣きたくなる。情緒不安定にもほどがある。こんなところまで歪になっている。
「感想を分かち合いたくてどうしようもなかった。君が貸した張本人なんだから、ちゃんとそこまで面倒見てほしかったのに」
「ごめんなさい」
 語られる言葉の穏やかさが、どんどん感情を激しく尖らせていく。篠原先輩と会うとすぐにこうなってしまう。どこかのスイッチが狂っているのだ。僕だって、好きだって自覚する前のように、無邪気に気負いなく話したい。それなのに体も精神も、てんでばらばらな動きをし始める。
「別に謝ってほしかったわけじゃないんだ。ごめんね」
 そう言って、篠原先輩が僕の目を見る。思わず足が止まってしまった。篠原先輩が口を開くのが、やけにゆっくり映った。
「読んだ後、すごくしんどくて、身体のどこかがなくなったみたいだった」
 好きになると、相手と同じになりたくなってくるの、という川霧の言葉が頭で響いた。
「何かがずっと胸の中をぐちゃぐちゃにかき回してるみたいな感じがして」
 声が出せない。
「考えとか、思念の断片とかが、部屋中に散らばって戻らないような感覚で」
 この人のことが、好きで好きで仕方がない。
「心臓とか、むりやり持っていかれたみたいになる」
 先輩、僕はあなたのことが好きなんです。先輩も同じ気持ちになって。
「胸の中に何かが生まれて住みついて、離れなくなってしまうような」
 先輩、篠原先輩、僕と同じになって、お願い。
「切なくて、美しくて、酷い小説だと思ったよ」

 突如あたりがまばゆくなって、先輩の髪の縁が光る。上を見上げると、雲を脱した月が爛々と輝いていた。かつてないほどに綺麗な月だ。蜜のように光る。生き物のように発光する。
 もうだめだ。分かってしまった。
「月が綺麗ですね」
 思わず飛び出た言葉が、僕のどうにも抱えきれずにあふれた気持ちの一部だと、この人は分かるだろうか。本についての先輩の感想が、頭の中をぐるぐる回って、僕の気持ちもそれに加わって、脳みそがかき回されている。死んでしまうんじゃないかと思う。もうそれでもいいような気がする。笑いだしたくなる。泣きたくなる。体全部がおかしくなって、もうどこもかしこもまともじゃなくて、全部壊してしまいたいのに、あの本を読んで感じた気持ちだけは、どうにも守りたくなってしまうじゃないか。
 先輩が、月を見て言った。
「でも、月が綺麗じゃ星が見えない」
 言葉を反復して、繰り返して、やっと頭に分からせて、涙が出てくるのを待つ。
 重ならない感想が何を示すかは、もうわかり切ったことだった。

     5
 教室の真ん中の川霧の席に突っ伏す。昨日振られてからの記憶がない。失恋だ。馬鹿みたいだ。朝起きたら目が腫れていたので、ずいぶん泣いたことは確からしい。何もかもやってられなくて、もしかしたら篠原先輩と鉢合わせる可能性もあるし、学校なんてさぼってやろうとも思ったけれど、どうしても川霧に会いたかったので、酷い顔で登校し、川霧の机に突っ伏して今に至る。周りのざわめきも楽しそうな笑い声も、全部が全部敵に思える。やっぱり恋愛なんて碌なものじゃない。
 涙が出そうなのを抑えていると、こちらに向かってくる足音がある。足音は僕の前で止まり、足音の主は僕の髪を触って、なにやら変な動きをした。一瞬遅れて、頭に微細な痛みが走る。
 勢いよく顔を上げると、川霧が前に立っていた。
「白髪あったから抜いといたよ」
「ありがとう」
「ずいぶん重症みたいだね」
「振られた」
 僕の短い言葉に、川霧は今まで見たことがないほど優しく笑った。
「ご愁傷さま」
「うん」
「中々頑張ってたと思うよ」
「うん」
 優しくされたかったから来たはずなのに、いざ優しくされてみると、ますます泣きたくなるから不思議だった。
 もうどうにもならないのだ、という事実は時々心を切り裂くけれど、それはもう頑張らなくてもよいということでもあって、幾ばくかの平穏が僕に訪れたことも確かだった。久しぶりに授業をさっぱりした気持ちで聞いて、昼食をたくさん食べて、川霧と恋愛なんて少しも関係ない話をした。至極平穏だ。平穏は平穏なりに幸福だ。
 思い切って学校に来てよかったな、と思いつつ自転車で帰路を急ぐ。暗い道には相変わらず丸い月が浮かんでいて、それが驚くほど美しかった昨夜を思いだした。けれどすぐに振り払う。
 坂道をブレーキをかけながら下っていく。そのもう少し先に、見慣れた姿が見えて、一瞬呼吸が止まった。
 どうしよう。何も気づかないようなふりをして通り過ぎてしまおうか。速度をゆるめて距離をとるより、そちらの方が早く済んでいいだろう、とすこしブレーキを緩める。自転車が加速する。篠原先輩の隣を、気配を消して通り過ぎたつもりだった。
「あ、辰巳くん!」
 普通に気付かれてしまっている。このまま聞こえていないふりで加速しよう、とさらにブレーキを緩めたとき、後ろから聞こえてくる足音が速いことに気が付いた。走っているのだろう。たぶん僕を追いかけて。
 我ながらけじめをつけるのが下手だなあと思いながらも、ブレーキをかけて自転車を止める。十秒ほどして篠原先輩がやってくる。
「何かご用ですか」
「用っていうか、昨日辰巳くん泣きながら帰っちゃったから、大丈夫だったのかと思って」
「は?」
「なんか様子もおかしかったし、早く帰りたがってたし、もしかして体調とか悪かったりしたのかな。それなら、夜道で引き留めて話し込んだりして申し訳なかった。ごめんね」
 おそらく相当間抜けな顔をしているだろう僕を覗き込んで、篠原先輩は僕の額に手をあてる。
「もしかして、今日もまだ熱があったりする?」
「いや、あの、ちょっと一回整理しませんか」
「うん? どうぞ」
「先輩、昨日、僕のこと振りましたよね」
 篠原先輩が目を見開く。数秒して、表情は訝しげなものに変わった。
「全然記憶にないけどな。そもそも君に告白された覚えがないよ」
「え、『月が綺麗ですね』って言いました」
「うん。それは聞いた。俺が本の感想言ってたら急に月の話になったからびっくりした」
「先輩、夏目漱石とIloveyouで何か思い当たる逸話とか、ないですか」
 先輩が考え込むような顔をする。思わず僕まで固唾を呑む。
「ないかな。ごめん」
「そうですか」
 ということは、僕は自己満足な告白をして勝手に振られた気になっていたということだ。しかも泣きながらその場を立ち去って、その後散々親友に慰めてもらっている。
「辰巳くん、顔が真っ赤だ」
「恥ずかしすぎて消えたいです」
 本当に馬鹿みたいなことをしでかしていたことになる。いくら恋愛に頭をやられていたとしても、落ち着きがないにもほどがある。他にも懸案事項はある。ことの顛末を知った川霧がどう反応するかを考えると背筋が寒くなった。
「もしかして、そういう告白の仕方があったりしたのかな。だったらごめんね、混乱させて」
「いや、全然常識の範疇ではないです。くだらない雑学というか、そもそも都市伝説というか、篠原先輩はまったく悪くないので、謝らないでください」
 自分の馬鹿さが嫌になってくる。何一つままならない。
「『月が綺麗ですね』の雑学って何?」
「えっとですね、夏目漱石が、Iloveyouを『月が綺麗ですね』と訳した、という信憑性の薄い話があるんです。まあ知ってる人は知ってるかな、という程度の話です」
「ああなるほど。だから告白か」
「いや、単なる自分の身勝手なので、本当に、篠原先輩は全然悪くないです」
 そういうことなら、篠原先輩は僕の突然の月の感想に、自分なりの答えを返したということに過ぎないのだろう。月が綺麗じゃ星が見えない、なんて先輩らしい答えだ。
 俯く僕に、篠原先輩が「ねえ」と声をかける。
「あのときさ、本についての俺の感想を、辰巳くんが聞いていてくれることがうれしくて、だから今度星を見に行くときは、辰巳くんが星空を見てどう思ったか、ちゃんと僕が聞いていてあげようって、そんなことを考えていて、だから雲が開けたのに、月が明るいばかりで星が全然見えなくて、無性に悲しい気分になったんだ。僕は月より他の星の方が好きだから、君から聞くなら満天の星の感想が良い。でも今思えば、あのとき君が月を見て言ったことだって、ちゃんと感想だったんだ。だからその感想をちゃんと聞いてあげればよかった」
 頭ごなしに感想に水を差してごめんね、と篠原先輩は続けた。僕も口を開いて誤解を解く。
「いやでも、あれは月の感想というより告白だったので、先輩は謝らなくても大丈夫です」
「でも、月は実際に綺麗だったでしょう。それは嘘じゃない」
 あの日の眩い蜜色を思い出す。
「はい。確かに綺麗でした」
「だったらやっぱり、ちゃんと聞くべきだったと俺は思うんだよ。つまらない問題かもしれないけどね」
 そう言って、篠原先輩は僕の方を見る。
「というか、そういえばさ、じゃあ君って俺のこと好きなの?」
 一気に胃がひっくり返るような気持ちになる。先輩の目から目が離せなくなって、口の中が渇いていく。肯定の言葉をなんとか絞り出そうとする。
「ああ、月が綺麗なんて言わないでよ。だいたい月なんて、嫌いな奴と見てもひとりで見ても綺麗だよ。それに、誰かの言葉を借りてくるのも気に食わない。そんな言葉を使うんだったら、使い古された陳腐な文句の方がずっといい」
 先輩が笑う。心がざわめく。月が煌めいている。すべてがばらばらなようで、実はひっそりと繋がっている。すべてが僕をおかしくしている。

「篠原先輩、他の人のこと見ないで、僕だけに優しくして、僕だけと仲良くして。あなたを見てると頭がおかしくなってくる。どんどんまともじゃなくなって、ひどい人間になっていく。心も頭もぐちゃぐちゃになって、緊張して、とても疲れる。僕だけこんなにおかしくなるなんてごめんだ。あなたにもそうなってほしい。僕と同じように、なって、お願い。お願いだ」
 泣きたくなる。同じになってしまいたい。もういっそ死んでしまいたい。それでも心臓は早く動いているから、あなたも、同じように苦しんでほしいんだ。
「僕はあなたを愛してる」




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